第四章 サンディーノの時代

 

第一節 屈辱のチャモロ・ブライアン協定

このあと十年ちょっとほどは比較的平穏な状態が続きます.自由党は闘う力を失っていましたし,何よりもマナグアに駐留した米軍が直接にらみを利かせている状況では身動きできません.

この時代特筆すべきはチャモロと米国務長官ブライアンとの間に結ばれた運河協定です.この協定は米国が引き続きニカラグア運河の建設権を確保することを内容としています.何が屈辱的かというと,米国には運河を建設する意志は毛頭なかったからです.条約が締結された1914年,ちょうど第一次世界大戦が始まった年ですが,この年パナマ運河が開通しました.したがってこれ以上の運河は必要なかったのです.だから運河の建設権を確保するということは,「運河を作らせない権利」を確保することだったのです.世の中探しても,こんな変な条約はそうありません.まったく米国の身勝手です.

 

第二節 ふたたび政権内紛

つかの間の安定期が破綻したのは,またしても大統領の急死でした.時の副大統領は与党内反主流派.権力確保を目指す彼は自由党の連携により多数派を握ろうとします.

三十年前,セラヤ政権が誕生したときとまったくおなじ状況が生まれました.これをみたチャモロはいち早く軍を動員,大統領に辞任を迫ります.ここまでは良かったのですが,チャモロ,そのあとの計算を誤りました.自ら大統領につこうとしたのです.

「軍事クーデターにより権力を獲得した政府は認めない」,これが第一次大戦後の米国の外交政策の基本となっていました.この原則にしばられた米国は,チャモロの大統領就任を認めませんでした.さらに政権を簒奪された自由党が反乱ののろしを上げたのです.こうなるとヤミ試合の様相です.米軍もそうそう軍隊を派遣は出来ません.大使館の調停で和平交渉が始まりますが,両者とも譲りません.

米国にとっていちばん恐れていた事態が起こりました.前副大統領で自由党のサカサがメキシコの援助を受けて兵を挙げたのです.当時革命直後のメキシコでは民族主義が高揚していました.米国のカイライ政府に対抗して立ち上がった自由党に対し支持するのは当然です.逆に米国にとっては,これ以上紛争が拡大すればいいことは一つもありません.メキシコのアメリカ大陸における地位は高まり,西半球の覇者としての米国の地位がおびゃかされます.

 

第三節 サンディーノの登場

米国は決めたらすぐ動きます.メキシコに圧力をかけ,自由党への軍事援助を止めさせます.海兵隊をみたびニカラグアに上陸させ,カリブ海岸に「護憲政府」を開いたサカサを武装解除させます.自由党軍の指揮官モンカダ将軍と会見し,次の大統領の密約を結んだ上で武装解除させます.大統領にはまたもディアスが据えられました.

これで一件落着かと思われたとき,反抗ののろしを上げたのがアウグスト・セサル・サンディーノです.

彼には軍歴はありません.若いときは暴れ者だったようです.人を傷つけてメキシコに逃げ,タンピコの油田で労働者として働いていました.護憲戦争が起こると国に戻り若者を集めて部隊を組織しました.鉱山の倉庫に忍び込み,ダイナマイトを盗み出し,戦闘を開始しました.彼らがようよう軍としての体裁をとるようになったのは,サカサが投棄した銃を海中に潜って拾い出してからです.

地位もなく,金もなく,軍歴もない彼らの軍隊は,しかし戦闘にはめっぽう強かったようで,モンカダ本隊の窮地を救うなど,たちまち護憲軍のなかでも頭角を現していきます.

1927年,モンカダ将軍が米国と妥協し,武装放棄に応じたとき,彼にしたがうものもすべて武装解除しました.ただ一人,サンディーノだけは降伏を拒否しました.彼は北部山地にこもり,米海兵隊との戦闘継続を宣言しました.そして近くの海兵隊基地に夜襲をかけたのです.

 

第四節 サンディーノの闘い

海兵隊は当時最新鋭の爆撃機を投入,サンディーノの根拠地エル・チポテを壊滅します.これまでとはまったく違った戦闘形態,空からの攻撃を避けながらの闘いは,これまでの常識をまったく越えたものでした.

なまじっか,伝統的な軍事教育を受けていなかったことが,むしろサンディーノの強みとなりました.彼の生み出した戦術は,後のゲリラ戦争理論「持続戦争」論につながっていく教訓となります.とにかく「城を枕に討ち死に」というセレドン将軍の戦法とはまったく違います.

彼は根拠地を作らず徹底した遊撃戦を貫きました.二本の足だけを移動手段としている部隊としては信じられないほどのスピードで移動します.逆に待ち伏せにおいては,短くて二日から長いときは五日くらい,じっと動かず気配を消して潜みます.航空機の発達した時代にゲリラ戦を挑むにはこれしかなかったのです.
いってみれば「風林火山」の戦法です.

彼の潜んだ中部山岳地帯は伝統的に自由党の強固な基盤でした.とりわけサンラファエル・デル・ノルテには妻も住み,恰好の隠れ家でした.彼は人跡未踏のジャングルではなく,人民の海のなかに身を潜めたのです.

もう一つ,あまり歴史書には書かれていませんが,当時ラテンアメリカを接見する勢いの共産主義運動が,サンディーノの闘いに深く関わったことを見逃してはいけないでしょう.20年にメキシコに最初の共産党が結成され,ついでチリの社会民主党がコミンテルンに加盟し共産党と改称.おなじ頃米国にも共産党が結成されます.サンディーノが闘った20年代後半は各国に一斉に共産党が作られ,活動を始めた時期でした.

これらの党はいずれもサンディーノ支援を掲げ,国際反帝闘争の主要な課題に位置づけました.メスティソの小男サンディーノは,ニカラグア国内よりもむしろ海外で有名になるほどでした.ホンデュラスに置かれたサンディーノの代表部を通じて多くのメッセージが流され,逆にボランティアや活動資金が流れ込みました.のちにエルサルバドルで人民蜂起を指導することになるファラブンド・マルティも直接戦闘に参加し,メガフォンの役割を果たしました.

メキシコも,表向きこそ中立を保ちますが,国内では同情的な声が圧倒的でした.こういうところは現在のサパティスタ民族解放戦線のやり方と良く似ています.

 

第五節 挫折から再起へ

サンディーノのジレンマは,共産党と組んで米国と対決している限り,負けはしないが,勝利もあり得ないということでした.

29年にはいると,サンディーノは次第に共産党と距離を置くようになります.コミンテルンもスターリンが独裁者に変質するにしたがい,各国の運動の指導者のように振る舞い始め,独善的傾向を強めます.

サンディーノはホンデュラスやメキシコ市の「代表部」と絶交,ファラブンドらを戦線から排除します.そしてメキシコ政府の調停と支援を求め,ホンデュラスからメキシコに潜入します.しかしサンディーノの予想を裏切って,メキシコの対応は冷たいものでした.革命後の経済再建が破綻したメキシコは,折からの世界大恐慌で瀕死の状況にあり,米国の意向に逆らってまでサンディーノを支援するほどのゆとりはありませんでした.

メキシコ政府は表向きサンディーノを革命の英雄として遇しながら,事実上サンディーノを幽閉してしまいます.一年近くを無為に過ごしたサンディーノは,やがて決然ニカラグアへと戻っていきます.

もはや米国は戦意を失っていました.財政困難の下で海外駐留を維持するのは大変なことです.前の年,ハイチとドミニカからも撤退した米国は,ニカラグアからも何とかして名誉ある撤退を,と折衝を開始します.

彼らの考えて筋書きは,かつて護憲政府大統領を務めたサカサを担ぎ出し,サンディーノと妥協を図ることです.しかし権力がサンディーノの手に落ちることはなんとしても避けなければなりません.そこで軍隊(国家警備隊)を飛躍的に強化し,軍事的優位を保持しようとします.その国警隊の隊長に指名されたのが,アナスタシア・ソモサでした.

 

第六節 サンディーノの死と独裁者ソモサの登場

サンディーノは国際的に孤立無援となりつつありました.ここで妥協を受け入れるしかなくなっていました.彼はサカサに政権を委ねたあと武装解除.北部山岳地帯に旧戦士が生きていくための農場を開き,引退生活に入ります.

やっと内戦が終わったニカラグアですが,またぞろ保守党と自由党の政争が始まります.当時すでに60才を越えた老チャモロが保守党政治の復活を狙い策動を始めたのです.

自由党内では,力の背景を持たないサカサに代わり国警隊司令官のソモサの発言力が増してきました.彼の得意は米国での長い生活から米国人への取り入り方に長けていることでした.彼は米国大使館と太いパイプを持ち,サカサ大統領の頭越しに今後の体制について大使と合意しました.すなわちサンディーノを殺して,政権を簒奪せよということです.

当初の政府との合意が次々と反故にされる事態に,サンディーノは首都マナグアに出かけ抗議します.大統領との会見を終え帰途に着いたサンディーノに,ソモサの部隊が襲いかかります.サンディーノと側近たちは射殺され,空き地に埋められます.1934年,サンディーノの時代の終わりです.

 

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