第八章 サンディニスタ革命の成功

 

第一節 戒厳令の解除

国内の批判勢力を力尽くで押さえ込んだソモサでしたが,77年8月,突然心筋梗塞を発症します.彼は米国の病院にかつぎ込まれます.かなりの重症でしたが,世界的な名医の治療により奇跡的な復活を遂げます.

米国の雰囲気はこの間に大きく変わっていました.ベトナム戦争に敗れ,国内ではウォーターゲート事件が発生して現職大統領ニクソンが辞任するなど,政治への嫌悪感が広がっていました.あらたに大統領となったジミー・カーターは人権外交を掲げ,独裁国家への攻撃を強めます.

病気が弱気を生んだのでしょうか,米国の強い圧力に屈したソモサは,帰国後戒厳令を解除し,野党の活動を認めるようになります.その前に徹底して反ソモサ勢力を弱体化してあるから大丈夫と踏んだのでしょうが,どっこいそうは問屋がおろしません.

さっそく行動に立ち上がったのが,オルテガらFSLN蜂起派でした.彼らは苦難の時代を通じて教会活動家と堅く結びついていました.オルテガ自身がカトリック大学の学生だったことも関係しているかもしれません.教会の組織した基礎共同体を母体に農村労働者組合を結成,これはやがてサンディニスタの牙城と化していきます.

 前の章でも触れましたが,カルデナス神父により組織されたソレンチナメ島の基礎共同体は,教会の達成した偉大な努力のひとつのあらわれです.彼らが生み出した民族の伝統を受け継ぐ絵画芸術は,ニカラグア芸術の精華として,国際的にも高い評価を受けています.

保守党のチャモロもニカラグア民主同盟を結成.米国の動きと呼応しながら野党を糾合して活動を開始しました.さっそく取り上げたのが軍(国家警察隊)の不正です.当時国警隊はソモサの息子ソモサ・ポルトカレーリョが牛耳っていました.彼の不正というのは兵士から検血を募り,その血液を米国に密輸する破廉恥なビジネスです.

チャモロが社主を務める「ラ・プレンサ」紙は,連日この事件を取り上げ国民の憤激を呼び起こしました.ポルトカレーリョは刺客を放ってチャモロを暗殺してしまいます.78年1月のことです.

どうもソモサ家には穢れた血が流れているようで,代を重ねるごとにだんだん狂気がひどくなります.このポルトカレーリョの最大の趣味は人殺しだったようです.有名な話ですが,彼は赤ん坊が大好きで,どこかから赤ん坊を連れてくるとそれを天高く放り投げます.そして墜ちてくる赤ん坊に向かって銃剣を突き立てます.すると見事に赤ん坊の串刺しが一挺出来上がりという具合です.かなりの悪趣味です.

 

第二節 FSLNの一斉蜂起

ちょっと時計の針が戻りますが,ソレンチナメの若者で組織されたゲリラ隊が,サンカルロスの要塞を襲撃します.これはサンディニスタによる全国攻勢の一部でした.その他にもレオン,エステリなどで一斉蜂起が起こります.

大事なことは過去の内ゲバの恩讐を越え,へぺぺと蜂起派が協同歩調をとったことです.このときフォンセカは既に亡く,フォンセカに代わるFSLN最高指導者トマス・ボルヘも獄中にありました.ヘペペの留守を預かるのは,オルテガよりひとまわり若いヘンリ・ルイスやバジャルド・アルセら学生運動上がりの連中でした.ヘンリ・ルイスの証言に寄れば,彼らは蜂起派に乏しい武器を貸し与え,後方かく乱で協力しました.実際にどの程度のものだったかは別として,このときの協力関係が,後にFSLN三派の合同にあたり大きくものを言うようになります.

国立大学内で反ソモサの論陣を張っていたのがセルヒオ・ラミレスでした.歴史家にして詩人,サンディーノを世に知らしめた文筆家ラミレスは,稀代のオーガナイザーでもありました.彼はサンディーノの衣鉢を継ぐものとしてサンディニスタを押し出しながら,知識人の中にチャモロとは異なるもうひとつの対抗軸を組織しようとはかります.

 ラミレスの最大の功績は,財界主流の中に中米有数のエコノミストであるクルースを見出し,親サンディニスタの側に組織したことでしょう.これによりFSLNにはロベロを会長とする経営者団体との太いパイプが形成されることになりました.ロベロもクルースも,財界においてケネディ型のイノベイティブな潮流を代表する人物と目されていました.

クルースを含む実業家グループから4人,ラミレス自らの属する知識人グループから4人,そしてカルデナス神父をふくむ聖職者グループから4人.こうして合計12人の知識人が,事実上FSLNのメガフォンとしてソモサの退陣を要求し,国民の決起を呼びかけることになります.

 

第三節 国内は騒乱状態に

ポルトカレーリョの馬鹿げた行いが,煮えたぎっていた国民の怒りに火をつけました.まず経営者協会が怒りを爆発させます.彼らは身銭を切ってストライキを起こしました.市民はこのストライキを歓呼の声で迎えます.街頭は抗議のデモであふれ,石畳を剥がしてバリケードが築かれ,警官隊と激しい衝突が続きました.まさにFSLNの提示した市民蜂起です.

二月にはいると闘争はさらに全国に飛び火していきました.なかでも激しい闘いとなったのがマナグア南方の街マサヤです.以前から原住民の多く住む町だったマサヤ,なかでもモニンボ地区は抵抗の拠点でした.モニンボの住民は地区の周りをバリケードで囲み,コミューン委員会を創設,「解放区」を宣言します.

まだ弾圧の被害から立ちなおり切れていなかったFSLNは,当初「解放区」には慎重な姿勢をとります.コンマをいくらつけても足りないほど,『解放区』維持の可能性は皆無に等しかったからです.

しかし国警隊が反撃を始めるやいなや,FSLNはこれまでの姿勢を180度転換させます.そして「解放区」死守の旗を掲げ決死隊を送り込みます.たたかいに立ち上がった人民がむざむざ虐殺されるのを座視することはできません.

国警隊は空から無差別爆撃を加えました.その残酷さはゲルニカ以上だったといいます.その上で,戦車隊が地区を蹂躙し,住民を無差別に殺害します.住民の反撃は国警隊の前には無力でした.この闘いでオルテガ三兄弟の末弟カミロ・オルテガが戦死しました. しかしカミロの死は無駄にはなりませんでした.1年半後,FSLNの最終攻勢のとき,マサヤとモニンボは首都攻撃の最大の拠点となったのです.

ソモサに対する抵抗の拠点となったのは,国立大学やカトリック大学だけではありません.高校や中学までもがストライキを開始します.毎日のようにデモがおこなわれ,街頭にバリケードが作られ,古タイヤが焼かれ,火炎瓶が投げつけられます.経済界の改革派は反ソモサ勢力を総結集した「拡大戦線」を結成し,ソモサからの権力禅譲に向け国際的支持をとりつけます.

今や国内にソモサを支持する政治勢力はなく,軍の内部にさえ「粛軍運動」が密かに始まりました.それでもソモサは頑として民主化を拒み続けます.

 

第三節 FSLN,国会宮殿を占拠

1978年8月23日,マナグアの国会宮殿前にオリーブ色の軍服の一団が現れます.彼らは「緊急事態だ!」と叫びながら,宮殿内に乱入します.呆気にとられた衛護の兵をしり目に彼らはあっという間に要所を占拠します.

やおら指揮官とおぼしき一人が叫びます.「いまFSLNがこの建物を占拠した!」このとき宮殿内には千名を越える議員,スタッフが働いていました.まことに大胆不敵な作戦です.これらの人々をすべてまとめて人質にしてしまったのです.この事件は1週間にわたり続いたあと,ソモサの全面屈服に終わります.50名の政治犯が釈放され,彼らは意気揚々とハバナへ向け飛び立っていきました.

この事件がFSLN側の全面勝利に終わったのは,戦術的な巧みさもありますが,何よりも国内外の世論が圧倒的にゲリラ支持に回ったことが理由でした.国会宮殿からメルセデス空港に向かう沿道には数万の群衆が集まり,コマンド部隊の勇気を褒め称える歓声が上がりました.

パナマのトリホス政権は事実上参戦に近いほどの肩入れです.義勇軍が募られ,その隊長にはそれまで厚生大臣を務めていた人物が就任します.ベネズエラのペレス大統領もFSLNに好意的な立場から関係国の調整に乗り出します.コロンビアではシモン・ボリーバル大隊も結成されました.

注目すべきは教会の態度です.この国の最高指導者ミゲル・オバンド大司教は「コマンダンテ・ミゲル」と呼ばれるほど戦闘的な立場をとりました.教会の神父たちのなかからも武器を取るものが出てきました.今やFSLNはマルクス主義者と教会進歩派の連合戦線のようになりました.

 

第四節 すべての反ソモサ勢力がFSLNの影響下に

拡大戦線とFSLNの事実上の共闘が始まりました.拡大戦線は1月に引き続くゼネストを提起,FSLNは北部の町エステリで蜂起を開始します.エステリは完全に市民の統制下におかれ,政府軍の攻撃を1週間にわたり持ちこたえます.最後に政府軍は無差別爆撃を敢行し,ようよう奪還しますが,すでにゲリラ主力は引き揚げたあとでした.

ソモサは野蛮な弾圧でなんとか危機の乗り切りを図ります.しかしサンディニスタの戦略は明らかにソモサを上回っていました.12人委員会を事実上の外交団として活用,拡大戦線,ソモサ政権との間にさまざまな駆け引きをめぐらします.米国は依然,拡大戦線による政権獲得に望みをつないでいましたが,ラテンアメリカ諸国は拡大戦線に見切りをつけ,ソモサ政権打倒を唱える12人委員会へとスタンスを移していきます.

国際的な信用を獲得するためには,FSLNの内紛を解決することも急務となっていました.これには国会宮殿事件で解放された最高指導者ボルヘの戦線復帰が大きな役割を果たしました.ハバナに到着したボルヘは,蜂起派の優位を受け入れるかたちで統一の方向を打ち出します.これをキューバも支持したことから急速に両者の統一が進行します.すでにエステリの蜂起そのものがヘペペと蜂起派の共同作戦でした.

12人委員会をブリッジとして,社会党,キリスト教人民社会党,独立自由党などの中間諸政党も結集し,79年初頭に愛国戦線が結成されます.議長には急進人民行動党の代表で,建築家として一家をなしていたモイセス・アッサンが就任します.まもなくチャモロが作った民主保守党や,そのアンブレラ組織である民主同盟も愛国戦線支持の立場に立つようになります.

 

第五節 ソモサ政権の最終的破綻

追いつめられれば追いつめられるほど,ソモサの行動は凶暴で愚かしいものとなっていきました.11月には米州機構と米国務省の調停使節団を空港で阻みます.79年には最後通牒とも思われる米国の調停案を一蹴します.彼の持ち札はイスラエルや台湾をチャンネルとした,世界反共連盟や南米の軍事独裁国家のみとなりました.

三月には中央銀行がモラトリアムに陥り,大幅増税を余儀なくされます.この増税計画が最終的にソモサの首を絞めることになりました.米国に頼りながら政権禅譲を最後まで狙っていた拡大戦線,いまでは経営者協会のみの組織ですが,これがソモサ打倒,FSLN支持の立場に転換しました.

三月はじめ組織統一を達成したFSLNは,全国をいくつかの戦線に分け戦力の再編をおこないます.愛国戦線内部では民主同盟や拡大戦線とも接触しつつ政府綱領づくりが進みます.キューバ,ベネズエラ,パナマに加え,いまではコスタリカもFSLN支持の立場を明確にしました.メキシコもFSLNに肩入れします.いまこそ最終蜂起の時期です.

 

第六節 最終攻勢

一斉蜂起の準備を整えたFSLNは5月30日,最終攻勢の開始を宣言しました.ただちにメキシコがニカラグアを内戦状態にあると認定します.FSLNを政府に準じる存在として公認したことになります.

final-offensive-compas.jpg

 

最終攻勢に参加した若者たち

 

前の年に蜂起したエステリがまたも一番名乗りを上げます.エステリを確保すればそこから北はサンディニスタの解放区になります.政府軍は全力を挙げエステリ奪回に向かいます.しかし今度はそう簡単には行きません.サンディニスタの兵員,装備は飛躍的に充実しています.一週間後も依然としてゲリラが市内で抵抗を続けます.

政府軍はエステリばかりに目をやるわけには行きませんでした.コスタリカ国境から重装備の部隊が侵攻してきたのです.司令官は国会宮殿の指揮者コマンダンテ・セロことエデン・パストラでした.この部隊にはパナマやコロンビアからの義勇軍も参加しています.

部隊は破竹の勢いでリバスまで進出してきました.ここまで来ると政府軍も手をこまねいているわけには行きません.首都マナグアの守備隊まで動員して南方からの進出阻止に回ります.この時を狙っていたかのように,マナグアのバリオ(貧困者地区)で一斉蜂起が始まりました.同時にマサヤでもモニンボ地区を拠点に蜂起が開始されます.レオン,スブティアバの西部戦線も本格的活動を始めました.

ここまでの電撃的な初動はまことに見事なものでした.6月8日の時点でゲリラはエステリを確保,レオンとマサヤを制圧.マナグアでも大統領官邸を包囲する勢いとなりました.南方からのベンハミン・セレドン部隊はリバスを抜き,グラナダに進出しようとしていました.

ここまで来て政府軍は戦略を立て直しました.エステリやレオンのゲリラはしょせん小火器程度の装備です.軍を待ち伏せしての市街戦は出来ても,正規軍と正面対決するほどのちからはありません.政府軍はエステリ,レオンの奪回はとりあえず後回しにし,首都防衛と南部戦線での失地回復に力を集中することになります.

この作戦は一応の成功を見ました.南方部隊は正面対決には耐えられず,コスタリカ国境付近まで押し返されます.マナグアのゲリラ拠点には情け容赦なく爆撃が加えられました.徐々に追いつめられたFSLN部隊は7月1日,夜を徹してマサヤに撤退していきます.

それからの1週間,戦局の集中点はマサヤでした.まさにマサヤは孤立していました.内戦中ついにグラナダにだけは蜂起は起きませんでした.サンディニスタの活動家はあとでずいぶんグラナダの人に文句を言ったようですが,これは力関係ですからどうしようもありません.

とにかく血を血で洗うような激烈な市街戦が展開されます.オルテガ兄弟もカミロの亡くなったこの地で命を懸け闘いました.愛国戦線議長のアッサンさえ,コスタリカから武器を持って闘いに飛び込んでいきました.

ようやく態勢を建て直した南部戦線が北上してきました.激戦の末リバスの防衛線を突破すると,さすがの政府軍もにわかに浮き足立ちます.8日,ついに政府軍はマサヤ攻略を断念しました.それは事実上の敗北宣言です.すでにレオンには行政機関まで作られていました.

 

第七節 マナグア凱旋

6月20日,コスタリカの代表部は臨時政府樹立を宣言しました.臨時政府は5人からなる政府評議会(フンタ)を発表します.議長にはFSLNのダニエル・オルテガ,ほかに愛国戦線のモイセス・アッサン,12人委員会のラミレスとサンディニイスタ系が過半数を占めます.他の二人は故チャモロ未亡人のビオレータ・チャモロ,拡大戦線のロベロです.挙国一致の政府構成は多くの国の好感を呼びました.たちまちのうちにこの臨時政府は各国の承認を獲得しました.

この事態こそ,米国のもっとも恐れていた筋書きです.まさにキューバの二の舞です.米国の一番の望みは「ソモサなきソモサ体制」でした.それがかなわぬ今となっては軍隊の維持が最大の目標となりました.軍隊さえ残っていれば,いつかはクーデターで政府をひっくり返すこともできるからです.

しかしそれも政府軍が戦闘で優位を保っている間のことでした.もはや軍は自壊現象を起こしつつあります.ことここに至っては,なすすべはありません.マナグア駐在大使は脱出用の飛行機を用意した上でソモサに最後の引導を渡します.

7月18日,ソモサはマナグアを飛び立ちました.そして7月19日,レオンから戦車に先導された臨時政府の一行が首都マナグアに凱旋します.それは45年にわたったソモサ王朝の終焉であり,20年続いたサンディニスタの不屈の闘いの勝利の瞬間でした.

 

ニカラグア革命史目次に戻る