第二編 コントラとの闘いの十年


これまでの章と異なり,これからの部分は前人未到の分野です.

事実は豊富にあるが,それを貫く史観は形成されていません.

とりあえずここでは

「サンディニスタ政府が差し迫る危機にどう対応し,敗北を受け入れていったか」

という視点から時代区分をし,

事実を取捨選択し,流れを整理していきたいと思います.


第九章 新政府の困難

 

第一節 挙国一致体制の崩壊

首都マナグアの庁舎に入った新政府の代表は愕然としました.国の金庫はみごとに空っぽだったのです.ソモサ一族が一切合切を持ち逃げしていました.政府はソモサに横領した金の返還を求めますが,もちろん梨のつぶてです.ソモサはその代わりにえらい借金を残してくれました.彼はゲリラをせん滅するために借りられるだけの金を借りまくっていました.

これでは国の再建は到底おぼつきません.再建評議会のメンバーはそれぞれのつてを使って資金集めに世界中を駆け回りました.この時期ビオレータも政府代表として日本を訪問しています.オルテガらは米国を表敬訪問し,経済再建への援助を求めますが,米国の対応は冷たいものでした.マルクス主義者が実権を握るこの政府に対する態度としては当然ともいえます.

米国の支援はサンディニスタもあまり期待していなかったかも知れません.そもそもFSLNはキューバ革命の影響を受けて誕生した組織であり,その綱領もキューバ型社会主義の実現を目指したものでした.

しかしオルテガは若いながらも,20年の闘いを生き抜いてきたタフで巧妙な政治家です.親ソ親キューバの姿勢を露骨に押し出すようなことは決してしませんでした.臨時革命政府が打ち出した基本政策は次の三本柱からなっています.まず外交政策としては非同盟です.政治的には複数政党制の維持を謳います.経済の基本は混合経済,つまり資本主義と社会主義の良いところを採り入れ,市場経済のルールに従うということです.

この基本政策がうまく進行すれば問題はないのですが,現実には多くの利害が対立せざるを得ません.労働者は賃上げを,農民は土地を要求し,市民は革命の分け前を要求しストライキや街頭行動を起こします.政府は80年1月にはスト凍結を打ち出し,労働者の激しい怒りを買います.サンディニスタは労働運動に対する働きかけを強め,自前の労働センターを組織し始めました.

外交問題ではそれほど大きな矛盾はありませんでしたが,国内問題では農地改革が最初から壁にぶちあたりました.80年6月,農業省が第一次農地改革を打ち出します.キューバの農地改革が国内を二分し,やがて米国との全面対決に結びついていったことを教訓とし,内容はかなり穏和なものとなりました.

このように宥和的な政策を採ったにもかかわらず,経済界は激しい抵抗を示しました.とくにグラナダを中心とする南部の牧畜業者は,いかなる土地改革も認めようとしません.評議会に入ったロベロとビオレータは動揺をくり返します.

両者の対立は抜き差しならないものとなりました.81年4月,議会にあたる国家評議会を政治勢力の実態に即したものとするための改革が提起されたとき,この矛盾は爆発しました.二人はフンタを去りました.ロベロはその後コスタリカに亡命し,コントラに加わることになります.

 

第二節 エルサルバドル内戦の影響

もうひとつ,誕生間もない政権に大きな影響を与えたのが隣のエルサルバドルにおける内戦です.エルサルバドルについては,このニカラグア史を書き終えたらそちらも書いてみたいと思っています.ここでは79年から81年にかけてのエルサルバドルの状況を少し述べておきます.

エルサルバドルもニカラグアに負けない残虐な軍事独裁国家でした.たとえば78年2月には大統領選挙の不正に抗議した群衆に対し,軍隊が発砲.数十名の死者を出しています.ニカラグアと違い数多くのゲリラが,反政府闘争を展開していましたが,ゲリラの闘い方も相当荒っぽいものでした.

79年10月,ニカラグア革命からわずか3カ月後に,マハノ少佐を先頭とする若手将校がクーデターを起こし,国内民主化を目指します.しかしこのクーデターは,サンディニスタ型の革命を阻止するための予防クーデターという性格を持っていました.新たに作られた軍民政権は国民の期待に応えることが出来ず,逆に極右勢力の危機感を煽りテロ活動を激化させる結果となりました.

80年はじめに野党勢力は10万人の抗議デモを組織します.エルサルバドルの人口を考えれば,そして生命の危険を考えれば,この動員はすさまじいものです.

当然極右の危機感もますます強まりました.アレーナの首領であるダビュイソン大佐は「死の軍団」を組織し,大量殺害に乗り出しました.この計画には軍の最高幹部も関与していました.彼らは最大野党であるキリスト教民主党の本部を襲撃し,サモーラ党首を虐殺します.いわばニカラグアでいえばチャモロ殺しとおなじです.極右は返す刀で今度はロメロ大司教を暗殺します.80年3月29日のことです.

毎日フタケタのレベルで人々が誘拐され,拷問され,虐殺され,首なしやバラバラにされた遺体が無造作に捨てられました.国内でのいかなる合法活動も不可能となりました.エルサルバドル人民は武器を取って闘う以外の道を失ったのです.

81年1月20日,国民的武装組織であるファラブンド・マルティ民族解放戦線 (FMLN) が全国一斉蜂起を開始しました.それは,米国にレーガン超反動政権が登場して5日目のことでした.

第三節 レーガンのニカラグア敵視政策

人権を外交の基軸におくカーター政権はわずか一期で政権から脱落しました.多くの国が米国の支配から逃れ自立的な方向へ踏み出したことが,米国の草の根保守主義には「弱腰外交」と映ったのかも知れません.パナマ運河の返還,ソ連のアフガン侵攻,イラン革命における対応などが,レーガンの「強いアメリカ」への支持を集めました.キューバとの和解を目指す努力が,キューバのアンゴラ支援断行により挫折したのも大きな影響を与えました.

レーガンは就任後ただちにエルサルバドルの軍事政権支持を打ち出します.そしてニカラグアをエルサルバドルの政治不安を招いた張本人として攻撃します.そして中米がキューバ,ニカラグアに続く共産主義者の攻撃目標になってるという「ドミノ理論」を持ち出します.

ニカラグア国内ではレーガンの意向を受けた反革命派の活動が活発化してきました.旧軍生き残りが地主層と組んで,各地で武装反乱を開始します.彼らはホンジュラス国境沿いでは山賊化して付近の住民を襲います.チャモロ一族の経営するニカラグア最大の新聞「ラ・プレンサ」は,反政府派の機関紙となり,連日反サンディニスタ宣伝を展開します.

カリブ海岸沿いでは原住民組織ミスラサータが自治を要求して立ち上がりますが,指導者の姿勢が絡んで問題が複雑になります.ミスラサータのミはミスキート族,スはスモ族,ラはラマ族でいずれも少数民族.サータはサンディニスタで,もともとサンディニスタを支持する勢力です.もともと政府は原住民の自治要求を擁護する立場をとっていたのですが,武装デモには厳然として臨みました.

ミスラサータは真っ二つに分裂,反革命派はホンデュラスに逃れ,コントラに参加するようになります.ここで政府はまたもへまをしでかします.反革命派の浸透を恐れるあまり,原住民の移住計画を強行したのです.これでカリブの原住民を一気に敵に回してしまいました.彼らとふたたび正常な関係を結ぶようになるのは88年,政権崩壊の直前でした.

 

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