第十章 コントラとの戦い

 

第一節 コントラの結成

コントラというのはコントラ・レボルシオン,すなわち反革命軍の略称で.正式にいうと,最初はFDN(ニカラグア民主戦線)であり,ついでRN(国民抵抗)であり,最後はUNO(反対派統一同盟)です.名前はいろいろ変わっても,その中核が旧ソモサ軍の敗残兵であることに変わりはありません.そしてそれがレーガン政権の雇い兵であることにも変わりありません.

サンディニスタ革命成立後も各地で反革命闘争を続けていた旧軍兵士たちは,81年はじめ頃になると,国内での闘争が困難になり,ホンデュラスやエルサルバドルなどに亡命していきます.当時内戦のさなかにあった中米諸国では,彼ら殺し屋集団は飯のタネに事欠きません.

82年半ば,エルサルバドルのFMLNが容易に壊滅できないと悟ったレーガン政権は,ニカラグアをその根拠地と見て,ニカラグアに対する直接攻勢をかけることになります.謀略作戦の専門家ネグロポンテがホンジュラス大使として派遣されました.ネグロポンテは旧ソモサ軍の残党を集め,これに旧拡大戦線や旧民主同盟の幹部をくっつけ,ニカラグア民主戦線をでっち上げます.

当時ホンデュラスは,形だけは文民大統領をいただいていたものの,実質的にはアルバレス将軍が全権を握る独裁国家でした.米国はホンデュラス軍部に圧力をかけ,国内でのコントラの軍事訓練,兵タン基地の建設などを認めさせます.国境付近に大型輸送機の発着できる飛行場が建設され,あたりはコントラの治外法権地帯となりました.

かつての国会宮殿占拠事件の立役者,コマンダンテ・セロことエデン・パストラは革命後,国防次官の地位につきました.しかし新たな人民軍がソ連=キューバ式の編成を着々と固めるにつれ,もともと親米反共思想を持つパストラは疎んじられるようになります.彼は職を辞しコスタリカに去ったあと反サンディニスタの旗を掲げるようになります.米国はパストラに声をかけ,武装組織を作らせました.彼の民主革命同盟(ARDE)にはミスラサータ内のブルックリン・リベラ派(ミスラ)が加わり,カリブ海岸でのゲリラ活動を開始します.

いっぽうホンデュラスに逃れたミスラサータのファゴス派は,FDNの直接支援を受け,82年12月には大規模な破壊作戦を開始します.これがコントラ戦争の幕開けとなりました.

 

第二節 コントラの本格侵攻

米国の「ならずもの政府」転覆作戦は,古くは1948年のギリシャ,イタリア干渉,54年のグアテマラ,イラン干渉以来筋書きが決まっています.まず国内の反政府勢力に最大限の謀略活動をおこなわせます.マスコミを使ってのデマ宣伝,議会での徹底した反政府的態度,ヤクザや不良青年をかり集めての暴力的挑発,そして警察が政府系活動家を弾圧し,テロリストが破壊活動や要人暗殺などをおこなうというもので,CIAには立派な「破壊活動マニュアル」までそろえてあります.

その間に国外で亡命政治家が「暫定政府」を作り,米国に支援を要請します.米国はこの要請に応えて軍隊を出動させ,その国の鼻先で緊急出動作戦をくり返します.そうこうするうちに,やがてエックス・デーがやってきて,国内の反動勢力と軍隊内部の「親米派」が「蜂起」し,これとあわせて雇い兵部隊が国内に侵入することになります.このとき米軍は艦船により海上を封鎖し,場合によっては[米国市民保護のため],どこかに上陸します.同時に航空機が出動し,いち早く制空権を支配します.

ニカラグアにおいては,かつて反ソモサ闘争の先頭に立ったオバンド大司教が,徴兵制施行を期に反サンディニスタの先頭に立ちます.米国にわたり反共演説をくり返したオバンドは,その見返りに膨大な資金の提供を受けます.

バチカンは,サンディニスタ政府に参加している神父たちを破門する一方,オバンドを枢機卿に取り立てました.83年には法王自らニカラグアを訪問,サンディニスタの好戦的姿勢を非難する演説をおこないます.いまやマナグアのカトリック教会本部は国内における反政府闘争の牙城となりました.

そしてFDN本隊の突入です.83年8月末,コントラ数千の大部隊がホンジュラス国境を越え攻め込んできました.部隊はたちまちのうちに山岳地帯を制圧,パンアメリカン・ハイウエイ上の要衝を次々に抜いてエステリ包囲に入ります.マナグアからクルマで4時間の距離です.

しかし革命の伝統が残るこの町,10日間の猛攻をよくしのいで,守り抜きます.この戦闘では現職の郵政大臣が戦死するなど,人民軍も大きな打撃を蒙ります.

この戦闘でニカラグア軍は装備増強の必要を痛感します.とくに兵士一人当たりの火力ではコントラに比べても劣っていることがあきらかになりました.事態の緊急性に鑑み,ニカラグア政府はこのあと急速にソ連・東欧圏に接近していくことになります.

 

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