第十一章 コンタドーラからエスキプラスへ

 

第一節 ニカラグアと国際連帯

それからサンディニスタ政権崩壊までの数年間,闘いはもっとも厳しかったが,ニカラグアが世界にその名をとどろかせる栄光の時期です.世界中の人がニカラグアに注目し,超大国を相手に正義の闘いを続けるこのちっぽけな国に感動し,支援や連帯の活動を展開しました.日本でも私たちAALA連帯委員会を始め,多くの団体・個人が,かつてのベトナム人民支援運動のようにニカラグア支援運動を展開しました.

レーガンの思惑とは逆に,コントラの攻撃を受けたニカラグア国民は一気に団結を固めました.それまでいろいろな政治信条を持っていた人々も,コントラとの闘いでは無条件に政府を支持するようになります.

政府はこのような情勢の下,一方ではソ連・東欧圏に依拠しながら急速に軍備を増強,他方,西欧諸国の社会民主主義政権と連携し,広範な市民的連帯を確保しようと務めました.折からラテンアメリカでは,十年以上続いた軍事独裁政権が次々と崩壊し,ブラジル,ウルグアイ,アルゼンチンなどで民主主義政権が誕生していました.

 

第二節 コンタドーラ・グループ

こうした国際世論の高まりを背景に,コンタドーラ・グループが結成されます.メキシコ,パナマ,コロンビア,ベネズエラの4カ国首脳がパナマの保養地コンタドーラ島に集まり,ニカラグアをふくむ中米諸国の紛争を解決するための方法について話し合いました.

会議での合意は「ラテンアメリカの紛争はラテンアメリカ自身の力で解決する」というものです.これは「ニカラグア内戦はニカラグア国内の問題である」として,あからさまな干渉をごまかそうとする米国の論理を逆手に取ったものでした.もちろん,それと同時に「北の大国」の支配に対する拒絶の意思表明でもありました.

当初,ニカラグア政府はこの提案に困惑しました.まず単純に,いきなり訳もなしに殴りつけてきた連中と,ごめんの一言もなく妥協し和解するなどとてもできません.もう一つ,彼らが闘っているのは確かに旧ソモサ軍兵士ですが,いまは米国の雇い兵に他なりません.彼らに給料を払い,武器を与え,戦闘を指導し,戦略を支持しているのはすべて米国政府です.ニカラグア政府が交渉すべきはコントラではなく,米政府であるべきだ,これが大義名分というものでしょう.

しかし,直接戦闘員だけで数千人,補給基地の人員を併せれば1万を越す軍隊をせん滅するまで闘うことも,ニカラグアの国力から見れば不可能です.ましてその背後に米国が控えているのですから…
まもなくニカラグア政府はコンタドーラ提案を原則的に受け入れる旨発表します.

困ってしまったのは米国です.これまで「ニカラグア政府はコントラと話し合え」と要求していたのは,連中は話し合いなんか応じないだろうと踏んでいたからです.ところが相手がそれに応じてしまったのですから,戦争を続ける大義名分がなくなってしまったのです.おまけにそれがラテンアメリカ諸国のイニシアチブで成立してしまえば,米国は一体何だったのか,ただラテンアメリカの平和をかき回しに来ただけではないかということになりかねません.

84年10月,米国は「コンタドーラ提案は受け入れられない」との態度を明らかにします.理由はいくつかありますが,誰が見てもこじつけに過ぎません.ようするに闘いに疲れてサンディニスタがつぶれるまで戦争は続けるぞ,ということです.

その直後,ニカラグアは大統領選をおこない,67%という驚異的な得票率でフンタ議長のオルテガが大統領に就任します.各国の選挙監視団も,選挙が公正かつ民主的に行われたとの見方で一致しました.ニカラグアは名実ともに文句なしの民主主義国家となったのです.

 

第三節 中米首脳会議の開催

米国の理不尽な態度にはラテンアメリカ全体が憤激しました.それとともにコンタドーラ提案のもっとも核心となる合意,すなわちラテンアメリカのことはラテンアメリカ自身が解決するという原則がラテンアメリカ全体の合意となっていきます.

86年,グアテマラで久しぶりに「民政復帰」がおこなわれ,ビニシオ・セレソが大統領に就任しました.彼は国内的には軍部支配に対し何もできず,もっぱら私腹を肥やすのに汲々としたなどと,とかくのうわさのある人物ですが,中米和平の実現に関しては並々ならぬ努力を払いました.

85年4月,彼のイニシアチブの下,第1回の中米首脳会議が持たれました.最大の当事者オルテガ大統領を加えた会議が開かれたこと自体,画期的なことでした.会議はコンタドーラ提案を下敷きにして新たな和解案を作成すべく開始されました.しかし中米の小国自身に当事者能力があるのか,疑問視する向きも少なくありませんでした.

会議はのっけからエルサルバドルとニカラグアとの激しいやりとりで始まります.ニカラグア以外はすべて親米反共国家ですから,しばしばニカラグアが孤立します.しかしニカラグアはこの会議をボイコットしようとはしなかったし,他の国もニカラグアをそのような状況に追いつめることだけは避けようとしていました.

その最大の保障は,中米サミットの枠組みをラテンアメリカ諸国全体ががっちりと支えていたことにあります.コンタドーラ・グループに加え,さらにそれを支援する4カ国グループが結成されました.ブラジル,アルゼンチン,ウルグアイ,そしてペルーです.これら8カ国は87年はじめ,カルタヘナで会議を開きました.そのことから8カ国グループあるいはカルタヘナ・グループと呼ばれるようになります.

そしてたんに中米和平を支援するだけではなく,対外債務問題での協調,域内経済の交流など幅広い問題で議論を始めました.そこに流れるのはコンタドーラ提案とおなじ,つまり米国支配の拒否と自主的な経済再建の道です.

 

第四節 アリアス提案とエスキプラス2合意

中米首脳会談の枠組みにはいくつかの欠陥がありました.中米紛争の本質は軍事独裁とそれに反対する人民ゲリラ,そして軍事政権を支援して乱暴に介入している米国という三つの当事者の関係にあります.しかし和平会談の参加メンバーには米国もゲリラも加わっていません.とりわけエルサルバドルのFMLNの意向が反映されないことが,交渉の進展を困難にしました.

交渉の終極目標は,それぞれの国の反政府勢力の武装解除にあります.これがニカラグアとエルサルバドルでは逆の関係にあるわけですから,両者の利害は真っ向からぶつかります.またニカラグアの国益を追求すればFMLNにとって交渉条件を不利にすることにもなりかねません.

しかしこれらの困難は徐々に解決されていきました.それぞれの国でそろそろ国民同志の殺し合いに疲れはててきたというのが正直なところでしょうか.88年2月,頃合を見てコスタリカのアリアス大統領が新たな和平案を提示しました.

この提案は中米和平とはいうものの,実際にはエルサルバドルやグアテマラには適用されず,ニカラグアだけを対象としたものでした.内容はニカラグア政府とコントラとの直接対話,両者対等の「和解委員会」の設立など,ニカラグア側にとってかなり屈辱的なものでした.それと引き替えにニカラグアが得るものといえば,「停戦」だけです.しかも米国の出方によっては停戦が実現する保障はありません.まさに一方的な譲歩です.

ニカラグアはこれを呑みました.いわばラテンアメリカ諸国の団結を担保として,和平攻勢という賭けに出ました.この合意をラテンアメリカ諸国が支持すれば,米国もこれを受け入れざるを得ないだろうというわけです.

ニカラグア革命史目次へ戻る