第十ニ章 戦いには勝ったが…

 

第一節 イラン・コントラゲート事件

闘いが優勢なときほど,思い切った妥協が出来るものです.そういう見方でいま振り返ってみると,この和平攻勢は絶好のタイミングでした.ひとつはいま一歩遅れればソ連・東欧圏の崩壊により,政府軍は壊滅的崩壊を免れ得なかったからです.もうひとつは,一方の当事者米国が,イラン・コントラゲート事件で重大な困難に直面したからです.

86年末,ベイルートから発せられた一本の外電が,やがて世界を揺るがすようになります.その外電は「米国政府が密かにイランに武器を売却している」というものでした.当時中東ではイランとイラクが泥沼の戦争を続けていました.当初は米国の支援を受けたイラクが優勢でしたが,イスラム原理主義の洗礼を受けた戦士たちの人海戦術によりイランが盛り返し,戦線は膠着状態に入っていました.

いわば米国にとって敵国ともいえるイランに米国政府が武器を送っていたとあっては大変な事態です.米国のジャーナリズムは一斉に色めき立ちました.調査を進めるうち,さらに大変な事実が明らかになってきました.米国政府はイランに武器を売って得た金をコントラに手渡していたというのです.まさに世紀のスキャンダルです.

これらの行動を指揮していたのは,これまでのようにCIAではなく,国家安全保障会議(NSC)という政府の最高意思決定機関だったこと,NSCを掌握するポインデクスター補佐官の指揮の下,事務官のオリバー・ノース中佐が実行にあたっていたこと,などが明らかになります.レーガンは二人を解任し,自分は知らなかったことにして何とか事態を打開しようと図ります.

直後に開かれた国連総会は,あげて米国糾弾の場となりました.コントラ援助を中止するよう求める総会決議が採択され,国連とOASの事務総長が共同声明を出すにいたります.米国はニカラグアが麻薬密輸に関与しているとデマを飛ばし,コントラ支援の口実を何とか作ろうとします.

ところが,ニカラグアどころか身内のCIAこそが麻薬に関係しているという,もうひとつのとんでもないスキャンダルが発覚しました.最初に浮かび上がったのは,コントラへの「人道的支援」を担当したヴォーテックス社でした.この会社は全米最大の麻薬業者マイケル・パーマーのものでした.物資運搬用の飛行機は,それまで麻薬運搬にかかわっていたものでした.パーマーはこの仕事の見返りに政府から30万ドルの報酬を受けていたといいます.

しかしこの事件は竜頭蛇尾に終わりました.ノースが沈黙を守り,すべての罪をかぶってしまったのです.この結果レーガンやブッシュの政治責任は問われることなく終わってしまいました.

 

第二節 和平の実現へ

コントラは深刻な財政危機にありました.根無し草の傭兵部隊1万人を食わせておくのは,それだけでも大変なことです.おまけに武器弾薬から基地機能の維持,医療のたぐいまで面倒を見るとなれば,さすがの米国でも相当の負担となります.おまけに議会ではニカラグア派のロビー活動が奏功して,コントラ支援のための予算は否決されてしまいます.

苦肉の策として,このような奇策を採ったのですが,それが暴露されるともはやコントラの命は絶たれます.彼らも政府との妥協の道をとるしかありません.

ニカラグア政府も台所事情のきびしさはおなじです.世界史上類を見ない1万パーセントのインフレが襲います.1ドルあたりのコルドバ・レートは,1週間あたり1千コルドバの割で跳ね上がっていきます.もはや国際的には通貨としての機能を失っています.

町には物乞いがあふれ,人々の目つきも厳しくなります.公設の市場からは商品が姿を消し,「泥棒市場」と呼ばれるヤミ市場に人が集まるようになります.革命直後,医療費無料化を実現したニカラグアでしたが,そもそも医療資財がありません.一つのベットに三人がごろ寝するまでになります.医師の給料も満足に払えません.「我々は世界でもっとも誇りが高く,世界でもっとも賃金が低い医者だ」と自嘲混じりに語った青年医師の姿が忘れられません.

そこへ持ってきて徴兵制です.無理矢理戦場に連れていかれ,コントラ相手の闘いで命を失うのも辛いことです.兵役を逃れるため,気の利いた人たちは海外に逃避していきます.

 

第三節 最後のゆり戻し

いよいよ大統領選挙の日程も決まりました.レーガンに代わって大統領に就任したブッシュは,「ニカラグアに負けた大統領」の汚名を着たくありません.起死回生の手を狙いさまざまな挑発を繰り返しますが,もはや大勢に逆らうことはできません.むしろ大統領選での逆転勝利を狙うようになります.

追い詰められたコントラは最後の攻勢に打って出ました.11月1日,ホンジュラスのコントラ部隊3千5百名が越境攻撃を開始します.ほぼ全勢力に近い数です.カリブ海沿いでも破壊攻撃が散発します.しかし数壱百名の犠牲者を出したあと,さしたる戦果もなく敗退します.これ以降大規模な戦闘は発生しません.

今度は11日,エルサルバドルのFMLNが首都に最終攻勢をかけます.一時市内の要所を確保するなど,ベトナムのテト攻勢に匹敵するような大規模な戦闘となりますが,FMLNにも首都を維持できるような余力は残っていません.ほぼ1週間で戦闘は収束します.

FMLNが85年の痛手から立ち直り,このような大規模な作戦を展開できるまでに至ったのには,地対空対応能力の向上が大きく寄与しています.飛行機でエルサルバドル上空を飛ぶと見渡す限りの禿山です.もともとエルサルバドルの国土は決して砂漠ではなく乱伐による荒廃です.とにかく遮蔽物がありませんから,ゲリラは飛行機やヘリによる攻撃の格好の目標です.ところがゲリラが地対空ミサイルを手に入れて以来,戦況はまったく変わりました.ヘリこそが茂みに隠れたゲリラたちの格好の獲物となったのです.

その地対空ミサイルはどこからきたのか,まあ常識的に考えてニカラグアしかないでしょう.11月末,エルサルバドルで一機の飛行機が墜落,その残骸からソ連製地対空ミサイルが発見されました.エルサルバドル政府は直ちにニカラグアと断交.中米和平に暗雲が立ち込めます.

折りからパナマではノリエガに対し,米軍が総攻撃態勢に入ります.とにかく89年というのは激動の年で,天安門事件に始まり,ベルリンの壁からルーマニアのチャウシェスク体制崩壊と,すさまじい変化でした.ソ連の対応が期待できない状況の下では,一歩間違えればパナマのように米軍の直接侵攻すらありえます.

ニカラグアはたいへん厳しい決断を行いました.12月10日,コントラ解体と引き換えに,FMLNとたたかうクリスティアーニを支持する立場を表明したのです.そして政府軍内を捜索し,FMLN向けの地対空ミサイルを「発見」,これをエルサルバドル政府に引き渡したのです.

ハバナ放送は「オルテガはFMLNの英雄的ゲリラを売り渡した.自分が生き残るだけを考えているのは残念なことである」と非難しました.FMLNも「怒りをもって宣言を拒否する」との声明を発表します.とはいうものの,この重大な決定にカストロが噛んでいないわけはありません.ソ連・東欧の崩壊を目前にこれが妥協できる最後のチャンスと見切ったのだろうと思われます.

 

第四節 そして大統領選挙

90年2月,大統領選挙が闘われました.サンディニスタは選挙についてきわめて楽観的でした.世界の超大国を相手に,正義の力だけを信じて闘い,和平をかち取ったのですから当然でしょう.オルテガは全国を遊説して回りましたが,何処でも大勢の人がオルテガを支持し歓迎しました.マナグアでの打ち上げ集会には50万もの人が結集しました.

しかし蓋を開けてみると,UNOのビオレータ・チャモロに完敗でした.おそらく前回オルテガを圧倒的に支持したニカラグア国民は,サンディニスタの正しさは信じつつも,このままではやっていけないと考えたのだろうと思います.米国の選挙干渉も露骨でした.ニカラグア和平にともなう復興資金を,ビオレータ勝利のためにつぎ込んだのです.かつて第二次大戦直後,マーシャル・プランの資金でイタリア総選挙の勝利をもぎ取ったのとおなじです.

驚いたのはUNO陣営の一員にニカラグア共産党も加わっていたことでした.この共産党なる組織,70年代前半に本家のニカラグア社会党から離脱し,忠実なモスクワのメガホン機関として活動してきた組織です.おそらく「全世界の協調」を説くゴルバチョフの指令があったのでしょう.

一時はがっくり来たサンディニスタですが,すぐ気持ちを取り直します.軍や警察の機構はまだ手中にあります.ビオレータは元はといえば革命直後にニカラグア再建のためともに働いた仲間です.ニカラグアの激変の時代を生きて,チャモロ一族もサンディニスタとコントラの双方に分かれていました.サンディニスタの機関紙「バリカーダ」の編集長も,国連大使も,コントラのコスタリカ代表部も「チャモロ」でした. ビオレータは当選直後の記者会見で「この選挙には勝者も敗者もない.サンディニスタに投じられた4割の投票も大事にしたい」と述べます.

チャモロ当選を見て,米国は経済封鎖を解除,コントラ支援も中止するなどさっさと手を引きます.チャモロ政権の下コントラの武装解除は順調に進み,わずか就任2カ月後の6月には完了します.ビオレータは,右翼の激しい抗議とブッシュによる援助凍結の脅迫を無視し,ウンベルト・オルテガ軍司令官の留任を決断します.

 

第五節 ビオレータ政権下でのせめぎ合い

右翼勢力の最大の期待は,農地改革によって失われた土地を取り戻すことでした.これには農民たちが猛反発します.彼らが命を懸けて守ってきた革命の最大の遺産ですから,ここはサンディニスタもそう簡単には引き下がれません.そのうち,今度は元コントラたちが,土地を要求して騒ぎ始めます.彼らも土地をもらえるという誘惑に駆られてコントラに参加したのです.

「土地を旧地主の手に」というスローガンを掲げ当選したビオレータ政権でしたが,土地問題に下手に手を付ければふたたび内戦が起きる,このことがはっきりするに連れ,土地取り上げに慎重になりました.UNO内部の亀裂は次第に深まっていきます.

もうひとつの争点が,財政危機乗り切りのため公務員を大幅に減らすことでした.そこはサンディニスタ活動家の大拠点でもありますから,大変な騒動になるのは火を見るより明らかです.ただ逆にそれが大騒ぎになれば,ビオレータはよくやっているとの評判を取れることにもなります.5月早速対決が始まりました.大量かく首の発表に対し,労働者全国戦線(FNT)はゼネストで対抗します.その間隙を縫うように,停戦時の公約を実施しない政府に怒った元コントラ兵士がバスターミナルを占拠,バリケードを挟んで市街戦を展開するという状況になります.

新政府を襲った最初の危機に際し,チャモロはサンディニスタとの妥協の道を選びました.この対応をめぐりUNO右派はチャモロを激しく非難します.米国はチャモロの妥協的態度に対し援助停止,武力侵攻の脅しをかけてきます.パナマの勝利で勢いに乗る米国はホンジュラス駐留の空挺師団に出動準備を指示,直接介入の構えを見せます. そのくせ,米国は当初約束した復興援助を実行しません.日本やヨーロッパに肩代わりを押しつけたまま,知らぬ振りを決め込むのです.

破綻した財政の下では行政の縮小はある程度やむをえないものがあります.労組の反撃も次第に力を失い,事態が平静化していきます.しかし地方での土地の取り上げはそう簡単ではありません.南部のチョンタレスでは元コントラ兵士が土地を要求し,ふたたび武装行動(レコントラ)を開始します.サンディニスタ系農民も退役兵士を中核として武装組織(レコンパ)を組織し,土地と利上げに抵抗します.

 

第六節 国内は無政府状態に

91年後半,ニカラグアはいよいよ無政府状態に陥ります.チャモロとオルテガのあいだに取り決められた労働者を巡る合意は,何れの側においてもコンセンサスを作り上げられませんでした.UNO右派が多数を握る議会はこの合意を否決,チャモロを追いこみます.もしチャモロが辞任すれば,大統領の座は副大統領である右派のゴドイの手に入るという計算です.

これに対抗する労働戦線もオルテガの提案を拒否し工場や農場の武装占拠に入ります.首都ではサンディニスタ系の労働者がバリケードを築くなど激しいデモをくり返し,同じサンディニスタの警察と対峙するなど,複雑な状況も現れます. さらにオルテガの右腕で弟のウンベルトは,政府よりの立場から労働者の跳ね上がりを厳しく非難し,彼らとの対決も辞さない構えを見せます.

10月には火に油を注ぐような発言が飛び出しました.UNO右派の大物でマナグア市長のアレマンは独自の警察隊を組織すると発表します.これに対しオルテガはソモサ主義者と戦うためには民兵の組織化も辞さないと対抗します.

しかしこの一触即発の危機は,結局チャモロ政府とオルテガの共同努力で沈静に向かうことになります.実質的にはチャモロがオルテガの手を借りることで右派の抑え込みに成功したということになります.チャモロ派はUNO内部では少数派でしたが,サンディニスタと手を結ぶことで議会の多数を制することができるようになりました.

これはブッシュにとっては面白くないことです.もし内乱状態にでもなれば,直ちに軍を派遣して長年の癪の種サンディニスタを根こそぎにできるからです.そこで彼はUNO右派に圧力をかけひと騒動をたくらみました.92年7月,セサル国会議長が国会「占拠」を宣言します.そして右派の提案を次々と可決していきます.今度は議会と政府の二重権力状態です.

右派にとっての最大の誤算は,まさにこのときブッシュが大統領選に敗れたことでした.これを好機と見たチャモロは,12月30日,警察を動員して国会を奪回します.そして裁判所に期間中の立法について無効の訴えを提出します.年が明けて内閣改造が行われました.サンディニスタから二人があらたに入閣,政府はチャモロ=FSLN連立内閣の様相を呈するようになります.

 

第七節 サンディニスタの分裂

つぎの大統領選挙はサンディニスタにとって,雪辱のチャンスでした.停戦=チャモロの大統領実現以後の政治混乱を最終的に取り仕切ってきたのは,つねにサンディニスタでした.サンディニスタ軍はエステリその他でのレコントラの反乱を押さえ込みます.そしてオバンド枢機卿と協力しながら,レコントラの武装解除工作に成功します.混乱期を通じて,ニカラグアには政権を担える勢力としてはサンディニスタしかいないという事実が明らかになりました.

しかし,もし勝ったとしたら,サンディニスタはどういう政治をしていったらよいのだろうか,この点では深刻な党内矛盾が発生してきました.ソ連・東欧諸国が崩壊し,東側に頼るような経済運営はもはや不可能です.それではネオリベラリズムを受け入れ,市場経済システムをとり,貧しい人たちに犠牲を強いるような形でも経済再建を優先するのか,それとも人民の立場に立った民主的なシステムをあくまで目指すのか,目指すのはいいが,果たしてそれが実現可能か,それが失敗したときニカラグアはさらに悲惨な状態に陥るのではないか,このような疑問が噴出してきます.

そのようなことを考えたとき,現在のあまりにも政府よりの姿勢は果たして正しいのだろうかという疑問が沸くのももっともです.たしかに無政府状態や二重権力の出現など,破局的な事態から国を守るためにはさまざまな妥協もやむをえないところがありました.しかしその妥協は,結局人民の側に一方的に犠牲が強いられてきただけではなかったのか,少なくともこれからは,もっと原則的な人民的立場を貫くべきではないのか?

いっぽうでチャモロとの連立政権こそが,当面ニカラグアの進むべき道と考える人たちも現れます.特にUNO右派のさまざまな右翼の挑発と真っ向から対決し,政局の主導権を確保してきた議会幹部にその思いは強いものがありました.破局の只中にいるこの国を救うためには,多少の妥協やそのための犠牲もやむをえない,という論理には確かに説得力があります.しかしその心情は限りなくチャモロそのものに近いという指摘も成り立ちます.

前者を代表する潮流は「29人グループ」を結成しました.代表格が元外務次官のティノコ,元警察長官のレネ・ビバス,マナグア市会議員モニカ・バルトダーノ(元司令官)です.後者はラミレス元副大統領を筆頭にマスコミ・文化人関係者があげて支持に回りました.

94年5月,FSLNの臨時党大会で両者が激突します.大会そのものはオルテガを中心とする主流派が,「29人グループ」の提示した原則を支持したため,一方的なものとなりました.むしろオルテガらの関心はいかに統一を保ち,ラミレス派の人たちにも残留してもらえるような手立てを講じるかということにありました.

いったん,この工作は成功したかに見えましたが,半年後ラミレスらは党を去っていきます.ラミレスみずからが大統領候補として立起するという話しになっては,もはや妥協の余地はありません.日本のAALA連帯運動とも深いかかわりのあったドリス・ティヘリーノ司令官,国会占拠事件の立役者ドラマリア・テジェス司令官,現代ニカラグアを代表する詩人エルネスト・カルデナル神父,バリカーダ紙編集長のC.F.チャモロなどが,ラミレスと行動をともにします.農地改革の責任者で従属経済論の論客でもあったウィーロック司令官は,米国での研究を続けるため公職を辞すことになりました.彼は辞任にあたってラミレス支持の立場を明らかにします.

 

第八節 とりあえずのエピローグ

FSLN党大会から1年半後の大統領選挙では,右翼のボスであるアレマンが当選します.いわばサンディニスタの自殺点で勝利したようなものです.いっぽう左右両派の激突の前に存在意義を失ってしまったビオレータ派はほぼ消滅してしまいました. 政治に疲れ果てたビオレータは,これを機に家庭に引きこもってしまいます.

サンディニスタは第二の分裂の危機を迎えました.アレマンとの妥協が迫られたとき,これを断固として拒否すべきとするティノコら原則派と,オルテガらの主流派のあいだに鋭い意見の違いが生じたのです.さらにバリカーダ紙編集部の更迭,さらに新聞の廃刊という一連の経過の中でラミレス派との対立も抜き差しならないものになりました.そこへ持ってきて,ダニエルが義理の娘に対してセクハラしたという攻撃が,右翼により一斉に展開されたのです.

しかしサンディニスタの底力はすごいものです.その力の源は全国に張り巡らされた組織の網の目のなかにあります.大統領選挙の候補を選ぶときでも,町内単位に非党員まで集めて集会を開き,候補者選びを積み上げていきます.こうして党大会で候補者が決まるまで数万の人が選挙過程に参加しています.党大会はあたかも国会に代わるほどの権威を持って語られます.

21世紀を目前に控え,ベネズエラでは57年革命の伝統を引き継ぐチャベス候補が当選するなど,ふたたび人民運動の波が高まってきています.この波が中米をふくむラテンアメリカ全体に波及するとき,ふたたびサンディニスタが政権を握り,79年に果たせなかった人民革命の課題を成功裏に遂行できるようになるかも知れません.これからも注意深く見守っていきたいと思います.

 


ニカラグア革命史目次に戻る