女子中学生轢殺事件の経過

 

昨年,韓国で起きた装甲車による女子中学生轢殺事件と,その後の全国的な抗議行動は,韓国における平和運動上空前のものとなりました.

まず第一の特徴はその規模です.真相究明と韓国司法による裁判を求める署名は百数十万筆に達しました.12月末に行われた一連の抗議集会には,最大時全国40万名が結集しました.これまでの運動は,少数の学生や労働者・市民平和主義者を中心に,きわめて先鋭な形態で繰り広げられてきました.当局の弾圧も極めて暴力的で厳しいものでした.それが今回は,女子中学生の惨殺ということもあり,中学生や高校生など若者を中心に,フツーの市民がキャンドルを片手に参加するたたかいとなりました.

第二の特徴は,米軍の半世紀を越える長期駐留に,初めてはっきりと「ノー」の世論が突きつけられたことです.世論調査では,米軍の裁判を「公正でなかった」と考える人が97.1%,「在韓米軍地位協定を改正すべき」と考える人が96.2%に達しました.さらに過半数を上回る回答者が米軍撤退に賛成しています(中央日報).
これまで駐留米軍をめぐる議論は一種のタブーとなってきました.朝鮮戦争以来「反共・反北」は国是であり,米軍の問題に言及すれば,国家に対する反逆と指弾されてきました.このタブーが完璧に打ち砕かれたことは,韓国の民主主義が新たな段階に到達したことを意味しています.

第三の特徴は,このたたかいが大統領選挙と一体となり,旧来の軍や資本家などの代表からなるボス支配政治を打破したことです.たたかいさなかの12月19日に行われた大統領選挙では,旧来政治の打破と太陽政策の継続を訴える高卒の弁護士,盧武弦候補が勝利しました.事前の世論調査では一貫して劣勢に立っていた盧武弦候補が逆転勝利したのは,この事件での国民の支持があったからです.さらに,民主主義の徹底を訴える左派の民主労働党が,第三党の地位を確保するまでに前進したことも,韓国政界の地殻変動を物語っています.

以下に,このような歴史的なたたかいとなった女子中学生轢殺事件抗議行動の経過を紹介します.

 

@事件はこうして起きた

事件がおきたのは2002年6月13日のことです.ソウルに程近い農村地帯,京畿道楊州郡広積面孝村里は,朝から晴れて気温も高くなっていました.「面」というのは日本の村,「里」というのは部落・字です.この村に住む辛ヒョスンさんとシム・ミソンさんは,ともに14歳の中学一年生.この日午前10時45分ころ,二人は友だちの誕生パーティーに行こうと誘い合って,一般道を歩いていました.

この道路は,近くに三つの軍事演習場があり,日ごろから米軍・韓国軍の装甲車や戦車などの往来が激しいところでした.この日も,ムグン里の砲兵・機甲訓練場で,米第二師団の大隊が戦闘力測定訓練を実施していました.

道路が丘に差し掛かりカーブしているあたりで,二人は道路の右側を歩いていました.そこに後ろから米軍装甲車がやってきました.米第二師団代44工兵隊所属の架橋運搬用装甲車で,総重量54トン,車の幅は道路の斜線幅を優に超える巨大な車です(韓国は,アメリカと同じ右側通行)

この車が二人の後方30メートルまで差し掛かったとき,前方から別の米軍装甲車がやってきました.こちらはやや小ぶりですが,小なりとはいえほぼ車線いっぱいです.装甲車同士がすれ違うためには,大型装甲車が路肩を踏み外しながら進行する以外にありません.

大型装甲車が上り坂のカーブを道路からはみ出るように進んでいったとき,車両長は前方に二人の姿を捉えました.「合同調査団」の報告によれば,「車両長は無線を通じ二回にわたって運転手に停車命令を出した.しかし運転手・マーク・ウォーカー兵長は,車両騒音でこれを聞き逃し」ました.

二人の女子中学生が,背後から迫る巨大な装甲車に気づいたときはすでに手遅れでした.二人は折り重なるように倒れ,その上に54トンの装甲車のキャタピラーがのしかかっていったのです.

それはあまりにもむごたらしい,「異形な」死でした.内臓も脳みそもはみ出し,頭蓋骨もその上の顔もぐしゃぐしゃにつぶれ,爆発したかのように周囲に血が飛び散りました.遺族も亡骸からは判断できず,着衣で辛うじて本人と特定できたとのことでした.

A「米韓合同調査班」の報告

このむごたらしい事件に対し,ただちに怒りの声が巻き起こりました.遺族も真相究明を強くもとめました.国内各地の市民団体から抗議の声が寄せられました.平和運動の諸団体は,「米軍装甲車による女子中学生シン・ヒョスン、シム・ミソンさん殺人事件対策委員会」(汎国民対策委)を結成し,運動を進めることとしました.

当初米軍は、この事件を単純な交通事故として処理したようです。しかし遺族や市民団体などから「殺人」容疑への糾弾と真相究明を求める声が上がったため、急きょ,韓国当局との合同調査班を構成して調査を開始しました.米第八軍司令官をはじめ第二師団長らが、次々と遺家族に対する公式の遺憾声明を発表しました。事故を起こした工兵大隊は追悼行事まで開きました。このあたり,韓国民の抗議など眼中になかった以前とは,確かに対応が違う感じです.

6月19日、「合同調査班」が調査結果を発表しました。報告書は以下のように述べています.

「大韓民国警察、大韓民国犯罪捜査隊および米陸軍安全部署とともに、われわれは今回の事故を徹底して調査した。これまでの調査においては,今回の事故が故意や悪意によって起きたとするどのような証拠も発見できなかった。われわれはこの事件が悲劇的な事故だと確信する」

そして26日には,MBCラジオ放送とのインタビューに駐韓米軍第二師団広報室長が登場しました.彼は「韓米合同調査の結果、だれにも過失を問うことができないことが明らかになった」との見解を繰り返しました.ワールドカップに熱狂する韓国国民を見て,このあたり世論をなめている感じです.

到底間尺に会わない一般道路を,我がもの顔に走り回り,挙句の果てに人を押しつぶしておいて,「悲劇的な事故だった」とは聞いてあきれます.54トンもの巨大な装甲車で行動を走り回るのなら,それなりの責任はあるはずだし,現に事故がおきてしまったのなら,それなりの人物がそれなりに責任を取らなければならなりません.たとえ悪意があろうとなかろうと,そのことで責任を免れる性質の問題ではありません.

米韓「合同」調査班もその実体を知れば,とんでもないマヤカシであることが分かります.米軍との合同調査に参加した韓国人関係者は,「合同調査の現場で主導的に意見を出したり、独自の裁量権を持って調査に参加することはできなかった.韓国人捜査官は事故運転者と話もできなかった.このような状況で、何の調査ができるのか」と語っています.

関係者の怒りは沸騰しました.遺族と対策委はただちにウィジョンブ(議政府)市の米第二師団前で,「殺人事件の真相究明と責任者処罰汎国民大会」と称する集会を開きました.住民たちは,「韓国軍は大規模訓練を繰り広げる際には事前に村に通報してくるが、米軍は一度も前もって知らせてきたことがない」と訴えました.

「調査班報告」に不信を抱く遺族と対策委は,民主的な弁護士集団「民主化のための弁護士の集い」に独自の調査を依頼しました.弁護士たちは,29日現場に入るとともに,遺族や住民たちから証言を求めました.

事故現場を通りかかり,最初に目撃したホン・ギソックさん(54歳)の証言は,鳥肌が立つほど生々しいものでした.「子どもの遺体は二人の頭がい骨がおしつぶされたまま重なっていた。まだ血がにじみ出る前だった.顔は正体不明なほど崩れていて,どこの家の子どもなのか見当もつかなかった.身元を確認するために、まず村長に電話した」

またほかの住民の証言は,この「事故」が起こるべくして起こった「犯罪」に他ならないことを明らかにしました.「米軍車両は道路幅より広いので,普段から中央ラインを越えたまま運行していた.それなのに,いつも猛スピードで走っていた.女の子たちを発見したのは三十メートル手前だったから,猛スピードを出していなかったならば、登り道だし十分に車両を止められる距離だ」

独自調査を受けた汎国民対策委員会の金ジョンイル共同委員長は、「調査班発表は虚偽以外の何ものでもない.一般の常識からしても話にならない.@事故車両が道路幅より大きいのに、訓練車両を統制するための安全要員を配置しなかった.A米軍の訓練教本では、装甲車が交差する際は、少女たちを発見していなくても、相手のために停止しなければならなかったはずだ」と抗議しました.

抗議集会は26日、29日、7月4日と三回にわたって続きます.集会の決議では,@米政府当局者の公式謝罪と徹底した真相究明A韓国当局による責任者処罰BSOFAの全面改正C駐韓米軍の撤収…などを要求に掲げました.

26日の集会では,抗議文を渡そうとして構内に入った代表と取材記者に対し,盾とこん棒で完全武装した駐韓米軍兵士が暴行,記者二人を拘束するという態度に出ます.マスコミの前ではしおらしい態度を取っても,抗議運動に対しては断固力を持って対決するというのが,相も変らぬ米軍の基本的姿勢であることが,この事件からも明らかです.

B遺族らが処罰を要求

 米軍の不誠実な対応に怒った遺族らと汎国民対策委は,6月27日,犯人の告発=裁判闘争に踏み切りました.装甲車の運転手ウォーク・マーク兵長と第二師団長や部隊長ら六人を,業務上過失致死容疑で韓国検察に告訴したのです.また法務部には,「裁判権を放棄するよう米軍に要請せよ」との申請書を提出しました.

韓国内にも,ワールドカップが終わってようやく実態が知られるようになってきました.むしろワールドカップで高揚した民族的誇りと平和・友好の精神が,たたかいをいっそう広範なものにしたともいえるかもしれません.

米軍への反発は,これまで半基地闘争を担ってきた従来型の進歩勢力にはとどまりませんでした.7月9日には国会議員会館で「米軍装甲車女子中学生殺人事件に関する市民社会団体・国会議員の対国民合同報告大会」が開かれました。出席者は党派を超えていました.

ハンナラ党(保守系)の金元雄議員はあいさつで、「わが国の女子中学生が亡くなったというのに、この地の守旧勢力は米国の顔色を気にして反米感情を憂慮する発言ばかりしている.いま、わが国民の中に反米感情が形成されないなら、われわれがはたして生命力ある独立国の国民といえるだろうか」と述べています。

こうして「犯人を引き渡せ,韓国人に裁かせろ」の声が,党派を超え広がっていきます.そして韓国政府の法務部(日本の法務省にあたる)に「犯人引渡しを求めよ」という要求が強まっていきます.

ここで,若干米兵犯罪に関する現在の米韓の取り決めについて説明しておいたほうがよいでしょう.
韓国駐留米軍は米軍編成上は第8軍と呼ばれています.朝鮮戦争の際は「国連軍」としてたたかいましたが,現在その実体は米軍そのものです.
この駐留軍の韓国内における地位を定めたのが「駐韓米軍地位協定」です.普通は英語の頭文字をとってSOFAと呼ばれます.双務性のないきわめて不平等な協定で,実際にもさまざまな問題が起きていました.詳しくは「
韓米行政協定(SOFA)について」をご参照ください.
続発する米兵犯罪を前に,91年には韓国側の要望を一部取り入れた改定がなされました.これが「裁判管轄権の放棄」と呼ばれる付帯条項です.韓国側が時刻の裁判によって裁かれるのが望ましい事例と判断した場合,「21日を越えないできるだけ早い日時に,米軍側が裁判権を放棄するよう書面で要請」すると,「要請を受けた日から42日以内」に,米軍司令部は「これに好意的に応じなければならない」ことになりました.もちろん裁判権の放棄を「好意的に拒否」することもありえます.
今回の事件では,7月5日が要請のための21目の期限となります.

B韓国政府,犯人引渡しを請求

内外の抗議の声を前に,金大中政権は決断しました.要請期限を1週間ほど過ぎた7月11日,米軍と米政府に対し初めて裁判権放棄を申し入れたのです.轢殺事件は,もはや政府との公式の外交問題となりました.

駐韓米軍のラフォート司令官は公式会見を開き,次のように語ります.「米陸軍は,みずからに全面的な責任があることを認める.再発を防止するための措置を速やかに取る.しかし、事故当時,該当軍人は公務を執行中であった.SOFAの規定により,公務中の米軍人の事故(犯罪と読め)については、米軍側に一次的裁判権がある.このため,犯人の引き渡しは困難である」

合同調査班報告が「悲劇的な事故」だったとし,業務上過失すら認めなかったのに比べれば,一歩譲歩したように見えます.しかしそれも単なるリップサービスにしか過ぎなかったことは,11月の判決で関係者全員に無罪が言い渡されたことで明らかです.

さらにある米軍側関係者は,非公式に,「公務上発生した事件に対して裁判権を放棄した例はなく、そのような前例を作るわけにはいかない」と述べています.これはあからさまな詭弁であり,強弁です.これを敷衍すれば,「業務上過失」などという法律概念そのものが消失してしまいます.

米軍関係者が「公務上」という言葉を重視するのには理由があります.先ほどのSOFAの第22条3項は、「公務執行中に起こった事故に対しては、米国当局が優先的刑事裁判権を持つ」と規定されているからです.

米国側の反応に対し国内世論は一斉に反発しました.保守的メディアさえも米軍側の姿勢を批判するようになります.人をひき殺すことが公務だったのか.人をひき殺すことを,誰かが公務として命令したのか.そもそも事故を起こさないよう慎重に運転することこそが公務であり,今回の事故はまさにこの「公務」に対する違反だったのではないか?

東亜日報は社説で,「米軍側は裁判権を放棄した例がないという点を強調しているが、韓国が裁判権放棄要請というカードを切ったのも今回が初めてだ。われわれが裁判権を要請したのは、事件の真相を明らかにして過失に対する妥当な処罰を下すための努力である.このことを米軍側は理解すべきだ」と主張しました.

右翼をもって任じる朝鮮日報さえも,「米軍は今回の事件に対する韓国民の心情をくみ取る必要がある。事故発生直後に見せた米軍側の一部の軽率な言動は、問題解決に何ら役立たないばかりか、事案をさらに複雑にさせる」と忠告して見せました.

7月14日 議政府市の米第二師団前で、汎国民対策委員会が主催する「米軍装甲車女子中学生殺人蛮行糾弾第四回汎国民大会」が開かれました.雨の中,四千人もの労働者・市民・学生らが参加し,轢殺事件抗議闘争における最初の大規模集会となりました。参加者らは抗議書簡を通して、@米軍の裁判管轄権即時放棄,A遺族と韓国民に対するブッシュ大統領の謝罪,B殺人米軍部隊キャンプハウスの閉鎖,C不平等なSOFA即時全面改定などを要求しました。

あえて火中の栗を拾いに出たのが国防部です.国防部の黄報道官は次のように語りました.「現在、反米感情の高まりは憂慮すべき水準に達していいる.これにより駐留米軍が困難に直面しているため、国防部はこの問題に介入することにした.SOFAが不平等の傾向を持つことは認めるが,現行規定として尊重する限り,刑事裁判権の委譲は難しいといわざるを得ない.韓国としては,これ以上、米軍に裁判管轄権の放棄を求める意志のないことを明らかにするべきである」

汎国民対策委はただちに反論しました.「国防部の発言は,自分が国家を代表しているかのような態度で,重大な越権行為である.しかもその内容は,事件を隠ぺいしようとする駐韓米軍の意図に沿ったものとしか思えない.いま,法務部が米軍に裁判管轄権の放棄を正式に要請し,全国民が一致して真相究明と駐韓米軍の裁判権放棄を要求しているときに、国防部がこれに正面から逆行する行為を働くのは許されない」

そして@黄スポークスマンの妄言取り消しと免責,A国防長官の謝罪,B二十九日の韓米共同記者会見の中止などを求めました.この対策委員会の発言は,国民の強い共感を呼ぶことになりました.

 

C米軍,犯人引渡しを拒否

いずれにせよ,法務部が米軍に裁判権放棄を請求したことで,ボールは米軍側に投げられました.今度は米軍側が投げ返す番です.非公式には裁判管轄権の委譲に拒否の姿勢を強くにじませながらも,彼らも韓国民の反応には敏感になってきました.

7月27日,駐韓米軍司令部は,「シム・ミソンさんとシン・ヒョスンさんの貴重な生命を奪った最近の残酷な事故に対して,心から謝罪の言葉をささげ,すべての責任を受け入れる」とする声明書を発表しました.

7月30日には,ハバード駐韓米大使が「市民団体連帯会議」の李ナムジュ常任代表らと会談を持ちます.しかし裁判権の委譲とSOFAの改正に対しては,「いまSOFA改正の論議は適切ではない」という否定的な意見を表明したにとどまりました.

韓国民のいらいらは募ります.事件の真相究明と裁判管轄権の委譲、ブッシュ米大統領の謝罪などを求める運動は,さらに大規模に全国化していきます.犠牲者の「49日の命日」に当たる7月31日には,ソウル市内の徳寿宮大漢門前で「四十九日追悼集会」が開かれました.6千の人々が集まりましたが,注目を集めたのは「全国民主中高等学生連合」所属の多くの中学、高校生らでした.ソウルのほかにも,京畿道議政府市の現場,そして釜山、光州、大邱、全北・群山、大田、忠北・清州、馬山などで大規模な追悼集会がもたれました.

「ブッシュ大統領の公式謝罪を要求する署名」が提起され,わずか十日間で十万人を突破しました.その後も署名運動の勢いは衰えず、8月中に30万人,年末までにはなんと130万を突破することになります.

8月3日,学生十三人からなる決死隊が、議政府市の米第二師団前に出現.一般道路を通行中の師団所属の戦車部隊前に身を投げ出しました.「さぁ,轢いてみろ!」という行動です.警官隊が出動して決死隊をごぼう抜きにするまで,戦車の通行は4時間にわたりストップしました.

8月7日,ついに駐韓米軍が,裁判権放棄の要請に対する回答を発表しました.7月4日のラフォート司令官の声明に続き,ふたたび裁判権の委譲は拒否されました.

「すべての状況を検討した結果、裁判管轄権委譲の前例をつくるには,今回の事例は十分でないとの結論に達した.事故発生当時、兵士は公務を遂行していた.米国は公務中の事件に対する裁判権を放棄するつもりはない.自国の軍人が公務を遂行中に発生した事件に対して、軍が裁判権を保有する伝統は,米国だけに局限されたものではない」

この回答では,同時に再発予防策として,@地域住民に訓練の細部事項を通報,A大型車両の移動時、車列の前後にサポート車を配置,B訓練期間中、部隊指揮官は車両の移動を徹底してモニターして統制する、との「画期的な事故予防策」を約束しました.

筆者の感想
この予防策が「画期的」だというなら,いままでの安全確保策は皆無に等しかったということになります.地域住民は装甲車の通行についてまったく通報を受けず,装甲車は先導車もなしのめくら運行(
差別?)で,指揮官は安全管理など念頭になし,というのがこれまでの実体だったわけです.

 

Dたたかいは「裁判権委譲」問題へ

韓国自身による裁判が不可能となった時点で,若干の敗北感が広がりました.それとともに,米軍への「要請」と「好意」への期待ではなく,裁判権そのものを取り戻すたたかいとして運動を発展させなければだめだという認識が広がっていきました.

汎国民対策委は次のような怒りの声明を発表しました.

「米軍は一貫して公式業務を免罪符として主張しているが,それこそが韓国民を植民地奴隷とみる,ごう慢な占領軍的姿勢である.日本では裁判優先権を持つように協定を改正したのに、韓国には裁判権を与えないというのが,その何よりの証拠だ」

そして,新たな状況にあわせ,たたかいの中心スローガンをブッシュの謝罪と裁判権問題に絞り込むこととしました.新方針では,裁判権問題は本質的に大韓民国の主権と民族的尊厳の問題であるとし,「韓国の地で殺人蛮行を犯した犯人は、その国籍に関係なく,韓国が司法権を行使できなければならない.裁判の形式と量刑の決定も,韓国の法にしたがって自主的に決定する問題であり、他人が干渉する問題ではない」と強調しました.

この問題で論陣を張ったハンナラ党の金元雄議員も記者会見を開きました.議員は「韓国の対米従属構造は韓米相互防衛条約から始まった」と切り出し、「戦時作戦権は取り戻すのが当然で、不平等なSOFAは至急改正されなければならない」と主張しました。

8月15日は朝鮮半島が日本の支配から独立した記念日です.韓国では「光復節」と呼ばれています.汎国民対策委は,戦争記念館前で「光復五十七周年・米軍装甲車による女子中学生シン・ヒョスン、シム・ミソンさん追悼と主権回復のための人間の鎖市民集会」を主催しました.労働者や市民、学生ら四千人が,警察の妨害を跳ねのけ、人間の鎖で米軍龍山基地を取り囲みました。

米軍基地と戦争記念館
龍山(ヨンサン)は,ソウル駅から南へ二つ目の駅.戦前は日本人が多く住んでいた地域です.戦後ここに米軍基地が作られ,司令部がおかれました.
米軍基地の向かいが韓国軍の司令部,隣が朝鮮戦争記念館です.戦争記念館の前庭はかなり広くて,朝鮮戦争に使ったジェット機や戦車が野外展示されています.
毎週一回,米軍基地の正門前で抗議行動が続けられており,私も一度参加しました.20人ほどの集会に対しその倍くらいの警官隊が包囲する中で集会をやりますから,かなりの緊張感です.ここではとても4千人の集会はできませんから,三々五々,戦争記念館の前に集まったのでしょう.厳密に言えば,非合法であることは間違いありません.

D朴スンジュ氏の死亡

9月16日,ふたたび韓国国民の怒りを掻き立てるような事件が発生しました.

女子中学生が殺された楊州郡に程近い,京畿道坡州市法院洞の一般道路で,その事件はおきました.38歳の男性,朴スンジュさんは,乗用車で一般道路を走っていました.そこへ,演習を終えて帰隊する米軍の大型トレーラーにぶつけられたのです.車は大破,朴さんは大怪我を負い,まもなくその場で息を引き取りました.

犯人は今度も米第二師団でした.キャンプ・エドワード基地に所属する工兵旅団第八十二大隊のコンボイです.演習車両の最後尾には酸素切断工具などを積んだ救急・救命車がいたそうです.応急措置が可能であったのに、救急車が来るまでの約四十分間、米軍関係者は何の措置もとらなかったそうです.まだ息のあった朴さんは,文字通り,見殺しにされたのです.あの「えひめ丸事件」を思い起こさせる光景です.

米軍側は「トレーラーが停車しているところに朴さんが中央線を越えてぶつかった」と主張しました。韓国側の警察は,米軍の主張をそのままとりいれ、「運転不注意で中央線を越え、対向車線に停車中の米軍大型トレーラー車両前部に衝突した」との事件調査書を発表しました.朴さん側の過失による事故だと断定したことになります.

しかし真相は,まったく逆のようです.現場検証した交通事故監視官は,「衝突後、五、六メートル引きずられた跡がはっきりしている」との検証結果を明らかにしました.止まっている車にぶつかった車両が引きずられるわけはありません.だいたい,道の真ん中でどうして停まっていなければならないのでしょう.そのこと自体が危険な行為です.

少なくとも米軍側にも過失があること,虚偽の証言をしている可能性があることは間違いありません.さらに8月7日の米軍声明による「画期的再発予防策」が,ただの口約束に過ぎなかったことも明らかになりました.

遺族らは警察の調査に満足していません.韓米当局、遺族、市民団体、メディア関係者が合同で現場検証を行うよう要求しました.しかし警察は,「交通事故の調査で市民団体との共同調査などは不必要」と拒否しました.

9月18日 キャンプ・エドワードの前で「米軍トレーラーによる朴さん殺害と,連続する駐韓米軍の殺人蛮行に対する糾弾記者会見」が開かれました.朴さんの遺族は「無実を晴らしたい」と泣き叫んだといわれます.

事故が起きた法院洞の町は、米軍部隊の連日の演習による振動と騒音で深刻な被害を受けています。家屋にひびが入り、大砲の音で夜も眠れないほどだといわれます.坡州市環境保護課の騒音測定では、最大91デシベルという高い数値に達しました。
女子中学生れき殺事件の後は、米軍が孝村里を避けてこの町を通過しはじめたため、さらに被害がひどくなっていました.
これに対し住民らが対策委員会を構成するなど、本格的な対応を準備しているさなか,今回の事故がおきてしまったのです.

11月はじめ 「米軍装甲車による女子中学生殺人事件の真相究明と殺人米兵処罰、米軍基地閉鎖、ブッシュ謝罪汎国民署名運動」、わずか四か月で百万人を突破.反米署名としては空前の規模に達する.

E殺害犯に無罪判決

11月20日,東豆川市内の米第二師団キャンプ・ケーシーで開かれていた軍事裁判が評決を下しました.管制兵フェルナンド・ニノ兵長と運転兵マーク・ウォーカー兵長は,ともに無罪の評決となりました.弁護士は,「女子中学生が道路の広い左端を歩かないで、右側を歩いていた」とのべ,女子中学生に過失があると主張したそうです.

韓国世論はふたたび沸騰しました.折から最終盤に差し掛かった韓国大統領選では,保守系ハンナラ党の李候補もふくめ,すべての候補が米軍の対応を批判しました.

中央日報のアンケート調査では、米軍の裁判結果について「公正でなかった」と答えた人が97.1%に達しました.またSOFAを「全面または部分改 正すべき」が96.2%に達しました。注目すべきなのは,駐韓米軍問題についても「段階的な撤退」が44.6%、即時の撤退が6.3%と、過半数を上回る回答者が米軍撤退に同意していることです。 「続けて駐留」27.0%、「期限付きの駐留」21.0%と、駐韓米軍駐留の必要性を認めた回答者は48%でした。

米軍に対する拒否反応は,韓国国民の心の奥底から沸き起こったものでした.11月23日,ソウル市龍山の戦争記念館前では,「米軍人殺人者の裁判の無効を訴える第二回青少年行動の日」集会が開かれました.そこには小学生から高校生まで五百人が,学校帰りの制服姿で集まりました.

子供たちは,「青少年が先頭に立って責任者を処罰しよう」と書かれた小旗を持って集まり,次々と壇上に上がって発言しました.彼らは,「ワールドカップの応援をしていてヒョスンとミソンのことを知らなかった」と反省し,「大韓民国の自尊心を守るために参加した」と決意を語り,「校内で二日間に四百人の署名を集めた」と成果を報告しました.

以下工事中

11月27日 ブッシュ大統領、ハバード大使を通して「事件に対する自身の悲しみと遺憾の意の伝達」と「再発防止のための協力」のメッセージを韓国政府に伝え、「間接謝罪」する.

11月末 韓国政府は韓米駐屯軍地位協定(SOFA)の改正ではなく、「運用上の改善」策を米国に提示したが、米国は韓米年例安保協議会議(SCM)で「改正しない」と断言。抗議運動を「無視」する態度に出て、韓国民の感情を逆なでしている。

12月初め 大統領選最終盤の世論調査. 権候補の支持率が6%台まで上がる.選挙では,鄭夢準氏(国民統合21代表)の爆弾発言で、危機意識を抱いた 権候補支持者の相当数が、盧武鉉候補側に流れる.

12月初め 全国の中・高・大学生による黒いリボン運動、007シリーズ「アナザディ」の米映画を見ない運動、米製品の不買と米国人への不売運動、反米歌謡「FUCKING(くそ食らえ)USA2」の広報、金元雄議員らのSOFA改正要求決議、労働者、農民、学生、宗教界、文化人、野球・芸能界、女性界などの連続的な声明の発表やてい髪、教師の共同授業闘争など抗議内容や規模が拡大しており、とどまるところをしらない。

12月2日 汎国民対策委の訪米団,百三十万人の署名簿を携えワシントン入り.ニューヨーク・マンハッタンのタイムズスクエアでシン・ヒョスン、シム・ミソンさんの遺影や事故現場の写真を掲げてデモ行進したのをはじめ、国防総省やホワイトハウス前で抗議集会を行う.ホワイトハウスは闘争団が提出した署名簿の受け取りを拒否.警官を配備して闘争団の接近を妨害し、在米同胞一人を逮捕する.

12月3日 金大中大統領,SOFAの「改善」策を検討するよう指示.関係者会議が,米軍の公務上の犯罪判断に韓国政府の見解を反映させること、韓国捜査機関の必要に応じて米軍容疑者の引き渡しができること、などの「運営上の改善」策をまとめる.

12月5日 韓米両国、SCMの会議後に共同記者会見を開き、「SOFAの改正はない」と発表.韓国側が提起した「SOFA運営上の改善」も、事実上受け入れられなかった。

F反米デモの空前の盛り上がり

12月7日 ソウル市の中心地にある米大使館前で,市民二万人が「裁判権の委譲」などを求めてローソクデモ.このほか全国三十五都市で三万人の国民が参加する「反米の社会運動、民族運動」.汎国民対策委,@毎日午後六時に全国で糾弾集会を開くA裁判の無効とSOFA改正の署名運動を行うB女子中学生事件に抗議する授業を開くC毎日夜十時にホワイトハウスと国防総省に抗議のメールを送るなどの「全国民行動指針」を発表.

12月15日 

16日、「全国経済人連合会」と「大韓商工会議所」など経済5団体,国民に反米デモの自制を要請.

「韓国戦争時、我々の自由民主主義と自由市場経済を守るため、数多くの米国の若者が血を流した.これらの死が無駄にならないよう、韓米両国の友好関係は持続・発展しなければならない.韓国民の反米デモが拡大すれば経済にも悪影響を及ぼす.昨年89億ドルの貿易黒字を出した対米貿易が打撃を受け、外国人投資が萎縮し、職が少なくなる」

これに対して、民主労総は即刻反対声明.「真正な国益は何なのか.経済成長のために米国の横暴を我慢するというのは、冷戦時代の財閥と開発独裁の古くさい論理である.経済5団体の声明は、SOFA改正を訴える国民を愚弄し、事実を誇張して国民を脅迫するこ とである」

19日、実施された第16代大統領選挙開票を終えた結果、盧武鉉候補が1201万4277票(48.9%)を獲得、1 144万3297票(46.6%)を獲得した李会昌・ハンナラ党候補を、57万980票(2.3%)の差で勝利した。
 盧武鉉候補は、接戦地域とされていた首都圏と忠清圏で、李候補を比較的大きな票差で優勢に立ち、決定的な 勝利をもたらした。李候補は、釜山・テグなどヨンナム圏と江原で盧武鉉候補を上回った。

12月20日 民主労働党・権永吉候補が声明.「今回の大統領選挙で受けた100万票近い票は、普通の人々が まいた希望の種だ。今、真の政治を成し遂げる政治改革が始まった」とする。民主労働党は、今回の大統領選挙で3.9%(95万7148票)の票を 獲得、保守政党一色だった韓国の政治地形を変える力を得た.総括として,@米軍問題を先頭に立って闘ったことで国民的な支持を獲得.Aテレビ討論で,有権者の間に新鮮な驚きをもたらした. B腐敗追及などの舌鋒は鋭かったが,政策的には未成熟であり今後の課題.

12月21日 ソウルのキャンドルデモ,アメリカ大使館を包囲.

12月24日 ソウル市内で十万人のキャンドルデモ.光化門十字路を完全に埋め尽くす.ソウルのほか、釜山や大邱、光州など全国六十の都市や地域で平和デモが行われ、四十万人が参加.

12月26日,NYタイムス、「女子中学生殺人事件で即発され た韓国内反米機運など、同盟国などの反米感情に対処するため,国防総省が秘密宣伝活動を計画している」と報道.この計画には、「米国に友好 的な記事を書く言論人たちを買収し、親米デモを組織的に行うこと」などが含まれているとされる。

1月22日,女子中学生汎対委、「闘争を無力化させるため、 米国防省が秘密工作を行っている」との「疑惑」を明らかにする.最近、ろうそくデモを傷つける親米守旧言論の報道が継続され、「韓国キリスト教総 連合」などが親米デモと署名を行っていることに注目し、これは「米国防省の秘密工作陰謀が、実行されているのではないかという疑惑を持ち、韓国 政府が積極的に対処することを促求する」と明らかにした。

G米軍偵察機の墜落

1月26日午後2時58分頃、京畿道華城市の郷南面求文川里で,在韓米軍第5偵察隊に所属するU− 2偵察機が墜落した。
現場は郷南製薬団地近くの新興住宅地帯.偵察機はガソリンスタンドとその隣りの自動車工場,そして民家の屋根と接触 しつつ,約20〜30メートル先の道路周辺に墜落した.墜落と同時に機体は爆発し,その残骸破片が半径100メートル内に飛び散った。
 当時,近くを通っていた村の住民3名が破片で軽いケガをし、近くの病院で治療を受けた。
 偵察機には米軍操縦士1名が搭乗。墜落直前「エンジンが故障した。脱出する」という交信を最後に、パ ラシュートで脱出していた。偵察機はこの日午前、烏山飛行場から出撃。任務を終え帰還する途中だったという.