韓国戦後史年表 0

1905年 1910年 1915年 1920年

1925年 1930年 1935年 1940年

 

独立以前の経過  戦後史年表のはずだったのが、ついに戦前編が一章分に膨らんでしまいました。この年表は相当乱雑で、とりあえず事項が年代ごとに並んでいるだけのものです。引用はしばらくご遠慮願います。
これからいろいろ文献を吟味しながら整序していかなければなりません。文献は「どちらかが正しければ、どちらかが嘘」という際どいものばかりです。
ソ ウル、満州、上海とめまぐるしく視点が動き、めまいがしそうですが、韓国にいま真の前衛政党が誕生しようかというこのとき、歴史をおさらいすることはきわ めて重要なのだろうと思います。朝鮮共産主義者の苦闘の歴史は、決して金日成の専売特許であってよいものではありません。

 

1905年

7.29 桂・タフト密約。アメリカと日本は、フィリピンと韓国における支配権を相互に承認する。

8.12 第二次日英同盟が締結される。イギリスも朝鮮に対する日本の権益を承認する。

8.20 元容八、忠北道永春で義兵蜂起。

9月5日 日露戦争が終結.日本はポーツマス講和条約で朝鮮半島の権益を確保.

9.11 下関と釜山を結ぶ最初の連絡船「壱岐丸」が就航する。

11.03 親日派が一進会を結成。朝鮮保護条約締結を促進するよう求める声明を発表。

一進会: 元は1904年に、東学が創設した政治団体「進歩会」であるが、孫秉熙教主から運営をゆだねられた李容九宋秉畯が、これを母体に親日運動を展開した。

11.17 「日韓協商条約」(乙巳保護条約)調印.①日本外務省が韓国の外交を指揮する。②韓国政府は日本の承認なしに国際条約を結べない。③日本が外交を管理するために統監を置くなどにより、朝鮮は日本の「保護国」となる.(実態としては04年2月の日韓議定書ですでに保護国化されていた)

11.20 保護条約に基づき、「朝鮮統監府」と理事庁官制が公布される。

12.01 東学の指導者孫秉熙、一進会と距離を置くため「天道教」に改称。東学の正統な教団であることを主張する。

東学(とうがく): 朝鮮半島において1860年慶州出身の崔済愚が起こした思想。東学を信奉する者を東学教徒、その集団を東学党と呼ぶ。三南地方慶尚道忠清道全羅道)、更に江原道京畿道黄海道南部各地に広がった。李容九はこれに対抗して「侍天教」を掲げた。

05年末 1905年革命の動乱を背景に、ロシアで韓族会が組織される。

満州の朝鮮人: すでに1910年以前に20万名以上の韓国人が住んでいた。満州移住民・亡命者は日帝の強占以降継続増加し、1921年に488,656人に達したが、このうち63%の307,806人が北間島地方に居住。
ロシアの朝鮮人: 沿海州を中心として1908年現在で約6万余名、1921年には9万4千名または約15万名が居住していた。ロシアでは韓人と呼ばれることが多かった。これに対し満州では朝鮮あるいは高麗人と呼ばれた。

 

1906年

2.01 枢密院議長の伊藤博文が朝鮮初代統監として就任。現地への着任は3月2日。

2.16 奇山度、李根沢軍部大臣を襲撃する。李根沢は親日派の代表で、日韓併合条約の締結に賛同し、朝鮮貴族として子爵に列せられ、朝鮮総督府中枢院の顧問を務めた。奇山度については不明。

3.31 大韓自強会が結成される。

4月 朝鮮人労働者の海外渡航を一切禁止する。高等教育を希望する朝鮮人にとって日本留学の道しかなくなった。

5.08 崔益鉉が全北道泰仁で400人を集め義兵を起こす(一説では6月に淳昌)。弟子であり前全羅南道楽安郡主でもある林炳賛が行動を共にする。鎮圧に来た軍隊が日本軍でなく朝鮮軍だと知ると、戦うことなく投降したという。

5月 前参判の閔宗植は忠清南道の洪州で義兵を上げ洪州城を一時占領。鄭鏞基は慶尚道で義兵蜂起。

9.01 統監府の機関紙として「京城日報」が創刊される。

10.19 天主教の機関紙として「京郷新聞」が発刊される。

10.26 西友学会が創設される。

10月 李相卨(イ・サンソル)、私財を投じて間島の龍井村に瑞甸書塾を立てる。反日民族教育の先鋒となるが、1年足らずで財政難から廃 止。李相卨は李朝議政府の幹部で、欧米資本主義の政治、経済、文化などの知識も習熟し、天文学、地理、高等数学、法学なども習得して、当時最高の知識人と された。

11.05 統監府に捕らえられた崔益鉉、謹慎先の対馬で断食ストの末死亡。(死因については有力な反論あり)

11.06 日本、南満州鉄道会社を設立。一般には「満鉄」と呼ばれる。

 

1907年

1.24 高光洵、全南道昌平で義兵蜂起。

1.29 国債報償運動が開始される。日本従属の原因となった対日借款を、国民の醵金により返済しようというきわめてナイーヴなキャンペーン。

2.21 ロシア駐在の日本公使、「韓国に於て静穏なる状態を確立せむとするには、同国を我国に併合するの外なし」と主張。

3.25 「自新団」の30余名、「乙巳五賊」暗殺と新政府樹立をとなえ、政府機関を襲撃。羅喆と呉基鎬が指導。

羅喆は後に檀君教を立て、さらに大倧教に発展させる。羅喆は親日派の代表である金 允植の門人でもあった。大倧教は保守的性格を持っていたが、民族的立場を強調する宗教活動を行ない、とくに間島、沿海州などでの抗日運動と密接な関連を持 ちながら成長した。檀君教の共同創設者である鄭薫謨は、檀君教の名を守り、羅喆とたもとを分かつ。

4月 梁起鐸、安昌浩、李会栄を中心に国権回復運動の秘密結社として新民会が結成される。会長は独立協会・大韓自強会の会長を務めた尹致 昊。創建委員として全徳基、李東輝、李東寧、李甲、柳東説、李昇薫などが名を連ねる。『大韓毎日申報』の申采浩も新民会に参加。スポークスマンの役割を果 たす。会員数は最大時800名に達し、金九、朴殷植も会員だった。

新民会の傾向: 国 民に民族意識と独立思想を鼓吹し力量を蓄積することを目的とする。プロテスタントの盛んな平壌と宣川に総監部を置き、教育機関や各種商工業機関を各地に設 置する。金玉均・徐載弼の流れを引き継ぐ安昌浩は「実力養成論」を唱える。いっぽう李東輝、柳東説は武装闘争を積極的に主張。

5.28 伊藤統監、「数千年の歴史と文明を持つ韓国民に対し、併合するという暴論に支配されてはならない」と訓示。

原敬(当時記者)の日記: 伊藤統監は、在韓記者会の懇親パ-ティ-で併合論につ いて言及。「日本は韓国を併合する必要はない。合併は厄介であり、韓国は自治を必要とする。しかし日本の監督・指導がなければ健全なる自治は難しい」と述 べたという。(所詮は長州藩。やったことにたいした違いはないが)

5.30 イギリス人社長ベセルの経営する『The Korea Daily News』社、純国文版の『大韓毎日申報』を発行。発行部数は1万3千となり、韓国最大の新聞となる。

6月 ハーグ密使事件。高宗が統監に図ることなく、ハーグ(オランダ)の第2回万国平和会議に李相龍らを送り、日本の保護国化政策の不当性を糾弾。

6月 済州島へ終身流配されていた金允植、ソウルに戻る。翌年には統監府の中枢院議長に任命され、親日派の代表として活動することになる。

07年7月

7.10 ハーグ密使事件が明らかになる。日本の元老・内閣会議は、「内政全権を掌握し、実行は伊藤統監に一任」との対韓処理方針を決定。

7.19 京城市民が高宗の譲位に反対してデモ。親日派の家に放火、国民新報社を襲撃するなど暴動化する。

7.19 徳寿宮の近衛兵数十名がクーデターを試みる。日本軍は韓国軍隊に「不穏の情況あり」として皇宮を占拠。

7.20 日本軍、韓国国防省を占領。市内の主要軍事施設を制圧。

7.22 高宗はハーグ密使事件の責任を取り譲位を迫られる。高宗は徳寿宮を名乗る。最後の皇帝(第27代)となる純宗が即位する。李完用が内閣をつかさどる。

7.24 第三次「日韓協約」(丁未七条約)調印.日本の統監が法令制定、重要行政処分、高等官吏と日本人官吏の任免などを行うこととなる。伊藤博文は、この任免権を利用し政府内の次官ポストに日本人を据え、内政全般を掌握する。次官政治と呼ばれる。

7.24 「新聞紙法」(光武新聞紙法)が公布される。 新聞発行は内部大臣の許可制とし、記事の事前検閲を行い、発行停止や押収も内部大臣の自由とされる。さらに機密に関する記事の出版には、発行禁止・執筆者の拘束が課せられる。

7.27 保安法が制定される。集会・結社の自由は制限され、武器携帯が禁止される。

7.29 日本国内で、軍部を中心に韓国併合論が巻き起こる。

07年8月

8.01 京城で大韓帝国軍隊解散式。常備軍約8800人が武装解除させられる。

8.01 韓国軍第一連隊第一大隊、第二連隊第一大隊の兵士たち1千名あまりが決起。西小門洞一帯(鐘路一南大門)で日本軍と市街戦。各地の旧朝鮮軍はゲリラ化し「義兵闘争」が始まる。

8.05 原州鎮衛隊(金徳済・閔肯鎬)、蜂起し原州全市を掌握。関東倡義大将に李麟栄(儒者といわれる)が就任。各地に軍勢を進出させる。

8.09 「水原鎮衛隊」の江華島分遣隊600名が決起(池弘充・劉明奎)。李東輝を指導者とあおぎ江華城を占領する。さらに驪州分遣隊、洪州鎮衛隊などが次々に決起。慶尚、江原、京畿、黄海などが拠点となり、総兵力は1万に達する。

8.23 韓国駐箚軍歩兵第五二連隊第二中隊、忠清北道堤川地方で「全村焼夷」作戦を実施。司令部の発行した『朝鮮暴徒討伐誌』は、「村邑は極目殆んど焦土たるに至り」と報告。イギリスの「デイリー・メール」紙も、「堤川は地図の上から消え去った」と報道。

8.23 朝鮮駐箚軍、斉藤少将の率いる部隊63人(日本人憲兵46名をふくむ)を間島に進出させ、龍井村に「朝鮮総監府間島臨時派出所」を創設、「間島に居住する朝鮮人の生命、財産を保護する」こととする。瑞甸書塾は創建8ヶ月にして日本の圧力を受け廃止。清国はこれに抗議し、「間島問題」起こる。

間島には李朝末より多くの朝鮮人が移住しており、張作霖軍閥より圧迫を受けていた。これを背景に中国人馬賊がたびたび襲撃を繰り返したため、朝鮮人は自衛の必要に迫られていた。この自衛組織に多くの旧朝鮮軍将兵が紛れ込む。

9.02 ハワイで韓人合成協会が設立される。

9.10 長城の奇三衍も義兵蜂起を起こす。

9月 朝鮮駐箚軍、「匪徒にして帰順するものは敢えて其罪を問はず」とし、懐柔を試みる。しかし帰順せざるものに対しては、「責を現犯の村邑に帰せしめ部落を挙げて厳重の処置」、具体的には「誅戮を加へ若くは全村を焼夷する等の処置」を講じると恫喝。

07年10月

10.01 『大韓毎日申報』が社説で「実力涵養」論を発表。「韓国が次第に独立を失ったのは、独立の価値を認識せず、怠惰な快楽と浪費を続けたからであって、韓国民自身の罪である」とし、「独立は韓国民自身の努力で達成しなければならない」と強調。(一種の「一億総懺悔」であり、実質的に自治を受け入れたもの。統監府の意図を受けてのものだろう)

10.07 統監府、「韓国駐箚憲兵に関する件」法令を制定。韓国駐剳軍が朝鮮の警察権を掌握。韓国政府傭聘の日本人警察官に執行させることとなる。

10.10 鎮安の李錫庸・鄭海山らが義兵蜂起。

07年11月

11.16 咸鏡道北青で車道善率いる義兵部隊数百人が決起。洪範図もこの蜂起に参加する。日本に協力的な地方官(一進会員)を襲撃し殺害するなどのテロ活動を展開。義兵に対抗して一進会も自衛団を組織する。

11.23 洪範図ら、北青厚峙嶺で中隊規模の日本軍討伐隊を撃破。地域住民の協力を得てゲリラ闘争を展開し、日本の軍隊・警察を翻弄。(洪範図の略伝について行き届いた記述があるので参照されたい)

洪範図は1868年平壌で生まれた。幼くして両親を亡くし、製紙工場労働者、農業労働者、兵卒、鉱山労働者などを経て白頭山の麓で猟師となる。「飲む、打つ、買う」の生活の中で「任侠の風がある」とされ、次第に多くの子分が集まった。
統監府は1907年「銃砲及火薬類団束法」を、1908年「森林法」をあいついで公布。銃砲の所持禁止と火田民の耕作禁止は辺境の貧しい人々の生活を破壊した。これに抗議して民衆が決起した。

11.29 林外相、「英国政府が、日本軍隊の行動、往々過酷に渉るとの風聞ありと連絡」してきたとし、伊藤統監に注意を喚起。伊藤統監は、「苛酷に失する軍事命令ありたるを以て、軍司令官に其の命令を変更せしめ」ると返答。

11月、李麟栄、朝鮮全土の義兵将に向けて、12月中に兵を率いて京畿道楊州に集結せよと呼びかける。楊州は現在は維楊里と呼ばれ、地下鉄1号線の北議政府駅付近の一帯をさす。

11.29 安昌浩ら、馬山で「興士団」を組織。金東三、安煕済・申八均らは大同青年団を組織。安重根、「大韓義軍」を組織。(安昌浩については、「平壌に大成学校を設立。さらに民族産業の育成にも着手」という記載もある。とにかく精力的に動いたことは間違いないだろう

12.06 義兵部隊1万余名が揚州に集結。「十三道倡義軍」を結成。総大将に李麟栄(リインヨン)、軍師長に許薦(コウィ)を選出。翌年1月に漢城に進攻することを決議。

12月 李麟栄、「義兵は純然たる愛国血団である」とし、各国領事館に「万国公法上の交戦団体としての承認」を要請。サンフランシスコの共立協会、ハワイの合成協会にも、「日本の侵略行為を全世界に訴えるよう」訴える。

 

1908年

1月 許薦の率いる十三道倡義軍先発隊の300名、漢城東大門外30里まで進むが、日本軍の先制攻撃に敗退。李麟栄は戦闘を目前に父の喪に服すため戦線を離脱。

2月 十三道倡義軍は崩壊。許薦は臨津江流域中心に戦闘を続けるが、6月に捕らえられる。李麟栄も翌年6月に捕らえられ、処刑される。

2月 安圭洪が、全羅南道の宝城で義兵蜂起。奇三衍の統括する全羅道の義兵運動が活発化。

3.11 ソウルを囲む城壁の撤去が開始される。

3.23 日本の朝鮮統治を支持する米国人外交官スチ-ブンスが、カリフォルニア州オークランドで、韓人志士の田明雲・張仁煥により射殺される。

4.16 金秀民、長湍で義兵蜂起。日本憲兵を襲撃する。

4.27 瑞甸書塾の元教師、金躍淵が龍井村郊外の智新鎮明東村に明東書塾を開く(一説に16日)。のち三年制の中学校に発展する。日本は瑞甸書塾のあった場所に間島普通学校を開校し民族運動に対抗。

5.30 申釆浩、隋軍を撃破した故事に倣い、『乙支文徳』を発表。対日抵抗を呼びかける。

5月 日本軍、義兵鎮圧のため、2個連隊を増派。

08年6月

6月 『大韓毎日申報』社長E=T=ベセル、領事裁判に付され、上海で三週間の禁固刑の判決。

6月 伊藤統監、義兵は「国の滅亡を憤慨するに止まり、未だ韓国を救ふ所以の道を知らず」と述べる。

6月下旬 沿海州で義兵軍が組織される。大将に金斗星、大将に李範允、参謀中将に安重根が就任。安重根部隊3百名は、咸鏡北道方面に出撃し、日本軍討伐隊・守備隊と交戦。

08年7月

7.06 李範允の義兵部隊、国境を越えて咸鏡北道に進出。慶興を襲撃する。

範允: 1902年に韓国政府の“北辺間島視察特使”として赴任。朝鮮人の“自衛団”を組織し、間島地域の韓国への併合を図る。1903年4月の清国政府の平定作戦を受け、組織は壊滅する。彼の義兵部隊は当時の残党を糾合したものであろう。

7.12 統監府、『大韓毎日申報』の梁起鐸を募金横領の名目(捏造)で留置。9月には証拠不十分で無罪判決。

7.29 上海電報によれば、韓人千人は吉林省と韓国の境上にて日本人と戦ひ、日本兵四十名以上、同士官三名を殺す。韓人は吉林省に避難し、清国は国境を保守し居れり。

8月 私立学校令が公布される。民族教育を行っていた私立学校を閉鎖する。5千あまりの私立学校のうち8割以上が閉鎖された。

10.13 湖西倡義大将の李康年将軍が処刑される。李康年の部隊は2月から江原、忠清、慶尚北道一帯で30回以上戦い、日本兵200名近くを殺害。最も日本軍から恐れられた。

11.11 漁業令が公布される。このあと日本人が漁業を独占するようになる。

12.28 東洋拓殖株式会社が設立される。日本農民の朝鮮移住を推進。

 

1909年

1.15 羅喆(旧名羅寅永)、民衆信仰を元に「檀君教」を興す。翌年には北間島汪清県に支司を設置。

檀君教: 「自新団」の羅喆が、朝鮮民族固有の「仙教」(あるいは神教)を現代宗教に衣替えしたもの。紀元前2333年に降臨して「朝鮮」を開いた檀君を「大皇祖」とする。その遺業の再興(現実には日本からの独立)を訴える。一時 信徒数20万を称したが、日本の弾圧により大倧教と改称する。さらに軍部の弾圧を避け、布教本部を満洲地方に移す。

1月 全海山の義兵部隊、羅州一帯で活動を活発化。

1月 日本留学生が親睦団体「大韓興学会」を結成。国権回復運動を模索する。

2.01 在米韓国人団体共立協会(サンフランシスコ)と合成協会(ハワイ)、合同して「国民会」を結成。サンフランシスコに本部を置いた ほか、ハワイ・シベリア・満州の四カケ所に地区本部を置き、支部130、会員3200名を擁するにいたる。李承晩は米国を中心に国際的な活動を展開。

2月 洪範図、軍・警察の追撃を受け、間島に移動。

4.08 霊南坂密議。桂首相と小村外相が赤坂霊南坂の伊藤統監官邸を訪れ、「韓国を適当な時期に併合する」ことで合意。

6.14 伊藤博文、統監を辞任し枢密院議長に就任。副統監の曽彌荒助が第二代韓国統監に昇格。

7.06 日本政府閣議、「将来の韓国合邦」を議決。韓国が「併合」に応じなければ、「詔勅を以て」併合を宣言すると規定。

8月 大韓興学会に対する弾圧。組織は解散を命じられる。留学生は大学ごとに「同窓会」を組織して活動を継続。

9.01 統監府、1ヶ月あまりにわたる湖南大討伐作戦を実施。

湖南大討伐作戦: 南韓暴徒大討伐作戦とも言う。義兵闘争の最大の拠点全羅南道を三期に分けて掃討。朝鮮軍第一連隊、第二連隊が総動員された。光州南方の綾州と、朝鮮海峡よりの宝城が最大の激戦地となった。
日本軍は義兵と民衆を切り離すため、「攪拌的方法」と言う新戦法を用い反復攻撃。手当たり次第に殺戮・放火・暴行をはたらく。義兵数は前年の約7万から約2万5千に激減し、国内の義兵闘争は急激に後退。多くの義兵が豆満江・鴨緑江を渡り満洲・ロシア沿海州に移る。

9.04 日本と清国が「間島協約」を結ぶ。間島地方を中国領と認めた上で、①間島領事館の建設を承認。②韓国人の居住権と営農権の保障、③会寧と延吉・長春を結ぶ鉄道の建設、などを認めさせる。

10.16 開城の商人、市場税の新設に抗議し閉店スト(撤市闘争)を行う。平北・順川では、市場税を拒否する3千人が財務署・警察署・郡庁・日本人の店舗を襲撃する。

10.26 朝鮮独立軍の安重根,ハルビン駅頭で前韓国統監の伊藤博文を射殺.

法廷での陳述: 安重根は「暗殺」ではなく、交戦中の軍人としての本分を果たしたにすぎないと主張。一方で朝中日三国の連携による「東洋平和」を訴える。

10.29 第一銀行から中央銀行業務を引き継ぎ、韓国銀行が設立される。日本政府が70%の株を掌握、重役は日本人のみ。11年に朝鮮銀行に改称。

当時の新聞に載った旅行者の談話: 韓国に於る日本官吏は甚だ韓国化して、近来は賄賂も取れば乱暴も遣るよ、月給三十円の巡査が郷里へ五十円づ丶送金して居るは不思議でないか、軍人などは韓人の物をロハで徴発する者が多い。

11.02 統監府、「間島協約」に基づき、龍井村の間島臨時派出所を閉鎖し、あらたに間島総領事館を開設。間島在住の韓国人を保護し、管理・統制する。

吉 林省延吉県治は局子街に置かれた。そこは漢族移民の中心地、行政の拠点であって、街は全くの中国式である。他方、会寧から北へ50km弱、竜井村は移住し た朝鮮人の中心地で、人口では局子街をしのぎ、ここが朝鮮内地との貿易の窓口であった。日本の間島総領事館はここに設置され、中国側の海関(税関)もここ にある。周辺の平野は、朝鮮人が伝えた水稲栽培の中心地域でもある(「三好達治と朝鮮」による)。

12.04 親日派の一進会、合邦要求声明書を発表。大韓協会などは韓日合邦に反対の論陣を張る。

09年 明東書塾を改称し「明東学校」が建てられる。指導者の金躍淵は儒教思想を捨てキリスト教を信仰。瑞甸書塾の近代志向を引き継ぎ、民主・民権・自由・平等思想にもとづく民族教育を展開。女子民族学校や文盲退治のための夜学部を設ける。

09年 安昌浩、朴重華、崔南善、金佐鎭、李東寧らが青年学友会を結成。(青山里戦闘の金佐鎭司令官は、1889年に平壤近郊の大地主の子として生まれているから、同一人物と見て矛盾はない)

09年 統監府、義兵運動に対し徹底弾圧策で臨む。『朝鮮暴徒討伐誌』では、1911年までの日本軍との衝突回数2800回。参加義兵数は14万名。うち1万8千名が死亡。良民被焼家屋は6800余戸。(一説では延べ7万人参加、1451回の戦闘で約1万6千余名が死亡)

捕らわれた義兵将はみせしめで、公開集団処刑(絞首刑)に処され、それ以外に拷問死も多かった。日本軍は義兵の家族まで殺戮し、それは十万名を超えた

 

1910年(明治43年)

1.03 併合に慎重な立場をとる曽禰統監、病気のため静養に入る。

2月 安昌浩、中国に亡命。山東省で民族指導者らとの青島会議を開催。北朝鮮地域に独立運動の根拠地を作り、営農および軍事面における育成を計る計画を検討。資金問題と急進派の反対により失敗に終わる。

3.26 安重根、旅順監獄で処刑される。

3月 瑞甸書塾の元関係者が韓民教育会を設立。間島派出所を後ろ盾にする親日派朝鮮人の一進会に対抗。

10年4月

4.15 片山渚、『社会新聞』に「日韓合併とわれらの責任」を投稿。「意気地の無い、独立心も欠いている朝鮮人は、日韓合併の下、日本帝 国の臣民として誘導教育され、新たな日本国民として立派にならなければならない」と主張。片山は当時はキリスト教社会主義者であったが、啄木と比べると雲 泥の差。蔵原維郭も、当時は日韓併合を唱導していた。

4月 新民会、「独立戦争戦略」を採択。戦闘的民族主義の路線を通じた「完全独立」、「絶対独立」を追求。国外の独立軍基地の建設のために、幹部を海外に亡命させる。

4月 鄭寅普・朴殷植・金奎植・申采浩ら、「同済社」を組織。

4月 李始栄・李東寧・梁起鐸ら、満州西間島の遼寧省・三源堡独立運動のための自治機関である耕学社、軍事教育機関である新興講習所を設置。

10年5月

5.10 安昌浩は青島に逃れた後カリフォルニアに渡り、「大韓人国民会」を組織。

5.25 日本で「大逆事件」起こる。

5.30 第3代韓国統監に寺内正毅陸軍大将が陸軍大臣在職のまま任命される。

5月 韓国国内で「日韓合邦」反対運動。大韓協会・漢城府民会・興士団などが指導。長谷川司令官は不測の事態に備え、日本軍の極秘裏の漢城集結を指令。

5月 李範允義兵部隊・洪範図義兵部隊、ロシア領から咸鏡北道に進出、日本軍と戦闘を繰り返す。李相龍、李承煕など、アメリカからの支援資金で、興凱湖付近の蜂密山に韓興洞基地を建設。対日抵抗運動の拠点とする。

10年6月

6.21 ウラジオストクの柳麟錫・李相カ、日本への合併に反対し十三道義軍を組織。李範允とともに声明会を結成。

6.24 朝鮮警察が廃止され、李王朝政府は警察権を剥奪される。

6.30 朝鮮警察に代わり駐箚憲兵が警察機能を掌握。憲兵警察制度が成立。駐箚憲兵司令官の明石元二郎が統監府警務総長を兼任する。

6月 統監府、『大韓毎日申報』を買収し『毎日申報』に改題。主筆だった申采浩は、ウラジオストクで『勧業新聞』の主筆となり、独立を訴える。

7.04 第二回日露協約が締結される。満州における利権を分かち合い、鉄道建設について相互協力することを内容とする。

10年8月

8.04 大韓人国民会、「合邦」の不当性をアメリカ大統領タフトに訴える。寺内統監には「我々はいかなる犠牲が降りかかろうと決して貴殿に屈することはなく、銃剣を以て対抗するだろう」との抗議文を送る。

8.22 「日韓合併条約」調印.純宗皇帝は退位し大韓帝国は消滅。朝鮮半島全土が日本領となる。勅令「韓国の国号は之を改め、爾今朝鮮と 称す」を公布。勅令「朝鮮総督府の設置」を公布。日本帝国憲法は朝鮮に適用せず、朝鮮に適用する法律は総督府制令および天皇勅令のみとする。首都漢城は京 城と改称される。

35年の支配の功罪: GNPは4億円から65億円に発展.人口は1300万から2600万に倍増.一次・二次産業比は80対4から32対42に変化,北朝鮮は水力発電と鉄・石炭・マンガン・タングステンを原料に重化学工業,南では安い労働力を基礎とする繊維工業が発達.
米の生産は1200万石から2600万石に倍増.ただしそのうち半分は日本に輸出され,朝鮮人は粟やキビ混じりの主食.土地の多くは「東洋拓殖」など土地会社に買い取られる.小作農の割合は35%から55%に増大. 

8.23 併合条約にもとづき土地調査法が公布される。

8.25 統監府、併合を前に集会禁止法令を公布。合併反対運動の弾圧に乗り出す。初代総督の寺内正毅は「朝鮮人はわが法規に従うか、死か、そのいづれかを選ばなければならない」と恫喝。

8.26 李範允ら、沿海州で「独立軍」の結成を決議。その後李範允は、ロシア官憲に逮捕される。

8.29 「韓国併合に関する条約」が施行される。京城に朝鮮総督府が設置され、統監府の業務を引き継ぐ。総督府は対韓政府の権限も引き継ぎ、立法・司法機能が集中される。

10年9月

9.09 石川啄木、「地図の上/朝鮮国にくろぐろと/墨をぬりつつ秋風を聴く 」を制作。また安重根に共感を寄せ、「雄々しくも/死を恐れざる人のこと/巷にあしき噂する日よ」とうたう。

9.13 統監府、大韓協会・西北学会など政治結社12団体を全て解散。日韓併合を主張してきた御用団体の一進会も解散を命じられ、そのための費用として15万円が支給される。

9.30 京城に「朝鮮総督府」が設置される.朝鮮総督府の下部機関として臨時土地調査局が開設される。国土の収用と整理にむけ調査を開始。

9月 臨時土地調査局が設置され、土地調査事業に着手する。完了は18年。略奪された土地は東洋拓殖会社の所有地となり、所有面積は黄海道と全羅道を中心に10年の1万ヘクタールから18年には7万ヘクタールに拡大。

10.01 初代総督に三代目韓国統監の寺内正毅陸相が現職のまま就任.「総督は陸海軍大将とし他に政務統監を設置する」という朝鮮総督府官制を公布。総督の諮問機関として朝鮮中枢院が置かれ、議長を政務統監が勤めることとする。

10.03 米国在留の朝鮮人が独立軍の創設を目指しクレアモントで軍事訓練を開始する。

11月 日本軍、義兵の動きに対し慶北の日月山一帯で掃討作戦。湖南作戦と同様に、非協力とみなされた集落を焼き尽くす。

11月 総督府、民族派の書籍を焚書処分とし、販売・所持・閲覧の一切を禁止する。

12.29 総督府が会社令を公布。日本資本の進出を誘導。これに対し朝鮮人の起業は困難となる。

10年 日本軍の孤立化作戦により糧道を断たれた洪範図部隊、中国領内に亡命。洪範図は開墾と軍事訓練により再起と国内進撃を目指す。

 

1911年(明治44年)

1.01 寺内総督暗殺未遂事件が発生。「安岳事件」と呼ばれる。総督府は「犯罪即決令」を施行。平安南北道を中心に、新民会への大弾圧を実行。安明根(安重根の従弟)や金九・李承薫・安泰国など160余名が逮捕される。

1月 激しい拷問の末、安明根に終身懲役、他18名にも重刑が科せられる。

1月 105人事件が発生。

2.12 義兵の戦いが終焉を迎える。姜基東が元山で、金義錫が京畿道で、相次いで逮捕される。

2月 金東三ら大同青年団と李相龍、李始栄、李会栄、李東寧、朱鎮洙ら新民会の抗日闘争派が、西間島の柳河県(通化県?)で「耕学社」を設 立。李相竜が初代社長に就任。母国の農民を募集し、荒れ地を開墾しながら壮健な者たちを軍事訓練するなど長期的な独立運動に備える。(李始栄6兄弟といわ れるが、誰が兄弟なのかは不明)

4.17 総督府、土地収用令を公布。所属不明の土地を国有地として没収し、日本人の地主・土地会社へ払い下げる。この結果、朝鮮人自作農は土地を失い没落する。

6.20 朝鮮人の山林所有を制限する森林令が公布される。

6月 宣川事件が発生。寺内総督暗殺計画が発覚し、アメリカ人宣教師の関与が疑われる。

6月 西間島に新興武官学校が設立される。中国当局に提出した名称は新興講習所。大韓帝国武官学校出身者が中心となった軍事教育と中等課程の教育を実施する。1920年まで存続し、多くの独立軍要員を輩出。(成立年度については異説があるが、徐の記載に従う)

新興武官学校: 元 は新興学校という教育機関だったが、中等軍事学級を創設し、後には軍事学級のみとなった。さらに高級将校の養成にも着手した。新興武官学校に編成替えして からは、大韓帝国軍将校だった申八均、日本陸軍士官学校を卒業した池青天、金応天、中国軍官学校を卒業した李範奭などが合流し、士官養成と訓練は徐々に正 規のものとなった。新興武官学校は「志願者」が増えるといくつかの分校を設置した。

7.13 第三次日英同盟が締結される。

9.01 朝鮮教育令が公布される。大学教育は認めず、小学校4年・中学4年・専門学校3年とし、日本人と異なる教育制度を設ける。在朝鮮日本人は本土と同じ小学6年・中学5年。

9月 寺内総督暗殺計画がフレームアップされ、政治結社禁止令が公布される。弾圧は新民会本体にも及び、尹致昊・梁起鐸・金一俊ら600名が検挙される。拷問で死者4名・発狂者3名を出し、脱臼・骨折・性器の損傷・目玉を抜かれた者など無数と言われる。

9月下旬 日本軍、黄海道の義兵団反乱に対し、40日間にわたる包囲作戦を展開。焦土作戦を繰り返す。

10.10 武昌で孫文派が蜂起。「辛亥革命」起こる。間島地方への中国の支配は弱体化。朝鮮の独立運動は,これを機に共和主義へと変貌.

12.19 李相咼(ハ-グ三密使の一人)ら、ウラジオストクの新韓村で「勧業会」を組織。

12.27 新義州と安東(丹東)を結ぶ鴨緑江鉄橋(944m)が竣工(一説に11月1日)。朝鮮初の鉄橋。鉄道と歩道があり、開閉式構造を持つ。朝鮮鉄道と南満州鉄道が直通し、京城=奉天間が直通となる。同じ頃、関釜連絡船の1日2便の定期航行も開始される。

11年 李東輝将軍、国内での抵抗を断念。満州に逃れ、城津から北間島の明東を経てウラジオストクに到達する。

11年 「韓族会」、ロシアによる強制移住政策をうけ、ウラジオストクから新韓村に移転。「韓人民会」を創立する。

11年 徐一、咸鏡道から北間島に入り、義兵の残留兵力を糾合して「重光団」を組織。このほか間島地方に反日傾向を持つ政治団体が雨後の筍のように乱立。 

1912年

2月 清帝国が滅亡。共和制の中華民国となる。

3.18 朝鮮笞刑令が公布される。笞で尻を叩かれた朝鮮人の件数1万7千余件。ほかに民事令、刑事令、監獄令も制定される。

4.30 朝鮮語紙「勧業新聞」が創刊される。申釆浩が主筆となる。

4月 「東洋拓殖株式会社」(東拓)、日本人の朝鮮への集団移民を開始。朝鮮人から強制的に取り上げた土地に、不良日本人が流れ込む。

7.04 上海で独立運動家が「同済社」を組織。理事長に申圭植、総裁に朴殷植が就任。

9.28 新民会事件の第一審公判。128名のうち尹致昊ら105名に懲役5年以上の有罪宣告が下される。

10.24 銀行令が公布される。

10.28 東京で在東京朝鮮人留学生学友会が創立される。安在鴻、申翼煕、李光珠、張徳秀らが指導。機関紙「学の光」を発行し民族独立思想を鼓吹する。14年からは機関紙「学の光」を発刊。李光洙、崔斗善、張徳秀らが編集を担当する。

11.08 安昌浩、サンフランシスコで大韓人国民会中央総会を組織し初代総長に就任。安昌浩は平壌の私立大成学校が総督府により強制閉鎖されたあと、青島から米国に渡り、在米朝鮮人の組織を行っていた。

11.22 李錫庸、忠北道で義兵を上げる。長水郡の真田面事務所を襲撃。

11月 耕学社の李相竜ら、西間島で「扶民団」を組織。団長に許赫が就任する。(耕学社は11年に凶作でいったん解散)

12年 林炳賛が全羅道で国権回復運動を唱導し独立義軍府を組織。

12年 ウラジオストクの申采浩、尹世復、李東輝、李甲らが「光復会」を組織。会長は尹世復、総務は李東輝が担当する。

12年 北間島移住朝鮮人は16万人、中国人は5万人。

12年 徐一、大倧教に入信。汪清県徳元里で布教活動に専念。各地に夜間講習所と小学校を設立するなど教育事業に力を注ぐ。

 

1913年

3月 反日義兵抗争を主導した儒生たちが、大韓帝国復活を主張し「独立義軍府」を結成。咸鏡・平安・黄海三道総司令官に李世永が就任。高宗の密旨を受け抗争の再興を目指すが、事前に露見し失敗に終わる。

5.13 安昌浩、ロサンジェルスに移り大韓人国民会を創設。新韓民報を創刊するなど独立運動の実力涵養に務める。

5月 「韓民教育会」(10年3月)を基礎に「懇民教育会」が創設される。局子街で総会を召集し金躍淵が会長に就任。辛亥革命の影響を受け共和思想を掲げ、「民衆を中華民国の法律に従わせ、共和政府の保護に基づいて自らの義務を果たす」ことをうたう。

7月 大韓光復団が結成される。朴尚鎭の朝鮮国権恢復団と盧伯麟、申鉉大、蔡基中らの豊基光復団が統合されたもの。総司令に朴尚鎭が就任。

光復団の性格: 武 力で日本を駆逐し、国権を回復することを目的とする。旧派とは異なり共和制の実現を目指す。具体的行動としては、悪質な親日富豪を処断して彼らの財物を奪 い軍資金にあてることとする。このため満州で5人組を1団とする決死隊を多数組織し、武器と火薬類を持ち込む。また西間島の新興武官学校と連携。副司令李 奭大を満州に派遣して独立軍養成を図る。

10.19 駅屯土特別処分令が公布される。日本人移民に優先的に土地が貸与される。

11月 李東輝、間島で「韓僑董事会」を結成。

12.10 湖南倡義隊の李錫庸隊長、任実に潜伏中を逮捕される。

13年 扶民団の前身である共理会が組織される。金大洛(当時68歳)は趣旨書で、「平等の権利は卑しい人間にまで及び、自由の鐘の音は婦人と子供にまで及ぶ」と述べる。

13年頃 洪範図らの部隊、間島での活動を断念しウラジオストクに移住する。居留民に資金の提供を強要、「酒・博打・女」の生活も変わるところがなかったといわれる。

 

 1914年

3月 各地で鉄道の建設が相次ぐ。大田=木浦間の湘南鉄道、京城=元山間の京元鉄道、咸鏡鉄道など。

3月 袁世凱が中国政権を掌握し、孫文らを駆逐。これに伴い「懇民会」は1年足らずの歴史を閉じる。

4.02 「独立義軍府」事件。総督府が独立義軍府の首謀者のほとんどを検挙。独立義軍府は、中央巡撫総将の林炳?を頂点とし、各道に道巡 撫総将、各郡に郡守、各面に郷長を配置していた。しかしすでに実体としては、黄海道など山間奥地中心に分散的に闘争が続くのみであった。

4月 沿海州ウラジオストクに義兵部隊が集結。「大韓光復軍」を結成。これを基礎に最初の臨時政府、大韓光復軍政府を組織。正統領に李相卨、副統領に李東輝が就任。李始榮、李東寧らも結集。

4月 李東輝は北間島の汪清県綏芬大甸子羅子溝に秘密士官学校を建設。学生は80人以上あるいは100人以上と考えられているが、間島駐在 日本領事の抗議で1915年末頃閉鎖された。同じ頃、李相卨、李承煕などはアメリカから送ってきた資金で中・露国境地帯に位置する興凱湖付近の蜂密山(中 国領)に韓興洞を建設し、韓民学校を建てる。(蜂密山の麓の町は密山と呼ばれ、青山里の戦闘の後、大韓独立軍の大統合が行われたところ)

7.06 善隣商業学校の韓国人学生、日本人学生と衝突。全員が同盟休校し退学願いを提出する。

7.28 第一次世界大戦が始まる。

8.29 大韓人国民会のハワイ地区責任者の朴容萬、「韓人旅団」を創設。オアフ島のアフマヌ農場に基地をおき、団員300名を擁する。さらにネブラスカ、メキシコなどを拠点とし大朝鮮国民軍団士官学校、少年兵学校を運営する。

9月 ロシア、日本の要求を容れウラジオストク在住の朝鮮人を追放。勧業会などの独立運動団体は解散させられる。中国も日本領事館の圧力を受け、朝鮮人の自治組織、幹民会を解散させる。

9月 平壤の牧師学校を卒業した呂運亨、独立を求め南京に留学。孫文、陳独秀らと交流。その後、上海で米国人書店の販売担当となる。

12.19 興士団、カリフォルニア州サクラメントで第1回大会を開催。

12月 徳寿宮(高宗)、北京駐在ドイツ公使あてに密書を送り、日本の侵略行為を非難。

14年 申采浩、民族主義の立場に立つ『朝鮮史』を発表。

14年 李承晩、ホノルルで雑誌『太平洋』を発刊。

 

1915年

3月 新韓革命党が組織される。

7.05 最後の義兵将となった蔡応彦が、平安道成川で逮捕される。蔡応彦は黄海道, 平安道地方を中心に遊撃戦を行った。これに伴い復古派の武装闘争は終焉。

7.15 大韓光復団、慶州の朴尚鎮などが合流し、大韓光復会に改編される。

9月 大戦勃発にともない、大韓光復軍政府の活動が禁止される。間島駐在日本領事の抗議を受けたもの。李相卨は上海に向かう。

11.10 李光沫・申翼煕・張徳秀など東京の留学生が中心となり、朝鮮学会が発足する。

15年 朝鮮総督府中枢院、『半島史』を編纂。「民心薫育を通じて朝鮮人を忠良なる帝国臣民に作り上げ、朝鮮人の同化の目的を達成するため」とされる。

15年 大韓光復団を中核として大韓光復会が結成される。国内義兵勢力の残党を主軸とし、豊基光復団と国権回復団の一部が参加。総司令官には朴尚鎮 が就任。大邱、栄州、三陟、光州、礼山、燕岐、仁川、龍川、安東(満州)、長春(満州)などに拠点をおき、日帝統治に協力する富豪を襲い、軍資金を強制的 に募集。

15年 上海で李相卨、朴殷植、申圭植などが新韓革命党(本部長李相卨)を組織。光武帝(高宗)を亡命させる計画を立てる。一説では大同輔国団とされる。

15年 慶尚道で朝鮮国権恢復団が結成される。尹相泰・徐相日・李始栄ら儒生が指導。その他にも朝鮮国民会、鮮命団、自立団(咸鏡南道端川)、松竹会など多くの秘密団体が結成される。

15年 第19(羅南)・20師団(龍山)があらたに編成され、朝鮮に配備される。海軍は要塞司令部を永興湾・鎮海湾の軍港に新設する。

 

1916年

9.12 大倧教指導者の羅喆、九月山で自決。徐一、大倧教の尚教と司教の座に上り、北間島を管轄する東道本社の主管をつとめる。

10.09 寺内正毅を首班とする内閣が成立。

10.16 寺内に代わる第2代朝鮮総督に陸軍大将長谷川好道が任命される。

16年 日本政府、龍井地区の開発を推進。会寧から龍井に通じる道路が開通し朝鮮銀行の支店が開設される。翌年には東洋拓殖株式会社間島出張所、朝鮮人民銀行の出張所、間島商業金融株式会社が設立される。

16年 カリフォルニアの安昌浩、大韓人国民会を基礎に秘密結社「興士団」を創設(一説に13年)。人格修養団体・教育団体として民族活動家を育成。

16年 国外の朝鮮人の間で教育熱が高まる。日本側記録によれば、この時点で。図們江対岸地方に163校に学生4094人、鴨緑江対岸地方に76校に学生2177人、ロシア領および米州地方に41校に学生2102人が学ぶ。龍井村の明東中学校にはすでにプラスバンドがあり、テニコートもあったという。

 

1917年

1月 併合後新たに高等教育を受けたものの中に独立思想が広がる。長谷川総督は「新教育を受けた青年子弟たちが無稽の言動をもって社会の秩序をかく乱し」ていると警告。

3.23 平安道でキリスト教共和主義者を中心に「朝鮮国民会」を結成。サンフランシスコの「大韓国民会」が財政支援。張日煥が平安道、呂炳燮が慶尚道、姜錫奉が全羅道、盧善敬が黄海道の区域長をつとめる。

朝鮮国民会: 北朝鮮の公式見解では、反帝的立場が最も透徹し、大衆的地盤もしっかりした反日地下革命組織であった。民族主義運動から無産革命に方向転換をはかったとされるが、これは疑問。

3月 朴秉吉、ニコラエフスクで高麗人民会と高麗青年会を組織。(正式にはニコラエフスク・ナ・アムーレ。後述のニコリスクとは異なる。20年の「尼港事件」で有名になる

4月 李東輝、沿海州各地で朝鮮族農民を組織。ケレンスキー臨時政府の憲兵に“ドイツ特務”の疑いで逮捕される。獄中でボルシェビキと接触。

6月 沿海州ニコリスクの「新韓村」で、「全露韓族代表者会」が開催され、在留者の自治組織として全露韓族会中央総会が結成される。中心活動家とし て金立、李翰栄、金河球ら。(ニコリスクは正式にはニコライエフスク、現在はウスリースクと呼ばれる。渤海王朝時代は日本道あるいは東京府と呼ばれ、対日 交易の拠点だった)

7月 申植、趙素昂、朴容萬などが中心となって、「大同団結宣言」を発表。国民主権と共和制を主張。「独立平等の聖権を主張してこそ同化の魔力と自治の劣根を防除できる」と宣言。上海など海外各地にある団体を糾合、統一し、唯一無二の最高機関(臨時政府)を組織することを主張。

7月 ロシアの「全露韓族中央総会」、帝政崩壊で誕生したケレンスキ-の臨時政府を祝福するとともに、ロシア国会内に高麗人の議席を設置することなどを要求。

8月 申植らが上海で東済社を改組して「朝鮮社会党」を結成する。ストックホルムの万国社会党大会に朝鮮独立要求書を提出。この提案は満場一致で承認される。

9.30 金躍淵、間島で墾民教育会を組織。

10.29 ハワイの朴容萬、ニューヨークの「世界の27弱小民族会議」に「韓国代表」として出席する。

10月 平壤を中心とする「朝鮮国民会」事件が起こり、金亨稷など多数が逮捕される。

10月 ロシアでボルシェビキ革命が成功する。

11.10 蔡基中、軍資金調達に協力しない大邱の富豪・張承遠を射殺する。蔡基中は大韓光復会の慶尚道支部長をつとめていた。

12.20 大韓光復会の朴尚鎮総司令が逮捕される。

17年 李奭大副司令、満州での戦闘で戦死。大韓光復会はあらたに金佐鎮を副司令に任命し、満州に派遣。(金佐鎮の動きに関しては18年の項と矛盾するが、こちらの方がしっかりした裏があるようだ)

17年 日本軍、朝鮮駐留軍を編成。羅南に第19師団、龍山に第20師団を配備する。第19師団司令部と咸北道庁のある日本軍の城下町羅南(ラナム)や港町清津(チョンジン)から会寧に通じる標準軌の鉄道(清会線)が完成。

 

1918年

18年1月

1.08 アメリカのウィルソン大統領、議会教書の中で、民族自決主義をうたった「平和14原則」(ウィルソン14カ条)を発表。これに刺激されて海外亡命者たちの独立運動が活発になる。

1月 日本軍が極東出兵。ロシア国内は赤軍、白軍、日本軍が入り乱れて戦闘。朝鮮人もそれぞれの派に分かれ戦いに参加。

1.22 イルクーツクのロシア共産党支部内に朝鮮人部が設置される。金哲勲、南万春、呉夏黙ら、沿海州の帰化朝鮮人の一部は、イルクーツクの朝鮮人部に結集し戦う。

1月 徐載弼・安昌浩・李承晩など、ワシントンで新韓協会を組織。ウィルソン14カ条の朝鮮への適用を求める。

3月 江原道、全羅北道、咸鏡南道など各地で土地調査事業に反対する農民の暴動。村役場, 警察駐在所, 憲兵分遣所など殖民統治機関が襲撃を受ける。

18年4月

4.28 ロシア革命にともない釈放された李東輝将軍、ソ連に接近。ハバロフスクの朝鮮人民会でロシア共産党極東部のキム・アレクサンドラ と全露韓族会の幹部が接触。李東輝、金立、李翰栄、李仁燮など十八名が参加し、「朝鮮人無産政党組織会」の結成で合意。臨時会長に李東輝、議長に金立を選 出する。

アレクサンドラ・キム: 在露朝鮮人二世。ウラジオストクで小学校教員を勤めたが、離婚に伴いウラル地方に移住。現地で16年にボルシェビキに入党。朝鮮人として初めての共産党員といわれる。革命政権樹立後、朝鮮人組織のためハバロフスクに派遣される。9月に白軍に捕らえられ、銃殺刑となる。

4月 徐一・申八均・金佐鎮・金東三など吉林省の独立運動家39人が独立宣言を宣布。(一説に11月)

大韓独立宣言書: 各地で独立宣言が発表されたが、満州地方で出された「大韓独立宣言書」は、特に平等と平和、自由を強調し、民族平等を全世界に伝播させることを韓国独立の第一義として扱い、すべての同胞に同権同富を実現させることを宣言するなど、進歩的なものだった。

4月 在日朝鮮人留学生(会長崔八鏞)、決起計画を作成。李光洙を上海に、宋継伯を朝鮮内に派遣する。

4月 日本軍陸戦隊がウラジオストックに上陸。ロシア革命への干渉を開始する。

5.01 朝鮮林野調査令が公布される。農地に続き林野調査事業も開始される。

5月 朝鮮駐箚軍、「朝鮮軍」に改称。

18年6月

6.28 ハバロフスクで朝鮮人最初の共産主義者組織を結成。党名は「韓人社会党」(一名を朝鮮人社会主義者同盟)とする。

韓人社会党: 李東輝将軍を中心に、モスクワ大学政治学科出身の朴鎮淳(ミハイル)、李仁燮、キム=アレクサンドラが指導部を形成。全露韓族会の金立、金河球らも結集。綱領では「ソビエト政権支援、外国武力干渉撃退、土地改革実施、無産階級と民族解放運動との連帯」をうたう。

6月 コミンテルンより派遣された極東宣伝部長クレコルノーブは韓人社会党と接触。これに応じた李東輝は朴鎮淳をモスクワに派遣する。(一説では、「クレコルノーブは大韓国民議会と接触。大韓国民議会は革命政権を支持しハバロフスクで大韓社会党を結成」となっており順序が逆。また前項との関係は不明)

18年8月

8.02 日本はウィルソンの共同出兵の要請に応じ、「チェコ軍団救援のため」シベリアに出兵する。10月中旬までに派兵数は7万人に達する。

8.20 上海で独立・共和の朝鮮を目指す「新韓青年党」が結成.呂運享,張徳秀,趙東祐(素昂)、鮮干赫、韓鎮教による。①民族主義、②民主主義、③共和主義、④社会改革主義、⑤国際平和主義などに立脚して、朝鮮の独立を回復することを目的とする。

8.12 ウラジオストクに上陸した日本陸軍第十二師団は、大量の朝鮮銀行券をばら撒く。朝鮮銀行の営業所が龍井、吉林はじめ満州各地に開 設され、信用を失墜したルーブル紙幣に代わって、北満から中東鉄道沿線、沿海州とシベリア鉄道沿線、そしてチタ方面にまでその流通区域は拡大。

8.29 ウラジオストクの新韓村、日本軍艦を目の前にして、「国恥記念集会」を開催。太極旗を掲げて独立万歳を叫ぶ。

10.01 李均燮など、延吉に新興学校を設立。

10月 浦塩派遣軍司令官、韓人に対し反日行動の中止を命令。隠匿した武器を押収。

18年11月

11.13 大韓独立義軍府の呼びかけで、東三省(満州)と沿海州の独立運動家たちが吉林に結集。趙素昻の起草になる「戊午独立宣言書」を発表。独立戦争を起こし、「肉弾血戦で独立を完成しよう」と訴える。

戊午独立宣言: 金教獻、金奎植、金佐鎮、朴容萬、朴殷植、朴賛翊、申采浩、安定根、安昌浩、李東寧、李東輝、李範允、李相竜、李承晩、李始栄、趙鏞殷(趙素昻)らが名を連ねる。(4月の大韓独立宣言との異同は不明。一説に「重光団の呂準など39人が連名で戊午独立宣言」とあるが、これは誤りであろう)

11.15 新韓青年党のオルグ張徳秀が東京に派遣される。京城には鮮干かく(火赤赤)が派遣され、独立計画を伝える。(こちらを創党日とする説もある)

11.26 ウィルソン大統領の特使クレインが上海に入る。中国に講和会議への参加を呼びかける。呂運亨はクレインと会見し、講和会議への韓国代表の参加を要請。金圭植をパリの万国平和会議に派遣。

11月 張徳秀の来京を受けた東京の留学生は独立運動の方針を協議。①李光洙が独立宣言文を作成、②宋継伯が本国で運動を組織、③独立対策委員会の組織、などを意思統一する。留学生グループから金安植、李光沫、孫貞道など入党者が相次ぐ。

18年12月

12.15 孫秉煕など天道教幹部が、常春園で独立運動について密議。

12.17 ロシア共産党(ボ)中央委員会、シベリアにおける全活動の遂行のために中央委員会の中心部局を組織することを決定。これを受けてシベリア・ビューローがイルクーツクに創設される。その後一時オムスクに移動。

12月 北間島の徐一と金佐鎮は重光団を母体にして正義団を組織。士官養成所を開設。

12月 大山郁夫らがロシア革命の影響を受け「黎明会」を設立。朝鮮人学生の金俊淵らが参加する。

18年 李東輝は一連の統一行動を通じ、北間島の大韓独立軍(洪範図)との連携を強める。(この項は時期的には怪しい)

18年末 満州移住民・亡命者はこの時点で約50万人。すでに10年以前に20万名以上の韓国人が移住。このうち30万人が北間島地方に居 住していたとされる。ロシアにも沿海州を中心として約10万人が移住していたとされる。米国には1万人の移住民がおり、独立運動を財政的に支えた。

18年 朴尚鎭ら大韓光復団幹部37人が逮捕される。朴尚鎭は日本警察の取調べに対し、光復会の目的は「国権を回復し、共和政治を実現するところにある」と陳述する。このあと死刑宣告を受け、21年に処刑される。

18年 大戦景気により日本からの投資が活発化。工業化の進展に伴い、労働争議が増加。この年のストライキは50件、約 4千名余が参加。

 

1919年(大正8年)

19年1月

1.06 東京留学生の金安植、李光沫、崔八鏞らは朝鮮青年独立団を組織、独立運動を計画。白寛沫を朝鮮国内に派遣し学生の組織化に乗り出す。

1月21日 徳寿宮李太王(高宗)が脳溢血にて急逝。日本人による毒殺とのうわさが流れる。ソウルで李王の死をきっかけに「独立運動」が開始される. 天道教、キリスト教、仏教の指導者が集まり、対外的には韓国の独立を請願。対内的には非暴力の大衆行動を呼びかける。

1月末 延喜専門学校、普成法律商業学校、京城医専、京城工専、セブランス医専などで議論した結果、「3月1日に独立を宣言し示威運動を展開する」ことを決定。

1月 ロシアの革命派パルチザンが日本軍守備隊を襲撃。日本軍はこれに反撃しゼーヤ河沿いの農業地帯に進出。陸上戦闘が本格化する。

1月 ウィルソン大統領,ベルサイユ会議で民族自決主義を提唱.これに影響され,朝鮮民族の自決をもとめる運動が高まる.

1月 北間島を管轄する大倧教東道本社の主管の徐一、白圃らとともに大韓正義団を創設。これに金佐鎮も加わる。武装組織として「重光団」を編成。(18年11月の項と矛盾する記述)

1月 汪清県の鳳梧洞では、キリスト教系の大韓国民会(8000名)を基礎に大韓独立軍が結成される。洪範図が部隊を指揮。(時期はもう少し後だと思われる。また都督府と国民会を混同している可能性がある)

19年2月

2.01 新韓青年党、ベルサイユ会議に朝鮮の声を反映させるべく、金奎植をパリに派遣(金奎植はバージニア州ロアノク大学出身で英語ぺらぺら。この時点では天津在住。派遣費用は張徳秀が釜山で調達したとされる)。このあと、張徳秀、鮮干赫、金瀞、金順愛(金奎植の妻)などを朝鮮本国内に、 趨鏑股、李光沫を日本に、呂運亨を満州・沿海州に潜入させる。

2.08 東京在留の留学生600人(一説に400人)が、神田の朝鮮キリスト教青年会館で集会。「在日本東京朝鮮独立青年団」を結成。李光洙の起草になる「独立宣言文」を採択。万歳運動の源流となる。その後のデモで、警官隊と衝突。独立宣言書に署名した十名の他、60余名が逮捕される。(一説では 会場に警官隊が入り多数が逮捕される)

宣言文のうち決議部分: ①韓日合併反対。祖国の独立を。②日本政府に対し朝鮮民族大会の開催を要求。③国際社会に対し民族自決主義の適用を要請。④これらの目的が失敗したときは、「日本に対して永遠の血戦」を宣する。

2.25 在米朝鮮人団体の大韓人国民会、李承晩と鄭翰景をパリに送ろうとするが、旅券発給を拒否される。

2月25日、ロシア沿海州の「全ロシア韓族会」(全露韓族会中央総会)、シベリア内戦の中で革命支持の立場を明確にする。韓人社会党の指導の下、「大韓国民議会」に発展・改組。朝鮮独立運動の受け皿となることを目指す。

2.28 独立宣言書2万部が全道に配布される。孫秉煕、李昇薫、韓龍雲ら朝鮮有力者33人が非暴力による独立を訴える.崔南善が執筆した独立宣言は、「たとえ全朝鮮人がこの精神に殉ずるとも、残る一人がなお独立を求めるであろう」と結ぶ。

2.28 「朝鮮独立新聞」が創刊される。普成社が地下発行し1万部を刊行。

2月28日 永登浦朝鮮皮革会社と竜山スタンダ-ド会社の労働者ストライキ。その後京城電気会社、釜山電車、南浦製錬所などにストライキが拡大。

2月 李承晩、独自に米政府に対するロビー活動を展開。ウィルソン大統領に韓国に対する委任統治を要請。

李承晩は「…将来における完全な独立の保証のもと、朝鮮を国際達盟の委任統治下においていただくことを必死の思いで請願いたします」との請願書を各界にばら撒いた。これに対して申采浩は「李完用は存在する国を売ったが、李承晩は、取り戻す前に国を売った奴だ」と激烈に非難したという。

19年3月 万歳デモ

3月1日、国葬参加のため、朝鮮全道から多数の人々が京城に入る。群衆は夜を徹して大漢門前に集まり、平伏しアイゴ-の敬弔。

3月1日午前 学生たちが民族主義者33名の連署した「独立宣言書」を市内各地で配布。パゴタ公園への結集を呼びかける。

3月1日正午 独立宣言書署名の29名、京城の泰和館(一説に泰成館)に集まる。韓竜雲が「独立宣言」を朗読。宣言の内容は

3月1日午後2時 パコダ公園の集会で、韓竜雲が民衆の決起を促す演説を行い「朝鮮独立万歳」を三唱する。集まった5千名を超える学生・市民が「独立万歳」を呼号しデモを開始。午後11時ごろまで京城市内を示威行進する。宣川、平壌、元山、鎮南浦でも独立万歳デモ。

全国における動員: 集 会とデモは、主要都市から郡庁、面事務所所在地に拡大し、里・洞でも発生した。万歳示威に参加した人員は総計2,023,098人にのぼった。『韓国独立運動之血史』によれば、5月末まで集会或いはデモは全国211府郡、西北間島、サハリンなどの地で1542回起こった。なかでも南北平安道はもっとも広範 な動員を示した。(ただし「血史」の数字は一般にあまり信用できない)
歴史地図によれば、地区別動員数の最も多かったのが京城の57万人、ついで鉄原の7万、郡山と木浦が6.2万、義州が6万、ほか平安道の定州、成川、全羅道の全州、南原などで5万を超える動員。慶尚道は参加者数に比し死者の数が多い。 

3.01 ソウルと平行して平安北道、平安南道、黄海道、咸鏡南道の主要都市で「三・一独立運動」が開始される.全国50万人が「独立万歳」を叫んでデモ.

3月1日夜半 ソウル市内で騎馬憲兵と警察の検束が始まる。

3.02 総督府、万歳事件に対し徹底弾圧の方針を決定。指導者の一斉逮捕に着手。

弾圧の犠牲者: 韓国国定教科書によれば、日帝軍警に殺された人は7509人、負傷者は15,961人、逮捕された人は46,948人であり、破壊、放火された民家が715戸、教会が47カ所、学校が2力所であった。

3.02 労働独立団・農民独立団・学生独立団・市民独立団・妓生独立団・乞食独立団など無数の団体が組織される。総督府の土地調査事業で耕地を失った農民らが、乞食独立団に結集しデモに立ち上がる。晋州では妓生4百余のデモ行進も行われる。

3.02 ウラジオストク新韓村で、ソヴェト支持の韓人組織が結成される。赤軍支持の韓人部隊は国境地帯に移動して、沿海州、アム-ル辺境で、シベリア占領日本軍と戦う。

3月3日 李太王の国葬。沿道に各学校生徒3万人その他葬送者が整列。

3.03 黄海道遂安では、憲兵隊を挑発した天道教徒のデモ隊に発砲。死者9名、負傷者16名を出す。

3.03 『ニューヨーク・タイムス』が三一運動に同情的な記事を掲載。米議会でも事件が取り上げられる。

3.03 朴容万、ハワイで大朝鮮独立団を組織。

3月4日 平安南道成川で、デモ隊との衝突により憲兵分隊長が死亡。憲兵隊の報復により朝鮮人側死者25名、負傷者23名を出す。

3月4日夜 京城での万歳運動再開。民衆が大漢門前に3回も押し寄せ、警察・憲兵隊と衝突を繰り返す。学生75名が逮捕され、負傷者多数。

3月8日 定州事件が発生。デモ隊に対する弾圧で市民120名余が死亡。

3月9日 平安南道寧遠でデモ隊と警官が衝突。朝鮮人死者15名・負傷者38名・逮捕者30名を出す。翌日には同じく平安南道孟山で朝鮮人死者54名・負傷者13名。

3.09 京城市内の商店が同盟閉店闘争を開始。1ヶ月にわたり続く。

3.11 釜山でマンセー・デモ。三・一闘争が慶南にも拡大する。

3月11日 原敬首相、長谷川総督に「三・一事件の厳重な措置」を指令。長谷川総督は原敬首相にたいしウラジオストクの朝鮮人弾圧も提案するが、原はこれを認めず。

3月12日 長谷川総督、各地への分散配置を指示。

3.12 国内とロシア領、満州からの代表、中国在住の勢力が上海フランス租界に集まり、臨時政府樹立問題を論議。

3.12 西間島の柳河県三源浦で約200数名が集まり、独立祝賀集会と万歳示威運動。

3月13日正午 竜井村で独立祝賀会が挙行され、「延辺人民3万名余が会集」(碑銘)する。日本の意を受けた張作霖政権は、集会阻止に動くが失敗。

午後1時 集会後のデモ隊を阻止するため、張作霖軍部隊が発砲。先頭集団の鉄血光復団を中心に14名が死亡。負傷者30名を出す。

3.15 延吉県智仁郷で韓族独立期成総会が行われ、万歳運動の経験を総括。武装闘争への確信を強める。会長に具春先が就任。

3.15 アメリカで代表者大会が開かれ、独立運動への支援を決議。

3.16 頭道溝で1000人の反日集会、17日に二道溝で4000人の集会。その後、長白・輯安・興京・寛甸の各県に波及する。

3.17 3.13犠牲者の葬儀デモ。義士陵が築かれる。

3.17 沿海州にも3・1運動が拡大。

3月19日 琿春で集会とデモ。沿海州などから3千余名が結集。琿春の日本領事館分館では日章旗が引きずりおろされる。

3.21 韓族独立期成総会、ロシア韓人会の影響を受け、「間島国民会」を設立。五つの地方総会を置き、村毎に100余り支会を組織、最大時人員は8000人に達する。

3.21 沿海州ニコリースクの大韓国民議会、政府樹立を宣言。間島からも金躍淵らが代表として参加する。

3.21 米国務省極東部の前部長ウィリアムズ、石井駐米大使の弁明に対し、「朝鮮が以前よりよく統治されているというのは事実かもしれな いが、一つの重要な事実、つまり異民族により押しつけられた政府よりもどんなに悪いものであっても、人びとは自らの政府のほうを選ぷということを、石井子 は忘れている」と反論。

3.22 独立を支持する労働者大会が開催される。ストライキなどの闘争を展開することを決議。

3.28 水原近くの堤岩里で村民1千人が独立万歳を叫んでデモ行進。日本人警官がデモ隊に発砲し3人が死亡。激怒した民衆は駐在所を襲撃し、日本人家屋に放火する。

3.29 パリ長書事件。全国の儒林代表が独立嘆願書を作成。金昌淑を通じてパリの国際平和会議に郵送する。

19年4月

4月1日 長谷川総督と、朝鮮軍の宇都宮司令官が連名で指示。「さらに一層の強圧手段を用い、鎮圧平定の功を挙げよ」と督促。

4.01 弾圧を逃れ亡命した国内の民族主義者らが、大挙して上海のフランス租界に集結。「大韓臨時政府」に向けての議論を開始。申采浩は李承晩の請願書を非難、「国を取り戻す前に売った」と攻撃。

4月2日 並川事件発生。天安で柳寛順らに率いられ3千余人がデモ。当局の弾圧で19名(32名?)が死亡。逮捕者6百名以上にのぼる。

柳寛順: 梨花学堂の女子学生。当時19歳。三一運動が始まると故郷の天安(論山)に戻りデモ行進を組織。憲兵隊の銃撃でデモ行進中の両親を殺され、自らも逮捕される。獄中でも拷問に耐え節を曲げず、攻撃的態度をとり続けた。10月に獄死した後、「韓国のジャンヌ=ダルク」と讃えられる。

4月3日 全羅道南原で数千人の万歳運動。朝鮮人死者十余名。4月最初の10日間で、死者170名・負傷者346名。

4.08 陸軍省、朝鮮の騒擾を鎮圧するため、内地より6個大隊と憲兵400人を増派。

4月8日、「ソウル独立本部」、「朝鮮民国」臨時政府の閣員名簿、臨時憲法草案を作成。正統領に孫秉煕、副統領に李承晩を指名。姜大鉉を通じ、上海の独立運動家たちに伝達。

4.10 李東寧を議長とする29人の発起人が上海の臨時議政院を構成、臨時憲法草案をもとに「大韓臨時政府」をつくるための議論を開始する.

4.11 上海のフランス租界に結集した諸組織、「上海臨時政府」の樹立を宣言。国号 を「大韓民国」とする臨時憲章を定める。国務院を創設し李承晩を国務総理に推戴。興士団を率いる安昌浩を内務総長、パリへ派遣中の金奎植を外務総長、李東 輝を軍務総長、崔在亨を財務総長にすえるなど分担を定める。また国内八道、中国領、シベリア、米州の11地方から代議員を選出し、統一政府を樹立するため の体制を整える。

臨時憲章の骨子: 第 1条で「大韓民国は、民主共和制とする」と明示した。また、大韓民国の人民は、男女貴賎および貧富の階級がなく、一体平等であると規定し(第3条)、大韓 民国の人民は信教・言論・著作・出版・結社・集会・書信・住所移転・身体および所有の自由を共有するとし(第4条)、大韓民国の人民として公民資格がある ものは選挙権及び被選挙権を有するとした(第5条)

4.12 関東州の満鉄の警備のため、関東都督府の陸軍部を独立させ、関東軍が創設される。司令部は旅順に置き、兵力は1個師団1万人。

4.13 第79連隊の有田俊夫中尉が率いる部隊、堤岩里の掃討に入る。天道教徒・キリスト教徒の6人をデモのリーダーとして殺害。

4.14 琿春韓民会、ロシアの「大韓国民議会」の琿春支部として発足。会長は李明淳、軍事部長は黄炳吉。

4.14 アメリカのフィラデルフィアで在留韓国人が「韓人自由大会」を開催。

4.15 朝鮮総督府、「政治に関する犯罪処罰の件」を制定。政治変革をめざす大衆行動とその扇動を厳罰に処することとする。

堤岩里の虐殺

4.15午後4時 堤岩里で、日本軍が村人を教会に集め、中に閉じ込めた後放火。逃げ出そうとしたものは射殺された。教会内部で21名、村 全体で29人(一説に39人)が死亡し多くの負傷者を出す。さらに近隣の8 面15 村落で虐殺や放火をおこなう。独立運動家の動向に神経をとがらせていた長谷川総督は、「教会を隠れ蓑に暗躍するキリスト教徒の民族主義者」と東京の留学生 を特に警戒していたという。

4.16 アメリカ領事館館員カ-チスとの米国人宣教師アンダ-ウッドが、堤岩里の現場を視察し生存者から聞き取り調査。アンダ-ウッドは『ジャパン・アドバタイザ-紙』の記者も務めていたため、堤岩里の虐殺が世界に向け発信される。

4月15日 京畿道水原郡および安城郡に派遣された特別検挙班、「焼失戸数328・死者45名・負傷者17名」(当局報告)を出す。「書類及簿冊の焼却せるもの迄有之、調査資料なきに困る」と弁解。

4.23 上海臨時政府に呼応し、ソウルに13道代表が結集。地下組織として漢城政府が結成される。執政官総裁に李承晩、国務総理に李東輝を指名。

4.25 ウラジオストクの新韓村で韓人社会党代表会議が開かれる。金立をモスクワに送りコミンテルン加盟を申請することを決定。また、日本軍と白衛派の圧迫により「露領内ニ於テハ思ハシク活動シ難」いため、主力を間島方面に移し、独立軍を編成することを決定。

4月 柳河県三源浦で、扶民団を基盤として韓族会が結成される。韓族会は軍政府(後に西路軍政署)を組織。総裁に李相龍、参謀部長に金東三が就任。日本陸軍を脱走した池青天、金光瑞が教官となり、独立軍幹部養成に力を注ぐ。

李青天: 韓末期に大韓帝国武官学校に入学。大韓帝国の国費留学生として日本の士官学校に進学。13年に26期生として卒業。同期の洪思翊は「実力培養」を理由に日本軍に残り、陸軍中将にまで上りつめ、戦犯としてマニラ軍事法廷で死刑判決を受ける。

4月 軍政府とは別に大韓独立団が結成される。三源浦付近を基盤とし、復古派の柳麟錫系列の義兵が中心となる。二つの部隊は共同し、国内駐在所の襲撃、親日派の処断、富豪からの資金強奪作戦を展開。

4月 「間島国民会」が軍の組織に乗り出す。警護隊総司令は李鏞、国民会軍司令は安武が就任。蛤莫塘に本部を置き、青山里戦闘の直前には、総兵力数は450人、長銃400丁、拳銃160丁、手榴弾多数を保有したという。

4月 申采浩らは李承晩が国際連盟に委任統治を要請したことを非難。会議を脱退し北京に向かう。

4月 李朝の「光復」を掲げ、義兵長として闘った李範允、亡命先のロシアから間島に入り、反日義兵を糾合し義軍府を結成。兵力は200人余り。青山里の戦闘では洪範図軍と共に闘い、その後、臥龍洞を経て羅子溝にもどる。シベリアには行かず、東寧県方面に移動した。

19年5月

5.03 西間島の新興学校、新興武官学校に改編。三源浦近郊の哈泥河に校舎を建築。申八均も教官として参加したという。このほか七道溝快大帽子と孤山子河東にも分校が設置され、独立軍兵士を養成。

新興武官学校: 在満朝鮮人の醵金により運営。下士官組は3ヶ月、将校組は6ヶ月、特別組は1ヶ月の訓練を行い、学科1割、教錬2割、民族精神5割、建設2割のカリキュラムが組まれた。20年8月までの卒業生は2000余人に達した。

5.04 万歳事件の影響を受け、北京でも学生を中心に「5・4運動」が起こるが、まもなく鎮圧される。

5.05 朝鮮人が間島日本領事館に放火。一部が焼失する。

5.12 パリに到着した金圭植、パリ講和会議に独立請願書を提出する。

5.21 総督府、万歳事件の終結を宣言。すべてのキリスト教会が封鎖され、集会が禁止される。

5.26 朝鮮軍参謀長、「間島地区において、不逞鮮人が「軍資金」を名目に略奪行為、脅迫行為をはたらき、治安が極度に悪化」と報告。

5月 天道教指導者を中心とする「少壮派48人」が,独立運動再興を狙う.

5月 上海在住の朝鮮人700人を基盤として上海大韓人居留民団が結成される。団長は呂運亨。一説では、「元内務部長官らの虚栄心と政治的野心を満たすための組織」に過ぎなかったとされる。

5月 カリフォルニアから上海にはせ参じた安昌浩は、臨時政府の内務総長兼国務総理代理に就任。独立運動方略の作成、連通制 ( 秘密連絡組織 ) 設立などに功績。上海臨時政府を基軸として、統合政府の樹立を模索。李光珠は「独立新聞」を発行。仁成学校を運営するなど、臨時政府を人的・財政的に支える。

5月 軍事組織「重光団」は、汪清県西大坡の郊外十里坪の密林地帯に軍官学校(後の北路軍政署士官練成所)を設立する。羅子溝の士官学校では600人の士官練成生が訓練を続けていた。新興武官学校を卒業した呉祥世ら、さらに英国人マツコデルを教官に招いて独立軍幹部を養成。

その他の武装集団: 義民団は、延吉県(現在の安図県)崇礼郷茶条溝(後に明月溝)に設立された反日団体。カトリック信者を主体とし、団長は方雨龍。兵力は200人あまりの小集団。5月に北路督軍府に編入された。
都督府は、鳳梧洞で結成された武装自衛団。崔明禄を総裁とする。兵力は200人だが、支持基盤が厚く、食糧供給が潤沢だったといわれる。
光 復団は、李範允を師と仰ぎ、李朝王権の「光復」をはかる組職で、金星極を団長とし、義兵闘争のベテランを主体とする。兵力は150人で、本部は汪清県大坎 子以北の谷間にあった。青山里では漁郎村の戦闘に参加。その後、東寧に撤退。大韓総軍部を設立し、義軍府の李範允を司令に推戴。
羅子溝軍事府は、当初の指導者は李チュンボム、崔ジョングク。後に金リグン。兵力は200人余り。
その他にも旧韓国末の義兵抗争を指揮した
朴長浩ら儒者たちが中心になって組職された大韓独立団(柳河県)、臨時政府の直轄の下に編成された光復軍総営、リム・チャンセを総裁とする野団、金中建を団長とする大震団、李ベクソンらが組織した義兄弟団、李チュンジョンが設立した救済団、崔時興の天摩山隊、呉周煥の太極団(長白県)、義軍府、新民団、大韓正義軍政司など主なものだけで12団体、小ゲリラ集団をあわせると50を越える組織

6月20日 朝鮮総督府集計によれば、万歳デモ参加者は106万名。死者553名、負傷者1409名に達する。

6.28 ベルサイユ講和条約が調印。朝鮮独立を目指す金奎植のロビー活動は成果を得られずに終わる。

6月 黎明会の吉野作造,木村久一,福田徳三,麻生久ら、朝鮮における武断統治の廃止と人道主義統治をうったえる。

6月 趙素昂、ジュネーブの万国社会党大会に参席。

19年7月

7.01 長谷川好道朝鮮総督、「朝鮮は帝国の版図であり、その属邦ではない。朝鮮人は帝国の臣民であり、同化政策を継続して堅持しなければならない」と強調。

7月9日 義和宮、大同団に「稀世の大凶漢は先帝をその毒手で弑殺」したと告げる。

義和宮: 高宗の第五子。韓国併合後は、公族に列せられるが、高宗の死後、ひそかに独立運動団体「大同団」の総裁となる。10月には上海臨時政府への参加を企てるが、満州安東で日本警察に拘束される(大同団事件)。

7.10 上海臨時政府、連通制を公布し、国内外の連絡網の組織に着手する。

7.11 沿海州の臨時政府、上海臨時政府への合併を決議。

7月17日 ニュ-ヨ-クの新聞、「日本憲兵が朝鮮人を十字架に縛り殺した」写真を報道。

7.25 ロシア共産党シベリア・ビューロー(オムスク)、中国、朝鮮向けの「カラハン宣言」を発表。

7月 琿春韓民会の黄炳吉、決死隊を募集して“急進団”を設立。土地40筆を購入して丸太小屋7軒を建て、隊伍を4つの中隊に編成した後、軍事訓練をおこなう。後に“義士団”、 “砲手団”と合流し、“琿春韓民会軍事部”として正式に編成される。翌年には崔慶天を軍務部長に迎え再編成。厳格な軍事規律を設け、幹部選挙などは民主的に進められたという。

19年8月

8.07 金佐鎮と徐一、正義団を改編強化し軍政府と改称する。さらに北路軍政署に発展させる。徐一が総裁に就任した。

8月12日 長谷川総督と山形政務総監(副総督)が解任され、寺内総督以来の「武断政治」が終わる。新総督に斉藤実大将が任命される。

8.19 大正天皇名で詔書。「日夜朝鮮人民の幸福を心掛け、内地人との間に少しも差別がない」ようもとめる。

8.20 憲兵警察制が廃止される。

8.21 上海臨時政府の機関紙「独立新聞」が創刊される。

8月 上海のフランス租界に朝鮮人亡命者3千人が集まり、統合臨時政府を樹立するための会議が始まる。ソウル地下で結成された「漢城政府」を中核に、沿海州ウラジオストクの大韓国民議会(李東輝が代表)、間島の軍政府(李相龍ら)などが結集する。

8月 ソ連政府の極東代表グレコルノーブ、白軍によって捕らえられ処刑される。(クレコルノーブは18年6月の韓人社会党結成の時点ではコミンテルンの極東宣伝部長となっている。この間にポストが変更されたのかどうかは不明)

8月 スミルノフがシベリア革命委員会議長に就任(21年9月まで)。シベリア・ビューローおよび赤軍第5軍革命軍事評議会を指導。

8月 コミンテルンは金立を上海に派遣。金立は韓人社会党以来の李東輝の片腕であり、ロシア革命当時モスクワに留学していた。

コミンテルン=モスクワは韓人社会党を朝鮮人の主要組織として捉えていた。これに対しオムスクのシベリア・ビューローは自らの配下の「自由大隊」の共産主義者こそ、朝鮮解放の担い手と考えていた。このボタンのかけ違いが後々まで尾を引くことになる。

8月 洪範図旗下の大韓独立軍、恵山鎮を一時占領。このあと3ヶ月にわたる奇襲行動。甲山郡の金井駐在所も襲撃。

8月 龍井村の鈴木要太郎総領事は、情勢不穏を理由に朝鮮軍の間島派遣を要請する。

19年9月

9.02 斉藤新総督がソウルに到着。姜宇奎が南大門駅で斉藤総督の暗殺を謀り、爆弾を投げつけるが失敗に終わる。

暗殺未遂事件: 斉藤新総督夫妻らが南大門駅(現ソウル駅)を出て、馬車に乗ろうとしたとき、姜宇奎が人力車置場の背後から飛び出し、総督の背後に爆弾を投げつける。総督本人は軍服と革帯の三カ所に穴が開いたが無事。出迎えの村田少将ほか、警官など30数名が重軽傷。
犯人の姜宇奎は国民会議ウラジオストク老人団員のメンバーで、当時66歳だった。

9.05 イルクーツクでボルシェビキに結集した金哲黙、呉夏黙らが全露高麗共産党を結成する。韓人社会党に対し、イルクーツク派と呼ばれる。クレコルノーブの後任のスミヤスキーは、李東輝を、共産主義を利用するだけのたんなる民族主義者と見なし敬遠、「自由大隊」を指揮する金哲黙、呉夏黙らと結びつきを強める。(この時点ではシベリア・ビューローはオムスクに本拠を置いており、結成場所がイルクーツクであったかどうかについては確認が必要)

9.06 上海の臨時議政院漢城臨時政府案を基礎とし、ロシア領内の国民議会から提起された修正を加え、臨時憲法を制定。大統領制をしく。

9.10 斉藤新総督、文化統治の論告。公民の自由や言論出版の自由を承認し、朝鮮人による起業を認める。これに応じ、東亜日報が創刊される。

9.11 上海の臨時議政院、漢城政府の「法統」を引き継ぐ形で統合臨時政府を発足させる。李承晩を大統領とする。

閣僚メンバー: 李東輝を国務総理に選出.法務総長申圭植・内務総長李東寧・学務総長金奎植・外務総長朴容万・交通総長文昌範・軍務総長盧伯麟・財務総長李始栄・労働局総弁安昌浩。

9月 西間島の軍政府は、大韓民国臨時政府を受け入れ、その傘下に入る。軍政署は西路軍政署として改編される。

9月 李承晩の大統領就任に反対した申采浩、臨時政府を認めず。北京で留学生70人を結集し「大韓独立青年団」を組織。

9月 洪範図、106人の兵を従えてウラジオから間島に入る。国民会傘下に帰属する形で、これを根拠地として戦闘を継続。他の部隊を合わせ400 人の兵力に増強。ロシア領とも往来して武器を集積する。大韓国民会はキリスト教徒の結成した民兵隊が発展したものとされる。

19年10月

10.11 天摩山隊、朔州警察署を襲撃。

10.09 日本の諜報資料、間島における洪範図の活動を確認。「洪範図は決死隊2500人を率いて朝鮮内地に侵入しようと企んでいる」と記録。

10.23 徐一、“大韓正義団”の大倧教色を薄め、儒教系の人々と連合。大韓軍北路督軍府を創設し反日統一組織に発展させる。重光団は“大韓軍政署”に改編される。

10月 韓人社会党の代表がモスクワ入りし、コミンテルン、ソヴィエト・ロシア政府との交渉。朴鎮淳がソ連政府からの宣伝費400万ルーブリを持ってオムスクに到着。スミヤスキーはこの資金を奪い全露韓人共産党に与える。

10月 臨時政府、呂運亨をソ連に派遣、レーニンに援助要請。

10月 申采浩は上海に戻り『新大韓』誌を発行。武装闘争を支持する言論活動を展開。『独立新聞』にもしばしば寄稿する。南亨祐ら同志たちと共に「新大韓同盟団」を組織。

19年11月

11月10日 金若山(本名は金元鳳)、吉林省でテロ組織「義烈団」を組織。会員はわずか13名。「駆逐倭奴、光復祖国、階級打破、平均地 権」をスローガンとし、「公約10条」を作成して行動の準則とする。「日本帝国主義の心臓部に弾丸を撃ち込む必殺主義」をとなえる。「義烈」の名は「天下 の正義の事を猛烈に実行すること」から、1字ずつを取ったもの。

11月 コルチャーク軍の攻撃を受けたシベリア・ビューローはイルクーツクを撤退。本拠を西シベリアのオムスクに移す。オムスクで14 人の朝鮮人がロシア共産党への入党許可を請願。(この項はたぶん間違い)

11月 韓族会軍政府、上海臨時政府を受け入れ西路軍政署に改編される。正義団軍政府も北路軍政署に改編。北間島参議府の独立軍も上海臨時政府の傘下に入る。一部は臨時政府への服従をめぐる見解の違いから分裂し、大韓独立軍を結成。洪範図、崔振東らが指導する。(この項、真偽不明))

東満の反日ゲリラ: この二大組織のほか、一説によれば、義軍府、新民団、光復軍総営、大韓正義軍政司など主なものだけで12団体、小ゲリラ集団をあわせると50を越える組織が活動していたとされる。

19年12月

12.01 コミンテルン執行委員会、「東方問題について」議論。東方諸民族へのアピール作成をカラハン(外務人民委員代理)へ委任。朴鎮淳が朝鮮人に向けてのアピールを起草することとなる。

12.07 ソ連政府、「朝鮮人民は皆立ち上がり、労農政府と手を結び日本人をウラジオストク及び朝鮮から追放し、革命を成就しよう」との声明。

12.13 「大韓独立軍」(洪範図部隊)、江界の満浦鎭を三日間にわたり占領。慈城で3日間に渡り、日本警備隊と交戦し、70名の死傷者 を出し、日本軍警に大きな衝撃を与える。咸鏡道知事は「洪範図配下に約2000人の部下がおり、朝鮮内地に侵入して日本軍と交戦する計画をたてている」と 報告する。

12.15 ポーランド軍のウクライナ侵攻の危機に直面したレーニンは、スミルノフに対して「東方にあまり突進しすぎるのは犯罪であろう」 と警告。さらに翌年2月には、「東方へこれ以上一歩も踏みださず、部隊と機関車を西方のロシアへ急速に移動させるため全力をそそげ」と指示。

12.27 呂運亨、東京の帝国ホテルで日本要人たちに講演。「朝鮮を独立させて日本・朝鮮・中国のアジア三カ国が提携すべきである」と訴える。

12月 金若山は上海臨時政府樹立に伴い上海に移動、「義烈団」組織を拡大。臨時政府の直接支援を受け、ドイツ人無政府主義者のマルティンが統括。総督府 ・軍首脳、及び朝鮮人親日分子・民族反逆者を攻撃の対象にすえる。

12月 大韓軍政署が“ 北路軍政署”に改編される。徐一が総裁を務める総裁部は、汪清県徳源里に、軍司令部および士官訓練所は十里坪に置く。司令官は金佐鎮、副司令官には金星、参謀長は李章寧。李範奭も幹部将校の一人となる。(金佐鎮は大倧教の信徒だったそうです)

李範(イボンソク): 金九の臨時政府の下で幹部を務めた。戦後は右翼暴力団の親玉として影響力を拡大。李承晩政権の下で総理にまで上り詰めた。間島地方での活動に関する彼の記述には誇張と我田引水が多い。李範奭の名前を見ただけで頭が痛くなる。

19年 国内各地で元軍人による反乱が発生。平安北道では500余名の元軍人が天摩山に篭り、ゲリラ活動を展開。天摩山隊と呼ばれる。その後警察の追及を受け満州に逃れ、大韓統義府軍に編入される。ほかに平北東岩山の普合団、黄海道九月山の九月山隊など。

大部分の独立運動団体は、管轄地域住民たちに対して徴兵 制を実施した。もちろん志願者もいたし、募集に応じて入隊したものもいたが、兵となることを強制されたものも数多くいた。しかし3・1運動以後には国内か ら多くの愛国青年たちが亡命して独立軍に志願した。また幹部を国内に派遣して募兵活動を展開した。
軍 資金は、財産程度によって等級を分け、住民たちから取り立てた。国内に秘密要員を派遣して義捐金形態で募金することもあった。親日派や非協調的な富豪には 脅迫して募金を強制することもあった。多くの独立軍があったから、住民には二重三重の負担になる場合もあった。時には独立軍になりすまし、掠奪する悪辣な ものもあった。 

19年末 李東輝、朴鎮淳を再度モスクワに送り、ソ連政府、コミンテルンに抗議。ソ連政府は誤りを認め、韓人社会党のコミンテルンへの加入 を承認、再度軍資金40万円を手渡す。朴鎮淳はモスクワに残り、ヴォズネセンスキーとともに東方諸民族に向けてのコミンテルンの呼びかけを準備する。朴鎮 淳は「東方ビューロー」設立に関して時期尚早として反対したという。

19年 間島地方での米の生産がさかんとなり、米の輸出が始まる。

19年 金性洙、「京城紡織」(株)を設立。後の湘南財閥=三養グル-プの発端となる。

19年 朝鮮内で大同団が結成される。「社会主義を徹底的に実行する」との綱領を掲げる。

 

1920年

20年初頭 満州の桓仁県で、韓族会や光復軍総営などが統合し統義府を創設。朝鮮独立運動の指導部となることを目指す。

20年1月

1.02 金性洙が代表となり京城紡織会社が設立される。その後ソウルを中心に軽工業がさかんとなる。京城紡績を中核企業とする親日派の「湖南グループ」が形成される。戦後この「湖南グループ」は、右派民族主義の牙城となる。

1.04 鉄血光復団(間島国民会?)の尹俊熙、林国楨、韓相浩ら、龍井村近郊で日本朝鮮銀行会寧支店行きの騎馬隊を襲撃し15万円を強奪。武器購入のため、ウラジオストクに向かう。

1.05 ロシア共産党(ボ)中央委員会、「極東共和国」の創建を決議。イルクーツク以東の地域に民主主義的緩衝国家を形成し、米日との融 和を目指す。「共和国」の表の顔となるべく、イルクーツクでエスエルとメンシェヴィキをふくめた「政治センター」が設立される。またヴィレンスキーを外務 人民委員部の極東問題全権委員としてウラジオに派遣。米日との交渉に当たらせる。

1.06 朝鮮日報、東亜日報、時事新聞の三紙が発行を許可される。

1.09 米国がシベリア撤退の方針を表明。日本は、「居留民の生命財産の安全が保証されず、過激派の勢力が朝鮮・満州に波及するおそれがある」として、居座りを図る。

1.18 シベリア・ビューロー附属の外国人共産主義者地方セクション創設。中国-朝鮮人(全シベリア)セクションをふくむ15の民族別地方セクションが作られる。

1.19 「政治センター」の代表とシベリア革命委員会がトムスクで交渉。「極東共和国」の創建で合意。モスクワはシベリア・ビューローと分離させ、極東ビューローを創設。「裏の指導」にあたらせる。

1.26 ウラジオストックの北方100キロのニコラエフスクを赤軍が攻撃。街は日本のウラジオ派遣軍とコルチャックの白軍に占領されてい た。革命軍にはオリガ郡の朝鮮人村ニコラエフカの韓昌傑(グレゴリー)、呉夏黙の自由大隊、金ペテロのイマン軍、朴グレゴリーの独立軍団、朴イリアの尼港 軍などが加わり、日本軍と戦う。

1.31 日本軍、密告を受けウラジオストクの新韓村を急襲。尹俊熙を初め500人の強盗団メンバーを逮捕。奪われた日本円12万8000円余りを押収する。

1月 西シベリアのオムスクを拠点に日本軍の支援を受け、かく乱活動を行ってきたコルチャーク軍が崩壊。コルチャークは「イルクーツク軍事革命委員会」により処刑される。

1月 中国当局、西間島の韓族会と独立団の解散を命じる。実効性はほとんどなし。

1月 会寧からさらに北の上三峯へ、川に沿って延びる40kmの図們軽便鉄道が開通。建設工事のため、会寧に第19工兵大隊が配備される。

20年2月

2.05 ウラジオストクの支配権を握った赤軍、「ボルシェビキ・ロシア新聞」に「我が政府は朝鮮革命のため努力を惜しまない、朝鮮の政治亡命者が祖国に帰る日は遠くない」との記事を掲載。

2月 ウラジオストクからのチェコ軍の帰国に伴い、アメリカ軍もまた撤兵を発表。いまや日本軍だけが駐屯することになる。チェコ軍の装備は撤退時に売却され、朝鮮人の手にも渡る。日本軍は中立化せざるをえず、動揺が始まる。

2月 元大韓国民議会(ウラジオストク)の文昌範ら、上海臨時政府の運営を批判。国民議会を再び設置。李東輝が率いる韓人社会党などは政府内に残留。

20年3月

3.01 上海臨時政府の第一回議会が召集され、民主主義憲法が採択される。議会では米国帰りのクリスチャンが多数派を占め、李東輝の率いる民族派は少数派となる。

3.01 ウラジオストク新韓村で「三・一運動慶祝大会」が開かれる。式典に参加したソビエト軍総司令官クラゴベツキ-は、「韓国革命にあらゆる支援を行う。日本軍をシベリアから撤収させるだけではなく、韓国独立が革命的党の手で成功することを望む」と演説。

3.03 「ザバイカルおよび極東の党活動のために」、ロシア共産党シベリア・ビューローから分離して極東ビューローが結成される。

3.05 日本帝国政府、単独でシベリア駐留を続けることを決定。「帝国と一衣帯水のウラジオストクが過激派の掌中に帰し、朝鮮に対する脅威となり、帝国自衛上も黙視し難き所となった」ことを理由とする。

3.05 朝鮮民族系新聞発行を許可する。これを受けて『朝鮮日報』が創刊される。親日派の内宗錫、次いで宋秉畯が主幹を務める。最初は総督府寄りだったが、徐々に民族的論調を強める。

3.08 二月革命記念日。革命派の支配するウラジオストクで大示威運動。多数の朝鮮人が参加。

3.12 「尼港事件」が発生。アムール河口ニコライエフスクの日本軍守備隊は、ソ連革命軍パルチザンの前にいったん降伏するが、協定を破棄してパルチザン側を襲撃。この戦闘は日本側の敗北に終わり、居留民を含む700人余りが全滅。

3.27 イルクーツクのロシア共産党シベリア・ビューロー会議、シベリア外交代表部内に「中国人・朝鮮人共産主義者ビューロー」(東方ビューロー)を設立することで合意。外交代表部のガポンが組織を担当することとなる。

3月31日 日本政府、「日本臣民の生命と財産に対する脅威が継続していることを注視する」という声明を発表。総督府報告では、1月以来の3ヶ月で、国内侵入作戦が24回に達したとされる。

3月 洪範図、大韓義軍団の本営を明月溝から汪清県大坎子に移動。朝鮮国内に対する進攻作戦に備える。間島国民会は洪範図と連携。国民会軍(司令官は安武)は大韓独立軍と連合し征日第1司令部を設立する。

3月 北路軍政署、汪清県西大破の近く十里坪森林地帯に武官学校を設立。新興武官学校の支援を受け、教練を開始する。

20年4月

4.01 金性珠らが出資して、親日派の新聞「東亜日報」が創刊される.社長に就任した朴泳孝(一説に宋鎮禹)は、「民族主義・民主主義・文化主義」を社是とする.このほか時事新報も発行を許可される。

4.02 日本軍がウラジオストクに上陸。朝鮮人学校の閉鎖と朝鮮語新聞の廃刊を命じる。

4.04 日本軍、沿海州のソ連政府軍に武装解除を命令。これに従わない政府軍との間に戦闘が発生。日本軍は、一斉攻撃をかけ市街を制圧する。日本軍側は総計約500名、沿海州政府軍側は2000名以上の死者。

4.05 日本軍部隊が、ウラジオストクの「新韓村」を襲撃。日本側資料でも、独立運動家60名が逮捕され指導者が虐殺される。ニコリスク(双城子)でも韓人村に対する掃討作戦が実施され、最長老の崔才亨をふくむ幹部四人を射殺。これによりロシア領内で李東輝派の地盤は崩壊。

新韓村襲撃事件: 「四月惨変」とも呼ばれる。ロシア側資料によれば、殺害された者300人以上、連行された者380人以上、焼かれた家屋1000戸以上に及ぶ。被害者のほとんどは非戦闘員であった。ニコリスクで殺害された崔在亨は、李東輝の片腕として上海臨時政府の財務総長を務めた。

4.06 ザバイカル州勤労者代表創立大会、極東共和国形成に関する宣言を採択。ヴェルフネウジンスクに極東共和国が成立。レーニンの支持を受けたクラスノシチョーコフが共和国初代大統領に就任する。(クラスノシチョーコフの数奇な運命についてはウィキペディアを参照のこと)

4.06 シベリア・ビューロー、「極東ビューローの活動に関するテーゼ」を作成。極東ビューロー(ダーリ・ビューロー)の創設が決定される。極東共和国創建に備え,東方シベリア全領域の党およびパルチザン運動を統轄する。

当時のシベリア・ビューローは、シベリア革命委員会議長のスミルノフの指揮の下にあった。革命委員会は党シベリア・ビューローと赤軍第5軍革命軍事評議会を指導していた。

4.13 「東亜日報」、「朝鮮人の教育用語を日本語に強制することを廃止せよ」との社説を掲げる。

4.11 朴重華・呉祥根・車今奉・金明植・張徳寿ら、「朝鮮労働共済会」を結成。朝鮮初の労農団体となる。

4.24 シベリア・ビューロー外務人民委員部のガポン極東全権委員代理が、中国人、朝鮮人、モンゴル-ブリヤート人共産主義諸セクション 代表と会談。シベリア・ミッションに附属して「東方ビューロー」を組織することがきまる。ビューローはガボンを議長とし、中国人、朝鮮人、ブリヤート人か ら各2名の7名で構成される。

4.28 朝鮮皇太子李垠が梨本宮守正王長女方子と婚約。徐相漢は爆弾により李垠暗殺を狙うが失敗。

4月末 極東ビューローのウラジヴォストーク支部外国部、ヴォイチンスキーを上海に派遣。(この項は要確認)

4月 ニコラエフスクにつづきハバロフスクでも、日本軍と赤軍パルチザンとの激戦が展開される。

4月 申采浩、財政難から『新大韓』誌の発行を中止。北京へ移住し朴容万ら50人と共に「第二次普合団」を組織。かつての独立軍団の思想を引き継ぎ、李承晩による委任統治要請を糾弾し、武装軍事活動を唯一の戦術として採択。

4月 ウラジオの洪範図、日本軍への報復を目指し間島に進出。大韓独立軍の編成に取り掛かる。(洪範図の活動再開時期については異説が多い。これは新韓村襲撃と結びつけたもので、おそらく創作であろう。19年中には活動を開始していたと見るべきであろう)

20年5月

5月上旬 朝鮮総督府の赤池警務局長、奉天で張作霖と会談。日中共同“捜査班”を組織して、間島一帯の反日部隊を討伐する事を迫る。

5.09 学生1千名を集め、朝鮮学生大会が結成される。延喜専門学校、セブランス医専の学生が中心となる。

5.18 イルクーツクで第一回「東方ビューロー」会議。朝鮮人代表として蔡グリゴリ、李仁燮が参加。他にブリヤト人、中国人など計7人からなるビューロー指導部が結成される。各民族の革命的諸組織に積極的な援助を与える「事業計画大綱」を採択。

5.11 都督府(汪清県鳳梧洞)が主催して反日団体の連席会議。各団体が統一し北路督軍府を編成することで合意。洪範図の独立軍と都督府 (崔振東)、大韓国民会軍(安武)、琿春韓民会軍事部の部隊などが連合して大韓北路督軍府(北路軍府)を結成。(一説では11日の第一次連合に参加したの は北路督軍府、新民団、光復団、義軍団の4団体。27日の第二次連合が大韓義軍団と国民会議国民軍及び軍務都督府の3団体とされる)。

5.23 シベリア・ビューロー、ザバイカル州とアムール州のソヴェト化の必要性に関するテーゼを承認。極東共和国を「ソヴェト権力のザバイカル州およびアムール州」へ移行するよう動く。

極東共和国のヘゲモニー争い: シ ベリア・ビューローは極東共和国のヘゲモニーを握ろうと試みた。このため、極東ビューローのスタッフを更迭し、議長にホチムスキーを指名するなど自らの配 下に置こうとした。これらの決定はクラスノシチョーコフの同意を得ることなく決定された。少なくとも形式的には完全な越権行為であろう。
シ ベリア・ビューローはまた、ヴェルフネウジンスクの極東共和国政府を支持することによって、ウラジオストークに陣取るヴィレンスキーの動きをけん制した。 ヴィレンスキーは、シベリア・ビューローとチタ政権に対抗して「コミンテルン東アジア書記局」を上海に組織し、自ら臨時ビューロー議長を名乗った。ただし この組織はコミンテルン本部で認知されていなかった可能性がある。

5.27 北路督軍府の結成を受け、李範允の義軍府、義民団と新民団も連合して加入。総兵力は600人余りとなる。洪範図は「征日第1軍司令員」に任ぜられ、都督府にうつり、根拠地を鳳梧洞(今の図們市)に定める。

北路督軍府の装備: 機 関銃2丁、5連発長銃335丁、 38式長銃13 丁、30式長銃28丁、旧式長銃4丁で、合計で長銃400丁があり、これ以外に各種の拳銃18丁、手榴弾多数があり、食糧は充分だった。武器・弾薬は主に ソ連から購入した。ロシアの内戦過程で多くの兵站品が流出したため、軍資金さえあれば武器と装備の購入はいくらでも可能だった。また第1次世界大戦の時シ ベリアに出兵したチェコ軍が、撤収に際して武器を叩き売りした。

5月末 日本政府、3ヶ月にわたり中国政府との西間島合同捜索を実施。日本政府の依頼を受けた奉天の張作霖、西間島柳河県三源浦の西路軍政署への強 制捜査。幹部5人を逮捕する。徐によれば日本警察の上田隊、坂本隊は西間島各地で数百名の独立運動者を逮捕し殺害したといわれる。

5月 極東ビューロー所属の東方民族部、ヴォイチンスキーらをコミンテルンの工作員として上海に派遣。「コミンテルン東アジア書記局」を創設する。「東アジア諸民族の中の革命運動を支援し,日本,中国,朝鮮の革命的組織と強固な関係を確立すること」をめざす。

5月 ヴォイチンスキー、李東輝,金立ら韓人社会党の指導部と接触。「韓国共産党」に改編する。日本情報機関によれば、「在上海元仮政府軍務総長李東輝、腹心金立をチタに遣わし、露国労農政府の後援を得て約45万円の宣伝費を得る」とされる。

一説に、「20年春 上海で李東輝、呂運亨らが高麗共産党を結成。マルクス主義の文献を秘密裏に朝鮮国内に送る」とある。

20年6月


鳳梧洞の戦い

6.04未明 朴昇吉のひきいる大韓独立軍の部隊30人あまりが、和龍県の三屯子基地を出発。鐘城(チョンソン)北方で豆満江をわたり朝鮮に侵入。江陽洞国境歩哨所の憲兵巡察小隊を撃破した後帰還。(一連の事件の経過は、文献により相当錯綜している)

三屯子と江陽洞は、国境の日光山を挟みその両麓にある。山の東麓には豆満江を挟ん で図們と南陽が向き合っている。三屯子では独立派により新民党が組織され、その軍事部門である大韓新民団は大韓独立軍の傘下に入っていた。図們の当時の地 名は会幕洞(灰幕洞?)。33年に京図線の開業とともに図們と改称された。

6.04 詳細不明の独立軍部隊(新民党部隊とは別)が、江陽洞付近で鐘城守備隊のパトロール隊と遭遇。豆満江を挟んで銃撃戦を展開。

6.04 第19師団司令部は、いわゆる “越境追撃大隊”の出動を命令。会寧駐屯の歩兵第75連隊から歩兵1個中隊、羅南の歩兵第73連隊から機関銃1小隊を選出。安川二郎少佐が率いることとなる。(一説では追撃した新見部隊が撃退されたため、安川部隊が救援に向かったとの記載あり)

6.05 三屯子の戦闘。大韓新民団所属の独立軍部隊が、三屯子で追撃部隊と衝突。待ち伏せ戦を挑みこれを撃退する。(この項は真偽不明)

6.05 新見大尉が率いる日本軍南陽守備隊(1個中隊規模)と、山本憲兵伍長が率いる憲兵警察中隊が朴昇吉部隊を追撃。三屯子下流30キロで豆満江を渡り、峠を越えて三屯子を襲撃する。この時点で三屯子に武装勢力は不在。

6.05 夜9時、安川部隊、海蘭江と豆満江の合流点から30キロ下流で渡河を開始。

6.05 夜10時、三屯子付近に野営中の新見部隊に対し数十人の武装勢力による小規模な攻撃が加えられる。攻撃部隊はまもなく方面に退却。

6.06 安川部隊と南陽守備隊が後安山付近で合流。勢力は歩兵約200人、憲兵8人、警察10人の合計220人余りとなる。一行は吉林省汪清県に向け進軍開始。

6.06 夜、後安山の村で武装した活動家が、軍の偵察隊に反撃。小競り合いのすえ脱走に成功。

6.07 4:45am 活動家を追跡した討伐隊前衛に対し、李化日部隊が待ち伏せ攻撃。一斉射撃を加えた後、高麗屯の裏山を越えて北方に退却。討伐隊はさらに鳳梧洞に入り北進する。

鳳梧洞(ポンオドン): 豆満江から北側に入った渓谷の村で崔振東兄弟らの独立軍の根拠地の一つだった。

6.07 午後1時、討伐隊の全軍部隊が独立軍の待ち伏せ圏内に入る。独立軍が一斉射撃を開始。西側の尾根に出ようとした討伐隊を許ヒョン グン小隊が待ち伏せし、近距離で集中射撃を加える。許ヒョングン小隊を攻め落とそうと斜面を登る討伐隊に対し、東側斜面に隠れた崔明禄の部隊が狙い撃ち。 尾根への登上をあきらめた討伐隊は退却を図るが、新民団部隊に退路を遮断される。

6.07 4:20PM 戦場を突然の雷雨が襲う。日本軍残党は東尾根方向に血路を切り開き脱走に成功。安川少佐は脱出に成功したが、まもなく青山里の戦闘で戦死。

6.07 鳳梧洞の闘い。大韓北路督軍は「埋伏包囲作戦」を実施。日本軍の本隊を鳳梧洞の谷間に誘引し、両側の安山と高麗嶺から銃撃を加える。3時間に及ぶ激戦の末、日本軍 120人余りを射殺、殲滅に至らしめる。

日本軍死者数: 上 海臨時政府軍務部では157人射殺、中国の新聞『上海新聞報』では日本軍戦死者150人、負傷者200名あまり。北間島国民会通告文には敵の大隊長・中隊 長・准士官各1人、兵卒49人即死などとなっているが、日本軍の戦闘報告には、我軍戦死兵卒1人、敵軍(独立軍)33人となっている。
一般的にはBody-count出来る側の数字がより正確だが、「我が方の損害軽微」といって戦死者を隠す日本軍の統計テクニックがわからないと、一般市民の受容は難しい。

 


20年6月

6.09 モスクワから戻った韓人社会党の朴鎮淳ら代表二人が、イルクーツクの「東方ビューロー」と合同会議を開催。「ビューロー」をシベ リア代表部から切り離し、コミンテルンの東方部として編成することで合意。「東方事業」についてはガポンと朴鎮淳がモスクワの党中央委、外務人民委員部、 コミンテルンと協議することとなる。このあと「東方事業」は韓人社会党のイニシアチブで進むこととなる。

6.15 ロシア共産党シベリア・ビューロー(オムスク)の極東民族部、中国人・朝鮮人課(ゴンチャロフ課長)および「朝鮮人・中国人中心」をイルクーツクに移動。「東方事業」はシベリア・ビューローの直轄とし、外交代表部のガポンに事業の推進をゆだねる。

6月 内務総長に安昌浩が就任する。「民力養成論」を主張し、連通制(朝鮮内地との秘密連絡網)の組織化や機関紙『独立新聞』の発行、各種 の外交・宣伝活動が展開される。これらの活動の結果、臨時政府は中国、フランス、ポーランドから承認を受ける。李東輝総理らは、「即戦即決論」を唱え安昌 浩と激しく対立。

6月 中学生たちが「学生救国団」を結成。上海の臨時政府と連絡を取り、抗日文書を秘密配布するなどの行動を展開。

6月 金奎植、パリで仏文雑誌『自由大韓』(『LA COREE LIVRE』)を発行。

20年7月

7.07 第一回全露朝鮮人共産主義諸組織大会が、1週間にわたりイルクーツクで開かれる。大会は「全露韓人共産党」の設立を宣言するが、結党には 至らず。最高指導機関として「中央委員会」の設置に止まる。国民会など既存の在留団体の解散を決定。韓人社会党に対しては、「共産主義でない“社会党”に は正式な参加資格はない」との理由をつけ、「共産主義への合流を呼びかける」という形で従属をもとめる。

大会の実情: もともとは6月15日開催の予定であったが、シベリア・ビューローの反対で延期された。シベリア・ビューロー東方民族部は金哲勲らの共産党イルクーツク県韓族部を全面的にバックアップ。当初大会開催のイニシアチブをとった韓人社会党は排除される。

7.15 日本軍と極東共和国との間に停戦協定が締結される。このあとボルシェビキは韓国人の対日闘争を抑圧する側に回るようになる。

7.16 奉天の赤塚総領事が張作霖と会談。「中国側討伐軍に日本人軍事顧問が同行すること、中国軍が要求すれば日本軍も戦闘に参加する」ことで合意。吉林省政府は「日本軍の出兵は主権に係る重大な問題」としこれを拒否。

7.19 コミンテルン第2回大会。朴鎮淳が韓人社会党の代表として参加。極東担当の執行委員に選ばれる。朴鎮淳、劉紹周,マーリンらは上海に「極東ビューロー」を設立するよう提案したという。

7.22 シベリア・ビューロー、外務人民委員部と極東ビューローもふくめすべての活動家を「第3インタナショナル東方ビューロー」の名の 下に一括。すべてをシベリア・ビューローの管轄下に置く。(コミンテルンの下部組織でありながら、シベリア・ビューロー管轄下にあるものと構想されること 自体、矛盾を孕んでいる)

7.27 ロシア共産党(ボ)中央委員会、シベリア・ビューローに附属した「東方民族部」の創設を決定。東方ビューローを改編して吸収。東 方活動全権委員としてゴンチャロフ、部長にブルトマン、副部長にガポンが就任。当面の重点として朝鮮課、中国課を設立する。課長はいずれもロシア人。

東方民族部は組織的にはシベリア・ビューロー附属であったが、極東ビューロー、外務人民委員部などからもメンバーが加わった。そのためシベリア・ビューローと極東ビューロー、と東方ビューローの間の確執がそのまま持ち込まれた。

7月 都督府の崔明禄と洪範図との間で、不和が生じる。北路督軍府に東道督軍府が統合。洪範図が司令官を引き受ける。根拠地は延吉県依蘭溝の山奥にうつし、司令部傘下に4つの大隊を置く。三・一闘争軍は明月溝を経て和龍県に移動、崔明禄軍は羅子溝を経て東寧に移動する。

20年8月

8.01 金佐鎮・李青天ら、間島地方で洪範図とは別に大韓義勇軍を結成。金佐鎮を司令官とする北路軍政署は、李範奭を団長とする移動軍団を組織する。

8.06 ロシア共産党(ボ)中央委員会政治局会議は、「すべてのビューローを廃止し、もっぱら技術的な目的のために単独で行う個人的なエイジェントだけを許可する」ことを決定。極東では韓人社会党の朴鎮淳が承認される。(変な決定だが、それだけシベリア・ビューローの「コミンテルン」の名を借りた独走が目に余るものだったのだろう)

8.13 朝鮮総督府、琿春の日本領事館に文書で指示。「不逞鮮人の討伐に関し馬賊を利用せん」との計画があるが、この計画は承認しえないとする。

8.13 クラスノシチョーコフの訴えを受けたロシア共産党(ボ)中央委員会政治局、「極東共和国に関する小テーゼ」を承認。極東共和国に たいするシベリア・ビューローの干渉を禁止する。「党中央委員会に直接従属する極東ビューロー」が新たに作られ、極東共和国の内政および外交を指導するこ ととなる。これにより極東ビューローはシベリア・ビューローと同格の機関となる。

8.19 臨時政府,李東輝国務総理を解任。その後、李東寧・申圭植・廬伯麟が国務総理代理を引き受けた。

8.27 朝鮮日報、総督暗殺未遂事件を姜宇奎の義挙として報道。第1次無期停刊処分を受ける。

8月 国務総理を解任された李東輝は臨時政府を去り、モスクワにわたりコミンテルンとわたりをつける。李東輝と会見したレーニンは、「独立のための情熱と、テロリズムと軍事行動の心得はあるが、目的を達成するための方法を持っていない」と評価。

8月 「朝鮮軍」司令部による「間島地方不逞鮮人剿討計画」が完成。軽便鉄道を軍事用に収用、3000余の兵力で豆満江の防備を固める。

8.31 洪範図、明月溝の根拠地を離れ、安図県の白頭山麓に向けて移動を開始する。安武が率いる国民会軍は、依蘭溝の根拠地を離れ安図県 方面に向けて移動を開始。李相龍の率いる西路軍政署軍も安図県に到着。北間島国民会の李園、崔振東指揮下の都督府独立軍も、同じ頃に安図県へ向かったとい う。

当時の白頭山から老嶺一帯: 1920年頃の東部満洲は、その殆ど全部を原始林で覆われていたといってよいが、殊に松花江と牡丹江との間に存在して、幾多の支流の源泉となっている老爺嶺山地は卓越していた。森林の面積は実に八万平方キロに及んだ。南満現地の人はこれを「樹海」と呼び、公式には「皇帝の御猟場」と呼んだ。

8月 「長江好―部下1500人を率いる満州の馬賊―は邦人中野清助の仲介にて朝鮮総督府の嘱託に依り、大正九年八月頃柳河県三源浦の不逞鮮人を襲い、その首魁20余名を捕え、重要書類を押収」する。

8月 李明瑞、黄海道で九月山隊を組織。金時晄、平北・義州で普合団を組織。

20年9月

9.01 張作霖、日本側の要請に基づいて独立軍討伐行動を開始。

9.01 バクーで東洋諸民族大会が開かれる。コミンテルンの極東問題委員会(ジノヴィエフ議長)は、「中国,日本および朝鮮の労働者と農 民へ」というアピール草稿を作成。「東アジアにおける帝国主義との革命的闘争のため,あらゆる立派な革命家,中国,日本,朝鮮の共産主義者へ共産党の一つ の連盟へ結集すること」が提案される。

9.01 極東ビューローのハバロフスク全権大使ヴィレンスキー、モスクワに戻り、コミンテルン東アジア書記局の組織案を提案。

極東共和国はエスエスとメンシェビキを首班とする緩衝国として設立されたが、実質 的に指導していたのはボルシェビキの極東ビューローだった。チタに首都をおいていたが、ハバロフスクのヴィレンスキーは直接モスクワから派遣されていたた め、しばしば独立行動をとったといわれる。ただしヴォイチンスキーはハバロフスクではなくチタから派遣されている。

9.03 長江好の率いる「馬賊」が、琿春西北方約8里の大荒溝にある支那工兵兵舎を襲撃。34名の大部を拉致し武器全部を奪取する。

9.06 北間島汪清県の北路軍政署(総裁徐一、司令官金佐鎮)は、張作霖の「討伐隊」から退去を迫られ、西間島への移動を受け入れる。移動軍団は士官学校卒業生200余人、新規募集の兵士270余人を引率し、安図県に向かい出発。

移動の理由: 同じ時期、池青天が率いる西路軍政署の部隊が柳河県三源浦の根拠地を出発。西路軍政署に所属する新興武官学校(通化県哈泥河) の150名(一説に2千名とされるが、これも誇大)も、安図へ移動を開始している。洪範図の連合部隊はすでに二道溝付近に展開している。この移動行動は、 安図県の国境地帯に集結した後国内に一斉進攻する事を目的としていたとも言われるが、真相は未だに不明とされる。現場に詳しい洪範図らの勧めにより、長白 山麓の樹海の中に身を潜めようとしたのではないか,ともいわれる。

9.12 第一次琿春事件。午前4時に約400名の「馬賊」が琿春城を襲撃。指揮官は中国人の長好江(一説に子分の万順)。この襲撃で家屋100戸が焼失する。(一説では、拉致された者は中国人80人、韓国人6人で、邦人に被害なし)

「馬賊首領長江好の行動」(1920 年10月25日関東軍参謀部報告): 長江好(本名長鮮武29歳)は部下1500名を有する馬賊首領。黒龍江省 東寧県 老黒山地帯に本拠地を置く。朝鮮総督府の嘱託に依り、日本の為に活躍。八月頃、柳河県三源浦の不逞鮮人の首魁二十名を捕へ、小銃五百八十挺を焼毀。押収の 重要書類を携へ朝鮮総督府に出頭し、協議の上、二十名を銃殺。

9.12 琿春駐在の陸軍第2旅第2団第2営の将兵270人が反撃。北、西の城門に進撃するが、三度にわたり押し返されたという。(一説では、張作霖軍は「馬賊」の襲撃を傍観。一部兵士は略奪に加わったといわれる)

9.14 義烈団の朴載赫による釜山警察署に爆弾を投げつけ、署長死亡を死亡させる。朴載赫は投獄後、断食・自決。11月には崔寿鳳による密陽の警察署爆破事件。

9.17 西大破武官学校の第一期卒業式。この時点で北路軍政署の総兵力は1600人。このうち二個大隊600人が和龍県青山里へ進出(一 説に300人の教練将校と卒業生、民間人あわせて2000人といわれるが、誇大であろう)。武器装備は長銃1300丁、機関銃7丁、拳銃150丁とされ る。

一説によれば、第一隊は兵力1500余名で、訓練不足の歩兵と家族からなる予備隊で金佐鎮が率いる。第二隊は6百余名からなり、士官学生中心の実質的戦闘部隊で李範奭が率いる。

9.21 洪範図部隊は二道溝一帯に進出。山間部に基地を構える。安武が率いる国民会軍も同じ頃、漁浪村付近に到着。崔振東の軍務都督軍府は草帽頂子を経て汪清県羅子溝に到着。

9.27 モスクワでコミンテルンの極東問題委員会が開かれる。会議は「シベリアの一都市で極東諸民族の大会を招集する」ことを決定。朴鎮淳、劉紹周、吉原太郎から成る使節団をシベリアに派遣する。

9月末 このころ日本軍は、「安図県の森林中に三千人以上の決死隊員が集結し、茂山で開戦の計画」、また「10月11日を期し鮮地に侵入」等の情報を入手したといわれる。

9月 申采浩、「軍事統一促成会」を組織。第二次普合団を中核とし、分散した武装運動の指揮体系の統一をめざす。(普合団は19年に平北道で蜂起した旧軍人の率いる武装団体)

 


20年10月 第一次間島出兵

10月初め 会寧の第19工兵大隊、上三峯からさらに先1.5km下流に図們江日本軍用橋梁を建設。これを利用して日本軍が間島へ侵入する。

10.01 「馬賊」の襲撃の数時間前に、連絡を受けた琿春領事は、対岸の慶源守備隊(第19師団所属)と連絡したが、慶源守備隊は即時の出動要請に応じず。(おもな出所は「現代史資料(28) 朝鮮(四) 独立運動(二)」(みすず書房)という本のようですが、私は未読です)

10.02 第二次琿春事件が発生.長好江(一説に)ら馬賊400人がふたたび琿春を襲撃。「馬賊」は日本領事館分館、官舎など家屋40戸 に火をつけ、邦人14名、朝鮮人7人を殺害。高地に据えた37ミリ砲で威嚇しながら、邦人居留地から支那街にかけ、略奪をほしいままにする。さらに身代金 を目的に人質100人あまりを拉致する。

不逞鮮人: 部隊にはロシア人数名、「不逞鮮人」約100名、支那官兵数十名がふくまれていたが、領事館は「ただし不逞鮮人が独立団の分子なりや否やは判然とせず」と報告する。
一説に、実行部隊は万順と鎮東の連合軍とされる。長好江は西間島を地盤としており、琿春からはかなり離れているため、彼の犯行とは考えにくいという。やらせで邦人を大量殺害したとなれば、大変なことである。しっかりした物証が要求されるであろう

10.02午前 慶源守備隊の特務曹長以下10名の部隊が琿春の町に入る。すでに「馬賊」は略奪を終え町を去っていた。(途中で朝食をとったため遅くなったという説もあるが、「陰謀」説を補強する周辺事実の域を出ない)

琿春事件の背景: 日 本はこの事件を大々的に報道し、朝鮮軍出兵の口実とする。中国領土への出兵を正当化するためのデッチ上げだったという説もある。事件の犯人が中国人馬賊な のに、掃討作戦の目標が朝鮮人ゲリラだった事実、琿春ではなく龍山南方で作戦を展開したという事実は、特務機関の謀略説を補強する。

10.02午後2時 慶源守備隊、大庭朝鮮軍司令官の了解を得て、増援部隊80名を琿春に派遣。

10.03 羅南の第19師団(師団長は高島中将)所属の第37旅団(旅団長は東少将)、第73連隊(穏城)を中核とする「支隊」を編成。安部少佐を司令官とした歩兵1個中隊よび機関銃1個小隊が、琿春に派遣される。

第19師団の編成: 咸興の第37旅団と羅南の第38旅団からなり、それぞれが二個連隊より構成される(第73~76連隊)。師団長は中将、旅団長は少将、連隊長は大佐格が指揮。他に騎兵連隊、砲兵連隊、工兵大隊からなる。
こ れから下がちょっとややこしい。連隊は三個大隊と砲兵部隊(約4千)、大隊は4個中隊と砲兵部隊(約1千)、中隊は三個小隊(約200名)、小隊は4個分 隊(約60名)、そして分隊は10名となる。大隊長は中佐、中隊長は少佐、小隊長は大尉、分隊長は中尉ということになる。

10.04 第37旅団の東旅団長、東支隊を編成し琿春へ出動。安部支隊は東少将の指揮下に入る。

10.04 第38旅団の磯林旅団長、第75連隊(会寧駐在)から磯林隊(4個中隊)を編成し、汪清へ出動。これに第20師団39旅団78 連隊から上坂少佐が指揮する1個大隊、朝鮮軍直属の騎兵27連隊第3中隊、野砲兵第25連隊の2個中隊、工兵19大隊の1個中隊などが加わり「磯林支隊」 を構成。(この動きは師団の枠を超えており、しかも迅速な動員であり、計画的なものであったことが伺われます。)

東部戦線である琿春と汪清県一帯は、中露国境を背に琿春韓民会と新民団軍が活動していた。北路軍政署も一部部隊を残留させていた。汪清県羅子溝と老黒山一帯には独立府、光復団、義軍団、羅子溝議軍府などに属する約850人ほどの隊員がいた。
東 部戦線は反日部隊たちの元々の根拠地であり、民衆は反日感情が高く、組織化されていた。反日部隊はロシア革命派と密接な関係を持ち、武器を購入したり、聖 域として利用することが出来た。このため日本軍は、掃討作戦中も、東部戦線に大規模な軍勢を貼り付けなければならなかった。

10.04 38旅団所属の歩兵第76連隊は嘉村連隊長が率い龍井へ進出。

10.05 馬賊が安部支隊の通信所を襲撃。遺棄死体6を残して撃退される。馬賊は隊員800名まで膨れ上がる。

10.05 朝鮮総督府は平松警視を間島視察に派遣。平松は龍井村付近の情勢が悪化したとして、頭道溝・局子街・龍井村の3ヶ所に歩兵各1個中隊を派遣するよう依頼。第19師団長はこの要請に応じ、第37旅団(旅団長は東陸軍少将)第73連隊(山田大佐)を琿春に増派。

10.06 「琿春大虐殺事件」。安部支隊が琿春市内の朝鮮人を一斉逮捕。

10月6日 朝鮮軍、間島における本格的掃蕩作戦の開始を決意。参謀総長と陸軍大臣を通じ、間島出兵(剿討)の決裁を申請。同時に第19師団から、第38旅団第75連隊(牧大佐)の予備部隊を琿春に派遣。

10.07 日本政府閣議、琿春事件は「不逞鮮人らが支那馬賊及び過激派露人と提携して遂行した」ものと判断。「不逞鮮人討伐」を強行することを閣議で決定。主たる作戦地域は、延吉から白頭山にいたる間島地区とされる。

閣議発表: 「帝国 臣民を保護し、該地方に於ける不逞鮮人を一掃して、帝国、なかんずく朝鮮の治安を維持する」ため、「己むを得ざるもの」と作戦を合理化。作戦実施に際し、 支那(張作霖政府)との共同作戦をもとめるが、協力が得られなければ「自衛上止むを得ず単独に不逞鮮人討伐を実行する」と述べる。

10.07 日本国内の新聞は、陸軍の発表に沿って、「過激派露人」と結んだ「不逞鮮人」の残虐行為をを非難。一斉に「尼港の二の舞」と書き立てる。

10.08 参謀本部、閣議決定にもとづき、朝鮮駐屯軍司令官とウラジオストク派遣軍司令官に間島掃討作戦の開始を命令。徐によれば掃討部隊の総兵力は約5千に達する。

別宮氏は2万人としているが、磯林支隊やシベリア軍団をふくんでの数であろう。作戦は19師団の単独作戦であったという説があるが、根拠はない。主力は19師団であるが、作戦そのものは政府が公式に決定し、参謀本部が立案している。

10.10 朝鮮軍、情勢の変化に伴い、琿春の第75連隊の主力(4個中隊と騎兵小隊)を龍井村に移動する。司令官は山田大佐(連隊長)みずからがあたる。

10.10 ハルピン駐屯の関東軍第53連隊、韓中東鉄道に沿って吉林から進出。北へ撤退を図る反日部隊に対し阻止線をしく。シベリアの第11、第13、第14師団は、反日武装部隊が沿海州へ移動するのを阻止するため、張鼓峰から中ロ国境を越え進出。(この記事はあまりに煩雑になるので要旨のみ記述)

10.10 朝鮮独立軍は洪範図指揮下の六個中隊、崔振東の六個中隊からなる支援部隊を派遣。二道溝口の北方山中(一説では臥龍溝漁浪村の千里峰を中心とする山中)に展開。

朝鮮軍によれば、独立軍は、洪範図部隊300名、安武国民会250名、韓民会200名、義軍団100名、新民団1100名、軍政署600名という。単純に合計すれば2500名あまりとなる。

10.12 金佐鎮の指揮する北路軍政署軍、和龍県三道溝付近に陣を構える。

10.13 東旅団長の率いる第73連隊の2個中隊が龍井村に向かう。会寧の第19工兵大隊や羅南の騎兵第27連隊も加わる。

当初、朝鮮軍は磯林支隊のみで平定作戦が可能と考えていたようです。しかし西部の 青山里方面に独立軍が集中しているとの報を受け、東部戦線をがら空きには出来ず、琿春の東支隊を青山里方面に移動することになったものと思われます。もし 独立軍の移動を察知していなかったとすれば、韓国側のいうように「用意周到な作戦」だった、というよりも、かなり急場の泥縄式動員だった可能性もありま す。

10.14 日本政府は間島出兵声明を発表。

10月15日 作戦司令官の東第37旅団長が龍井村に進駐。本部を設営。この後、作戦参加部隊は東支隊と呼ばれることとなる。討伐部隊は、延吉省の「都尹」に対し、17日0時を期して軍事行動を始めることを通告。

東支隊の陣容: 参加部隊は第19師団のうち第37旅団(旅団長は東少将)に属する歩兵二個連隊のうち第74連隊の5個中隊と騎兵小隊(山田連隊長が指揮)、東少将に直属する第73連隊の2個中隊からなる。
師団直属の騎兵一個中隊、山砲8門、工兵2中隊、飛行機4。龍山の第20師団からも一部が参加。(「支隊」というのは作戦を小さく見せるためのカモフラージュにすぎず、一旅団の構成員数は8千人ほどになるので、その約半数が参加したことになる)

10.15 第37旅団の増援部隊は茂山に進出。四道溝で約300人の朝鮮人を逮捕。金佐鎮の北路軍政署軍の掃討作戦に乗り出す。

10月16日 金佐鎮の義勇軍主力は三道溝の村から老嶺山系山中の青山里に退避。

別宮氏のサイトにある間島出兵では、日本軍の動向が手際よくまとめられているが、「賊徒集団は地元民からの支持がなく」との記載は正確ではない。「義勇軍」はゲリラではなく、在満朝鮮人の自治組織に組み込まれた「正規軍」であり、軍学校を持ち兵士を養成していた。

10.17 龍井村の東支隊本部、500人あまりの賊が青山里付近にいるとの情報を入手し、前進を開 始。布陣は以下のとおり。①歩兵五個中隊を中心とする山田討伐隊が、金左鎮の北路軍主力を攻撃。②加納大佐の率いる騎兵連隊が北方に回りこみ、退路を遮 断。③第74連隊の二個中隊、機関銃一小隊、野砲兵一小隊が、東支隊長とともに頭道溝に進出し待機。④75連隊その他は龍井村に待機。

10.18 日本軍主力の山田討伐隊(5個中隊)が龍井村を出発。頭道溝で二手に分かれ、本隊(三個中隊)は八家子を経由し三道溝へ、中村 大隊(2個中隊)は二道溝口から漁朗村を経由し蜂蜜溝へ向かう。中村大隊の任務は、北路軍政署軍の北の退路を遮断することにあり、洪範図連合部隊の存在は 念頭になかった模様。

10.18午後 韓国側資料によれば、金佐鎮軍は西に進む日本軍を発見。白雲坪に誘い込む作戦をとる。おそらく三道溝方面に向かう山田討伐隊本隊のことであろう。

10.19 右翼を進む中村大隊が、蜂蜜溝西南3キロで40人の馬賊と遭遇。日本側の損害はなし、賊の2名が負傷する。(おそらく洪範図の部隊であろう)

10.19 北路軍政署軍と洪範図連合部隊が廟嶺で指導部会議。北路軍政署の玄天黙副総裁が、日本主力部隊に決戦を挑むことに反対。北路軍政署軍は待ち伏せ攻撃を断念し、青山里への撤退を決定。

10.19 頭道溝の東支隊本部、洪範図の率いるゲリラ500人が二道溝口北側の山中に潜伏との情報を受け、支隊予備の出動を命じる。(頭道溝西方六里という文献もあるが、ほぼ同一地域であろう。ただしこの時点ではすでに南方への移動を開始していたと思われる

10.19 東支隊本部、さらに天賓山の飯野大隊に、一中隊を現地に残し二道溝へ出動するよう命令。

天宝山: 間島の山中の鉱山。当然日本軍守備隊はいたと思われるが、飯野大隊が以前から駐留していたのか、討伐作戦の一環として配備されたのかは不明。いずれにせよ当初の布陣には記載されず、突如登場するのは奇異な感を与える。

10月20日 山田討伐隊、三道溝に到達。周囲の金佐鎮軍(約600名)はすでに山中の白雲坪に撤退。

10.20 韓国側資料によれば、金佐鎮部隊は明月溝で先着していた洪範図部隊と合流。合同して三道溝に進んだ後に分離。金佐鎮軍は上流の白雲坪に向かい、洪範図部隊は尾根を越えて西側の完楼溝に出る。(別宮氏は、「賊徒の行軍速度は1日5キロ、輜重部隊をもたないゲリラ部隊であれば、仕方がない」と述べているが、それにしても一日5キロは遅すぎる。白雲坪での迎撃準備態勢に入ったと見るのが自然か?

10.20 飯野大隊が東支隊本部に合流。洪範図部隊追討の右翼を形成。

10.20 木村大佐が指揮する第76連隊(磯林支隊)、北路軍政署の本拠地である汪清県西大坡と十里坪に侵入。さらに前進し西部戦線との連絡を遮断。さらに別の討伐隊は琿春川上流の密江上流地帯を掃討。作戦期間中、小規模な戦闘が繰り返される(詳細は略す)。

10月21日 白雲坪の闘い

これ以降5日間にわたる「青山里の戦闘」は、絶望的に情報が錯綜している。韓国側が資料検討をしないまま情 報を垂れ流していることに最大の原因がある。平凡社で出した「韓国歴史地図」でさえ、記述相互間に矛盾がある。神話を歴史教科書に平気で書き込むような国 の国民の一人としては、口幅ったい思いもあるが、史実として確定するためには、まずもって韓国側の厳密な資料検討が求められる。

10.21午前 日本側資料によれば、山田討伐隊は1個中隊(約100名)を選抜し、馬鹿溝高地に向け探索を開始。三道溝から4キロの地点 で金佐鎮軍の待ち伏せ攻撃を受ける。短い射撃戦(30分程度)の後、ゲリラは四散する。この戦いで日本側戦死者は4名。「賊は屍体16を遺棄壊走」し、老 嶺方面へと撤退(この戦闘報告によれば奇襲攻撃をかけた側の死者が受けた側より圧倒的に多いことになる)

10.21 韓国側史料によれば、金佐鎮部隊が白雲坪から山間に入った直沼付近で、安川少佐の率いる日本軍前衛部隊90名余(一個中隊のこ とか)を待ち伏せ攻撃。狭い谷間を進んだ日本軍を両側の斜面から挟撃。約30分の戦闘により全滅させる。(安川少佐は鳳悟洞の指揮官と同一人物)

白雲坪の戦闘: 一 説によれば、日本軍は死者450余名、負傷者60余名を出し、さらに相撃ちを繰り返し死者180名、負傷者70名を出したというが、安川部隊はせいぜい 100名程度で明らかに過大。また戦闘報告のディテイルが鳳悟洞と酷似していることから、「創作?」との疑いも棄てきれない。安川少佐が尾根を進まずに、 斥候も出さずに、鳳梧洞の轍を踏むだろうか? という疑問も残る。
また一説によれば、「金佐鎮の第一梯隊と李範奭の弟二梯隊あわせて2800人が、馬鹿溝を中心に5000の日本軍と激戦を交える」とあるが、これはおそらく李範奭の馬鹿話と思われ、にわかに信じがたい。

10.21 山田討伐隊、金佐鎮部隊を追うが見失う。午後2時に白雲坪に戻った山田討伐隊は、部落の住民約300人を焼き尽くし、殺しつくす。目撃者によれば、「白雲坪では三日の間、煙が上がっていた」とされる。(ここで山田討伐隊とあるのは、安川中隊のことか? 本隊もふくむのか? 詳細不明)

10.21夕方 山田討伐隊は部隊をまとめ、三道溝に集結。このあとこの部隊が戦闘に参加した様子はない。(これは青山里戦闘における最大のミステリーとなっている。別宮氏は撤退の理由を、「当時の歩兵は携行食糧を5日以上もてないため」としているが、頭道溝、あるいは龍井村に戻ったということか? 右翼の中村大隊も引き揚げたのか?) 

10.21 東少将の率いる「予備隊」(二個中隊規模)、漁浪村に進出し本部を開設。洪範図将軍は部隊を千里峰に隠し様子を伺う。予備隊は二道口子や蜂蜜溝附近を捜索するが、ゲリラ部隊を発見できないまま臥龍洞に宿営。

10.21 予備隊の右翼を形成する飯野大隊は道に迷い、南陽村(臥龍洞西方9キロ)に宿営。

10.21 北方から迂回し昇平嶺方面を目指した加納大佐の第27騎兵連隊、悪路のため五道陽盆から進路を変更し漁朗村に到達。現地で宿営。(予備隊の本部と合流したのか、村内の別の場所だったかについては不明)

10月21日 完楼溝の戦闘

10.21早朝 東少将の本隊、南万鹿溝に進出。飯野部隊は、これに呼応し南陽村から北万鹿溝に入り、洪範図部隊の退路を遮断しようと動く。(馬鹿溝と万鹿溝のいずれが正しいのか目下不明)

10.21 7:20am 完楼溝に陣取った洪範図部隊、万鹿溝の南北斜面から上がろうとする日本軍に対し、一斉射撃を開始。銃撃戦は4時間にわたり続く。

韓国側資料は、以下のように記載する: 洪範図部隊は巧みに高地から離脱。南北の掃討軍は互いに相手を敵と誤認し、同士討ちを繰り返す。さらに洪範図部隊が「予備隊」背方から攻撃を加えたため、「予備隊」は挟撃を受ける形となり壊滅、400人以上の損失を出す。

10.21 11am 洪範図部隊、高地を退却し、蜂密溝方向に撤退。(見事な戦闘であるが、残念ながら日本側にはこの戦闘に関する記載はまったくない)

10月22日 泉水坪の戦闘

10.22 02:30am 金佐鎮軍、夜を徹しての強行軍で、白雲坪から甲山村に到着。現地住民の情報により、泉水坪に日本軍騎兵小隊40人が駐屯していることを知り、ただちに戦闘準備に入る。

10.22 未明 金佐鎮軍の第二梯団が泉水坪の騎兵小隊を奇襲し壊滅させる。漁朗村の連隊本隊の反撃を予想した金佐鎮軍は、ただちに甲山村に向かい移動。第二梯団を迎撃のため泉水坪付近の874高地に残置。

泉水坪の戦闘について、韓国側の資料は錯綜している。一説によれば、21日に、洪 範図が統率する独立軍連合部隊、完樓溝で日本軍の追討部隊と対戦。漁郎村に引き込み島田中尉の騎兵中隊を泉水坪で撃破したとある。しかし洪範図の日誌によ れば、21日には戦闘はなかった。また、この時点で洪範図軍が対決していたのは予備隊と飯野大隊であり、騎兵連隊は圏外にあった。

10.22 午前5時30分 加納騎兵連隊の本隊(騎兵隊約250人、予備隊約600人)、漁朗村から泉水坪に進み、洞谷に達する。このとき、洞谷を見下ろす874高地南側に潜んでいた金佐鎮配下の士官生徒隊300人が一斉射撃を開始。まもなく急行した支隊予備隊も戦闘に加わるが、金佐鎮軍は数次にわたる嘉納連隊の突撃を阻止し、交戦は5時間に及ぶ。賊は山地に四散し、退却方面は判明せず。(韓国側資料によれば、日本軍は「密集隊伍で三回突撃を繰り返す」が、死傷者数百名を出して退却した、とされる)

10.22 12:30am 洪範図部隊を追撃中の飯野部隊約百名が、漁浪村泉水坪の戦闘に遭遇。そのまま戦闘に参加する。

10.22 午後0時30分 士官生徒隊、頑強な抵抗を続けたのち、飯野部隊の到着を見て874高地から撤退。日本側の文書では、日本軍戦死者3名、朝鮮側死傷者は60名に達する。(この項は、別宮氏による。なお加納連隊長戦死の情報は虚報と思われる)

10.22 午後1時頃 退却中の洪範図部隊、漁浪村泉水坪の戦闘に遭遇。そのまま戦闘に参加。青山里の戦闘の中で最大の会戦となる。戦闘はにらみ合いと小競り合いのまま、夕方7時半まで続く。

10.22 午後7時半 金佐鎮軍、闇に紛れて洪範図軍に連合。そのまま分散撤退に成功し、麻老溝に集結。(要 するに、この日の戦闘経過は、洪範図サイドによる脚色の疑いが濃厚である。ということは、洪範図軍は青山里では、ほとんど戦闘に加わっていなかった可能性 がある。金佐鎮軍の戦闘も、本隊を逃すためのやむを得ざる遅退作戦という傾向がうかがわれる。総じて日本軍の包囲網をいかに突破して逃げ延びるかというこ とが、独立軍側の目標ではなかったかと思われる)

10.24 金佐鎮軍、天宝山の鉱山を攻撃。日本守備隊1個中隊と交戦。さらに洪範図連合部隊も攻撃に加わる。日本軍は局子街の歩兵1個中隊と機関銃1個小隊を緊急派遣。(この攻撃は武器の奪取を狙ったものではないか。軍隊は補給がすべてであり、弾丸がなくなればただの群集である。独立軍側は874高地の戦闘で、すでに火力を費消し尽くしていると思われる)

10.24 天宝山で追討部隊と金佐鎮軍が交戦。このあと万麒溝戦闘、西溝戦闘などがあるが、いずれも独立軍撤退中の戦闘。

10.24 韓国側資料によれば、集場子で戦闘。日本軍数百名が大韓独立軍6百余名の奇襲を受け惨敗。機関銃1丁を奪われ、百余名戦死、20余名負傷、30余名が捕虜となる。大韓独立軍の負傷者はなし。

10.25 朝鮮軍司令官、陸軍大臣に戦況報告。「蜂蜜溝および青山里附近に於ける東支隊の戦闘に徴するに、金佐鎮の軍政署派と洪範図の独立軍とを合せ、機関銃等の新式兵器を有し約六千より成るが如し。従て他方面と異なり頑強に抵抗しつつあり」とする。(真偽は不確かだが、韓国側史料でも独立軍の総兵力は三千とされており、意外に強力な抵抗にあったため、独立軍の戦力を過大評価していることが伺われる。あるいは苦戦を強いられたことに対する言い訳かもしれない)

10.25 飯野隊が蜂蜜溝(豆満江水系)北方2キロの古洞河渓谷(松花江水系)に沿って、洪範図部隊を追撃。尾根伝いに索敵行動を展開。(別宮氏によれば、東支隊長が自ら支隊予備の歩兵150人と機関銃3を率い出動したとあるが、少将ともあろう人が、わずか150の兵士をみずから指揮するのは奇異な感じを受ける)

10.25 夜10時 日本軍の飯野追撃隊、宿営中の洪範図部隊を発見。ひそかに包囲体制をとる。

10.25 10時30分 飯野部隊が洪範図部隊に夜襲をかける。最後の戦闘となる古洞河の戦闘が始まる。洪範図部隊は混乱の中撤退。洪範図の回想によれば、この後逃げ出した独立軍部隊は崖の上から反撃し、かなりの犠牲を与えたという。

10月25日午後12時 討伐隊がゲリラ野営地を襲撃。ゲリラは四散する。捕虜の供述によればこのゲリラ部隊は、洪範図指揮下の300名 に、金佐鎮配下の30名を加えたものとされる。(この項、別宮氏による。韓国側資料でも300+50となっており大差ない。すなわち独立軍はこの時点でほ ぼ壊滅されたものと考えられる)

青山里の戦闘における日本軍死者数: 上 海臨時政府軍務部(「独立新聞」21.2.25号)は連隊長1人を含む1,254人、中国の新聞『遼東日日新聞』は2千名、この戦争に参加した李範奭は約 3300人と記述している。金春善は、目撃者証言などを参考に白雲坪戦闘で日本軍100余名掃滅、完楼溝戦闘日本軍約400人殲滅、漁郎村戦闘日本軍約 500人掃滅などと推定しているが、いずれにしても、脱出・逃亡を目指しながらの防御的戦闘という、闘いの基本的性格からすれば、戦果は過大である。
日 本軍側は白雲坪戦闘戦死者4人、漁郎谷戦闘1人、古洞河谷戦闘被害なし、と記録している。ただ、戦死公報を出すべき日本軍は死者の数をどの程度ごまかせる のだろうか?、という素朴な疑問をがある。(靖国神社に合祀されていないことを根拠にする説があるが、「靖国、靖国」というのは昭和になってからのこと で、この時点でそれほどの権威があったのかは疑問。また日露戦争後の合祀については、戦没者名の原簿が備えられるのみとなっており、しかも原簿の所在は現 在不詳となっている

10.26 独立軍は戦場を撤収し安図県の黄口嶺に到着。11月下旬には安図県北方の密山に再集結する。

徐は「ベトナムなど反帝国主義闘争が活発だった地域でも稀に見るほどの大きな勝利だった」としているが、賛成できない。個別の戦闘で見れば赫々たる勝利の実例は枚挙にいとまない。しかしディエンビエンフーの勝利の戦略的意義はそういうレベルではない。
こ の戦闘は戦略的に見れば防御戦であり、しかもその目標は達成できなかった。10年かけて作り上げた戦闘体制はずたずたにされ、支援組織は壊滅し、残存部隊 は流浪の民となった。独立軍の力を評価するほど、「闘うべきではない戦闘ではなかったか」という思いがぬぐいきれない。

10月 庚申年大虐殺。日本軍は半年にわたり北間島で焦土作戦を展開.2600人を虐殺、76人を強姦した。日本軍報告では射殺494人 (一説では375人)。逮捕・連行・行方不明607人(一説では583人)、焼却家屋は民家531、学校27、教会1、兵舎21におよぶ.とくに朝鮮人私 立中学校は「不逞団の策源地」として、すべて焼却・破壊された。

犠牲者数に関する異説: 独立新聞では、北間島4県の琿春県249人、旺清県336人、和龍県613人、延吉県428人。さらに完楼溝周辺で451人などで2000名あまり。現地、延辺大学の研究者によれば「反日軍民2600人余りが殺害された」とあり、このくらいが妥当なところか。
別 の説では、琿春県242人、延吉県1124人、和龍県572人、旺清県1501人の4県の他、寧安県17人、興京県305人、柳夏県13人、寬甸県及びそ の付近で480人などが加えられており、他の作戦による犠牲者が紛れ込んでいる可能性がある。最大のものでは「殺害されたもの1万5281人」となってい るがこれは眉唾。

10月 西間島での虐殺は関東軍所属19連隊と20連隊によって行われた。朝鮮総督府の「懇曲な委嘱」と資金支援により日本騎兵中尉だった 中野清助が率いる殺人機械部隊(長江好馬賊群含む)は、長白県直洞などいたるところで数百名の住人を虐殺した(三源浦で43人、興京県旺清門で305人、 寬甸県で495人、鉄嶺と寬甸の間の地域住民で殺害480人など)

10月 国内でも、咸鏡南道慶興で、日本軍5百名が朝鮮人を1カ所に集め集団虐殺、数百軒に放火したといわれる。

10.29 北間島の朝鮮人諸団体、合同して大韓国民団を結成。臨時政府の傘下に入る。会長に金虎、議事部長尹世復、軍事部長には金燦が就任。軍事部門は大韓義勇軍軍事会として統合される。

大韓義勇軍: 青山里での健闘を機に北路軍政署の権威は高まる。独立軍各部隊は北路軍政署の下に統合され、大韓義勇軍軍事会となる。さらに西路軍政署の独立軍、西間島軍備団と北間島国民会の軍事部も合流する。
司令官は政府からの任命を待って空席とし(後にハーグ密使事件の李儁の息子である李鏞が就任)、第一連隊長洪範図、第二連隊長金佐鎮、第三連隊長崔振東の三個連隊が編成される。ただし義勇軍主力は逃避行の真っ最中であり、この項の信憑性には疑問が残る。

 


20年10月

10月上旬 大杉栄が上海へ渡航。ヴォイチンスキーと会見した後、李東輝、呂運亨、陳独秀と会談を重ねるが、不調に終わる。

10.12 女性独立運動家の柳寛順が西大門刑務所で獄死。

10.22 極東共和国の人民革命軍がパルチザン部隊とともにセミョーノフ軍を殲滅。18年9月以来日本軍に占領されていたチタを解放する。

10.27 東方民族部の幹部会会議。ブルトマン、ガポンに加え朝鮮の李と朴、日本の吉原らが幹部を構成する。

10月 オムスクのシベリア・ビューロー本部で「全ロシア高麗人大会」を開催。韓人社会党側と、「高麗共産団体中央」およびシベリア・ビューローが激突し、後者の勝利に終わる。

10月 親日派の「東亜日報」、4ヶ月の停刊処分を受ける。

20年11月

11.05 中国官員の張巡師ら、外交総長に報告を提出。“(日本軍は)墾民たちの部落を町中燃やし、農民を殺害した。行く先々に燃え尽きた家と死骸があった。このような惨殺は人間性とは相反する”と糾弾する。

11.11 チタで極東諸州各政府の合同会議が開催される。会議は「バイカル湖から太平洋に及ぶ極東領土」を自主独立した共和国と宣言。各政府の解消と極東共和国への統一および極東共和国憲法制定会議の召集が決まる。

11.20 コミンテルン、シベリア・ビューローのイニシャティヴによる東方民族部の再組織化を指示。シュミャツキーが全権を委任される。 イルクーツクからヴェルフネウジンスクへ移って独自の書記局を組織することとなる。東方民族部の管轄もシベリア・ビューローから極東ビューローに移る。極 東ビューロー内に「韓人部」が設立され、韓人社会党側の新たな拠点となる。(これに前後して、シベリア・ビューローもオムスクからイルクーツクに移動した と思われる)移動。

11.24 極東共和国政府と極東ビューローは、首都をベルフネウジンスクからチタに移転。

ヴェルフネウジンスクは現ウランウデ。バイカル湖をはさ んでイルクーツクの対岸の町で、シベリア鉄道の要衝。チタが日本軍の占領下にあったあいだ、極東共和国の首都となった。実際にはここに書記局が置かれるこ とはなく、極東ビューローの独立にともない、チタに書記局が置かれた。しかし種々の利便から、チタよりもイルクーツクでの活動が主体となった。

11月 シベリア・ビューロー、アジア地域を担当するコミンテルン書記局の創立計画を立案。これによれば、コミンテルンはシベリア・ビュー ローの協力の下に、極東諸民族内での活動を直接指揮下におくこと、ヴェルフネウジンスクに独自の書記局を組織すること決められる。この提案をめぐって極東 共和国および極東ビューローとのあいだに激しいヘゲモニー争い。(前項との前後関係は不明)

11月 モスクワの朴鎮淳、コミンテルンから供与された40万円の宣伝費を持ってチタに到着。イルクーツク派の資金強奪を恐れ、モンゴルを迂回したという。朴鎮淳らは朝鮮国内、上海、間島などの共産主義勢力の結集を図る。

11.25 朝鮮軍司令部、年末に予定していた武器の保有状況調査を翌年に延期する命令。22年4月の19師団報告書では「装備品の欠員なし」とされており、この間に補充がなされたのであろう。

11月末 日本軍、討伐行動を打ち切る。一部残留部隊を除いて間島地方から撤兵。「殲滅的打撃ヲ与フル能ハス」、中心的人物の大部分を逸したと総括。

20年12月

12.21 「シカゴ・デイリー・ニュース」、J・B・Woodsの現地取材記事を掲載。「日本軍の報復攻撃は、独立軍を支えた一般朝鮮人に対して行われている。大部分の独立軍は北部地方に移動し、依然として日本に抵抗を続けている」と述べる。

12.21 チタの東方民族部、ウラジオストクに支部を創設。日本軍との戦闘に向け、朝鮮共産主義者の組織化と統合に着手する。西路軍政署、大韓国 民会軍、北路軍政署、大韓独立軍、大韓義勇軍、光復軍総署などのゲリラ残党が「大韓独立軍団」に統合。ウラジオストックに本拠を置き活動再開を図る。

12.21 シベリア・ビューロー東方民族セクション、朴鎮淳をクラスノシチョーコフの手先と非難。これを保護する極東ビューローにも批判を加える。(上記の記載とあまりにも異なり、戸惑うばかりである)

12月 朝鮮各地の84の青年会をあわせ朝鮮青年会連合会が結成される。非政治的組織として啓蒙・修養活動を続ける。インテリによる労働者・農民の啓蒙、相互扶助、講習会を中心に活動。

12月 上海臨時政府の大統領朴殷植、『韓国独立運動之血史』を表わし、青山里戦闘を紹介。この後、李承晩が米国より上海に移動し、臨時大統領に着任。

12月 大韓独立軍、韓族会、青年団連合会は大韓民国臨時政府傘下の光復軍指令部に統合される。

12月 義烈団の崔寿鳳(敬鶴)、密陽警察署に爆弾を投げ込む。

12月 朴鎮淳が金立とともに400万ルーブリの活動資金を持参し上海にはいる。

20年 日本警察の記録によれば、独立軍が警察駐在所を襲ったり、国境守備隊と交戦した回数は、1年間で1600回に達する。

 

1921年(大正10年)

21年初め 臨時政府の弱体化に直面し、安昌浩らが「国民代表会議」の招集を要請。金立ら共産主義者もこれに賛同。

21年1月

1.02 徐載弼、ハーディング大統領と会見し韓国独立への支援を要請。

1.05 ロシア共産党中央委員会、極東にコミンテルンの代表部を確立することを決定。極東書記局がイルクーツクに創設され、東方民族部の活動を引 き継ぐ。シュミャツキーがコミンテルン極東代表(コミンテルン全権委員兼第5軍革命軍事評議会委員)となり、ガポンはシュミャツキーの指揮下に移る。書記 局はソヴィエト・ロシアおよびコミンテルンと、東アジアの革命運動を結びつけるための「中間指導機関」として位置づけられ、「中国、日本、朝鮮、チベット およびモンゴルにおけるすべての共産主義事業と革命事業を調整する」こととなる。

1.10 朴鎮淳の資金を受けた李東輝は、上海で韓人社会党代表会議を召集。政務会議に「刷新議案」を提示。独立戦争を遂行する政治・軍事体制を確立しようと試みる。一説には臨時政府のロシア領への移転を提案したとも言われる。

1.14 「西間島・北間島代表者」名で、上海の「独立新聞」87号論説を批判。「独立運動をおとしめ、多数の生命を犠牲とした各団体を批評し、在米国民会にのみ依頼しようとする」ものとする。「独立新聞」は続刊不能となり、主筆の李光洙は朝鮮に帰国する。

1.15 コミンテルン執行委員会、シュミャツキーを極東全権として任命し、民族部の再編作業を委ねる。東方民族部の職員と資産は極東書記 局に移動。書記局は100名弱の人員と自前の建物や付属の宿舎を有し、自動車や馬車、図書館なども保有する大所帯となる。これにより、シベリア・ビュー ローが書記局の実権を掌握。

1月 書記局は、朝鮮人共産主義者グル-プをコリア・ビュ-ロ(後のオルグ・ビュ-ロ)として編成。朝鮮国内に共産党を創立するための工作 を開始する。前身がシベリア・ビューロー付き極東民族部(1920.7)であったことから、実質的にはコミンテルンとシベリア・ビューローの二重指揮とな る。

1.24 李東輝、臨政内部での抗争に敗れ国務総理を辞任する。「宣布文」では「刷新議案を政務会議に提出したるに、一言の審議もなく無視され、自分の実力を以てはこの難関を切り抜け難し」と抗議。李承晩は後継総理に李東寧議長を任命。

1.27 左翼系活動家を結集し、ソウル青年会が組織される。

1月 日本軍の弾圧を前に、西間島地方の独立運動団体が南満統一会を開催。「統義府」を結成。西路軍政署責任者の李相龍が中心となる。(下記の大韓独立軍との関連は不明)

1月 密山会議。義勇軍残党が興凱湖近郊の鉄道町密山に結集。合同会議を開き「大韓独立軍団」が成立。国民会軍(安武)、軍務都督府(崔振東)、大 韓独立軍(洪範図)、北路軍政署(金佐鎮)、西路軍政署(李青天)など8つの韓国人の独立軍部隊が統一される。統一に功績をあげた徐一が総裁に就任。副総 裁に洪範図、金佐鎭、曺成煥。軍組織は総司令官に金奎植(上海臨時政府の金奎植とは同名異人)、参謀総長に李章寧、旅団長に池青天、中隊長に金昌煥、趙東植、尹ギョング天、呉光鮮などを任命。

後に発表された間島地域諸団体の共同声明によれば、「大韓義勇軍ニ参加セル団体ハ 光復団、軍政署、義軍府、都督府、血誠団」であり、これにロシア領内の朝鮮人部隊が加わっていた。「参謀部員ハ洪範図、安武、徐一、曹昱、李青天、李鏞、 蔡英、崔振東、呉夏黙等十五名」であった。
「自由大隊」の呉夏黙によれば、合同民族連隊は、間島部隊1400名をふくめ、合計5000余名に達したとされる。

1月 金思国・李英ら、朝鮮青年連合会から脱退して「京城青年会」を結成。ソウル青年会を中心に、ソウル派と呼ばれる共産主義グループが形成される。

1月末 大韓独立軍団、密山からロシア領イマンへ越境。さらにアレクセ-エフスク(自由市)に向かう。

21年2月

2.08 シベリア・ビューロー韓人部(後のイルクーツク派)はコミンテルン書記局に従わず、独自の「高麗共産党」設立に動く。シュミャツキーが韓人部会議に直接乗り込み、服従を命令するが、韓人部側はこれを無視する。

2.15 親日派の巨頭閔元植、東京ステーション・ホテルで留学生梁槿煥により刺殺される。

2月 李東輝、上海を立ちロシア領イマンへ移動。独自に独立戦争の開始を準備。

21年3月

3.05 日本政府、シベリアの守備線を縮小。ザバイカルと黒竜江方面から撤退し、「概ネ東支鉄道沿線及浦潮地方ノ沿海州」に兵力を集中。

3.17 東亜日報、「ハバロフスクに集結した朝鮮人3000名が、露国過激派4万人の援助を受け、密山県大甸子地方に軍政署や他の諸団体を召集。イマン地方では李東輝が武器の買い入れに奔走している」と報道。

3月 合同民族連隊約3000人が、氷結したウスリー江を渡り、ロシア領イマンに移動。

3月 イルクーツクの「ロシア共産党韓族部」のロシア籍・韓人で編成された「ロシア歩兵自由大隊」、自由市に集結。極東地域の解放を目指す。

21年4月

4.07 朝鮮軍司令官、日本軍が間島地方より撤兵を完了したと声明。

4.08 3日間のハバロフスク攻防戦。日本軍は280人にのぼる死傷者を出して後退。大韓義勇軍はイマンからさらに北へ移動。黒竜江を越えスヴォボードヌイの兵営に入る。呉夏黙らロシアの朝鮮人「自由大隊」の援助を受ける。

スヴォボードヌイ(自由市): 革命前は皇帝の名をとりアレクセーエフスクと呼ばれた。ボルシェビキのチタ地方政権が朝鮮人の活動を保護したため、「韓人総会」などの抗日グループが数多く存在した。このため朝鮮人はアレクセーエフスクを「自由市」と呼んだ。

4.19 申采浩、李会寧、朴容万、申粛ら54名、北京で軍治統一籌備会を開く。武装独立運動を主張し、大統領李承晩を糾弾する声明文を発表。上海臨時議政院にあてて、「三日以内に議政院を解消すべし」と要求、新たな国民代表会議の招集を決議する。(民族左派から蛇蝎のごとく忌み嫌われていた李承晩がなぜ大統領の地位にとどまりえたのか、彼を支えたのは誰だったのか、今ひとつ不分明なところがある)

4.27 北京にシベリア、南北満州、ハワイ、国内八道など十団体の代表が集まり、「軍事統一籌備会」が開催される。北間島から国民会の姜 九万、西間島からは西路軍政署の宋虎らが参加する。①義勇軍の指揮権、②李承晩の委任統治請願の評価、③ソ連からの資金の不正使用などをめぐり論争が繰り 返され、組織的統一には失敗する。

4月 「自由市」で徐一と「高麗革命軍政評議会」の全権代表オホラ(Okhola)が会見。オホラは、大韓義勇軍の「極東国際革命軍」への編入と呉夏黙の「自由大隊」の指揮下に入ることをもとめる。徐一はこれを拒否し、サハリン義勇軍の朴イリアとともに抗日戦に備える。

4月 徐一、金佐鎮ら北路軍政署系部隊は、自由市を離脱して汪清県方面に戻る。

4月 上海臨時政府の李光沫、総督府の懐柔を受け帰国。「東亜日報」に入社。「屈折の人生」が始まる。

21年5月

5.23 上海フランス租界で高麗共産党(上海派)代表大会。李東輝を党議長に、金立を秘書長に選出。呂運亨,趙東祐らが結集する。シベリアの韓人社会党も高麗共産党に改編される。党勢拡大のため中央委員金河球を満州に派遣。

5月 ロシア生まれの朝鮮人金哲勲、南満春ら、イルクーツクで第1回韓人共産主義者大会。コミンテルン極東書記局の指導に従い、同名の高麗共産党を設立。「イルクーツク派」と呼ばれる。

5.17 李承晩、臨時議政院に教書を送る。「意外ニモ閣員中辞職スル者多ク」と失政を告白。

5.20 上海の韓人社会党、“高麗共産党”に改称することを決定。シュミャツキー率いる極東書記局が批判的な動きを示したことから、朴鎮淳はコミンテルンとの協議のため上海からモスクワに向かう。

5.29 上海で高麗青年会が結成される。崔昌植が指導し、元世勲がコミンテルンとの仲介役を果たす。呂運亨や朴憲永も高麗青年会の創設メ ンバーとなる。呂運亨は国民党と中国共産党にも二重加入。高麗共産党から出版された「共産党宣言」を朝鮮語訳するなど活動。(青年会はこの後、反李東輝派 の傾向を強める。呂運亨は高麗共産党のソ連軍資金不正使用に激怒したようである)

5月 日本軍、国際的抗議を受け間島から撤退。

5月 西間島独立軍の金東三、呂準ら、「政府改造」と「委任統治請願主唱者の退去」を勧告。容れられぬ時は臨時政府から脱退すると通告。

21年6月 自由市惨変(黒河事件)

6.22 極東共和国政府、スヴォボードヌイ(自由市)の大韓義勇軍(約4千名)に対して、武装解除と人民革命軍への編入を指示。

6.28 装甲車2台、機関砲30丁で重装備されたオ・ホルラの部隊がサハリン義勇隊を攻撃。部隊は36人が死亡、行方不明60人で、武装解除された人員は860人に上る。

6.28 サハリン義勇隊の救援に向かった独立軍、ソ連軍の攻撃を受け、戦死者272名・溺死者31名・行方不明250名・逮捕者917人を出す。スヴォボードヌイからの脱走に成功したものも、途中で多くが犠牲となる。数百名の将兵を失った洪範図は軍事行動を停止。

6.28 独立軍1500名は武装解除され、イルクーツクの赤軍に強制編入される。李青天はイルクーツクに同行し、軍事教練をゆだねられる。捕虜は貨物車でイルク-ツクに運ばれ、獄中で暗殺された者もおり、或いは北シベリア炭坑で強制労働させられる。

6.28 イルクーツクの李青天、ソ連軍上層部との意見の衝突から逮捕され、反革命分子の汚名を着せられる。李東輝らの救援工作と上海臨時政府からの抗議により釈放される。

6月 イルクーツク派は、沿海州の韓人部落を拠点に勢力を拡大。間島地方にも進出し「間島共産党」を設立。

6月 李承晩、「太平洋会議」に向けたロビー活動のために上海を去る。その後上海には戻らず。

21年7月

7.01 中国共産党が結成される。

7.07 李承晩、ハワイに戻り同志会を組織。

7月 間島地域各団体の代表者が「声討文」を発表。自由市で大韓義勇軍が露兵と戦ったことを明らかにする。声明文によれば、ロシア領内の 「韓人ノ自治機関タル韓族会」は「全大韓民議会」と改称し、「自己勢力発揮ノ為メ大韓義勇隊ノ存在ヲ邪魔トシ」ロシア兵を扇動して虐殺を行った。

8月 大連で極東共和国と日本との国交回復交渉が始まる。これに伴いソ連は朝鮮人の独立闘争を抑圧する側に回るようになる。

21年9月

9.12 義烈団のテロリスト金益相(本名は金鳳男)、電気工夫に扮し朝鮮総督府庁舎に潜入。秘書課・会計課に爆弾を投げつける。爆弾不発のため要人暗殺には失敗するが、数々の非常警戒線をくぐり抜け満州脱出に成功。独立英雄となる。

9.12 釜山で埠頭労働者のゼネストがはじまる。

9月 李光洙、東亜日報で「民族改造論」を主張。その後雑誌『開闢』で所論を全面展開する。

10.24 間島で大韓国民団が結成される。軍備団、興業団、大震団、太極団などの小部隊が結集。団長に金浩が就任。

21年11月

11.29 東京の無政府主義者が黒濤会を創立。金判権、金若水、朴烈、曺奉岩らが参加。朝鮮国内では無政府主義者が「黒色青年同盟」を組織。申采浩(当時41歳)が指導。

11月 李東輝、モスクワでレーニンと会見。政党組織と軍事勢力編成のための財政援助を求める。臨時政府に対抗して民族主義政党を創立することで合意。レーニンは50万ルーブルの支援を約束。現金の受け渡しを安秉讃に依頼。(この日付は多くの異説がある)

11月 別の説によれば、李東輝と朴鎮淳、モスクワに赴きソビエト政府に訴えて事態の打開を図ろうと試みる。上海大韓国民団の呂運亨を巻き込んだイルクーツク派は、李東輝を圧倒。呂運亨はコミンテルン資金不正使用問題を理由に李東輝を追い詰める。

11月 ワシントンで米国・英国・フランス・日本など9カ国が参加し、ワシントン軍縮会議が始まる。日本は山東半島、シベリアからの撤退を求められる。

21年末 高麗共産党(上海派)の金河球、高麗共産党満州総監府を敦化に作り国民会会員の具春先、姜九禹、馬晋たちを掌握。間島、熱河などに党組織を拡大する。

 

1922年

1922年1月

1.19 ソウルで「無産者同志会」が結成される。3月には「無産者同盟会」と改称。講演会などを開き、社会主義思想を広める。

1月22日 モスクワでワシントン会議に対抗し、1ヶ月にわたり極東被抑圧諸民族大会が開かれる.コミンテルン第2回大会におけるレーニンの「植民地、半植民地に関するテーゼ」に基づいて設定されたもの。(一説に極東勤労者大会とされる)

1月 大会は、さながら高麗共産党両派の対決の場となる。民族代表数は148名、そのうち上海派、イルクーツク派双方から計52人の朝鮮人 が出席する。大会議長団には呂運亨,金奎植、金丹始、金元慶(女性)ら4人の朝鮮人が選出されるなど、イルクーツク派が主導権を獲得.ほかに金在鳳,朴憲 泳,趙東祐らのちの「共産青年会」創建の中心となるメンバーが参加.

レーニンは、呂運亨、アメリカから参加した片山潜と会談。レーニンは日本革命と朝鮮独立が同一線上にあると強調。両者にこの目的のため共闘するよう説得。呂と片山はこの説得に心から同意したという。(李萬珪著『呂運亨闘争史』)

1.23 「関東都督府政況報告並雑報」によれば、上海臨時政府はロシアの労農政府から軍事援助を獲得。これと引き換えにソヴェト支持を求められたという。

1月 極東民族大会に参加した安秉讃、ソ連政府からの援助資金を携え上海に向かう途中、満州里で襲われ殺害される。資金は奪われる。安秉讃は安重根の弁護を担当した弁護士で、上海臨時政府の法務次長。高麗共産党上海派に加盟していた。

22年初め 尹福松ら、ロシアから延辺に入り、李周和、李麟求らとともに「間島共産党」を設立。後にイルクーツク派と連合して火曜派を形成する。李周和・鄭重渉らは「光明会」と呼ばれる研究会を組織。

1922年2月

2.04 東京の朝鮮人高等学生同友会、『同友会宣言』を発表。最初の階級闘争宣言とされる。

2月 ワシントン会議が閉幕。韓国の独立問題は議論されず、日本の国際的地位を確認。外交活動での事態進展にかけた臨時政府執行部は苦境に追い込まれる。

2月 李承晩が国際連盟に対し朝鮮の委任統治を請願したことが明らかになる。上海臨時政府は、この問題の扱いをめぐり内紛に陥る。

2月 高麗共産党上海派の金立は上海市内で「臨時政府」派により暗殺される。彼の持参したソ連の支援金は、臨時政府により着服されたといわれる。呂運亨らは逆に李東輝派が私消したと非難。

3.01 釜山紡績工場で、職工 500人余が賃金引上げを要求して同盟罷業。

3.28 義烈団、田中義一陸軍大将の上海訪問にあわせ、暗殺を計画するが未遂に終わる。呉成崙、金益相、李鐘岩(梁健治)が実行犯となる。

3.31 無産者同志会と新人同盟会が合同し、無産者同盟会を結成する。

4月 イルクーツクの高麗革命軍官学校の校長を務める池青天、民族主義教育をめぐり政府及びコミンテルンと対立。死刑宣告を受ける。

5.01 朝鮮労働共済会が、最初のメーデー記念式を挙行。覚皇寺でメーデー記念講演会を開催。

5.01 東京の第三回メーデーに在京の朝鮮人が初めて参加する。

22年6月

6.20 間島で二道溝事件が発生。馬賊団が統義府の所在地を襲撃する。

6月 「国民代表会議」が上海で開催される。改造派と創造派の対立が解消されず、散会となる。

6.23 日本政府、シベリアからの撤兵を決定。

7月 池青天、上海臨時政府の抗議と民族リーダーの救命運動により釈放され、満州に戻る。

7.15 中国に引き続いて、日本でも共産党が創立される。

8月 山川均、雑誌『前衛』に「無産階級運動の方向転換」を発表。「山川イズム」として一世を風靡する。

8月 桓仁県で光復軍司令部、韓族会、光復軍総営、光韓団が合同し大韓統軍府を組織。馬賊の襲撃に備える。

22年9月

9.11 平南道成川で、独立派ゲリラ20人あまりが駐在所と面事務所を襲撃。

9.20 全羅南道の霊岩普通学校の学生、韓国の唱歌と歴史を教えないのに抗議して同盟休校。

9月 上海で臨時政府を含む独立運動諸派の特別会議。上海臨時政府が改編される。大統領制が採用され、あらためて李承晩が大統領に選出される。李承晩は20年初めに李東輝と衝突し、米国に戻っていた。李東輝は議論に参加するも米国派の前に敗北。上海を去る。

9月 日本共産党創立綱領、朝鮮の解放について記述。この綱領はソ連崩壊後にモスクワで発見された。

綱領の朝鮮部分: 日本帝国主義のすべての犯罪の中でも最も悪名高いのは、朝鮮併合と朝鮮人民の奴隷化である。日本共産党は、たんにその行動を非難するだけではなく、朝鮮人民の解放のために必要なあらゆる措置を講じる。
 
朝鮮革命は日本における民族的危機をもたらすであろうし、朝鮮と日本の双方のプロレタリアートの運命は、二つの国の共産党の統一した努力によってもたらされる闘争の成功ないし失敗に依存するであろう。

22年10月

10.01 金九・呂運亨・趙尚燮、米国派が主流を握った臨時政府に対抗し、上海で韓国労兵会を組織。独自の資金調達ルートの開拓と独立軍の養成に乗り出す。

10.15 上海で「大韓民国」国民代表会議が開かれる。安昌浩らが率いる「改造派」は、李承晩の後継者を決定して臨時政府を改造継続しようとはかる。これに対し「新大韓」主筆申采浩ら「創造派」は、臨時政府の正統性を否認し新しく独立政権を創造しようとはかる。

10.15 ウラジオストクに戻った李東輝、新韓村を中心に大韓国民議会を組織。崔才亨とともに共同議長を務める一方、臨政軍務総長として実権を掌握。

10.18 姜達永ら、朝鮮労働共済会を母体として朝鮮労働連盟会を結成。社会主義に立脚し改良主義をきびしく批判。

10.22 雑誌「新生活」、「自由労働組合の趣旨文」を掲載。当局は共産主義思想を宣伝したとして、社長・編集者・執筆者を拘束、販売を禁止する。

10.25 日本軍、シベリアからの撤兵を完了。4年2ヶ月のあいだに約24万が参戦。8億円近い戦費と戦死者約5000名を出しながら、なんらの戦功もあげることなく終わる。

1922年11月

11.04 朝鮮総督発陸軍大臣宛電報。①赤軍が豆満江の朝鮮・中国国境に接近。その先頭に「鮮人ノ部隊」が立つ。②ノウキエフスキーには「約二千の赤色鮮人が入り込み、共産軍の名をもって国事をなす」とされる。

11.11 朝鮮労働同盟会が結成される。

11.15 ソビエト社会主義連邦共和国が成立、「極東共和国」はロシア共和国に統合され消滅。

11月 東京の留学生ら、社会主義を基礎とする北星会を組織。金若水が指導。民族独立と社会主義思想の普及を目的とする機関紙『斥候隊』、『前進』を発行した。のちの一月会、新幹会へとつながっていく。

北星会: 金若水は元「黒濤会」の幹部。「黒濤会」は無政府主義を志向する朴烈の一派と、社会主義を志向する金若水の一派の対立により解散した。

11月 コミンテルン第4回大会。「東洋問題に関するテーゼ」が発表された。「反帝連合戦線戦術」を提起し、中国に対しては国共合作に対する指導、インドに対してはブルジョアとの協力問題、韓国に対しては伝統的支配勢力との連帯を論議した。

11月 コミンテルンの指示により、両派高麗共産党の連合大会が開催される。この時点ですでに李東輝が去り金立を失った上海派の勢力はほぼ消失。上海派が勢いを失うにつれイルクーツク派の勢力が拡大。党員数は4433人に達する。

1922年11月

12月 高麗共産党がふたたび分裂。コミンテルンは両派共産党の解体を通告し、コミンテルン極東総局に高麗局を設置。一国一党原則による唯一朝鮮共産党組織結成に向けて努力するよう指令。これにより李東輝派の正統性は完全に失われる。

22年 義烈団が安東で「武装示威行動」を展開。マルティンと呉成崙が指揮し、安東のイギリス商社のG.L.ショウ(アイルランド人で“サオ”と呼ばれていた)の手引きで、鴨緑江大橋の爆破を狙うも発覚。50人が逮捕される。

22年 桓仁縣で、南満洲の多くの独立運動団体が統合して統義府を結成。

統義府: 諸説紛々 だが、現時点(09年5月)での編者の認識を述べておく。青山里の戦闘・自由市での解体を経て、満州での武装闘争はいったん消滅するが、22年頃から旧兵 が各地で集団を再結成し始めた。これが西間島の桓仁県で大同し統義府を結成した。この当時兵力は8個中隊と2個独立小隊とされるが、実体としてはゲリラ諸 派の寄せ集めであったものと思われる。
翌23年10月、金亨稷の指導の下、軍事機構の再建が図られた。興業団、軍備団、太極団を合同し匡正団を組織。さらに光復軍司令部なども結集し、元新興武官学校の教官だった申八均が軍事委員長兼総司令官となった。またこの間、政治組織も統合が進み、韓族会、独立団、光韓団、民団青年団連合会、通制機関などが結集した。
し かしまもなく路線を巡る矛盾が激化。主流派は拠点を吉林に移し、住民自治団体としての性格を強めた。いっぽう、戦闘続行を主張する武闘派はあらたに「参議 府」(大韓民国臨時政府陸軍駐満参議府)を組織。輯安県を中心に鴨緑江沿岸地域で国内進入作戦を展開した。これは23年7月、上海の大韓民国臨時政府の 「創造派」の武力解放路線採択と
「陸軍駐満参議府」の結成決議を受けてのものである。
24 年に入ると、吉林の統義府主力を中心に多くの団体が統合され、正義府を結成した。満州・シベリアなどで25万名に達した朝鮮人は、移民先での自治と匪賊か らの防衛を求めていた。正義府は奉天省の新賓県を中心に南満州と満州中部地方に17,135戸、87,003人以上の韓国人を組織した。金赫が指導者とな り、日本の士官学校を卒業した洪務寛(一説では池青天)が軍事面を担当した。
一方、参議府は、申八均総司令官が和龍縣二道溝で野外訓練中に馬賊の襲撃を受け戦死するなど、困難を抱えたが、26年頃までには間島地方で一定の地盤を確保するに至った。

22年 この年の満州・シベリアなどへの朝鮮人移民は25万名に達する。

22年 信越水力発電の信濃川工事現場で、大倉組が朝鮮人を監獄部屋(たこべや)に収容して酷使の末、数十名または百余名を殺害し、セメント漬けにし、信濃川に投棄する。

22年 朝鮮国内で、巡査による戸口調査規定が定められる。留学生、新聞雑誌記者および通信員、政治および時事論評者、過激粗暴な言動をする者など6種類の者を調査対象に指定。性行、思想、党派および経歴など6項目を3ヶ月に1回以上調べることとなる。

 

1923年

23年1月

1.03 北京派と上海派の妥協を図る「国民代表会議」が再開される。国内外勢力をふたたび団結させ、運動の路線と方策を定立する目的。

1.05 国民代表会議、盧伯麟を臨時政府の国務総理に任命。申采浩を奉じる「創造派」は、臨時政府を解体し、新たな政府を樹立するよう主張。組織再編で乗り切ろうとする「改組派」と対立。

1.12 義烈団の金相玉、ソウル中心部の鐘路警察署に投弾テロ。

1.15 北星会が月例集会を開催。堺利彦、山川均、荒畑寒村、近藤栄蔵、佐野学らの日本の共産主義者を招き、「労働運動の指導者を教育するため」の講義が行なわれる。

23年に日本共産党がモスクワに宛てた報告書: 日本に在留する朝鮮人の中の共産主義者は、北星会といふ革命団体を組織し活発に活動している。日本共産党は北星会の機関紙『斥候隊』に対して毎月経済的に援助している。

1月 ソヴェト革命の本流を自称する呂運亨一派が、「高麗共産党」とは別にイルクーツクで旗揚げ。ウラジオストックのソ連極東組織局代表が両者の調 整に入り、合同の「中央総局」を設立。この機関が朝鮮共産主義運動を指導することになる。しかしその後も李東輝ら上海派はコミンテルンの指導に抵抗。(こ の項の真偽不明。たぶん抹消することになるでしょう)

1月 義烈団、申采浩の筆になる「朝鮮革命宣言」を発表。日帝の収奪と侵略政策を鋭く批判し、民衆革命を提唱。「絶えざる暴力―暗殺・破壊・暴動により、強盗日本の統治を打倒する」とうたう。

23年3月

3.14 李英、金思国らソウル青年会が中心となり、全朝鮮青年会大会を開催。94の青年団体代表154名と個人参加の56名が参加。社会主義思想を受け入れ朝鮮青年会を結成する。国際共産青年同盟および日本共産青年同盟からも連帯のメッセ-ジが送られる。ソウル青年会は社会主義を標榜するが、他組織に対しセクト主義を貫く。

3月 龍井に東洋学院が開設される。講師となった金思国はひそかにマルクス思想を広める。

3月 「大韓民国」国民代表会議、「改造派」と「創造派」との対立が克服されないまま流会に終わる。「創造派」は、金奎植を首班とする「韓国政府」を作り、シベリアに移るがまもなく解消。

3月中旬 間島の領事館、金佐鎮(大韓独立団総司令官)と金奎植(大韓革命)が農業資金の支援を求め、帰順の意向を表明したとする。(上の記事とは時期的に矛盾する。また5月24日の記事とも整除が難しい。なおこの金奎植は、パリ在住の金奎植とは別人である)

4.25 臨時政府議政院の趙督津議員ら、憲法違反を理由に李承晩大統領への弾劾案を提出。

4月 「白丁」と呼ばれる被差別民衆が「衡平社」(日本の水平社にあたる)を創立。慶尚道の晋州が中心となる。

23年5月

5月1日 労働運動が高揚。京城・平壌はじめ朝鮮全土でメ-デ-のデモ。その後7月にかけて、京城のゴム工場、平壌靴下工場、釜山紡織工場などでゼネストが相次ぐ。

5.07 上海で国民代表大会。臨時政府の性格を巡る問題で対立。臨時政府を改組しようという改組派140名と、新しい政府を打ち立てるべきとする創造派80余名に分裂。創造派は臨時政府から離脱の動きを見せる。

5.24 金奎植、李範セキらは延吉縣明月溝で高麗革命軍を組織する。

5月 金基鎮(八峰)が3年間の日本留学を終えて帰国。朝鮮におけるプロレタリア文学運動の発足へ向けて先導的役割をはたす。

6.02 金奎植・池青天・呂運亨らの創造派は臨時政府を脱退。新たに憲法を定め、国民委員を選出し、「朝鮮共和国政府」樹立を宣言する。

6月 イルクーツクのコミンテルン高麗局から派遣された金燦、ソウルに国内部を組織する。

23年7月

7.03 京城ゴム工場でストライキが発生。

7月 ソウルに「新思想研究会」が組織される。国内に潜入した金在鳳が指導、まもなくマルクスの誕生日にちなんで火曜会と改称。コミンテルンのお墨付きを得た金在鳳は、国内の左翼組織に対し多数派工作を開始。(下の項目と矛盾する内容。要精査)

7月 李東輝を見限ったウラジオストクの極東組織局は、鄭在達を朝鮮に派遣。晋州の姜達永と連合して「新思想研究会」(後に火曜会を称する)を立ち上げる。(一説に、洪命熹が組織

7月 武装独立組織として「陸軍駐満参議府」が結成される。

23年9月

9月1日 関東大震災が発生。在日朝鮮人6千人、中国人数百人が虐殺される。

内務大臣水野錬太郎、「朝鮮人・中国人・社会主義者・博 徒・無頼の徒が放火略奪の限りを尽くしている。各地では厳重手配を乞う」と全国に打電。警視総監は自警団の結成を呼びかける。自警団は「国賊!朝鮮人は皆 殺しにしろ!」を合言葉とし、ノコギリで裂いたり、ガソリンをかけて焼き殺した。
軍隊は機関銃で殺し、自警団に銃剣を貸し与えた。朝鮮人800人 は、軍司令部の出頭命令を受け、司令部内で虐殺された。内務省警保局の調べでは死者は朝鮮人231名。吉野作造の「朝鮮羅災同胞慰問班」は、神奈川 4106名、東京1347名、埼玉588名など6433名が殺されたとする。といわれる。

9.02  東京警視庁は無政府主義者の朴烈と金子文子(妻)らを連行。「激怒した日本人から保護するため」とされる。その後天皇殺害未遂の疑いで検挙された。

9.03 朝鮮半島で震災義捐のための米の無償提供が呼びかけられる。

9.05 東京市庁、朝鮮人虐殺の停止を命令。その後10万人を朝鮮へ放逐。この事件を機に朝鮮人の間に対日不信が広がる。

9月 全南道木浦沖の岩泰島で小作争議が発生。1年近い闘いの末、日本警察の干渉を撥ね退け、小作料を7割から4割に引き下げさせる。

9月 孫文、蒋介石をソ連に派遣し軍事学校創設に対する支援を要請。

9月 日ソ国交交渉が始まる。ソ連は朝鮮の独立運動支援の抑制を迫られる。

9月末 白武ら北星会、東京朝鮮基督教青年会、天道教青年会幹部が発起人となり朝鮮人迫害事実調査会がつくられる。片山哲、布施辰治ら自由法曹団は朝鮮人虐殺の真相と責任の調査にのりだす。

10月 南満州で、金亨稷の指導の下、政治・軍事機構の再建が図られる。興業団、軍備団、太極団が合同し匡正団を組織。政治機構として統義府を設立する。これは後に正義府と改称する。(22年の申八均に関する記載と矛盾する)

11.07 全国衡平社代表者大会が大田で開催される。

11月末 日華日鮮青年会館で在東京朝鮮人大会を開催し被害状況や「デマ」の出所が日本政府当局であるという声明を発表した。

12月 コミンテルン、高麗局を解散するよう指示。

23年冬 北京で朝鮮人青年左派が「革命」を発行。最大時3千部を発行。まもなく高麗共産党(イルクーツク)北京支部に発展。 

23年 上海臨時政府内の反李承晩派、国民代表会議を開催するが決裂。これ以降、急速に勢力が弱まる。安昌浩は臨時政府を離れる。金奎植など創造派は大韓民国臨時政府を否認して新しい政府を構成し、ロシアの支援するという約束を信じてロシアにむかう。

23年 西間島の「統義府」が分裂。住民自治団体としての性格を強める主流派に対し、戦闘続行を主張する活動家が、あらたに「参議府」(大韓民国臨時政府陸軍駐満参議府)を組織。輯安県を中心に鴨緑江沿岸地域を管轄。国内進入作戦を展開。

23年 ソウルゴム工場の女子工員のストライキ。

 

1924年

24年1月

1.02 李光洙の「民族的経綸」、5日間にわたって『東亜日報』社説として掲載される。抗日闘争を放棄し、日帝支配下で自治を目指す方向を提起。左派・民族派の抗議に会い、李光洙は東亜日報を退社。

1.04 義烈団員による二重橋事件.金祉燮が手榴弾3個、拳銃1挺で日本皇居に忍び込む寸前に二重橋で逮捕される。後に死刑となる。

義烈団の分裂: 二重橋事件の後、義烈団で内部抗争。民族主義者、無政府主義者、共産主義者の三派に分裂する。指導者の金元鳳は共産主義に接近。広州軍官学校に入り軍事技術を学ぶ。

1.16 光州で小作争議。農民 500人あまりが警察署を襲撃する。

1月 中国国民党、第一回全国代表大会を開催し、「連ソ容共」の方針を決定する。

24年2月

2.13 被差別者の解放を目指す衡平社、大田で革新同盟準備会を開催。

2月 ソ連政府、支援をもとめソ連入りした金奎植らに対し退去命令。背景に日ソ国交交渉を前にした日本側の圧力。

24年3月

3.10 ソ満国境付近の朝鮮人移民を基盤とした新民府が結成される。

3月16日 東京で労働団体中心に関東大震災犠牲者への「日支鮮追悼会」が開かれるが、途中で解散を命じられる。

3月 山川イズムの影響を受けた日本共産党は、党の解体を決定した。

24年4月

4.17 京城で「朝鮮労農総同盟」が結成される。朝鮮労農大会準備会と朝鮮労働連盟会のほか。南朝鮮労農同盟に参加していた167団体の 代表204名が集まる。姜宅鎮・金鐘範らの「火曜派」が主導権を握る(一説にソウル青年会と日本留学生系の一月会が中心)。労働争議・小作争議を指導。最 盛時には5万人を結集.

4.21 民族主義系列と社会主義系列に分裂した青年運動を統一し、朝鮮青年総同盟を結成。金思国、張徳秀、李光洙らが指導するソウル青年会が中心 となる。223団体(構成員は3万7千名)の代表170名が参加。朴憲永、曺奉岩ら急進派の結成した「新興青年同盟」も結集。いわゆる「京城派」が主導権 を握る。

4.22 全羅南道新安郡の巌泰島で小作争議が発生。

4.23 上海の臨時政府はほぼ瓦解。反李承晩派は李東寧を大統領代理(一説に首相代理)に任命。李光珠は上海から朝鮮に戻り「東亜日報」の主幹に就任。安昌浩も、臨時政府を離れカリフォルニアに向かうが、翌年ふたたび上海に戻る。

4月 コミンテルン極東総局内にコリア・ビューローを特設する。火曜会の金在鳳と青年部の辛鉄に単一共産党の創設を命じる。同時に全南道にもヤチェイカが組織され。朝鮮日報の光州支局長の申東浩ほか8名が入会したとされる。

24年5月

5.02 京城帝国大学の予科が開校。全面開校は26年4月。韓国人は予科の33.5%、法文学部の39.7%、医学部の26.5%を占めるに過ぎなかった。

5.10 丁七星、禹鳳雲、許貞淑、金弼愛ら、社会主義的傾向を持つ「朝鮮女性同友会」を結成。

5.19 参議府義勇軍の張昌憲、平安北道のウィウォン郡馬嘶灘に潜入し、国境視察中の斉藤総督を狙撃する。

5月 臨時大統領金九、孫文と蒋介石に臨時政府の正式承認を要請。支援の約束を取り付ける。

24年6月

6月 孫文の指示を受け、広州郊外の黄埔に広州軍官学校が設立される。校長に蒋介石、政治部主任に周恩来、教授部副主任に葉剣英が就任。ソ連の軍事・政治顧問が教育にあたる。中国人卒業生の中には徐向前、林彪、彭徳懐らがいる。

24年8月

8.05 北風会の崔丞一と李浩など 30人余りが, プロレタリア芸術同盟(カップ)を結成する。著名な詩人であった李相和、小説家の崔曙海も参加。(このときはまだ北風会は結成されていなかったはずだが…)

8.17 京城で朝鮮労働党が創立される。

24年9月

9月 李相協(前『東亜日報』社長)ら、『朝鮮日報』の版権を買い取る。『朝鮮日報』は民族紙として再出発。論説「飢饉と食料問題」で日本 の過剰な米の徴収を非難。また「呪詛すべき東拓」で東洋拓殖株式会社と朝鮮民族は存在からして両立しないと指摘するなど、民族派の論調を打ち出す。

9月 日ソ国交交渉が始まる。ソ連政府は、朝鮮人独立運動への支援を中止することを条件に日本の国交承認を獲得。

24年10月

10.31 黄海道・載寧郡北栗面で小作争議が発生。小作料不納同盟を結び、東洋拓殖株式会社の沙里院支店に押しかける。この年、朝鮮全土に大水害と旱害。農民の小作争議件数164。黄海道を中心に東洋拓殖会社への小作争議が相次ぐ。

10月 金思国、崔昌益,李仁秀らの「ソウル新派」、高麗共産同盟(通称ソウル共産党)および高麗共産主義青年同盟を結成。金思国が責任秘書に就任。火曜会(金在鳳)、北風会(金若水)などによる共産党創設の動きに対抗。

24年11月

11.19 東京で「火曜会」が結成される。鄭在達、姜達永らの「新思想研究会」に、進歩的文化人グループの「北風会」が合流したもの。

火曜会: 名称の由来は、例会が火曜日だったというだけのことで、マルクスの誕生日が火曜日だったかどうかは後からのこじ付けでしょう。北星会はのちに一月会へと変わります。

11.25 「北星会」メンバーの一部が帰国。韓国内本部となる「北風会」を組織する。金若水・金鍾範などの社会主義者が指導。綱領は、「階級関係を無視した単純な民族運動を否認するが、朝鮮が民族運動さえもまだ展開できない現実におかれている以上、我々は社会主義運動と民族運動の協同を期す」と述べる。(一説に「階級闘争至上主義は、国内前衛勢力のソウル青年会との激しい軋轢を呼ぶ」との記載あり)

北風会: 北風が吹けば、南京虫やすべての寄生虫が出て行ってしまう意味で団体名を決めたとされる。ソウル市内の「北風会館」で共同生活を営みながら、貧民の生活向上に尽くす活動を展開したようである。一種のセツルメントのような組織らしい。

11月 吉林で、参議府に参加しなかった統義府主力を中心に多くの団体が統合され、正義府を結成(一説に25年1月)。奉天省の新賓県を中 心に南満州と満州中部地方に17,135戸、87,003人以上の韓国人を組織する。金赫が指導者となり、日本の士官学校を卒業した洪務寛(一説では池青 天)が軍事指導。

正義府の活動: 自治行政の主要目標として教育と産業の向上を立て、化興中学校(興京県旺清門)、東明中学校(柳河県三源浦)など中等学校を設立して、村ごとに小学校を建て、初等教育を義務化した。またみずからの警察と法廷を持つなど、朝鮮人の自治機関として機能する。

24年12月

12.06 社会主義者同盟が創立される。?

12月 金佐鎮、興復団の金嚇らとともに新民府を創設。本部を寧古塔に置き、自由市から逃亡した兵を集める。

12月 ドイツ留学帰りの福本和夫、雑誌『マルクス主義』に「経済学批判における『資本論』の範囲を論ず」、「欧州における無産階級政党組織問題の歴史的地位」などを発表。気鋭の研究者として脚光を浴びる。

24年 統義府の申八均総司令官、和龍縣二道溝で野外訓練中、馬賊の襲撃を受け戦死。(統義府に関しての情報は諸説紛々。烏合の衆であった可能性が強い)

24年 李東輝の要請を受け、上海臨時政府が「人民会議」の創設に向け、「国民代表会議」を招集。朝鮮本土のほか、ロシア、アメリカ、満州から600人の代表が集まる。1ヶ月の討議の末、決裂に終わる。

24年 上海の高麗共産党、正統派と「ML派」に分かれ抗争。「ML派」に属する曹奉岩らは「新ML派」を結成。南満の盤石県を中心に「高麗共産主義青年運動」を組織し、基盤を固める。(上海では満州を目指すものと、中国共産党に従い北伐に加わるものとが相半ばしていた)

24年 義烈団の呉成崙と金若山、上海を訪れた田中大将の暗殺を狙うが失敗。その後呉成崙はドイツを経由してモスクワに入り、共産主義に転向。(呉成崙は抗日聯軍の全光と同一人物。41年に日本軍に投降し協力分子となる)

 

1925年

25年1月

1月 「正義府」に続き、北満州の吉林省永安県に「新民府」が組織される。青山里の英雄である金佐鎮が軍事委員長に就任。大韓独立軍団などを主軸とする。北満地方の朝鮮人7万人を支配下に置く自治団体としての性格を強める。

1.03 早稲田大学の学生グループ,金若水の去った北星会を引継ぎ一月会を結成(「日月会」という記載もあるが、ここでは一月会に統一)「朝鮮内の社会運動の派争に対して絶対中立を守り、積極的に戦線の統一を促進する」を綱領に掲げる。機関紙「斥候隊」を発行.また朴洛鍾、金世淵らが「同声社」を設立し、機関誌『思想運動』など各種パンフレットを発行する。

一月会のメンバー: 安光泉、李如星が中心となり、他に河弼源、朴洛鍾、金世淵、金泳植、宋彦弼、温楽中、孫宗珍、韓偉健、方致規、金鐸、金吉燮、白武、金光洙、河鎔植、金正奎、李相昊、そして崔益翰、韓林、李友狄などが参加する。李賢卿・黄信徳ら在日女子大生は姉妹団体「三月会」を発足させる。(特に鋭い理論家は河弼源であった。安光泉は彼らのリーダー格であったとされる。韓偉健は上海派だったという説がある

1月 北京で日ソ基本条約が調印される。日本はソ連を国家として承認し国交を樹立。このあとソ連は朝鮮民族の祝祭を禁止。民族活動に対する監視を強める。このためロシアで独立運動をすることは困難になる。

25年2月

2.22 東京で「在日本朝鮮人労働総同盟」が結成される。東京朝鮮労働同盟会・大阪朝鮮労働同盟会など11の朝鮮人労働団体800人が結 集、委員長には李憲が就任。「日本資本主義を打倒する運動を通じて、民族解放を勝ち取る」ことを目標とする。2年後には約3万3000名の構成員を持つに 至る。

2月 京城電気会社電車従業員のストライキ、平壌印刷工場労働者のゼネスト、京城電気会社労働者のストライキが相次ぐ。

25年3月

3.15 古馬嶺惨変が発生。朝鮮国内に潜入した参議府部隊が日本警察の追撃を受け、集安(当時は輯安)付近の渾江下遊東岸の古馬嶺で戦闘となる。崔碩淳参議長ほか43人の隊員全員が戦死。

3.23 上海の「臨時議政院」、大統領李承晩の弾劾案を可決。朴殷植が第二代臨時大統領に就任。第2次の憲法改正をおこない、国務領中心の責任内閣制をとることとなる。朴殷植は7月には退任しまもなく病死。

ほとんどどうでも良いことだが、人事の前後関係が錯綜しているので、現時点(09 年5月)での編者の判断を述べる。まず3月に李承晩を解任し、朴殷植が臨時大統領となった。続いて4月に憲法を改正し、「国務領制」へ移行。国務領には引 き続き朴殷植が就いた。実権は国務総理となった金九に移動した。7月に朴殷植が病気により辞任した。9月には朴殷植に代わり李相龍が臨時政府国務領となった。11月には朴殷植(66歳)が死亡した。

3.25 北風会と火曜会が統合を決議。北風会は独力での共産党建設を断念。火曜会に結集する。ソウル青年会の金思国と幹部の李栄は合流を拒否。

25年4月

4.07 大韓民国臨時政府、大統領制度を廃止し、国務領制への移行を決定。西路軍政署の李相龍を初代国務領に推戴。蒋介石と結びついた金九が国務総理となり、実質的に臨政をとり仕切る.

4月 朝鮮共産党結成を前に、各組織への「切り崩し」工作が強まる。「新興青年会」を運営する高麗青年会の左派は、共産党に結集するが、崔昌益,李 仁秀らの「ソウル新派」は、「高麗共産主義同盟」および「高麗共産主義青年同盟」を結成し、火曜派の朝鮮共産党に対抗。上海派の流れを汲む南満の「新ML 派」も盤石県を中心に独自の動き。

4.17 朝鮮国内に第一次「朝鮮共産党」結成.コミンテルンに加盟.創設メンバーは16人。責任秘書(書記長)に金在鳳が就任.組織部長に趙東 祐,宣伝部長に金燦(イルクーツク)、人事部長に金若水(北風会)、労農部長に鄭雲海、政治経済部長に兪鎮熙、調査部長に朱鐘健など、「火曜会」・「北風 会」系が中心.国外朝鮮人の革命闘争を指導するため、海外部、満州部、日本部の創設を決定。

4.18 朴憲永宅を会場に高麗共産青年会(共青)の結成総会.責任秘書に朴憲泳,政治部責任者に金丹治、組織部長に権五咼、宣伝教養部長に林元根、調査部長に洪増植、国際部長に曺奉岩.

4.20 京城で「全朝鮮民衆運動者大会」が警察に禁止される。参加予定者たちは赤旗を振りながら抗議デモ。

4.24 全国衡平社大会が開催される。

25年5月

5.07 治安維持法が公布される。

5.30 上海で「5.30事件」が勃発。日本人経営の紡績工場でストライキ。労働者が日本人労務係に射殺されたことをきっかけに、学生・ 労働者が抗議デモ。これに対し英国人警部の率いる租界警察隊が発砲。13人の死者を出す。これに対し中国共産党指導下の上海総工会は抗議のゼネストを展 開。ストは広州、香港にも波及する。

5.08 日本で治安維持法が制定.総督府は12日、朝鮮にも治安維持法を適用すると発表。独立運動に対する弾圧が厳しさを増す.

5月 「朝鮮女性同友会」が創立される。女性解放を民族解放と結び付け、社会問題として提起する。

25年6月

6.11 三矢協定。朝鮮総督府の三矢宮松警務局長が奉天の張作霖政府を訪問。奉天省警務処長于珍との間に「朝鮮人結社の首領と不逞鮮人の逮捕・引き渡し」に関する秘密協定を結ぶ。中国はこれを受け、在満韓国人の居住・移転を制限、武器携帯・集会結社を禁止。

6月 ソウルの青年会系、朝鮮共産党結成に対抗して高麗共産同盟を組織。

25年8月

8.09 慶尚北道醴川の農民 570人余りが衡平社を襲撃。警察署長は、衡平社醴川支部の解散を命令する。

8.12 北風会派、高麗共産青年会とは別に漢陽青年連盟を組織。

8.23 ソウルで「朝鮮プロレタリア芸術同盟」(KAPF)が創立される。指導者は金基鎮、崔承一、朴英煕ら。機関誌『文芸運動』、準機関誌『芸術運動』を発刊。

25年9月

9.24 李相龍が臨時政府国務領となる。

9.27 朝鮮学生社会科学研究会が組織される。学校内の秘密サ-クルや読書会が基盤となる。

9.29 「朝鮮農民社」が結成される。「農民の教養と訓練」に重点を置いた啓蒙団体で、天道教徒が中心となる。指導者は李晟煥・李敦化・金起田・柳光烈、金俊淵、金顕哲など。

9月 金奎植、池青天、申肅、元世勳ら、国民代表会議の代表としてウラジオストックを訪問。コミンテルンのパインブルクと会見。援助の約束を取り付ける。またウラジオストック在住の韓明世、李東輝らとも協議。この支援はレーニン急死のため果たされなかった。

25年10月

10.03 臨時政府、金東三・金佐鎮などの武装独立運動家9人を国務委員に任命し、満州への影響力保持を狙う。しかしいずれも任命を辞退する。

10.15 小樽高商で、「天狗岳に地震が起こり朝鮮人と無政府主義者が暴動を起こした」との想定の下に軍事教練が行われる。学生側の抗議 行動により問題化する。「日本学生社会科学連合会」は、民族離間と教育の軍事化に反対して全国に檄文を発し、日本全国の大学・高等学校・専門学校における 軍事教育反対運動に発展する。

10.30 慶尚北道義烈団事件。義烈団員李鐘岩らが極秘に共産党を結成。

10月 福本和夫、雑誌『マルクス主義』に、「“方向転換”はいかなる諸過程をとるか、われわれはいまいかなる過程を経過しつつあるか―無産者結合に関するマルクス的原理」を発表。山川イズムへの批判を開始する。

福本イズム:結 合以前の分離: 政党的な結集以前に、マルクス主義的な政治意識を分離させてから再結晶させることが必要であり、そのために無産階級内部の非マルクス主義 的な要素との間に、徹底した理論闘争を展開するべきである。②方向転換: 山川の方向転換論は「折衷主義の方向転換論」であり、協同戦線党論は「経済闘争 からの政治闘争への弁証法的発展を理解できない両者の折衷主義」であると批判。レーニン主義的な党概念、すなわち鉄の規律を保ち、秘密で中央集権的な「職業革命家」たちによる少数精鋭主義の前衛党という考え方を導入する

25年11月

11.22 新義州事件(第一次共産党事件)発生.警察に逮捕された共産党員が秘密書類「高麗共産青年同盟中央委員会事業報告」を持っているのが発見される.

大バカ野郎: 食堂 の二階で現地青年会幹部の結婚披露宴。ドンちゃん騒ぎをたしなめた日本人巡査と親日派弁護士に対し、逆上した青年たちが「警察の犬をぶちのめせ」と叫び暴 行を加えた。新義州警察に京城からの応援を加えた部隊が青年会を一斉捜査。金景瑞会長の家から、上海のコミンテルン極東支局にあてた「中央執行委員資格表」と「通信文三通」を発見。拷問を受けた金景瑞から朝鮮共産党の存在が割り出される。(警察側の調書なので、ディテールは脚色されているとは思うが…)

11.26 全南道の羅州で小作人1万人余が参加する大規模な争議。日本警察と衝突する。

11.27 押収された名簿にもとづき共産党に対する最初の大規模弾圧が開始される。共産党員と青年同盟員合わせて105名が検挙・投獄される。

11.30 朴憲永と妻の朱世竹が鐘路警察に連行される。

11月 「在日朝鮮労働総同盟」、「三月会」、「在日東京無産青年同盟」、「一月会」の四団体が、韓国社会主義運動に関する共同声明文を発表。日本での運動は韓国民族全体の運動の一環であること、従って運動の統一を追求すべきであると主張。

25年12月

12.14 検挙を逃れ潜伏中の金若水が大邱で逮捕される。ここまでに66名が検挙される。

12.15 潜伏中の金在鳳、ソウルの金燦宅で中央執行委員会を招集。自らの後継者に姜達永、青年同盟の責任秘書に権五卨を指名。

12.17 金在鳳が逮捕される。金燦は中国に亡命。(逮捕を逃れた曺奉岩が書記長代理を務めたという説があるが、誤りであろう)

25年冬 義烈団が広州で会議。「朝鮮民族革命党」への再編を決定。この会議には金元鳳、呉成崙、金山、柳子明ら主要メンバーが出席(柳子明や金相 潤らはこの方針転換に反対したという)。義烈団は上海市内に12ヶ所の爆弾製造工場を持ち、5年間で日本人に対するテロ300件を遂行した。日本官憲の弾 圧により300人が処刑され、27年頃にはほぼ消滅。

25年 この年、間島の朝鮮人人口は34万人。総人口の80%を占める。

 

1926年

26年1月

1.25 共産党系の東進青年会を中心に、20団体が龍井の侍天教講堂に集まり、東満青年総連盟が結成される。民族主義者系の「新民府」に対抗。その後、南満、東満、北満の青年同盟を足場に影響力を拡大。 さらに間島少年会、労働会、婦女会などが成立。

1月頃? 火曜会・北風会・朝鮮労働党・無産者同盟が合法的思想団体の結成を目指し「4団体合同委員会」に合流。

1月 黄埔軍官学校が開学。蒋介石が校長となる。

1月 金丹治、権五カらが亡命先の上海からひそかに入国。運動の再建を図る。李柄立、李先こう、李天鎮ら朝鮮社会科学研究会の指導部が準備に当たる。

2月 安光泉ら、「朝鮮水害罹災自救諸委員会」の募金を携え帰国。4団体合同委員会、前進会、朝鮮農民総同盟などがこれを歓迎する。安光泉は国内の各思想団体間の親睦を強調する。

2月 朝鮮共産党、第一回中央委員会を開催。第二次共産党の再建に着手。①労農総同盟を労働総同盟と農民層同盟に分離。②国内各分派の解散 を指示。各道の組織幹部を選定。「高麗共産青年会」も再建され権五卨が書記長に就任.会員をモスクワ東方労働者共産大学(ク-トベ)に送る。

第二次共産党のメンバー: 姜達永は朝鮮日報の晋州支局長をつとめていた。中央では無名の人物。再建された共産党は党員20数名。主要幹部に申錫雨、安在鴻、権東鎮など。女性は高明子・金命時・金祚伊などの女性党員も活動。

26年3月

3月 第2次朝鮮共産党、非妥協民族大会を満州で開き、民族主義者を含めた大独立党(フロント組織)の形成を議論。ソウル派共産主義者らが反対したため挫折。

3月 第二次共産党、天道教旧派との連合に成功。「6.10運動闘争」(第二次万歳運動)を企画し労働団体、小作人組合、天道教教区などを 利用して全国58の都市と連結網を築く。闘争指導特別委員会の委員長には、共産党中央執行委員で高麗共産青年会責任秘書の権五卨がつく。

3月 金元鳳が蒋介石に直談判。義烈団は本部を広東に移し、隊員の大部分が黄埔軍官学校に入校する(韓人学生5期生100人のうち80人が義烈団員)

3.25 朴烈と妻の金子文子、「満州の義烈団から爆弾50個を受け取り、天皇暗殺を計画した」との嫌疑がでっち上げられ、大逆罪で死刑判決がくだされる。文子は獄中で自殺。朴烈は無期刑に減刑された後、戦後釈放され、在日大韓民国居留民団の初代団長となる。

26年4月

4.05 国内・満州・ソ連領の革新派、高麗革命党を組織。委員長に梁起鐸が就任。「正義府」内の左派(玄益哲、高豁信)が中心となる。まもなく朝鮮共産党に接近。

4.14 「4団体合同委員会」を発展的に解消し合法的思想団体「正友会」を創設する。のち第三次共産党(ML党)の中核となる。「ソウル青年会」はこの流れに乗らず、「前進会」を根幹とする「朝鮮社会団体中央協議会」の創立を計画。

4.25 昌徳宮李王(純宗皇帝)が死亡。

4.26 朝鮮共産党、国葬日の「独立万歳運動」を計画。天道教はじめ朝鮮内の各団体と連絡をとる。計画の中心に高麗共産青年会の権五咼責任秘書がつき、上海亡命中の金丹治・金燦・曺奉岩らも「喪に服して哭く民衆に檄す」の檄文を準備。

4.28 「金虎門事件」が発生。宋学先が昌徳宮金虎門前で斎藤総督の暗殺をはかるが失敗。これを抑えようとした日本人3、4名が刺殺される。

4月 広州で、北伐に参加する朝鮮人を中心に「朝鮮革命青年会」が結成される。義烈団系、中国共産党系、高麗共産党の上海派とイルクーツク派などが対立を繰り返す。

4月 在日朝鮮労働総同盟第2回大会、「朝鮮運動統一促進」の件を決議する。

4月 朝鮮共産党日本部(責任秘書金正奎)が組織される。

26年5月

5.01 新義州対岸の安東で上海亡命中の金泰淵と権五卨が会談。第二次万歳運動について討議。

5.16 珠河県一面波で朝鮮共産党の満州総局が設立される。参加者は新MLL派代表の曺奉岩、崔元沢、上海派代表の尹滋瑛、金河球、イルクーツク派代表の金哲勲など。会議が行われたのは、黒龍江省珠河県(尚志県)の下洞にある金哲勲の家とされる。

満州総局: 朝鮮共 産党中央を占める火曜派が主導権を握り、これに上海派とイルクーツク派が結集する形を取る。総局機関を黒龍江省寧安県寧古塔に置き、その傘下に東満、北 満、南満区域局を作ることとする。責任秘書に曺奉岩、宣伝部長に尹滋英、組織部長に崔元沢を選出。高麗共青会をにぎるエムエル派はトップ集団から外れる。

5.30 印刷職工組合の朴来源・閔昌植・白明天らの協力で十万枚の檄文とビラ印刷を完了。天道教中央総務部堂内の孫在基宅に貯蔵する。

5月 満州総局、金東明(火曜派)に高麗共産青年会満州総局の組織を指示。既存の高麗共青会満州秘書部(エムエル派)はこれに対し反発。

5月 朝鮮共産党、日本にも総局の創設を狙うが、官憲の弾圧の前に失敗。

5月 金佐鎮、満州に輸送していた総督府の公金6000円を奪取。新民府設立の資金となる。その後新民府は、赤旗団との衝突を避け石頭河子に移動。金佐鎮、金嚇、崔浩、黄永煥が指導し、朝鮮人約8万人を支配下に治める。

26年6月

6.06 「第二次万歳運動」の情報を得た鐘路署官憲が天道教本部に踏み込み、「檄文」を発見。200人余を検束する。

6.07 上海から送られた檄文も、京城駅で押収される。総督府は、万歳運動の再発を予防するため、京城市内に7千名の軍を配置する。

6.09 総督府、李王国葬を前に第二次共産党の権五咼・姜達永ら125名を不穏分子として検挙。拷問による死者、多くの廃人・障害者をだす。これにより火曜派はほぼ壊滅。

6.09 共産党傘下の学生科学研究会(李丙立・李先鎬・朴斗鐘・李東煥・金載文、朴河均ら)の学生らと、民族主義の通洞系学生らのグループは摘発を免れ、勢力を温存。「朝鮮共産主義万歳」と書かれた檄文1万枚を用意し、中央高等普通学校、延期専門学校の学生に手渡す。

6月10日 第二次万歳運動

午前7時30分 昌徳宮李王の国葬、葬儀の車列が敦化門を出発。南下し観水橋で鐘路に出る。沿道の群衆は30万人を超える。

午前8時30分 鐘路三丁目で葬儀の車列に集まった群衆に、中央高普学校の生徒が独立万歳を叫びながらビラをまき、50人あまりが逮捕され る。30分後に、普成専門学校で檄文配布。学生30人が逮捕。セブランス医専の学生も檄文配布し3人が逮捕。これを端緒として、霊枢が通過する各地点でビ ラの撤布と万歳示威が展開される。

午前9時30分 東進した車列が東大門に至る。京城師範学校前で檄文が撒かれ、天道教の青年信徒30人が逮捕される。

午後1時 車列が東大門を出発。門外の昌信洞付近で、呼応した群衆とともに「第二次万歳運動」のデモが始まる。警察が各地点で主導者を素早く検挙し運動拡大を防いだため、大規模な行動には至らず終焉。

午後2時 東廟付近で中東学校・中央高普学校の生徒が檄文を撒く。

6.10 宣伝ビラには「朝鮮は朝鮮人の朝鮮である!」「横暴な総督政治の束縛から脱け出そう!」「普通教育を義務教育に!普通学校の用語を朝鮮語に!普通学校の校長は朝鮮人に!」「東洋拓殖会社を撤廃せよ!」などのスローガンが含まれていた。

徐論文の次のフレーズはなかなかの名文であるので、そのまま引用する。
大 韓独立党名義の檄文は、民族解放がすなわち階級解放であり、政治解放がすなわち経済解放であると規定し、植民地民族は何と言おうと無産者であるという総体 的無産者論を展開し、大独立党結成の論理、すなわち民族協同戦線の論理として注目される。6.10万歳運動は民族主義者と社会主義者が共同して戦い、目的 意識が明解で各界各層の当面の切実な要求を提示したという点で意義がある。 

6.11 地方では高敞、仁川、淳昌、平壌、元山、開城、全州、馬山、公州などで、「第二次万歳運動」のデモが展開される。

6.26 呂運享、広州で韓人革命軍を組織。

7月 安光泉、河弼源、金三奉、韓偉健らの「一月会」メンバーが夏期休暇を利用し大挙帰国。主導的な人物たちが大量検挙され、休止状態に陥った「正友会」に集団加入。

7月 龍井で朝鮮共産党東満区域局が成立。

7月 蒋介石を総司令官とする北伐軍が進撃を開始する。韓人革命軍もこれに参加する。

9.01 「正友会」のヘゲモニーを掌握した安光泉、機関紙『火花』の第7号に綱領的文書となる「正友会宣言」(案)を起草する。前進会は、「正友会宣言」を改良主義的右傾化と批判。

9.02 第二次共産党の組織部長を務めた金綴洙、ソウル郊外の山中で第三次共産党の再建を協議する。参加者は金綴洙のほか申東浩(朝鮮日報光州支局長)、呉義善、高光洙(共青)、元友観の4人。協議の結果、金綴洙を責任秘書に互選する。党再建の組織方針を「排他的な派閥主義の止揚と派閥糾合の同志組織」に置く。

9.20 光州でソウル青年会系の姜錫峰らが、労働連盟、キリスト教民族主義者と合同して光州協会を設立。

9.20 安光泉、第三次朝鮮共産党に入党する。

9月 高光洙、ソウル青年会系の高麗共産青年同盟の李仁秀と会談。二つの青年同盟の共同で民族前衛戦線の統一を目指すことで合意。ソウル青年会の故金思国派は、合同に動いた李仁秀のほか、金炳一、韓明燦、金在明らを除名。

9月 金綴洙は青年同盟の合同を承認し、さらに党の合同と「ML」党の結成に踏み込む。金綴洙と高光洙は上海のコミンテルンに赴き、強い賛同を獲得。

26年10月

10.14 ソウル近郊の山中で、中央執行委員会を開催。党員の募集とソウル系活動家への入党勧誘を決議。金俊淵、權泰錫らが入党し幹部にすえられる。

10.28 間島の龍井村に、朝鮮共産党満州総局東満区域局を設立。龍井、平崗、和龍、局子街、銅仏寺、明月溝、汪清、羅子溝、琿春など17地区に委員会を組織。東満青年総連盟もこの運動に加わり、1年後にメンバーは9766人に達したといわれる。

10月 義和団の金元鳳ら、黄埔軍官学校5期生が卒業。正式士官に任命されて北伐に参加する。

10月 第二次万歳運動に鼓舞され、中国関内と満州で唯一党運動が起こる。北京では大独立党組織北京促成会が結成される。

26年11月

11.15 正友会が結成宣言.指導者の安光泉、河弼源、金俊淵は分派主義を克服し、「非妥協的民族主義勢力」と連携することを主張.崔南善ら中道改良主義者や民族主義者と新幹会結成に動く。

宣言の要旨: 前文で、「当面の闘争の目的は日本帝国主義の圧迫から朝鮮を解放することにある」と明示し、民族解放の立場を打ち出す。そして「民 族主義的勢力に対しては、そのブルジョア的な性質、過渡的な性質を認識しつつ、それが堕落形態として現れない限りは積極的に提携する。改良によってもたら される大衆の利益のためにも従来の消極的態度を捨て、奮然と闘わなければならない」と訴え、解放勢力の統一を訴える。

11.28 一月会が東京で総会を開催。「正友会宣言」に示された民族協同戦線の結成と大衆的政治運動の積極的推進という方針を支持し、解散と正友会への合流を決議する。指導部メンバーは同時に朝鮮共産党(第三次)に加入する。

11月 「朝鮮労農総同盟」、労働者と農民の組織を分離することを決定。

11月 日本共産党(第二次共産党)が結成される。佐野文夫を委員長とする。福本和夫が中央委員の一人になり、日本共産党再建宣言文を起草。

26年12月

12.06 ソウル市内の天然洞で第三次共産党による「第二回朝鮮共産党大会」が開かれる。大会はブルジョア民族主義者との「民族統一戦線」結成を決議。この党は「ML党」、または「統一共産党」と称される。

12.06 大会は党の人事を決定する。金綴朱は責任秘書を辞退し、安光泉に党運営をゆだねる。他に梁明、金俊淵(東大・ベルリン大学を卒業、霊岩を名乗ることもある)、権泰錫が中央委員に選出される。

12.14 金九、臨時政府国務総理に就任。集団指導体制をとり、国務委員制に改編する。

12.17 ソウル青年会系の「前進会」が決議を採択。「正友会宣言」を「改良主義的右傾」と批判。しかし「ソウル青年会」「京城無産青年会」などはソウル系組織ながら支持を表明した。正友会執行委員会は前進会に対しただちに反論を発表。

12.28 義和団テロリストの羅錫疇、朝鮮殖産銀行爆弾を投げた(不発)あと、東洋拓殖会社に飛び込み銃を乱射。警官に追い詰められ自決。日本人3名が死亡、4名が負傷。

12月 崔昌益,李仁秀らソウル新派が、満州総局の金錣洙と手を結び、第三次朝鮮共産党の再建に動く.金錣洙は李東輝の直系で、ソウル派と近い関係にあった。(正式発足は翌年2月という)

第三次共産党(ML党): まだ良くわからないが、火曜会が中心だった第一次、第二次共産党とは毛色が違うようだ。第一次共産党の創立にあたり、高麗青年会の左派(後にソウル派)は 「高麗共産主義同盟」をつくり対抗していたが、今回は彼ら(正確に言うとソウル新派)が朝鮮共産党を名乗るようになったということのようだ。ソウル派は裏方に回り、M・L派の金綴洙(満州総局)を責任秘書に擁立した。高麗共産青年会の責任秘書には高光洙が就任。
これまでも戦線統一を唱えていた安光泉・河弼源・金俊淵・崔益翰ら正友会系、「上海派」の韓偉健・梁明らもこれに結集。党員数は数百名に達する。

以上の記述は間違い! 後ほど訂正します。(09年5月)

12月 高麗革命党は朝鮮共産党満州総局に統合・再編され、珠河県一面波に地区本部を置く。

26年 申采浩、共産主義に対する抵抗から無政府主義に傾斜。柳子明(別名友槿)、鄭華岩ら元義烈団系の「在華朝鮮人無政府主義者連盟」に加入する。

26年 間島の朝鮮人は36万人。中国人は9万人となる。

 

1927年

27年1月

1.20 新幹会創立の訴えが発表される。「政治的・経済的覚醒を促進する」ことを目的にうたう。新幹会の名は、東亜日報主筆の洪命熹が、 「古木新幹」の語より命名したとされる。幹は韓に通じている。発起人27名のうち申采浩らを除く大部分はソウルに居住し、朝鮮日報系が主流。

1月 広東の国民政府、武漢に進み武漢政府を樹立。王精衛が主席となる。

27年2月

2.10 許憲と金法麟が、ブリュッセルで開かれた国際反帝国主義連盟に参加。

2.15 民族主義左派を中心に新幹会が結成される.言論人・教育者・キリスト教・天道教・儒教・仏教など各界代表30余人から構成され、 朝鮮日報社長の李商在が会長に、副会長には天道教旧派の権東鎮、幹事には洪命熹が就任。労農運動・社会主義者の弾圧に対する救援活動などを展開.

2月 正友会は、新幹会の結成にともない、自らの解体を決議する。共産党は新幹会をフロント組織として位置づけ、安光泉、金俊淵・韓偉健らを通じてつながる。会員はまもなく2百名に達する。

2月 在日労総が第三回大会。「労働者と資本家の間での階級関係よりは民族的差別の問題がおもな条件であるとして民族運動を中心におくこと」が確認される。このあと朝鮮総督暴圧政治反対運動など民族解放闘争の旗幟を鮮明にする。

2月 在日朝鮮労総の活動家を中心に、朝鮮共産党日本部が結成される。後に日本総局となる。

2月 武漢で東方被圧迫民族連合会が結成される。国民党が召集し、中国・朝鮮・インド・台湾などの代表が参加。朝鮮からは金奎植、柳子明(アナーキスト)が参加する。

2月 上海大韓民国臨時政府、国務領責任制を廃止し、国務委員制をとる。金九が国務総理に横滑りする。この時期、上海の朝鮮人はもぬけの殻となり、民族主義者は満州、左翼はコミンテルンの指示に従い広州を目指す。

3.22 周恩来の指揮で80余万の上海労働者がゼネストに突入、つづいて武装蜂起して上海の北洋軍閥を打倒。「上海特別臨時政府」を樹立する。

27年4月

4.12 蒋介石、北進を中止し上海臨時政府を攻撃。3日間にわたり党内左派と軍内共産勢力の粛清を敢行。上海にみずからの政府を樹立。共 産党員は300人以上が虐殺され、500人以上が逮捕、5000人以上が行方不明になる。(この話は詮索し始めるときりがないが、中国革命の話になるので 手を出さない)

4月 広州で「留越韓国革命同志会」が結成される。金元鳳ら義烈団系を中心とし、執行委員には「穏健派」の金山(本名は張志楽)らを選出。

4月 新民・正義・参議府の代表が新安敦で会談。三府統合と唯一党組織を討議する。

27年5月

5.01 朝鮮共産党満州総局東満区域局、連続的な反日デモに大衆を動員。龍井、頭道溝の一帯でメーデー・デモを成功させる。「福本イズム」の成功例といわれる(意味不明)。

5.02 北朝鮮東海岸の興南に朝鮮窒素肥料が設立される。以後、北朝鮮を中心に重工業が発達する。

5.07 新幹会の東京支会が発足。まもなく京都・名古屋・大阪でも支会が発足。

5.27 新幹会の姉妹団体として槿友会が組織される。設立宣言で、「朝鮮女性をとりまく各種の不合理は、その本質上、朝鮮社会に害をなさ んとする日本帝国の存在と結びついており、全女性は団結して闘争し、勝利をおさめねばならない」とうたう。機関誌「槿友」を発刊し、朝鮮最初の女性運動統 一戦線として、新幹会とともに影響を広げる。

槿友会の人的構成: 東 京の「三月会」から帰国した李賢卿・黄信徳とソウル在住の鄭鐘鳴・丁一星や民族主義者の金活蘭・劉英俊・兪玉卿らが中心となる。これに朱世竹・許貞淑ら火 曜派の「京城女子青年同盟」、朴元熙ら京城派の「京城女子青年会」、「女性同友会」などの社会主義系、宗教系団体の「基督教女子青年会」、「天道教女性同 盟」、「仏教女子青年会」など広範囲な諸団体が合同。全国に70の支部を置き、東京や間島にも組織を拡大した。

5月 朝鮮共産党,日本部を再建.李洛鍾が責任秘書に就任.青年組織として高麗共産青年会日本部も組織される.労働総同盟も朝鮮共産党の指導下に入る.党日本部は翌年4月に日本総局に改編.日本共産党も「二七年テ-ゼ」で植民地の完全な独立と解放を掲げる。

5月 コミンテルン、「朝鮮に対する11ヶ条指令」を発する。

6月 日本当局の調査、「龍井村大倧教区は大教主羅喆等が不逞団に加入したるため、教勢衰退し有名無実の状態に在り」と報告。

7月 武漢政府、共産党弾圧の方針に転換。義烈団系隊員も軍から放逐される。

7月 東京の左翼朝鮮人青年が京城の錘路YMCAで文芸講演会。趙重滾、韓植、金斗鎔、洪暁民ら四人が講演。

7月 コミンテルンの『日本問題に関するテーゼ』が発表される。

日本共産党の解体を受け入れていた「山川イズ ム」に対しては、共産党の役割が左翼労動組合フラクション並びに大衆的労動者農民の政党によって代置され得るといふ考へは徹底的に誤謬であり、「日和見主 義」であると厳しく批判。「福本イズム」に対しても、純粋な意識的な方面だけを過度に強調し、インテリゲンチャの許すべからざる過重評価、労働大衆から遊 離した宗派主義に陥っていると批判する。

8月 高麗共産青年会満州総局の責任秘書だった金東明が、朝鮮共産党満州総局の宣伝部長に赴任。後任の李ジョンヒ(エムエル派)は、朝鮮共 産党満州総局の崔元沢と金東明の提出したリストを無視し、自派のメンバーで固める。これにより高麗共産青年会満州総局は事実上の内部分裂状態に陥る。

9月 朝鮮労農総同盟が書面大会。朝鮮労働総同盟と朝鮮農民総同盟に分立され、朝鮮青年総同盟とともに3総時代と呼ばれる。

9月 カップの第二回総会が開かれ、創作活動の方向転換を決定、無産階級の芸術運動は政治闘争のための武器とならねばならないとされ、「封建的および資本主義的観念の徹底的排除、専制的勢力との抗争、意識層造成運動の遂行」という綱領のもと再編成される。

9月下旬 安光泉に代わり金俊淵が朝鮮共産党責任秘書となる。

27年10月

10.02 満州総局、第2次朝鮮共産党事件裁判の開始にあわせ、「日本帝国主義の打倒」と「政治犯の全面解放」をもとめる集会・デモを企画。ソウルから派遣された崔元沢、現地責任者の安基成書記長代理らが東満区域に入り指導。

10.03 第1次間島共産党事件.間島日本総領事館の情報を受けた日中の警察が、龍井の安基成宅に踏み込み、崔元沢、安基成、玄七鍾、李周和らを一斉逮捕し文書を押収。

10.03 青年・学生たちが共産党幹部の逮捕に抗議し、日本総領事館の前に押し寄せる。警察は100人余りの幹部と民衆を逮捕、拘禁し、うち幹部28名をソウルに送検。

10.03 第二次共産党事件に対する公判が始まる。

10.18 朝鮮銀行大邱支店に小包爆弾。

10.09 第1次間島共産党事件を機に、満州総局は空中分解。火曜派、エムエル派、ソサン(ソウル=上海)派がおのおの「満州総局」の正統な後継を主張し、組織基盤の整備に動き始める。

10.24 奉天で中国共産党満州省委員会が結成される。

10月 朝鮮プロレタリア芸術同盟(カップ)東京支部が創設される。

27年11月

11.15 東京でカップの機関誌『芸術運動』が出版される。金斗鎔が編集発行兼印刷人となる。

11月 満州における「第4の共産党」として北風会が勢力を強める。ウラジオストクに逃亡中の金ボンイクが、韓相睦を責任秘書とする党組職を設立。朝鮮共産党中央委員会との連絡がとれないまま運動を拡大する。

11月 北京、上海、廣東、武漢、南京などの唯一党促成会が連席会議を開く。

11月 ML党の機密漏えい事件が発生。警察当局は本格的に捜査を開始する。

27年12月

12.10 広州コミューン蜂起。朝鮮人共産主義者の多くが参加し、犠牲となる。

12.27 新幹会、支会百ヵ所突破記念式を開く。

12月 満州総局東満区域局、間島地方の大衆組織を結集し「全間島朝鮮人団体協議会」を結成。

12月 奉天の馬賊上がりの張作霖、混乱に乗じ北京政府の実権を掌握。自らが中華民国の主権者であることを宣言

27年 吉林で軍事行動団体「統一と大独立党」の結成を目指す会議。中国警察はこれを弾圧し、安昌浩ら 200 人を逮捕するが、世論を受け20 日後に釈放。

27年 新民府の金佐鎮・池青天と正義府参謀長の金東三らが民族唯一党促成会を組織。委員長に金東三が就任。吉林で国民府の設立を企てるが中絶。

 

1928年

28年1月

1.01 東満青年総連盟が定期大会を開催。個人加盟の「東満青年総同盟」に改組。支部は24に増え、5000人余りの会員を擁する。幹部の多数を共産党員・共青同盟員が占め、事実上、高麗共産青年会満州総局のフロント組織となる。

1月 上海のコミンテルン極東支局、ML党の右翼日和見主義を批判。生産点を基盤とし、労働者を中心とする組織作りを指示する。鄭栢、李赫が上海からコミンテルンの指示書を持ち込む。

1月 中国共産党満州省委は周東郊を龍井に派遣。中国共産党東満特別支部を創建。10月には東満区委員会となる。(中・朝二つの共産党組織が並立することになる)

28年2月

2.02 第三次共産党に対する大弾圧が始まる。安光泉の後任となった金俊淵責任秘書、その後任の金世淵、幹部の崔益瀚、崔昌益、李仁秀、 金哲ら200名あまりが検挙される。金綴洙と安光泉は満州へ逃亡。国内の共産党組織は内部対立の激化もあり壊滅。韓偉健ら残党は新幹会地方組織にもぐりこ む。

2.15 新幹会の創立1周年。支会百数十ヵ所に会員が2万名を超える。本部は主に名望が高い民族主義者らによって構成されたが、支会末端の活動家は社会主義者らが多くをしめた。特に本部に批判的な東京支会が積極的に活動する。

2.27 一斉検挙の嵐の中、ソウル郊外の高陽郡竜江面で共産党大会を開催。韓明燦、金在明、李廷允らが参加。鄭栢、李赫が上海から持ち込んだコミンテルンの指示書を討議。

2月 朝鮮共産党日本部、幹部の検挙で壊滅する。

2月 中国共産党満州省委員会、周東郊を間島に派遣。“民声報”社を拠点として、中国共産党龍井村支部が設立される。その後、いくつかの支部を持つ東満区委員会に発展。

2月 新民府の金嚇ら30名が日本警察により逮捕される。これを機に新民府は金佐鎮派と崔浩派に分裂。崔浩は親日路線に動く。

28年3月

3月 車今奉が第4次共産党を再建.金在明を中心に共産主義青年同盟を再建.しかしほとんど党としての実体はなかったとされる。

3月 満州のエムエル派は火曜派に対抗して、自派で構成された満州総局名簿を提出。

3月 臨時政府の李東寧、李始栄、金九などが上海フランス租界で韓国独立党を創立。安昌浩もこれに参加する。行動部隊として韓人愛国団を組織.崩壊した義烈団に代わり、日本に対するテロ活動を組織。

3月 モスクワでプロフィンテルン(国際赤色労働組合)第四回大会。資本主義諸国における外国人労働者と植民地労働者は現住国の労働組合に加入して闘うべきだとのテーゼが採択され、大会終了後に開かれた日本問題小委員会で在日労総を全協に合同させる方針が決定される。

4月 検挙を逃れたメンバーが朝鮮共産党日本部を再建、「朝鮮共産党日本総局」に改称。責任秘書に韓林がつく。高麗共産青年会が再建され、金斗鎔、李北満、高景欽らが機関紙編集兼出版委員に任命される。

28年5月

5.01 第二次間島共産党事件。北風会の韓相睦が「満州総局」を再建し、メーデー・デモを敢行。

5.10 日本警察、間島の北風会に対し一斉逮捕。4ヵ月後に北風会は弾圧により解体。

5月 正義府と朝鮮共産党満州総局が中心となり、唯一党運動の連席会議。新民府、参議府なども結集するが、団体協議会方式か既成団体の解体と個人加盟の方式をとるかで対立。協議会派と促成会派に分かれる。

28年6月

6.05 李永行と方竜培, 池上四郎政務総監の暗殺に失敗。逮捕される。

6月上旬 韓林ら日本総局幹部が逮捕され、金天海が責任秘書となり日本総局を再編成した。

6月 張作霖、北伐軍を前に北京支配を断念。北京から瀋陽へ引き揚げる途中、瀋陽近くの鉄橋で乗っていた列車を爆破され死亡。日本による満州侵略の口実として利用される。息子の張学良が後を継ぎ、正義府と新民府を操り、朝鮮人共産主義者の弾圧を開始。

28年7月

7月 第4次朝鮮共産党事件。車今奉、青年同盟の金在明ら170人余が検挙される。このあと朝鮮国内での共産党活動は絶える。

7月 コミンテルン六回大会.武装蜂起とソヴェト建設を求める極左的方針を採択。植民地における民族政党の存在を否定。民族ブルジョアジー を打倒対象とする。また「一国一党」の原則を打ち出し、植民地朝鮮の革命的機関に対し,日本の共産党との間に積極的関係を設立するよう呼びかけ.

7月 コミンテルン六回大会には、京城・上海派の李東輝・金圭烈が参加したが、コミンテルン朝鮮支部としての国際的承認を得られず。李東輝はその後まもなくシベリアで死亡。

7月 槿友会の第一回全国大会。左傾化を嫌うキリスト教系の女性は戦列から離れる。

28年8月

8.29 金天海と同志36名が日本で「国恥記念日闘争」を展開。

8 第4次共産党,あいつぐ日本官憲の弾圧で解体.日本総局も活動を停止.

8月 ソウル派と上海派は連合して“在満朝鮮共産主義同盟”を結成。満州では三つの「総局」が鼎立することになる。

8月 コミンテルン書記局、「一国一党の原則」を再確認。「日本にいる朝鮮人は日本共産党に入党して現住国の革命のために闘って国際主義をつらぬくこと、これが朝鮮人の任務である」という指示が出される。

8月 プロフィンテルン決定を受け、全協は東京朝鮮労働組合(以下東京朝労)幹部の金浩永らに解散と合流を提案する。

28年9月

9.02 第二次間島共産党事件が発生。高麗共産青年会満州総局、参加の合法団体である東満朝鮮青年同盟を動員し、“国際青年日”記念集会を企画。事前に72人が大量検挙される。その後も検挙が相次ぎ、東満青年総同盟は活動を停止。

9月 コミンテルン大会決定に基づき、在満朝鮮共産党員(満州総局)の受け皿として、中国共産党満州省委員会に結集する方針が打ち出される。中国共産党は、朝鮮人を国内の少数民族と認め、革命後には自治権を与える方針を確立。

9月初め 元山にあるライジング・サン石油会社文坪製油所(英国籍企業)で、日本人監督が朝鮮人労働者に悪罵を投げつけ暴行。労働者たち120名は、監督の罷免、生活条件改善など5項目を要求し、ストライキに突入する。

9.28 ライジング・サン石油会社は、いったん労働者の要求を受諾する。しかしその後、合意の履行を引き延ばし、団交も拒否する。

9月 天皇即位式を理由として厳戒体制が敷かれる。

28年10月

10月 義烈団、北京で第三回全国代表大会。独立・進歩勢力の大同団結と大衆路線への転換を宣言。運動の基盤を労農大衆に移す。義烈団綱領 を採択。①朝鮮民族の敵である日本帝国主義の統治を根本的に打倒、②封建制度と反革命勢力を駆除、③言論、出版、集会、結社、居住の自由を実現、などを主 張。これに「東洋無産階級提携」を唱える北風会の安光泉も加わる。

28年12月

12.07 コミンテルン政治書記局東洋部に設けられた朝鮮委員会、朝鮮における共産主義運動再建のための「朝鮮革命農民及び労働者の任務に関する決議」(12月テーゼ)を作成し、執行委員会政治部書記局名で送付。朝鮮独自の共産党組織は廃止される。

12月テーゼの骨子: 4 次にわたる共産党建設がいずれも失敗に終わったことから、「多年にわたる内部的分派闘争は、党の発展を妨害してきた」とし、インテリ主導型の党建設を批 判。労働者・農民中心の党再建を指示.独立の課題を抜きにして、「プロレタリアのヘゲモニーにもとづく、土地革命を主内容としたブルジョア民主主義革命」 を現段階の革命路線として提示。民族ブルジョア・民族主義者を排撃することをもとめる。満州総局・日本総局は廃止され,現地の朝鮮人共産党員はそれぞれ中 国・日本共産党に結集することとなる.草案の起草には佐野学、瞿秋白らがあたったとされる。

12.14 在日労総関東地方協議会の呼びかけで、在日労総全国代表者会議を開催。関東地協の金斗鎔が「在日本朝鮮労働運動は如何に展開すべきか」と題するパンフレットを作成し各地に配布。全協への合同解消を説く。

28年 李東寧・金九ら、上海で「韓国独立党」を結成。

 

1929年

29年1月

1.15 中国共産党東満区委書記の周東郊、龍井の国民党特務に逮捕される。その後幹部が相次ぎ逮捕され、組織は崩壊する。

1.22 ライジング・サンに対し元山労連(委員長金瓊植)がゼネネストを指示.労連加盟の24の労組,3千名がストに入る.港湾労働者はライジング・サンの貨物取扱い拒否.元山の産業および流通機能は全面的に麻痺する。

1月 「元山ゼネスト」に呼応して朝鮮各地にストが起こり、日本・中国・ソ連・フランスの労働団体からも激励と支援を受ける。神戸の労働者は連帯ストを打つ(これに関して一説では「実際にストが行われた記録はなく、無産者新聞が連帯ストを呼びかけた事実があるのみ」とされる)

1月 車今奉,金在明は日本軍当局により拷問死.

29年2月

2.22 官憲は元山商業会議所と手を結んでストライキの首謀者を逮捕。新幹会や青年同盟の支援集会を禁止。御用労働団体「咸南労働会」をつくって労働者たちを分裂させる。

2月 満州の20の青年団体が、「南満韓人青年同盟」に統合される。

3.11 総督府、新幹会の全国集会を許可せず。新幹会は持ち回り会議で許憲執行部を選出。

29年4月

4.01 正義府(南満)の多数派を中心とした協議会、参議府(東満)の沈竜俊派と新民府(北満)の民政委員会派を糾合。三府を解散したう えで国民府を組織。中央委員長に玄益哲が就任。唯一党として「朝鮮革命党」(中央執行委員長玄正卿)、武装力として「朝鮮革命軍」(総司令李振卓)を創 建。

4.01 元山のスト労働者の一部が、第二組合の「咸南労働会」事務所を襲撃。警察はこれを利用して徹底的取締りと検挙に至る。

4.06 元山ゼネスト、75日間にわたって続いたが,当局の弾圧と資本側の切り崩しに合い敗北.検挙を免れた元山労連の残余幹部は、団体交渉権を放棄し、組合員に無条件自由就業を指示。

4.25 この日、金日成が抗日人民遊撃隊を創建したという.

4月 在日労総,再建大会を開催.全協とともに産業別闘争の強化を目指す方針を採択.

4月 日本総局と高麗共産青年会、三・一五、四・一六事件など相次ぐ弾圧により、再起不能となる。

雨の降る品川駅: 解放新書「民族としての在日朝鮮人」(間宮茂輔)という本がある。古本屋で入手した本で、相当荒っぽい文章だが、その中に「雨の降る品川駅」という詩が引用されている。作者の名もないものだが、日本国内で検挙され朝鮮に送還される活動家を送るうたである。以下紹介する。
辛 よ さようなら/金よ さようなら/君らは雨の降る品川駅から乗車する//李よ さようなら/もひとりの李よ さようなら/君らは君らは君らの父母の国に帰る//君らの国の河は寒い冬に凍る/君らの叛逆する心は別れの一瞬に凍る//海は夕暮れの中に海鳴りの声を高 める/鳩は海に濡れて車庫の屋根から舞い降りる/君らは雨に濡れて 君らを逐う日本天皇を思い出す/君らは雨に濡れて 髭、眼鏡、猫背の彼を思い出す//降りしぶく雨のなかに緑のシグナルは上がる/降りしぶく雨のなかに君らの瞳は尖る//雨は敷石にそそぎ 暗い海面に落ちかかる/雨は君らのあつい頬に消える//君らの黒い影は改札口をよぎる/君らの白いもすそは歩廊の闇にひるがえる//シグナルは色を変える /君らは乗り込む//君は出発する/君らは去る//さようなら 金/さようなら 辛/さようなら 李/さようなら 女の李//行って あのかたい 厚い 滑らかな氷を叩き割れ/長く堰かれていた水をしてほとばらしめよ//日本プロレタリアートの後ろ盾 前盾/さようなら/報復の歓喜に泣き笑う日まで
その後、中野重治の代表作であることが分かりました。

29年5月

5月 吉林省で、国民府が自治政府として発足。これに対し促成会側は、民族運動団体として革新議会を組織。唯一党結成に向け民族唯一党在満策進会を組織する。

5月 カップ東京支部、合法的出版社「無産者社」を組織、機関誌『無産者』を刊行。朝鮮共産党再建運動で活動していた高景欽らがこれに合流。

6.21 第5次共産党事件。印貞植など70人余が共産党を再建しようとして逮捕される。

6.24 総督府汚職事件発生。山梨総督が退陣。その後起訴される。斉藤実が山梨に代わりふたたび総督となる。

7月 「槿友会」の第二回全国大会が開かれる。女性解放と向上に関する広範囲な行動綱領を採択。執行委員長丁七星をはじめ中央執行委員の鄭鐘鳴・許貞淑・黄信徳など左翼系幹部たちが主導権を握る。

7月 金佐鎮ら在満策進会は、国民府、促成会のいずれにも加わらず、新民府を基盤として韓族総連合会を結成する。

29年8月

8.17 第5代朝鮮総督に第3代総督を務めた斎藤実が再任される。

8月 吉林で朝鮮共産党系の民族組織、革命青年同盟が中国共産党と協議。指導者の張日鎮は広州蜂起に参加した経験もあることから、中国共産党の指導 を受け入れる。対日抵抗だけではなく、中国人地主への反抗も課題として掲げる。この路線に従い、「朝鮮・中国農民同盟」が結成される。

8月 相次ぐ弾圧で力を失った「京城青年会」、組織を解散し、朝鮮青年総同盟の京城地区組織である「中央青年同盟」に合流。

8月 全国で小作争議が相次ぐ。咸鏡南道高原の東洋拓殖株式会社の農民の小作争議。平安北道竜川、慶尚南道金海郡迫間農場、慶北の朝鮮土地興業会社などで小作争議。

29年9月

9月 国民府第1回中央議会、「朝鮮政勢についての決定書」を採択。「労働者・農民のソビエト政府を建設しよう」など、ほぼ共産党の路線に従ったもの。共産主義を嫌う革新議会派は、国民府と袂を分かち韓族総連合会に合流。池青天、申肅、李章寧などが中心となる。

10月 平安北道竜川の不二農場で日本人地主に対する小作争議が発生。翌年7月まで闘いが継続される。

10.30 羅州から汽車通学する光州中学の福田修三らが、電車内で朝鮮人女学生の朴己玉をからかう。これに怒った光州高等普通学校の生徒(朴己玉の従弟)と殴り合いのけんかになる。これに対し警察が朝鮮人のみを一方的に制裁。光州日報社は衝突に関して偏った報道を行う。

1929年11月 光州学生事件

午前11時 高等普通学校生徒と光州中学生徒あわせて200人あまりが、光州駅前で集団乱闘。(当時の光州駅は市の中心部、高等普通学校と光州中学のちょうど中間点にあった)

午後0時 光州高等普通学校の講堂で生徒の抗議集会。同盟休校と街頭デモを決議。

午後1時 市民をふくめた群集3千人が高等普通学校前を出発。農校生や光州師範の100人、女子高普の生徒数十人も合流。光州中学に向かう。市の中心部で警察に行く手をさえぎられる。

午後2時 一方的な報道に激怒したデモ隊の一部は、光州新報社に抗議に向かう。これに市民・群集も合流。日本人生徒7名と朝鮮人生徒20余名を逮捕するが、朝鮮人生徒だけを起訴する。

11.04 光州市内の各中等学校が同盟休校に入る。検挙者の釈放を求めるとともに日本による植民地政策を批判して示威運動を展開。光州の街はデモ隊と警官隊の衝突が繰り返され、250人の学生が逮捕される。

11.04 読書会・少女会(ともに各中等学校の秘密サ-クル)を中核に「学生闘争指導本部」が組織される。指導者は張載性(東京の中央大学予科中退)・張錫天(東京商大予科中退)ら。

11.07 市当局、光州中学と高等普通学校を無期限休校とする。

11.12 第二次光州学生闘争が始まる。呉快一(光州高普の読書会メンバ-で組織教養部委員)個人名で、学生闘争指導本部が掲げるスロ- ガンの檄文が撤布される。光州・木浦で街頭示威。日本の支配に抗議するスローガンが叫ばれるようになり、たたかいは「抗日学生運動」の性格を強める。この 日の行動だけで2百名近くの学生が逮捕され、数十人が退学処分となる。

11月 反日運動が全国に波及.200の学校で5万人の学生が立ち上がる.新幹会、光州学生運動に調査班を派遣。ソウルの通りで光州学生事件真相発表大演説会を開くと発表。当局は集会禁止を通告。

11月 ソウルでは中央青年同盟および学生社会科学研究会が中心となって行動を組織。「被圧迫民衆諸君に檄す」のビラを作成。開城・平壌・咸興・公州・元山・春川・東莱・鏡城・仁川・宣川などの各学校に抗日学生運動が波及。

11月 金斗鎔が執筆したパンフレット、『在日朝鮮労働運動は如何に展開すべきか』が刊行される。日本労働組合全国協議会(以下全協)の中へ在日本朝鮮労働総同盟(以下在日労総)を解消させることを説く。

29年12月

12.02 ソウルで光州事件に抗議するデモ。朝鮮学生前衛同盟、槿友会、朝鮮青年総同盟などが主催。同盟休校闘争に10,200余名の学生が参加し、1,400余名が検挙される。

12.10 光州学生運動の影響を受けた新幹会、当局の禁止令を押し切り、初めての民衆大会を開こうとするが、事前に発覚。警察当局は大会を強行しようとした許憲、洪命憙、趙炳玉ら新幹会会員44名、朝鮮青年総同盟、朝鮮労働総同盟、槿友会ら関係団体幹部47名を拘束。

12.13 許憲らは実刑の宣告を受ける。許憲に代わった金炳魯執行部は妥協路線に傾く。逆に支部段階では、執行部の裏切りと捕らえ左傾化を強める。この時点で新幹会は4万を越える会員を持ち、全国の3分の2くらいの郡に支部があったという。

12.14 大阪で秘密裡に在日労総の全国代表者会議が開かれる.会議は赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)第4回大会、第2回太平洋労働組合の決定をうけ、組織を解体.日本労働組合全国協議会(全協)に合流する決議を採択。

12月末 「光州学生事件」に対する報道管制が解かれ、冬期休暇中に帰郷した生徒たちにより事件の真相が朝鮮全土に知れ渡る。

12月 申翼煕、金弘一、閔丙吉ら、南京で韓国革命党を結成。

12月 国民府は唯一党として朝鮮革命党、その指導の下に朝鮮革命軍を編成、これを中心に独立運動と対日抗戦を展開。

29年 モスクワ留学を終えた朝鮮共産党員らが分散的に朝鮮に潜入し、党再建活動に参加。

29年 「12歳」の李京生ら「12~13歳」の少女5名、鉄条網に囲まれた軍需工場の慰安所で、日本人監督・警備の日本兵に連日強姦され る。平日7~8人、日曜15~20人の強姦で、13歳の少女などが出血死したという。日本警察が強制連行したとされ、 「慰安婦」の原型となる。この事件 は92年5月の「第7回日朝国交正常化交渉」で北朝鮮により提示される。(にわかに信じがたいが…)

 

1930年

30年1月

1.03 釜山紡織工場の労働者、賃金引き上げ、8時間労働制、その他待遇改善を要求して闘争に入る。9日には労働者2270名が、「光州学生運動」に呼応してゼネスト。

1月 光州抗日事件に抗議する学生デモが全国に拡大する。参加した学校は全国で194校、参加学生数は約6万名にのぼる。「三・一運動」以後最大の民族運動となる。

1.10 釜山の朝鮮紡織会社で、労働者2000人が待遇改善をもとめ総罷業。

1.12 在日労総,中央委員会を解体し,「日本労働組合全国協議会朝鮮人委員会」に改称.各地の朝鮮労働組合も相次いで解体声明書を発表し、全協所属の自由・金属・木材,出版などの各産業別組合に解消される.

1.15 「京城女学生事件」が発生。ソウルで女学生中心の示威行動。槿友会の許貞淑・韓晟光・朴次貞らが指導。市内男女一五学校 三千余名が万歳示威を展開。

1.23 間島省龍井の各中学校で同盟休校。日本領事館に向け反日デモを決行。その場で50人が逮捕される。

1.24 金佐鎭、黒龍江省海林市山市鎮で朴尚実(共産主義者に転じた部下)により暗殺される。

1月 吉林では事件をきっかけに「在満韓人反帝国主義同盟」が結成され、呉東三が委員長に就任。日本でも「学友会」(朝鮮人留学生の団体) や「在日本朝鮮労働総同盟」が抗議行動。上海では安昌浩・尹玉奇燮らを中心に「上海各団体連合会」を組織、中国人団体もこれに連帯して行動。北京・天津・ アメリカ本土およびハワイ・シベリア沿海州などでも抗議行動が展開される。

1月 上海で臨時政府を守る金九、韓国独立党を結成。民族左派と絶交。韓族総連合会は韓国独立党に合併され、池青天が軍事委員長に就任。北満州の韋河県で洪震、申肅、李章寧などが指導して韓国独立党の北満支部を結成。

30年2月

2.28 間島地区の朝鮮共産党満州総局(火曜派)、頭道溝を中心に万歳事件11周年の記念デモを決行し成功させる。この後、張時雨ら幹部は「東満暴動」計画を立案し、「暴動委員会」の組織に着手する。

30年3月

3.17 総督府警察当局、これまでに検挙した共産党員が1,171 名に達したと発表。

3.20 中国共産党満州省委、ハルビンで朝鮮共産党各派の代表協議会を召集。中国共産党加入問題を討議する。大部分の代表は中国共産党加 入に賛成。ML派、火曜会、ソウル=上海派が相次ぎ解体。朝鮮共産党満州総局も「解体宣言」を発表。党員のほとんどが中国共産党満州省委員会に転籍。満州 省委員会のメンバーの90%を朝鮮族党員が占めることとなる。

3月 火曜派の金綴洙らは中国共産党に結集せず、吉林に「朝鮮共産党再建設準備委員会」を結成。東満のソウル派はこれに従わず、解散宣言を発表し中国共産党に合流。

3月 光州学生運動を起点として各地で起きた抗日デモ、退学582名、無期停学2330名、検挙者1,642人を出して終焉.

30年4月

4月 間島では「東満暴動」計画が漏洩し、張時雨ら幹部130人が次々に逮捕される。金洛中が、ハルビンで関東軍特務機関に逮捕され虐殺。金洛中は朝鮮共産党創立の中心メンバーのひとりで、詩集「臨津江」の作者としても知られる。

4.05 中国共産党満州省委員会、李三立の指導にもとづき、民衆蜂起を促す極左的な「赤い5月」方針を指示。この方針に従う朝鮮人活動家を中国共産党に入党させるという条件をつける。満州各地で反日暴動がされる。

4.24 中国共産党満州省委員会、「日本帝国主義打倒、国民党反動軍閥政府打倒、高利貸し搾取に反対、地主の土地を奪い貧農に分配せよ、土地革命 を実施しソヴェト政権を樹立せよ」などの「無展望な自爆的」スローガンを提起。間島地区では火曜派に代わりML派が受け皿となる。

30年5月

5.01 平壌・釜山・大邱・元山・清津・仁川・全州・馬山・金海などでメ-デ-のデモが行われる。

5.03 咸鏡南道新興郡の長豊炭鉱労働者150名、労働組合結成に干渉する会社側に対し、暴力・暴言反対、賃金引き上げ、労働組合結成への不干渉その他を掲げゼネスト。

5月30日 間島蜂起(第4次間島共産党事件)。「紅5月」闘争の一環として展開される.朝鮮人共産主義者七千名が,天図線(天津・図們間)沿線を 中心に龍井の日本領事館、電灯会社、駅舎などを破壊。中国人地主、朝鮮人対日協力者を襲撃.翌年8月までに2千名が検挙され,32名が処刑される.

頭道溝近郊の薬水洞では「東北で初めてのソビエト政府」が宣言され、数百人の群衆が「赤いネクタイをひ らめかせ」行進。「出よう出よう、争いに出よう/ 勇ましい勢いで/さあ早く出よう/ 帝国主義軍閥たちは死ねと催促して/ 強奪と虐殺はやりたいだけやる」と唱和する。

5月 吉林の朝鮮共産党再建設準備委員会、国内の労働運動への指導を強化するよう指示。金一洙・尹滋英・呉蒜世らが咸鏡南道興南に潜入し、「朝鮮左翼労働組合全国評議会準備会」を発足。

6.22 咸鏡南道新興炭鉱労働者のゼネスト。長豊炭鉱労働者150名は、会社施設を襲撃・破壊。当局の弾圧により百余名が検挙される。

30年7月

7.20 咸鏡南道端川郡で森林組合の設置に反対する農民蜂起.2千名の農民が郡庁に押しかける.警察の実弾射撃により16名の死者を出す.検挙者168名。

7月 咸鏡南道定平でも「農民同盟」指導のもと、農民1万3百名余が抗日示威運動を展開。

7月 韓族総連合会、金佐鎭暗殺を受けて再編。韓族自治連合会として再建される。韓国独立党を創党し、洪震が中央委員長に就任。「韓国独立軍」(総司令李青天)を創建。

30年8月

8.01 中共満州省委、敦化で暴動計画を発動。「吉敦臨時政府」の馬天穆(朝鮮人)が指導し、中国政府軍や地方軍閥の駐屯地を襲撃。1箇所のみで襲撃に成功し16丁の銃と弾丸1000発を強奪。他数ヶ所では多くの犠牲を出しなんらの収穫を上げることなく撤退。

8.07 平壌ゴム会社で賃下げ。労働者1,800人がストライキ。

8.08 朝鮮革命党、国民府派と共産党派に分裂。

30年9月

9.25 中国軍閥政府、「吉林省匪賊討伐司令部」を設置。延辺と吉敦鉄道沿線に2個団の兵力を配置し暴徒の弾圧にあたる。

9月 中共満州省委、東満特別委員会を設立。蓼如院、楊林、王耿、朱建が指導。「右傾思想を乗り越え、土地革命を深く展開し、地主の一切の 土地を没収し、ソビエト政権を建設する」ことを指示。敦化と延辺の遊撃隊を整理して「紅軍第44軍」を創建し、遊撃戦争を展開することを訴える。この方針 に基づき、羅子溝、平崗区、開山屯、三道溝、吉敦などに、8つの武装隊が組職される。

9月 プロフィンテルン第5回大会が開かれる。「朝鮮の革命的労働組合運動の任務に関するテ-ゼ」(9月テ-ゼ)を採択。革命的労働運動への転換を促す。朝鮮からは金鎬盤・張会健らが参加する。9月テーゼにもとづき、在日朝鮮労総は解散し、日本の全協に加盟する。

30年11月

11.14 洛陽軍官学校内に、韓人特別班が設置される。

11月 第五次間島共産党事件。「悪質地主」に対する襲撃が相次ぎ、逮捕者は1200名に及ぶ。その後,犠牲の大きい大衆蜂起路線から,パルチザン戦術に路線転換.中国共産党への入党条件を満たすための無謀な極左方針だったと総括される。

11月 新幹会、金炳魯を委員長とする新執行部が成立。「闘わない」ことをモットーとし、ひたすら組織温存を図る。これに対し釜山支会から「新幹会解消論」が台頭し、多くの地方支会に波及する。

30年 10年前からの「産米増殖計画」で、77万人が過剰人口として農村を離れる。そのうち30万人が日本本土に渡る。

 

1931年

1月 北満州では漢族総連合会・韓国独立党・韓国独立軍。南満洲では国民部・朝鮮革命党・朝鮮革命軍で整理される。

2.01 咸南道の定平で農民組合事件が発生。当局は共産主義思想宣伝の嫌疑で農民 125人を検挙する。

2.16 天道教内の独立運動家が、青友党を組織する。

3.29 安昌浩、上海臨時政府を離れ公平社を設立。趙尚燮、車利錫などが参加。臨時政府はますます弱体化する。孤立化した金九はテロリズムによる耳目衝動を狙うようになり、韓人愛国団を組織。

4月 中国共産党内で、武装蜂起を主軸とする李立三の極左主義路線が最終的に否定される。李立三は再教育のためモスクワに送られる。この後中国の革命運動は雌伏のときを強いられる。

4月 朝鮮左翼労働組合全国評議会準備会、当局の弾圧により壊滅。金一洙・尹滋英ら指導部は満州に脱出。

5.01 新幹会全体会議、警察の取締りで途中閉会。執行委員会は解散を宣言。槿友会も自然消滅。この後運動の主力は革命的労働運動・農民運動にうつる。

5.16 平壤の平原ゴム工場の労働者が会社側の一方的な賃下げに抗議してストライキに入る。一人の女性労働者が乙密台に上り、「高所座り込み」を敢行。

6.17 第6代朝鮮総督に陸軍大将宇垣一成が再任される。「自力更生」による三大施策「農山漁村振興」「南棉北羊」「北鮮開拓」を掲げる。

6月 第一次太労事件が発生。上海に本部を置く「汎太平洋労働組合秘書部」の指示を受け、興南窒素肥料工場で赤色労働組合の結成のため活動していた16名が検挙される。

7.02 万宝山事件が発生。長春郊外の万宝山で朝鮮農民たちが無断で水路を掘る。地主たちがこれを追い払おうとしたところ、朝鮮人が抵抗。死亡者127名、負傷者393名を出す。

7.03 仁川とソウルで朝鮮人が中国人を襲撃。その後中国人に対する攻撃が全国に広がる。社会団体、中国人迫害は朝鮮民族の意思でないと声明。

7.11 金佐鎮の遠縁の金宗鎮(無政府主義者)も拉致され行方不明となる。

7月 日本の武装警察隊が「韓人保護」の名の下に万宝山へ出動。中朝の「民族問題」となり、朝鮮内で「排華運動」が頻発。逆に中国国内では,「日本侵略者の尖兵」となった朝鮮人移民に対する反感が強まる。日本警察と御用新聞は流言を飛ばし対立をあおる。

31年9月

9.18 柳條湖事件が発生。関東軍特務機関が張作霖の乗った列車を爆破。これを契機に「満州事変」が勃発。日中「十五年戦争」が始まる。

9.21 朝鮮軍は奉勅命令を待たず、独断で満州へ越境出動。

9月 朝鮮軍、吉林刑務所に収容されていた共産主義者80名を釈放。反中国派の手先に仕立て上げる。

9月 共産党の指示の下に秋収闘争が始まる。奪糧闘争と走狗粛清、武器奪取、反日蜂起など各種形態の大衆闘争を組織。延吉県老頭溝付近の 800人余りの農民が、地主の荘園を包囲し、食糧倉庫を収奪。これを皮切りに、延吉の小営子、和龍県の子洞、三東浦、泉坪、厚洞、汪清県の百草溝、 西汪清、琿春県の密江など農民暴動があいつぐ。

9月 中国共産党満州省委員会の磐石中心県委員会に所属する朝鮮人グループ、李紅光は打狗隊(武装赤衛隊)を組織し、ゲリラ戦を開始。政治指導を李東光書記、軍事指導を李紅光が担当。

打狗隊: 正式には武装赤衛隊。狗(いぬ)とは保民会などの親日団体の手先のことをさす。 李紅光: 関東軍や「満州国」の新聞が、彼を「女将軍」と誤報したことから有名になった。捕虜を尋問した女性兵士が「李紅光」を名乗ったことから来ているとされる。

31年10月

10.12 中国共産党中央委員会、日帝侵略に反対する大衆闘争を展開するよう訴える。満州各党組織には遊撃隊を創建し、遊撃区を開拓せよと指示。

10月 朝鮮共産党日本総局と高麗青年会日本部,「民族的限界を乗り越え,日鮮プロレタリアートのあらゆる革命的組織の中に自己の階級的任務を見い出すであろう」との解体共同宣言を赤旗に発表.日本共産党に合同.

10月 汎太平洋労働組合秘書部、「太労十月書信」で、プロフィンテルンの「九月テ-ゼ」を具体化した「飛檄」を発表。

10月 北京で義烈団臨時代表大会。金元鳳は、労農大衆運動の組織化を中断し、国民党政府内における対日態度の硬化を適切に利用した新たな抗日戦を展開する方針をうち出す。

31年11月

11.06 延吉県海蘭溝で、官憲が減租減息闘争の指導者3人を逮捕。局子街の延吉県公安局に収監。県政府を取り囲んだ数千のデモ隊が抗議行動を展開。県長は拘禁された代表を釈放し、減租減息の要求を受けつけると表明する。

11月 反帝同盟事件が発生。京城帝大の学生多数が逮捕される。

11月 韓国独立党は韓国独立軍を編成。池青天が軍事委員長および韓国独立軍総司令官となる。韓国独立軍は、中国護路軍、吉林救国軍など中国の反日義勇軍勢力と連合し、1932年の双城堡戦闘、1933年の鏡泊湖戦闘、四道河子戦闘、東京城戦闘などに参戦。

11月 金九ら上海臨時政府、孫文の意向をとりいれた「三均主義」を提唱。中国側との修復を図る。そのいっぽう秘密組織「韓人愛国団」を結成しテロ活動に活路を見出そうと図る。三均は人類平等(人均)・民族平等(族均)・国際平等(国均)の意味。

11月 全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)を発展的に解消し、日本プロレタリア文化連盟(コップ)が発足。コップ内に朝鮮協議会が創設される。金龍済、金斗鋳、朴石丁、李洪鐘などが中心となり、「日鮮プロレタリアートの革命的提携を強化する」ことをうたう。

31年12月

12月 中国共産党によって東北人民革命軍が編成される。

12.07 中華民国軍の吉林省防軍第677団3営(明月溝)を率いる王徳林、基地内に侵入した満鉄社員(日本人)を射殺。小城子で「挽救危亡、収復東北」を訴え抗日救国軍を設立する。

12月 中華民国軍の東辺道省防軍第一連隊長を勤めていた唐聚伍、抗日救国を唱えて遼寧民衆自衛軍を組織。一時は一万余の兵力をもって関東軍に対抗。(上の記事との異同は不明)

12.11 洪震・李青天、中国の丁超と連合し抗日連合軍を組織。

12.19 新賓事件が発生。朝鮮革命党の幹部30人余が、遼寧省の新賓で日本軍により逮捕される。

12月 朝鮮共産党日本総局、コミンテルン第6回大会の方針に従い、「解体声明書」を出す。これによって日本在住の朝鮮人共産主義者は日本共産党に加盟することになる。

31年 申采浩、『朝鮮史研究艸』、『朝鮮上古史』、『朝鮮上古文化史』を相次いで発表。近代民族史学の確立を目指す。

 

1932年

32年初め 北満洲の「独立軍」、義勇軍の老風林部隊と共同してハルビンの日本軍を攻撃。双白保を一時占領。ついで北牡丹江地区に移り、鏡泊湖、東京城および間島の羅子溝一帯で活動。(詳細不明)

32年1月

1.08 愛国団の李奉昌,代々木練兵場の観兵式に臨席する昭和天皇の二頭立て馬車を桜田門外で襲う。手榴弾を投げつけたが、それて宮内大臣の乗る第二輛目の馬車に命中。

1.09 中国国民党の機関紙『国民日報』、「韓人李奉昌狙撃、日本天皇不幸否中(不幸にも命中せず)」という見出しで事件を報じる。現地の日本軍と警察は『国民日報』社を襲撃、破壊。

1.28 第一次上海事変が発生。五人の日本人僧侶が虹口で殴打されたことを口実にして、中国人の工場や商店を破壊し、警官を殺害。さらに海軍陸戦隊が上海に上陸。

1月 朝鮮革命党が満州新賓で会議。日本領事館警察と満州保安隊に踏み込まれ、参加者の大部分が逮捕される。

1月 平壌鉱山労働者のストライキ。慶尚南道金海の迫間農場小作争議。

1月 琿春県で中国共産党の指導の下に別働隊(大荒溝)・突撃隊(烟筒子西溝)が発足。山中に野営地を作りゲリラ戦を開始。

32年2月

2.15 龍井で親日派朝鮮人による「民生団」が結成される。日本の御用団体として現地支配の一翼を担ったことから、中国人との軋轢を生む。

2.20 王徳林の救国軍、敦化県を支配下におさめる。このあと蛟河県など5県に攻撃をかける。王徳林の部隊には共産党も合流。李延禄が前方司令部参謀長兼第1補充団団長となる。また呉義成部隊には李光や胡沢民らの朝鮮人部隊が参加する。

2.29 中国国内で「抗日反満運動」の機運が高まる。これを受けた蒋介石は、「安内壌外」を標榜する。国民党は秘密組織「三民主義力行社」を結成。一般に「藍衣社」と呼ばれる。

32年3月

3月1日 「満州国」の建国が宣言される.

日本人開拓者の証言: 与 えられた土地は、中国人から武力でとりあげ、日本人向けにへ提供し直したものであった。使用人として朝鮮人と中国人を使い、朝鮮人には米で、中国人には麦 で給料を払った。列車や駅が次々に「馬賊」に襲撃され、身代金を求める拉致事件も伝わってきた。周囲の中国人が「ひとさらい」に見え、匪襲に対抗した日満 軍警の英雄的「討匪行」の報道に感動した。このような雰囲気の下で、「異国」の地にある朝鮮人の感情が二面性を持つのは自然の成り行きであろう。 (色平 哲郎さんのページから)

3.01 槇村浩が「間島パルチザンの歌」を発表。

3.08 義烈団は本拠を南京に移動。金元鳳は藍衣社内の黄埔軍官学校仲間を経由して、蒋介石宛てに「韓中合作」を提案する書輪を送る。

3.13 「鏡泊湖連環戦役」が2週間にわたり続く。関東軍の天野旅団追撃を受けた王徳林の救国軍は、敦化を放棄。反撃を繰り返しながら移動。寧安への逃亡に成功。旅団長の天野少将はこの戦闘で戦死する。

3.20 救国軍250人余りと大刀会(中国人による民族系武装組織)が老頭溝を襲撃。ついで天宝山鉱山、百草溝を相次いで攻撃。

3月 盤石の李紅光、朝鮮人7名によって打狗隊を結成。抗日遊撃区の創設に成功。

3月 朝鮮革命党、党委員長を高而虚、朝鮮革命軍総司令を梁河山(創設時は李振卓)、副司令を梁世奉とし、党・軍の陣容を整える。第一師司令に韓劔秋、第二師司令に趙化善、第三師司令に朴大浩に任命。

3月 プロレタリア科学研究所内で李北満、劉正植、金斗鋳などが中心となって「殖民地班」を結成。

32年4月

4.02 大刀会、三道溝を襲い1週間にわたり占領。二道溝では公安分署の将兵40人と防衛隊員50人が蜂起し、大刀会と合流。

4.02 日本政府は朝鮮軍を間島に派遣することを決定。第一次討伐作戦が開始される。会寧の第75連隊(池田大佐)から編成された2個大隊1600人が、龍井、琿春方面へ「越北派兵」する。長春駐屯の関東軍第10師団の平賀部隊1400人も延辺に入る。

4.19 討伐軍は「千名を誤殺しようとも共産党を一人も逃すな」と叫び、朝鮮人村落に対する焼き討ち作戦を展開。「間島大虐殺事件」と呼ばれ、1200人(一説に4000人余り)を殺害したとされる。

4.25 北朝鮮文書によれば、この日、金日成が安図県小沙河で抗日遊撃隊を創建したとされる。安図県の遊撃隊は、救国軍との合流を目指し寧安に向かう。

4.29 韓人愛国団の尹奉吉,上海虹口公園の「天長節観兵式」式場に日本人を装い潜入。演壇に向かい爆弾の入った水筒を投げつける.河端 貞次居留民団長が10日後に,占領軍司令官で元陸相の白川義則大将も2ヵ月後に死亡。村井上海総領事、駐華公使の重光葵、第九師団長の植田謙吉、第三艦隊 司令長官の野村吉三郎ら10数名が重傷を負う.

4.29 朝鮮人民は李奉昌と尹奉吉を「二奉」と讃える。中国世論も「韓民族の不屈の闘志」を賞賛。

4月 王徳林、寧安で吉林省内の中華民国軍抗日派部隊の連席会議を召集。李杜が吉林抗日連合軍総司令兼自衛軍総指揮となり、丁超が護路軍の、王徳林が救国軍の総指揮となる。

4月 梁世奉(梁世鳳?)総司令が率いる朝鮮革命軍(国民府系民族主義)、通化地方でゲリラ活動を強化。隊員は数百人にのぼる。新賓県永陵街を攻撃して80余名の日本・満州軍を殲滅。5月には6回の戦闘で敵1000余名を殺傷・捕虜・失踪させる戦果をあげる。(3月の記事と対照すると、わずか1ヶ月で総司令が交代したことになる)

4月 「第二次太平洋労働組合事件」が発生。咸興・元山・仁川などに活動を広げる「興南左翼」500名が、メ-デ-の準備中に一斉検挙される。金元黙は拘留中に拷問死、連座した日本人の磯谷季次は朝鮮で十年間の獄中生活。

興南左翼: プロフィンテル第5回大会参加者張会健、モスクワの東方労働者共産大学卒の金元黙、朝鮮内左翼活動家の朴世栄・韓士斌らが結成。「9月テーゼ」の実践を目指し、興南地区で地下活動を続けていた。

4月 汪清県で金哲、李光らを中心に労農反日遊撃隊が設立される。隊長は金哲、彼の戦死後は梁成竜。南哈莫塘で満州軍輸送隊を襲撃、銃33丁、弾薬 10箱、食糧数十袋を捕獲。龍水洞では、日満掃討軍を攻撃し銃20丁と弾丸数千発を奪取。これらの作戦により部隊は中隊規模に拡大。

4月 朝鮮共産党再建運動に関連して、99名が検挙される。姜進・李文弘・崔英春・李鐘熙らが、興南・元山・端川・利原・北青・文川・高原などで、赤色労働組合、赤色農民組合の組織にあたっていた。

4月 広州の黄埔軍官学校内に「民族運動委員会」が作られる。藍衣社の下部組織として朝鮮・台湾・越南などの独立運動の支援にあたる。

32年5月

5月初め 金九はロイター通信に犯行声明を送った後上海を離脱。臨時政府は上海から浙江省枯州に移る。その後杭州、鎮江、長沙など中国各地を転々とする。

5月初め 上海フランス租界の当局は安昌浩、李元勲、曹奉岩らを逮捕。日本に引き渡す。安昌浩らは朝鮮本土に送還され、ソウルの西大門刑務所に収監される。

5月 コミンテルン執行委員クーシネン、「革命の友」誌に「朝鮮共産運動について」と題する意見書を発表。党内の分派活動について「米国、ポーランドを上回るもの」と嘆く。

5月 「打狗隊」が30数名の磐石工農義勇軍(一説に東北農工義勇軍)に発展。のちに李紅光は、東北人民革命軍第1軍独立師参謀長となる。11月に は楊靖宇(ヤンジンウ)指揮下の中国工農紅軍第32軍に編入され、南満遊撃隊として活動するようになる。総隊長は漢族の常春鳳ともいう。

5月 金成柱(金日成)が安図県小沙河でゲリラ部隊を旗揚げ、緒戦で満州軍輸送部隊を襲い、大勝利を挙げたという。さらに和龍県西部と南部を中心にする和龍遊撃隊も結成される。

32年6月

6月 琿春の突撃隊と別働隊、嶺南遊撃隊と嶺北遊撃隊に再編される。日本軍討伐隊を待ち伏せ戦で撃退するなどの戦果を挙げる。

6月 上海で中国共産党中央委員会開催。王明の指導する東満党組織の極左冒険主義を克服。一方で、満州の特殊性を抹殺し、「反日武装闘争路 線」を否定。地域ソビエト政権の樹立と土地革命の推進を指示する。「ソビエト」内での「民主化」は進むが、中間層や隣接地帯の離反を招き、孤立化する。

7月 朝鮮革命軍、単独で通化県快大茂子を攻撃。日本・満州軍80余名を殺傷する。

8.07 延吉県の柳亭村で、内通を受けた日本軍により、抗日遊撃隊員60人が攻撃を受け殺害される。

8月 関東軍は「朝鮮経済調査会」に「在満朝鮮人移民対策綱領」をつくらせ、朝鮮族貧農層の取り込みと抗日部隊との分断をはかる。

安全農村: 営口県田荘台、鉄嶺県乱石山、柳河県三源浦、黒龍江省烏吉密河一帯の河東綏化付近に農村を建設し、南北満洲の朝鮮難民を入植させる。「東亜勧業会社」は1万町歩の土地を買い入れ、3500戸の農民に水田を開拓させる。

9.19 韓国独立党の部隊が、双城堡を攻撃。

9月 広州で義烈団定期代表大会。軍事部門の拡大政策が承認される。金元鳳は南京で「朝鮮革命軍事政治幹部学校」(偽装名:軍事委員会幹部訓練組第6部隊)を設立。3年間に120人前後の卒業生が送り出され、「朝鮮義勇隊」の中核になる。

32年10月

10.10 李奉昌、市ヶ谷刑務所で死刑執行。「敵ながら見上げた人物である。民間人だが、処刑は名誉ある銃殺刑が至当」とされる。12月には尹奉吉も処刑される。

10.16 「宋老頭事件」が発生。内通者として摘発された宋老頭が、20人余りの朝鮮族幹部と熱烈分子たちを “民生団同僚”と名指しする。

10.27 呉義成がひきいる救国軍別働隊、双河鎮から牡丹村を経て百草溝を襲撃。

10月 延吉県の蘭溝遊撃隊と老頭溝遊撃隊が連合して、延吉県遊撃隊を結成する。隊長は朴東根、政治委員は朴吉。

10月 義烈団の提唱で対日戦線の統一に関する議論が開始される。光復同志会代表の金奎植がフィクサーとなり、朝鮮革命党の崔東?、韓国独 立党の金科奉、韓国革命党の申翼熙、朝鮮義烈団の朴建雄らが1ヶ月にわたり討論を重ねる。(この金奎植と11月の事項の金奎植はたぶん別人。それにしても 困りますね)

32年11月

11.10 長期の議論を経て、臨時政府の解消と韓国対日戦線統一同盟の結成が合意される。韓国独立党の金科奉派など5つの党が参加する。中国東北義勇軍傘下の中韓民衆大同盟、対日戦線統一同盟もこれに合流。韓国独立党の金九派・趙素昂派は参加を拒否。

11月 関東軍、抗日武装闘争への「第一次討伐」を開始。大量の兵力を寧安の王徳林部隊に向け集中する。

この頃の日本側資料では、下記の地区に「ソビエト」が形成されていたとする。
① 琿春県: 頭道溝から奥地・草帽頂子に至る地帯、伽耶河東北地帯から汪清県西大坡に至る地帯、②延吉県: 依蘭溝・王偶溝から石人溝に至る一帯、三道湾か ら銅仏寺北の葦子溝に至る地帯、花蓮里から汪清県境界の泗水坪に至る地帯、③和龍県: 三道溝水砧洞から二道溝漁浪村に至る地帯、得味洞から河広浦平頂山 を通って牛心山に至る地帯、④安図県: 延吉県長仁溝から大荒溝に至る地帯。

11月 金奎植、韓国対日戦線統一同盟の外交代表として米国各地を巡訪。大韓独立党ニューヨーク大韓人僑民団、ハワイ大韓人国民会などが相次いで同盟に加盟。

11月 磐石労農義勇軍が中国労農紅軍32軍隷下に入り、「南満遊撃隊」に改編される。32軍の三個大隊は楊靖宇が指揮。「南満遊撃隊」は一個教導隊として李紅光が指揮を執る。楊靖宇は中国人で、中国共産党満州省委員会から派遣された。

11月 第一次「民生団」事件が発生。中国共産党東満特別委員会、朝鮮人共産党員430人を、日本の手先(民生団員)と疑い粛清。民生団事件と呼ば れる。過去に民族主義運動団体で活動したもの、朝鮮独立を唱えたものが、それだけで「民生団」スパイとされた。この事件は中国・朝鮮人民の関係を引き裂 き、多くの人々が戦列を離れたといわれる。

民生団事件: 日本の諜報機関は民衆の抵抗運動を分裂させるために「民生団」を組織。ゲリラ組織内に潜入し、朝鮮人が日本軍と内通しているとの情報を流す。その結果、朝鮮人活動家の多くがスパイとの疑いを受け粛清された。

32年12月

12.10 「朝鮮小作調停令」を公布。各地で赤色農民組合が作られ、抗日運動を展開したことに対応したもの。

12.25 抗日聯軍、日本軍部隊を東満の鏡泊湖付近で撃退。

12月 藤原義江、「討匪行」を発表。慰問先の満州で関東軍嘱託の八木沼丈夫から詩をもらい、みずから作曲した。「どこまで続くぬかるみぞ」が元歌で、「満鉄の金ボタンの馬鹿野郎」は替え歌。

32年 日本軍資料によれば、この年に東満の朝鮮革命軍は16回にわたって101人の隊員を国内に浸透させ、軍資金強奪、官公署の襲撃、親日派へのテロを繰り返す。

32年 ハルビン郊外賓県で東北人民革命軍第3軍第1独立師団が結成される。第1団の政治部主任に金策第2団の団長に許亨植が就任。その後金策は北満臨時省委員会書記、許亨植は東北抗日連軍第3路軍総参謀長兼第3軍長に昇任。

32年 池青天、東亜血誠同盟の幹部として各地の抗日団体の統合に努力。

 

1933年

33年1月

1.01 救国軍参謀長の李延禄が守る磨刀石が日本軍10師団第8旅団により陥落。

1.14 救国軍の本拠地、東寧が陥落。王徳林、孔憲栄はソ連国境まで撤退する。その後も呉義成軍が吉敦地区で抵抗を続ける。朝鮮人を主体とする寧安県遊撃隊は汪清県に移動し、汪清県遊撃隊と合流、 汪清県遊撃隊に拡大編成し、梁成龍が大隊長、金日成が政治指導員に任命された。

33年2月

2月 日本軍、3000人余りを動員し、小汪清と延吉県依蘭溝、石人溝、三道湾、琿春県大荒溝、姻筒子など遊撃根拠地に向けて大規模な“討伐”を開始。

2月 朝鮮中央日報が創刊される.呂運享が社長に就任.(朝鮮日報とは別の新聞であろう)

2月 李承晩、ジュネーブの国際連盟会議に参加, 日本の満洲侵略を非難する演説。

2月 総督府当局、朝鮮共産党再建闘争協議会への弾圧。京畿道・慶尚南道で45名が逮捕される。

33年3月

3.17 荒木陸軍大臣、朝鮮人ゲリラ鎮圧のため中国国民党の要員を買収しようと画策。駐華公使有吉明を派遣し上海の高級料亭で会食。白貞基ら無政府主義者は爆弾テロを試みるが失敗。

3.27 「リットン報告書」が国際連盟で採択される。満州国は国家として承認されず。日本はこれに抗議して国連から脱退。

3.30 日本軍、2000人余りの兵力で小汪清を攻撃。汪清遊撃隊と李光の指揮する別動隊は、抗日救国軍と連合しこれを迎撃。三日間の激闘の後撃退に成功。

3月 間島の汪清に派遣された関東軍軽重隊員の伊田助男、10万発の弾薬をトラックに積み小汪清抗日遊撃区に持ち出す。パルチザンとの接触に失敗し た伊田は日本軍に包囲され、遺書を残し山中で自決。その後遊撃隊がトラックを発見。日本兵の遺体には一通の手紙があった。遊撃隊は遺体を追悼し、村の小学 校を「伊田小学校」と名づける。(槇村浩の「間島パルチザンの歌」から、当時日本でもパルチザンが広く知られ、ロマンチックに夢想されていたことがうかがわれる)

親愛なる遊撃隊の同志のみなさん。
 私は、あなた方が山あいにまいた宣伝 物を読み、あなた方が共産党の遊撃隊であることを知りました。あなた方は愛国主義者であり、また国際主義者でもあります。私はあなた方にお会いし、ともに 共同の敵を打倒したいと切に思っています。しかし私はファシストのけだものたちに取り囲まれていて、あなた方のところへ行くことができません。私はみずか らの命を絶つことにしました。私が運んできた10万発の弾薬はあなた方の軍隊に贈ります。どうかみなさん、日本のファシストをねらいうちしてください。私 の身は死のうとも革命の精神は生き続けます。神聖な共産主義の事業の一日もはやい成功を祈って。
 関東軍間島日本輜重隊 日本共産党員 1933年3月30日 伊田助男(あまり日本語らしくなく、相当編集されているとは思うが…)

3月 東満特委の金聖道組職部長、和龍県で“清算委員会”を組織し、「民生団員」の疑いのある人物数十人を殺害する。

33年4月

4.17 四道河子の戦闘。汪清の遊撃隊が日本軍討伐隊を迎え撃ち、10倍を上回る日本軍をゲリラ戦により撹乱。(1個師団を撃退とあるが、これは眉唾

4月 中国共産党、延辺地域の「遊撃隊」を統合。和竜県では遊撃大隊を編成。琿春県では嶺南・嶺北の遊撃隊を統合。隊長に孔憲深が就任。

和龍中韓抗日遊撃大隊: 青山里戦闘の部隊の伝統を引き継ぐ間島の朝鮮人部隊。和龍県三道溝一帯の朝鮮人ゲリラ部隊が、武器奪取闘争を繰り返す中で、小銃50丁を持つ80人規模の和龍中韓抗日遊撃大隊に発展。大隊長に張承漢が就任。

5月 中国共産党の汪清県委員会で、民生団員とされた李龍国書記が同志10名とともに銃殺される。10月には後任書記の金権一も民生団分子として逮捕・銃殺される。金明均軍事部長は脱走。34年12月には東北人民革命軍内でも粛清。

33年6月

6月 「第三次太平洋労組事件」発生。興南地区の左翼活動家30余名が逮捕され、闘争続行は不可能となる。

7.03 大甸子嶺戦闘。韓国独立軍など中朝連合軍が日本軍 1千 3百名余を殺傷して多くの軍需物資を捕獲(ホントかな?)

7.20 党組織粛清のため琿春に入った満州省委代表団の潘慶友が遊撃団員により射殺される。東満特委は、琿春党組織、革命政府、遊撃隊と群衆団体の70%が民生団員だと宣言。主要幹部60人余りを逮捕し殺害。

33年9月

9.06 中ソ国境地域の東寧県城に朝・中の連合部隊が夜襲をかける。金日成が汪清・琿春の遊撃隊から選抜された決死隊を率い、これに呉義成、柴世栄、史忠恒が率いる 吉林救国軍、李青天の韓国独立軍も加わり総勢3千人に達する。戦闘は敗北に終わり、両派の確執から韓国独立軍兵士らは武装解除される。(金日成の回顧録では華々しく描かれているが、500人あまりの守備隊に勝てなかったのだから敗北と見るべきであろう)

9月18日 東北人民革命軍第1軍が編成され、工農紅軍第32軍は第一独立師団として改編される。楊靖宇が師団長兼政治委員、李紅光が参謀長に就任.(兵力は16個部隊約720人とされるから、1920年頃の独立軍よりだいぶ小さい)

9.21 京城の鐘ヶ淵紡織で、女工 500人が待遇改善・賃金引上げを要求してストライキに入る。

10.07 琿春遊撃隊、大荒溝近くで日本軍と遭遇し、激戦を展開。

11.07 第一独立師団が第一軍そのものとなる。軍長兼政治委員に楊靖宇。その下に二個師団が編成され、李紅光師長の第一師と、中国人の曹国安が師長を務める第二師に編成される。

11.17 関東軍、6000人余りの兵力を動員し間島地方のパルチザン根拠地への「第二次討伐」を開始。ゲリラと農民の間を分断するため、周辺地帯と山岳散居農民を集めて「集家並屯」政策を始める。

集団部落は事実上の強制収用所であり、四周を高い堀で囲み、有刺鉄線を張り、警察と自衛団が送られて住民の行動を監視する。さらに「良民証」を持たせ、連座制にして反日犯罪を防止する。

11月 総督府当局、定平の赤色農民組合を摘発。33年12月

12.07 満州省委、「民生団」に加え「エムエル派、火曜派、上海派、ソサン派、高麗共産青年団派などの派争分子」を批判。一切の指導機関を改造して、派争分子たちを追い出すよう指示。

12.18 慶南で「赤色教員労組」事件。関連者30人が検挙される。

12月 汪清県を基盤とする呉義成軍も追い詰められ、ソ連領に逃げ込む。これにより救国軍は崩壊。残党がゲリラ戦を続ける。

33年 北満の黒龍江省饒河でも、朝鮮人共産主義者が工農兵反日遊撃隊を結成しゲリラ活動を開始。主な活動家に金策、崔庸健(崔石泉)、李学万、李起東、許亨植、李延録、朴辰宇ら。崔庸健は中国共産党軍の第7軍軍長代理、第2路軍参謀長などの重責を担う。

33年 図們と新京(長春)を結ぶ鉄道が敷設され、日本海と満州を直接結ぶ経路が作られる。

33年 京城帝国大学で経済学教授三宅鹿之助の指導の下に、京城帝大助手の鄭泰植と権又成らが反帝学生サークル(学習グループ)を組織。

33年 西大門刑務所を出所した李載裕、共産党再建を目指し、金三龍、李観述、李順今(李観述の妹)、李鉱相、安炳春らと京城コム・グルー プを結成。労働者街の龍山と、郊外の永登浦などに共産主義グループを組織。三人組の組織をネズミ講的に増やそうとしたことから京城トロイカとも呼ばれる。 鄭泰植を通じ京城帝大グループとも連絡をとる。元山グループとも結びついていたとも言われる。

李載裕: 間島に近い甲山の出身。東京で学びながら 朝鮮共産党の日本総局幹部として活動。トロイカはロシア伝統の三頭立ての馬車。三人一組の班を数多く作ることで、当局の弾圧による被害を最小限に食い止めようとしたもの。

33年 金九、満州の民族勢力との接近に反対し、大韓民国臨時政府国務委員から脱退。韓人愛国団を中心に活動を続ける。

 

1934年

34年1月

1月 共産党再建グループに弾圧.李載裕をふくむ500名が一斉検挙される.李載裕は西大門警察署から脱出し京城帝国大学教授・三宅鹿之助の官舎にかくまわれる。その後ふたたび朝鮮共産党再建京城準備グループを組織。

1月 宇垣総督、農村指導者主任打合わせの席上で、「春窮農家が全農家の半分に昇る」ことを明らかにする。この15年で米の収穫量は20% の増収となる。いっぽう、移出量はほぼ4倍となる。この結果、朝鮮人1人あたりの年間の米消費量は56%に激減。日本人の平均摂取量に比べ36%まで落ち 込む。日本人は朝鮮人が米より雑穀を好む民族だと勘違いした。

1月 共青団満州省委、抗日遊撃区と遊撃隊内で民生団200人余りを見付け、その首領12人を銃殺したと報告。実際には数百人が殺されたといわれる。

34年2月

2月 当局の共産主義者に対する弾圧が厳しさを増す。全羅南道麗水、江原道江陵、江原道蔚珍などで社会科学研究会・青年前衛同盟・反帝同盟・赤色労働・農民組合の活動家が一斉検挙される。

2月 満州の韓国独立党と南京の韓国革命党など民族保守派が結集し新韓独立党を結成。趙素昂の唱える「三均主義」を立党の精神とする。

34年3月

3.01 新韓独立党と義烈団が発起し、朝鮮独立党、朝鮮革命党などをふくめ南京で対日統一同盟大会開催。

3.21 小汪清の遊撃隊が崩壊。東満特委の童長栄書記ら、十里坪の戦闘で戦死。金日成らは北鳳梧洞方面に逃れる。延吉県、和龍県、琿春県の遊撃隊も重大な損害を受ける。

3.28 全南道で共産主義秘密結社の取締り。300人余が検挙される。

3月末 中国共産党東北人民革命軍の会議が延吉県三道湾の能芝営根拠地で開かれる。東満4県の遊撃隊を合併し、第2軍独立師団の創設を決議。師団長は朝鮮人の朱鎮、政治委員は中国人の王徳泰で、いずれも延吉県遊撃隊出身。

その後、4つの独立師団に分かれる。第一独立師団は延吉県遊撃隊を母体とする。和龍遊撃大隊は第二独立師団、汪清県遊撃隊は第3独立師団、琿春遊撃隊は第4独立師団に改編される。
第二軍は朝鮮人を主体としたため朝鮮第一軍と呼ばれることもある。一般には配下の部隊が抗日同盟軍、反日連合軍などさまざまの名前で呼ばれたため、混乱がある。できれば表になった「決定版」がほしいところ。 ありました! 藤永壮さんのページです。

4月 釜山と新京を結ぶ直通列車が運行を開始。

5.30 東北人民革命軍の第二軍、「5・30事件」を記念して軍を拡大再編する。3個師団からなる軍団として再編成。第一独立師団の朱鎮が第二軍 司令官に就任。第2独立師団は方振声が指揮。第3師団の政治委員に金日成が就任.(一説では、軍長は中国人の王徳泰、政治委員も中国人の魏拯民)

5月 新建設社事件が発生。第2次カップ事件ともいわれる。李箕永・白鉄・朴英煕などの文化人・新聞記者・学生など60人あまりが一斉検挙される。

6.26 第2軍の第3師、第4師から選抜された攻撃隊に、綏寧反日同盟軍、羅子溝一帯の抗日救国軍が加わり、総勢600人で羅子溝の満州軍営府を攻撃。周保中と金日成が指揮を執る。7日間の戦闘で決着がつかず、攻撃部隊は撤退を迫られる。

6月 満州軍、2ヶ月にわたる「第4次東辺道大討伐」を実施。5000余名を動員し、中国王鳳閣部隊、朝鮮革命軍などを攻撃。

8月 王徳泰を総指揮とする第2独立師団は、抗日義勇軍と連携し安図県大沙河を攻撃。ついで安図県所在地を占領し、満州軍 300人余りを降伏させる。その一部は人民革命軍に参加。抗日部隊は10あまりの抗日組織と連携し、兵力は千名以上に達する。

34年9月

9.18 日本軍の送り込んだ密偵が、朝鮮革命軍総司令の梁世奉に接触。新賓県小荒溝に誘い出し射殺。(旧暦8月、中秋の4日前という) 梁世奉を失った朝鮮革命軍は、東北人民革命軍第1独立師の李紅光部隊と連合。

梁世奉: 移民小作農の家に生まれ、3.1闘争の中で大韓独立団に加入。正義府の樹立とともに中隊長となり、31年には朝鮮革命軍総司令官となる。‘小作農将軍’ と慕われ、死後も現地では‘梁世奉将軍の歌’が歌い継がれたという。
1929年に新賓で組織された朝鮮革命軍は、5年間で80回以上の戦闘を行い、「狙い撃ちした日本軍は1,000人余り」とされる。

9月 広瀬師団長を総指揮とする満州軍、6千余名を動員し、3ヶ月にわたる「第5次東辺道大討伐」を実施。

10月 国民府、朝鮮革命党・朝鮮革命軍と一体化し、「軍政府」に再編成。(関東軍の攻撃により「政府」としての実体を失ったためか?)  軍政府委員長には高而虚が就任。朝鮮革命軍総司令に金活石、第一方面軍司令に趙化善、第二方面軍司令に韓劔秋を任命する。(その後、韓劔秋の第二方面軍が 主力となったようである)

11月 東北人民革命軍第一軍が二個師団編成となる。第一独立師団が第一師団となり、李紅光が師団長に就任。第二師団が創設され、曹国安が師団長に就任。楊靖宇は本部直属軍を指揮する。

34年12月

12月 金九は中国国民党の協力の下に、中央陸軍軍官学校の洛陽分校内に韓人特別組を設立。在満韓国独立軍の李青天、呉光鮮らを教官に招聘する。金九、金元鳳、李青天系列からそれぞれ学生を選抜し、韓国特務独立軍を組織する。

12月、吉林省に属していた延吉県、汪清県、和龍県、琿春県の4県に奉天省に属していた安図県を加え、間島省を創設し朝鮮人省長を任命する。図們市は延吉県から分離独立し、図們に間島日本領事館分館が新設される。

12月 第二次「民生団事件」。中国共産党東満特別委の中国人幹部が、朝鮮人活動家に「民生団」の嫌疑をかけ逮捕拷問。朱鎮師長、東満特委組職部長・李相黙はじめ多くの朝鮮人幹部・党員が粛清される。(朱鎮粛清説は35年5月の事項と矛盾)

金日成と民生団事件: 金日成の「自伝」は、日時の確認には役立つものの、資料としては極めて使いにくい。ただ民生団事件に関しては、おそらくは文化大革命時に中国側から加えられた攻撃が念頭にあるためか、かなり率直に心情を吐露している。

12月 総督府当局、「蔚珍赤色農民組合事件」を摘発。50人あまりを検挙する。

34年 日本軍資料によれば、この年に鴨緑江対岸の東辺道地方で、延べ23,000余名のゲリラ兵が730余回にわたり出没。

 

1935年

35年1月

1.31 李東輝がシベリアで死亡。62歳。

1月 第二軍主力、各遊撃隊根拠地を失い安図県車廠子に追い込まれる。車廠子周辺で5月までに30回余りの戦闘が繰り返される。

1月 満州省委、「既に民生団員500人以上を逮捕したが、まだ十分ではない」とし、「闘争強化」のため、ハルピン市委書記・魏拯民を全権代表として東満に派遣。

1月 李載裕の内縁の妻で連絡員の朴鎭洪、1年6ヵ月の獄中生活で子供を出産。

35年2月

2.13 東北人民革命軍内の朝鮮人部隊による最初の朝鮮内進攻作戦。李紅光のパルチザン部隊200名が,鴨緑江上流の国境を越え平北道厚昌郡の東興鎮に侵入.深夜の市街戦となる.国境の防衛線を破られたことから、日本軍に衝撃を与える。

2.24 魏拯民、汪清県南蛤莫塘大荒威で東満党団特委第1次連席拡大会 (大荒威会議)を召集する。会議は東満特委を解消し、魏拯民 を書記とした新しい特委を組織、各県の県委を特別支部に改編して安図と羅子溝に二つの特区工作委員会を設置する。委員会本部は綏芬大甸子(羅子溝)に移動、独立師本部は車廠子(安図)方面に移動する。

2月 金日成の名がはじめて文献に登場。このときの肩書きは東北人民革命軍の第二軍第二独立師団第一団第三支隊長。その後、第二軍の第6師団長、第二軍方面軍事長に昇格(「この金日成はモスクワ大学帰りで,現在の金日成とは別人」とする意見もあるが、23歳で年齢的には矛盾しない。クートベ帰りという程度ならゴロゴロいるので、別人説は決定的とはいえない。民生団がらみで上級幹部が次々に粛清されたことも影響しているだろう)

2月 延安のコミンテルン駐在代表団が、民族派敵視の誤りを指摘。これにもとづく新路線が東北人民革命軍に伝えられる。

35年3月

3.21 汪清県腰営溝遊撃根拠地で、東北人民革命軍第2軍独立師連席会議(いわゆる “腰営溝会議”)が開かれる。王徳泰が師長、政委に魏拯民、李学忠が政治部主任に任命される。師団構成はとれず、大隊規模の4団に整理。第3団団長に方振声、政委に金日成が選出される。

3.21 腰営溝会議は、これまでの拠点の維持を断念。汪清・琿春遊撃隊など東満州一帯の遊撃隊を北方の汪清県羅子溝と東寧県老黒山一帯に 移動させ、第五軍(軍長は中国人の周歩中)を創設。延吉・和竜遊撃隊は安図県車廠子に移り、さらに満州南部に移動し、第一軍(軍長は中国人の楊靖宇)と協 同作戦を展開する。

4.15 南満州会寧の遊仙炭鉱で爆発事故。朝鮮人労働者など800余人が犠牲となる。

5.02 第二軍第一団が安図線の列車を襲撃。このあと三回にわたり列車襲撃に成功。

5.21 新建設社事件が発生。KAPFの移動劇団が配布したビラが赤化を企図したとされ、KAPF全員が逮捕される。KAPFは解散に追い込まれる。

5.31 東満特委と第二軍独立師、「東北人民革命軍第2軍が正式に創立された」と発表。この時点で兵力は1200人余り、朝鮮族が3分の2を占めていたとされる。

5月 李紅光、少年連(中隊)と五団(連隊)の兵士2百余名を率い、老嶺西方の興京県橙廠で日本軍2百余と戦闘。このとき重傷を負い桓仁県黒瞎子の密営で死す。

6月末 第二軍第三団と第四団の主力、北満遠征隊を編成。寧安県二道河子の吉東遊撃区との連絡を目指す。周保中の率いる第5軍との協議の結果、合同部隊が額穆、敦化一帯に進出することとなる。

35年7月

7.05 1年余りの討議を経て、南京で民族革命党が樹立される。韓国対日戦線統一同盟を母体とし、韓国独立党趙素昂派・朝鮮革命党・義烈団・新韓民族党(李青天ら)・大韓独立党が解党し大同団結。

民族革命党の性格: 党議を韓国独立党の三均主義に依拠し、党綱を義烈団の綱領に依拠するという折衷的なもの。義烈団の主張を反映し、土地の国有化と農民への分配、経済活動の計画化と国家による統制などが盛り込まれる。

7月 民族革命党は臨時政府の活動を一時停止する。宋秉祚らの大韓民国臨時政府の残存勢力、金九派の韓人愛国団は臨時政府を守る立場から、新党結成に参加せず。

7月 上海に朝鮮人共産主義者が集まり基本路線を検討。朝鮮人独自の政治的指導部を形成し、民族主義者と団結して統一戦線を創出することで合意。アナーキスト、民族主義者をふくむ「朝鮮民族解放同盟」を発足させる。

7.25 コミンテルン第7回大会、反ファシズム統一戦線の結成を提唱。

35年8月

8.01 コミンテルンの提起を受けた中国共産党、抗日統一戦線の結成を呼びかける「抗日8.1宣言」を発表。これまでの「人民革命」の旗を降ろし、「抗日聯軍」の結成を呼びかける。

8.30 関東軍、「治安粛清要綱」を発表。吉林、間島など5省で大規模な討伐計画を策定。 第2軍は部隊を小分隊に編成し遊撃戦を展開することで対抗を計る。

8月 車廠子の第二軍第2団の2連と3連(約150人)、政治部主任の李学忠が司令となり西部遠征隊を組織。撫松を経て蒙江地区に向かう。8月末に第一軍の江南遊撃区に到着し、第8団と合流。

9.20 朝鮮革命軍の第二方面軍(司令韓劔秋)、遼寧の中国人抗日組織「救国義勇軍」と連合し、「中韓抗日同盟会」を結成。政治委員長に「軍政府」の高而虚、軍事委員長に「救国義勇軍」の王鳳閣が就任。韓劔秋が合同軍の総司令となる。総兵力1150名と称する。

9.25 民族革命党に参加した趙素昂ら、党からの離脱と韓国独立党の再建を発表。

10月 車廠子の遊撃根拠地が包囲される。指導者のほとんどを民生団事件で失った第二軍は車廠子を放棄。主力部隊を来頭山方面へ、民衆は自衛隊に守られ西南岔方面へ脱出を図る。

10月 共産党の長征軍が陝西省に達し、延安に根拠地を作る。満州の共産党軍に「西征」を呼びかける。

35年11月

11月 東満特委、西南岔の民衆に対し解散を命令。民衆は仍頭山に身を潜める。李学忠の西部遠征隊が仍頭山に戻り防衛にあたる。

11月 臨時政府、杭州から南京近郊の鎮江に移る。金九、臨時政府国務委員の大多数が民族革命党に合流したあと、臨時政府に復帰。臨時政府は蒋介石に認められ対日戦線協力で合意を取り付ける。

35年12月

12月 中国共産党、「抗日民族統一戦線」を提唱。紅軍とソヴェト政府が、国民党と連携して抗日統一戦線を結成するよう提唱する。

12月 金九ら、韓国独立党解散にともない、愛国団を中心にあらたに韓国国民党を結成。

12月 日本軍など800人が仍頭山根拠地を攻撃。王徳泰が指揮する第二軍は、一旦、撃退に成功するが、翌年1月には撫松房面に移動。

35年 李康国、留学先のドイツでコミンテルン第7回大会テーゼのドイツ語本を入手。京城帝大の同期生で共産党員の崔容達に手渡す。実際には過酷な弾圧のため、読まれることはなかったという。

35年 ソ連で高麗人に対する最初の「強制移住政策」が開始される。これに反対する沿海州在住の高麗人知識人・名士約2500名が、反ソ連の暴動準備をしたとして銃殺される。(「高麗人」は帰化朝鮮人のソ連での名称)

35年 満洲国民政部拓務司第二科の「間島省集団部落建設概況」によれば、延辺各地で百四十四の集団部落がつくられ、一万二千三百六十二戸を収容。遼寧・黒龍江両省でも集団部落がつくられる。

 

1936年

36年2月

2.21 申采浩、「国際為替事件」により捕らえられ、収監先の旅順監獄で獄死する(56歳)。

2.05 東満特委書記の魏拯民、コミンテルン大会から帰任。寧安県南湖頭(鏡泊湖北岸)の第5軍本部に会議を招集。民生団員の存在を否認 し民生団粛清の誤りを確認。「中韓民族は抗日連合し、民族の独立を勝ち取ろう」と述べ、広範囲な抗日統一戦線の形成を訴える。間島地区の自治が承認され、 中国共産党内に朝鮮人が独自組織を持つことが認められる。

2月 上海の民族革命党、右派(金昌煥-韓国民族革命党)と左派(金元鳳-朝鮮民族革命党)に分裂。結局、元の木阿弥となる。

2月 朝鮮革命軍、第一師(司令韓劔秋)・第二師(司令崔允亀)・第三師(司令趙化善)に再編。

2月 釜山で港湾労働者のゼネスト。咸鏡南道の新興炭鉱で労働者のゼネスト。

2月 日本官憲、咸鏡北道明川・吉州・城津三郡の左翼農民組合を一斉検挙。

36年3月

3.14 義兵運動以来の老闘士で無政府主義者の申采浩、旅順監獄で獄死する。

3月 中国共産党、「抗日救国宣言」を発表。

3月初め 魏拯民、鏡泊湖北岸から移動し安図県迷魂陣に入る。第二軍幹部(王徳泰、金日成、李学忠、周樹東、安鳳学、銭永林ら)との会談で「東北抗日聯軍」の創設で合意。民族派との連携が改めて提起される。(この安図会議と7月の河里会議の軍編成に関する決定は錯綜している。まさに迷魂陣である)

3月末 迷魂陣会議、軍の編成について協議。第一軍(楊靖宇)と第二軍(王徳泰)をあわせ「東北抗日聯軍」として再編成。政治指導はそれぞ れ南満省委員会、吉東省委員会(東満省委員会)があたることになる。全光(本名は呉成崙:元義烈団のテロリスト)が第一軍政治主任、李相俊が第二軍政治主 任に就任。

3月末 引き続き第二軍の編成について協議。民族派の救国軍部隊や反日山林隊を合せて三団二千人とする。軍参謀部(王徳泰の直属)と第一団 (朝鮮人部隊)、第三団(朝鮮人部隊:師長は金日成)は撫松、臨江、濠江(靖宇)、長白に移ることとなる。第二団(中国人との混成部隊)は、北間島の第五 軍とともに寧安、穆稜、東寧一帯に遊撃区を創設することとなる。

団の構成(異説): 第一師団は安鳳学が師団長、二個団より編成。第一団は崔賢が団長、政委に林水山。第二団は畢書文が団長、政委に呂伯岐。第三師団は金日成が師団長、政委に曺亜范。当初は二個団より編成。第7団は銭永林が団長、 政委に馬徳全。もうひとつの団は団名・幹部など不明(第3団か?)。
第三師団は、元々の第2団と第3団の一部に、銭永林の抗日義勇軍6個中隊を合せて編成されたもので、当初の指揮系統はかなり雑然としていたようである。民生団がらみの被疑者はすべて第三師団に配属されたという。
編成途中の3月20日に、史忠恒(救国軍)の部隊が第2軍に集団加入したため、あらたに第4、第5、第6団が設けられる。第4、第5団で第二師団を編成。史忠恒が師団長となる。第6団は師団直属となる。

36年4月

4.10 第二軍主力、南満へ移動中に、大蒲柴河の日本軍駐屯地を攻撃、一時占拠する。さらに敦化からの増援部隊を待ち伏せ攻撃し撃退に成功する。大蒲柴河は敦化県南部を統制する日本軍の拠点だった。

4月 あらたに北満の第三軍が編成される。総司令官は李兆麟(一説に趙尚志)、総参謀長に許亨植。北満臨時省委員会(金策書記)が政治指導にあたる。聯軍は11個師団に膨れ上がる。このほか北満に第4軍が創設され、李学万、崔石泉(崔庸健)らが幹部となる。

36年5月

5月5日 共産党系と民族主義者の統一戦線として、在満朝鮮人祖国光復会が結成される。東南満州省委員会(第一軍管轄)の全光(本名は呉成崙)、厳洙明(厳弼順)、李相俊(李東光)らが指導、事実上、東北抗日連軍のフロント組織となる。

北朝鮮側史料: 通化県、長白県を中心として、抗日聯軍第1路軍第二軍第6師の影響の下に「在満韓人祖国光復会長白県委員会」が作られた。総責任者は李悌淳。第6師(師長金日成)は権永璧らを政治工作員として派遣した。和田春樹氏によれば、「実際に在満韓人祖国光復会という中央組織ができたわけではない。金日成の第六師が満洲側の長白県の朝鮮人と鴨緑江対岸の朝鮮側の咸鏡南道甲山郡の住民に働きかけてつくるのが唯一の組織実態」とされる。

5月初め 東崗に進出した第二軍が幹部会議を開催。長白山を中心とし、撫松、安図、長白、臨江などで活動することとなる。また「祖国光復会」の組織を拡大する方針を確認。祖国光復会長白県委員会を結成し、李悌淳が会長となる。

5月初め 第三師は、撫松と安図の抗日義勇軍残党と抗日山林隊を加え、新たに第9団と第10団を創設し4団編成となる。王徳泰が第3師8団 を率いて撫松県北崗へ、金日成が第三師7団、9団を率いて撫松県西崗と臨江県へ、抗日義勇軍を中心とする第10団は撫松県南部の松江一帯へ移動。李学忠は 軍部少年営を率いて馬鞍山密営一帯を守ることとなる。(第一師については不明)

5月 寧安、汪清、東寧に移動した第二軍第二師、周保中の第五軍と連携しながら遊撃活動を展開。寧安県四道河子で満州山林警察隊を襲撃、60人余りを捕虜にするなどの戦果。

36年6月

6.10 在満韓人祖国光復会、「目前十大綱領」(草案)を発表。独立運動の基本方向を明らかにする。中国革命と連帯しつつ、在満朝鮮人の真正な自治の実現を呼びかける。その綱領は北朝鮮臨時人民委員会の10大綱領の前身となったという。

金日成回顧録によれば、東崗樹林で祖国光復創立大会を開催。金東明(金日成)が作成した10大綱領をみずから読み上げた。金日成、李東伯、呂運亨を共同発起人として祖国光復会創立宣言が採択され、金日成が会長に就任した。南満の全光は“約束を破り”参加しなかったという。

6月 第2軍主力部隊である第1師と第3師が、南満の金川県河里の第一軍根拠地に到着。

6月 明治大学学生の朴容七を中心に朝鮮留学生研学会が組織される。

36年7月

7.04 南満特委(李東光書記)、金川河里の後方基地である恵家溝密営で第2次党代表大会を開く。50人余りの各軍代表が参加。東満特委 書記の魏拯民(第2軍政委)も会議に参加し、コミンテルンおよび中国共産党中央の方針を伝える。朝鮮人の自治が公認され朝鮮人工作の強化が確認される。

7.07 河里で指導幹部連席会議。魏拯民と楊靖宇が召集し、李東光、王仁斉など10人余りが参加。魏拯民は①満州省委の撤廃と東満、南 満、吉東、松江の省委の新設、②抗日連軍を “路軍”として編成することを指示。さらに③東満、南満の省委員会を統合し、南満省委員会とすることを提案し、承認される。

選出された中国共産党南満省委員会委員: 魏拯民が書記に選出される。省委員には魏拯民、楊靖宇、王徳泰、李東光、李学忠、曺亜范、金日成、伊俊山、安イファ、周樹東、陳翰章、王潤成、宋鉄岩、呂伯岐、全光、王仁斉など16名が選出される。

7月 河里会議、南満の第一軍と東満の第二軍をあわせ東北抗日連軍第一路軍と改称。第二軍政治委員だった魏拯民が、第一路軍を取り仕切る政 治委員となる。楊靖宇が総司令官兼第一軍司令官、王徳泰第二軍司令官が副総司令官に就任.第一軍は一・二・三師、第二軍は四・五・六師からなり、兵力はほ ぼ2千名と推定される。金日成は第一路軍第6師長(旧第2軍第3師)となる。

7.20 第五次間島共産党事件の被告22人が、西大門刑務所で一斉処刑される。

7月 朝鮮共産主義者、15項目からなる行動綱領を発表(「目前十大綱領」のことであろう)。金三に よれば、この綱領は「社会階級、党派、政治的もしくは宗教的信条にかかわりなく、朝鮮独立の原則に賛同するすべての朝鮮人」の統一戦線を呼びかける。朝鮮 人所有の企業は保護され、階級闘争は民族闘争を優先させる立場から「調整」されるが、労働者の組織は制約を与えられない。(「アリランの歌」は、成立事情からして不確実な記述が多く、直接体験部分と「解説」を別として資料としての価値は高くない)

36年8月

8.05 南次郎が朝鮮総督となる。左派・民族派に対する弾圧と一体化政策をさらに強化。

8.09 ベルリン・オリンピックのマラソンで、孫基禎選手が2時間29分19秒2の世界新記録で優勝。東亜日報はゴールの写真から日の丸を抹消して掲載.無期停刊処分を受ける.社会部長玄鎮健、運動部主任記者李吉用ら50余名が逮捕され、拷問を受ける。

8.17 第六師と第四師から成る東北連軍第二軍の主力、日満軍1千名の守備する撫松県城にたいして大規模な攻撃を実施。東山砲台を一時占領するが市内の制圧には失敗。その後の追跡部隊に対する待ち伏せ戦に勝利。関東軍本部が支援を送るが、第二軍はすでに撤退。

8月 「在満朝鮮人指導綱要」が制定される。延辺五県と東辺道の十八県が朝鮮族居住区に指定される。中ソ辺境、中蒙国境地区の居住者約千戸、4千人余りに、指定地域への移住が命じられる。

36年9月

9月 金日成の第6師、黒瞎溝と紅頭山に密営を形成。権永壁などが八道溝から二十一道溝の間に祖国光復会を設立し、党組織を再建。王徳泰の第四師は、安図、敦化、撫松遊撃区の深山密林に密営を築き遊撃戦を展開。

9月 東北人民革命軍の影響力が最高に達する。活動家は一万人に達し、活動範囲は長図線以南、南満洲鉄道以東、西は遼沈、南は安東、鴨緑江、東は牡丹江、寧安以南、北は永吉に至る。さらに満州各地に第3軍から第11軍までが創設される。第4, 5, 7, 8, 10軍が東満、第3, 6, 9, 11軍が北満に展開。のちに東満の軍は第2路軍へ、北満の軍は第3路軍へと再編成される。まもなく日本軍の「治本(包囲攻撃・兵糧攻め)・治標(焦土作戦)」攻撃強化により弱体化。

このような戦法は、短期的には華々しいが、「敵占地区に大衆的な反日組織と共産党の基層組織を秘密につくり、満洲国政府の下級機関を工作し、地下の党活動と抗日聯軍部隊の活動を援護する」地道な活動に比べれば仇花のようなものであり、地下組織を敵にさらし、やがて全面的な後退へと導かれざるを得ない。

9.29 京城日報,「匪首金日成一党120人が食料や物品を強奪した」と報道.

10月 楊靖宇の率いる第一軍第一、第三師団、「熱河、水原に移動し関内(山西省)の第八路軍と打通せよ」との党中央の方針に基づき「西征」作戦を開始。遼南、遼西へ進出するが関東軍の掃討作戦により主力部隊が壊滅する.第一師団長の程斌は、日本軍に投降。

11月 第二軍の王徳泰軍長が戦死。政治部主任の李学忠もまもなく戦死。魏拯民が第二軍を総括することとなる。

36年12月

12.12 朝鮮思想犯保護観察令が公布される。治安維持法に違反したもののうち、非転向者を監視する。法令にもとづき7ヶ所の保護監察所ができる。

12.15 李載裕がみたび逮捕される。彼とともに500余名が連座する。李載裕は44年に獄死。

12月 「中韓抗日同盟会」の政治委員長高而虚、満州桓仁県で逮捕され銃殺される。南満における「正義府」・朝鮮革命軍の系譜はほぼ途絶。翌年2月には中韓抗日同盟会の軍事委員長(中国人)の王鳳閣も、通化県六道溝で逮捕され銃殺。

12月 西安事件が発生。張学良が西安を訪問した蒋介石を軟禁。第二次国共合作を迫る。

 

1937年

37年1月

1.29 釜山の朝鮮紡織で、労働者3千人あまりが賃金引上げを要求しストライキに入る。

1月 民族革命党の指導権を金元鳳が掌握。共産主義者(安光泉、崔昌益ら)との提携めざす。李青天らはこれに反発。

1月 朴達・朴金喆らの甲山工作委員会を基盤として、強大な地下組織「朝鮮民族解放同盟」が作られる。金日成の組織した光復会の影響を受けたもの。咸鏡南道甲山郡、三水郡、豊山郡一帯の天道教青年らが加入。さらに興南や元山などにも影響力があった

37年3月

3.10 朝鮮総督府、南満州開拓のため、間島地方に1万 2000人を強制移住させる。

3.29 第2軍、撫松県東崗で指導幹部連席会議。部隊を分けて遊撃活動を続け、日本軍の包囲を突破する方針を決定。4師の主力は安図、和龍に戻り、6師の主力は撫松から長白県に向かうこととなる。

37年4月

4月 旧新韓独立党の李青天派は共産党との連携に反発し、民族革命党を脱退。新たに南京で朝鮮革命党を結成。韓国独立党の結成した韓国光復運動団体協議会への支持を表明。義烈団系と他の団体の残留勢力は、朝鮮民族革命党として再出発する。

4.23 周樹東政治委員の率いる第4師主力300名が安図県老金廠に入る。李道善の率いる日本軍の走狗となった裏切り者部隊」による奇襲を受け、周樹東が戦死するが、第一団長の崔賢が李道善部隊を殲滅する。

37年6月

6月4日 金日成将軍の率いる第6師が鴨緑江を越え、朝鮮国内(現咸鏡南道)に侵入.白頭山麓の要衝である恵山鎮付近まで進み保田村普天堡(ボチョンボ)を奇襲。普天堡は恵山鎮から20キロ離れた山間の部落で、日本人50人を含む1,383人が住んでいた。

普天堡の戦闘: 午後10時頃、第6師90名の兵は6隊に分かれ普天堡近くまで侵入。朝鮮領内で組織されていた呼応者80名と合流。16隊に分かれる。主力は警察駐在所、別働隊は試験場、営林署、森林保護区、消防署を襲撃した。
駐 在所には7名の警察官が配置されていた(うち2名が朝鮮人)が、全員が退避した。部隊は軽機関銃1丁、小銃6丁、拳銃2丁、弾薬数百発を奪った。次いで主 力部隊は面事務所、農事試験所、郵便局の建物、書類等に放火。商店及び住宅も襲撃し、地元民から現金4000円及び物資を奪う。この後、襲撃隊は4種類の ビラを撒き撤退。 

6.05 羅南の第19師団、第74連隊に追討出動を命令。部隊は長白県の十三溝と三峰で抗日聯軍の第二軍第四師と第六師、第一軍第二師の連合軍の迎撃を受け、撃退される。(朝鮮側資料によれば、金日成部隊は、二度にわたり日本の警察追跡隊を撃破。警官隊は死者7名・負傷者14名を出す

6月 日本官憲は、金日成の首に多額の懸賞金(当初は2000円、のちに2万円)をかける。恵山鎮警察署は関係者の逮捕に全力をあげ、朝鮮と長白県で多数を逮捕。これにより祖国光復会の組織は壊滅する。

6.07 修養同友会事件。保釈中の安昌浩など150人余りが、修養同友会(興士団の後身)の関連で投獄される。安昌浩は翌年、病気で仮釈放となる が、まもなく死亡(38.3.10)。李光洙・朱耀翰ら42名は「転向声明」を出し無罪釈放される。崔允浩・李基潤は拷問で獄死し、金性業は不具となる。

朱耀翰の若書き「五月雨の朝」(1916年): 風は雨を吹きて、墓場の木々はおもしろげに踊る。雨のしづくははた はたと、しげれる葉に音して落ち、濃き緑り、ちらちらひるがへって白く光る。されどいかにせむ、沈みゆく我が霊。春をたごりて涙は流る。(気分としては 「寮歌」です。しかし、文語と口語の混ざり具合が「ちょっと変だな」と思いつつも、「あたら…」と思いつつも、これだけ日本語を操れる文才はたしかにすご いです。こういう人って、居ましたよね!)

37年7月

7.07 盧溝橋事件が発生。「日中戦争」が始まる。日本軍は月末には北京を攻略。

7.22 朝鮮総督府、毎月1日を「愛国日」と制定し、全ての職場、学校、村で神社・神祠参拝を強要。

7月 南京で「朝鮮民族革命党」(代表金元鳳)・「解放同盟」(代表金奎光)・「前衛同盟」(代表崔昌益)・「朝鮮無政府主義連盟」(代表柳子明)の間で、抗日戦線統一のための論議が重ねられ、「朝鮮民族戦線連盟」の結成で合意。

7月 第二軍から長白県に派遣された権永壁、祖国光復会活動の中から中国共産党長白県委員会を建設し書記となる。9月には恵山駐在官憲の弾圧により167名が逮捕され壊滅。

7月 張鼓峰事件。

37年8月

8.13 日本軍、上海攻撃を開始。

8.21 ソ連秘密警察総責任者イジョフ、スパイ容疑の高麗人に対し緊急逮捕の命令。ソ連に入った抗日軍やパルチザンが、無国籍者として逮捕され強制労働を迫られる。

8月 金九、蒋介石の支持を背景に「韓国光復運動団体連合会」を結成。金九の韓国国民党に、民族革命党から離脱した韓国独立党、李青天らの朝鮮革命党が結集。米州の独立運動団体もこれを支持。

9月 スタ-リンは、高麗人強制移住を早急に実行するよう指示。沿海州などの朝鮮人18万2千人が、中央アジアに強制移住させられる。過酷な生活環境のために1940年までに5万人が死亡。

9月 総督府当局、咸北の明川農民組合に対し弾圧。2ヶ月のあいだに関係者 229人が検挙される。

10月 第二次恵山事件.日本警察の一斉捜査により、咸鏡南道甲山郡を中心とする祖国光復会関連者739名(一説に222名)が検挙される.権永壁ら5人が処刑され、国内組織が壊滅.第二軍部隊は兵站を失い孤立.(第二次のみが記載され、第一次がない。別の資料によれば第一次が37年秋で、38年に第二次が発生したとある。38年9月の項と照合すると、第一次で甲山グループが摘発され、第二次で金活石らの「朝鮮革命軍」再建グループが摘発されたようにも見える)

37年11月

11.06 日本・ドイツ・イタリア間で「日独伊三国防共協定」締結。

11.13 京城新聞,「金日成は満軍歩兵第7団第1営の包囲攻撃を受け、部下8人と共に射殺された」と報道.これによれば金日成は当時36歳とされ、別人説の根拠にされる。

11.23 臨時政府, 南京を逃れ湖南省の長沙に移転。その後、広東からさらに四川省へと移動。

11月 金元鳳の率いる朝鮮革命党、朝鮮民族解放運動者同盟・朝鮮革命者連盟と合同し「朝鮮民族戦線連盟」を結成する。

37年12月

12.13 日本軍、南京を占領。南京大虐殺が始まる。

12月 朝鮮民族革命党と共産党系の朝鮮民族解放同盟が合流。左派系の朝鮮青年前衛同盟、朝鮮革命者同盟が結集し、朝鮮民族戦線連盟を結成。

37年 李舟河らが元山で労働組合の組織に乗り出す。元山左翼委員会を結成し、その傘下に元山鉄道委員会・化学委員会・金属委員会などを組織。労働者新聞を発行する。京城では帝国大学の崔容達、鄭鎮泰らが、李舟河と連絡を取りながら学内に読書会などを組織。

37年 朝鮮で工業生産高が急成長。31年の3.5倍、鉱山物生産高は5倍以上になる。

37年 朝鮮民族解放同盟の延安地区代表となった金山が、ニム・ウェールズと会見し「アリランの歌」を口述。

 

1938年

2.13 日本軍が桓仁県牛毛溝の第一軍基地を急襲。参謀長の安光勲は逮捕された後、変節。情報を得た日本軍は南満の軍・党幹部を次々に摘発。

4月1日 総督府,教育令を改定。学校での朝鮮語教育は随意科目となり、事実上抹殺される.

5.11 第1次老嶺会議。集安の老嶺山口で、第一軍の魏拯民と第二軍の楊靖宇との会談。党中央と八路軍との連絡をつけるため、再度西征することに決定。第1軍第3師が先行し、第1、第2師が続くこととなる。第二軍は引き続き通化 地区で遊撃活動を展開する。

38年6月

6.13 極東地方担当内務人民委員部局長リュシコフ少将が「満州国」に亡命。スターリンによる粛清について情報を提供。

6.29 日本軍の追撃を受けた第1師の程斌師長が投降。第一軍は存亡の危機に直面する。

38年7月

7.09 琿春市防川の国境地帯、張鼓峰にソ連軍が進出。リュシコフ亡命による威信の低下を取り戻す狙いとされる。

7.29 張鼓峰に続き、ソ連軍増援部隊が沙草峰一帯を占領。朝鮮軍第19師団は独断でソ連軍に反撃。

7月中旬 東北抗日連軍第一路軍の再建を目指す第二次老嶺会議が開催される。六つの師団を三つの方面軍に再編。

7月末 楊靖宇の直属となる司令部警衛旅が編成される。金川、蒙江、集安一帯で活動することとし、旅長を方振声、政委を韓仁和がつとめる。

7月 朝鮮革命軍の残党約60人は第1路軍に正式に編入され、6年間の歴史を終える。

7月 臨時政府長沙を逃れ、広州に至る。まもなく広州も危険となり、4ヵ月後にはベトナム国境に近い柳州に至る。

38年8月

8月 第一路軍総部の決定に従い、第一方面軍が編成される。第1軍2師を中心とし第四師、第五師の第十四、第十五団を加え約 250人、曺亜范が軍長。金川 県黒瞎子溝に本拠を置き、集安、臨江、通化、金川、輝南、蒙江で活動することとなる。第二方面軍の編成は11月、第三方面軍の編成は39年7月まで遅れる。(一説では第一と第三方面軍が入れ替わっている)

8.06 張鼓峰のソ連軍、総兵力1万5千名による総攻撃。日本軍(6814名)は撤退。この戦闘で日本軍死者526名、負傷913名。これに対しソ連軍は死者792名、負傷3279名を出す。極東軍司令官のブリューヘル元帥は拷問の末殺害される。

夏頃 李青垣(李清源)と早大学生の宋君讃、黄柄仁により、「朝鮮革命論」、「朝鮮におけるプロレタリア運動の過去と現在」が地下出版され る。朝鮮革命の性質は、「封建的ブルジョア民主主義のみならず、其れは同時に反帝国主義革命でありそして之れは土地問題の徹底的な解決を其の社会的内容と する所の、従つて確実に社会主義革命に成長する命途をもつた革命である」と規定する。

9月 「第二次恵山事件」で277名が検挙される。金活石が逮捕され、「朝鮮革命軍」再建活動は終息する。「第一次恵山事件」もふくめ検挙 者499名。権永璧・李悌淳・朴達ら6名が死刑となる(朴達は病気で執行が延期され日本敗戦を迎える)。朴金喆ら4名が無期、その他166名が有罪判決を 受ける。これにより、南満州長白県と咸鏡南道にまたがる「祖国光復会」および「民族解放同盟」の地下組織は壊滅した。

38年10月

10.10 漢口の朝鮮民族戦線連盟、中国軍事委員会(国民党と共産党の合同組織)の束ねる抗日統一戦線に参加。軍事組織として「朝鮮義勇隊」を編成する(ウィキペディアでは朝鮮民族前衛同盟とあるが、これは義烈団の別名である)

朝鮮民族戦線連盟: 金 元鳳(義烈団=朝鮮前衛同盟)・金奎光・崔昌益(朝鮮民族革命党)・柳子明(アナーキスト、元義烈団)の率いる4組織が連合。この4名に中国軍事委員会か ら派遣された陳誠(国民党)、周恩来(共産党)を加え、6名による指導委員が合議制をとる。(一説では金奎光ではなく金星淑とされる)
中国軍事委員会: 国共合作にもとづいて、武漢三鎮防衛のため組織された委員会。政治部第三庁(庁長は郭洙若)に所属し、部長を陳誠、副部長を周恩来がつとめる。

10.10 朝鮮義勇隊が編成される。総隊長に金元鳳が就任。第1区隊は朴孝三を指揮官とする朝鮮民族革命党員42名、第2区隊は金元鳳を 隊長とする朝鮮前衛同盟員74名により構成される。日本語ができることから、主として特務活動に加わる。(ウィキペディアによれば、日本人反戦活動家の青 山和夫が朝鮮義勇隊組織計画方案を作成したという)

10.19 延安の金山、ソ連帰りの康生により「トロツキスト」、「日本スパイ」と断罪され処刑される。

10月 元山を中心とする李舟河らの組織が摘発される。110人が一斉に検挙され壊滅。

38年秋 日本軍、十万の兵力で東辺道にたいする大討伐作戦。冬からは、さらに「三省連合大討伐」の作戦が展開される。七師団、三混成旅団に戦車・飛行機が配備される。遊撃区にたいする包囲・封鎖が強化され、「特別工作団」、「宣撫班」が動員される。

11.25 抗日連軍第1路軍総司令部は、蒙江の南排子で第2軍第6師と合流。第二次老嶺会議の決定にもとづき、第6師を主体に、第2方面 軍が編成される。2個団と警衛旅で兵力は 350人余り。蒙江県南排子を拠点とし、長白、撫松、蒙江、臨江、和龍、安図、延吉、琿春、汪清で活動することとなる。部隊はただちに南排子を発ち、日本 軍の追撃を逃れ長白県北大頂子へ向かう。

12月 抗日運動家の日本人女性長谷川テル、中国重慶の抗日放送を通じ「慰安婦」存在の事実を世界に訴える。当時の公文書名称は「皇軍慰問、女子挺身隊」で軍属の一つ。日本軍内では「皇軍慰安婦」とも言われた。

 

1939年

2月 崑崙山の戦い。朝鮮義勇隊と気脈を通じた日本軍の朝鮮人部隊約7千人が、広州付近で反乱を起こし、崑崙山に立てこもる。この戦闘で義勇隊婦女服務団長の朴次貞が負傷。5年間の闘病の末死亡。(崑崙山の場所は今のところ不明です。まさか崑崙山脈ではないと思うが)

朴次貞: 少女時代から独立運動に参加。29年光州学生運動時に逮捕されたあと、中国に渡り金元鳳と結婚。抗日戦を闘い抜く。次貞の活躍ぶりは解放後、南で2度映画化された。

39年4月

4.07 関東軍司令官、特別な捕殺対象として「周保中、楊靖宇、金日成」を捕らえるよう命令(関作命第1483号)。楊靖宇、金日成、崔賢、曹亜範、陳翰章らには1万円の懸賞金がかけられる。

4月 第二方面軍、朝鮮の茂山を襲撃した後、和龍県に入る。

39年5月

5月 東北人民革命軍第三路軍が成立。李兆麟(中国人)が総司令、馮仲雲が政治委員、許亨植が総参謀長に就任。

5月 ノモンハン事件が発生。

5月 臨時政府、柳州から貴陽を経由して棊江(四川盆地の国民党支配区)に逃れる。国民党政府の説得を受けた金九と金元鳳、共同名義で「同志同胞に送る公開通信」を発表。「主義思想が異なっても、同一の敵の前に統一組織の構成分子となることは可能である」と訴える。

6.29 4師の崔賢ら、天宝山鉱山を襲撃。その後、天宝山鉱山は 1年間にわたり生産を中止。

39年7月

7月 金九・金元鳳の両派が歩み寄り、全国連合陣戦協会が作られる。

7月 国民徴用令が発布される。陸海軍要員が内地の工場と鉱山などに向け徴発される。一説によれば、朝鮮半島内での労役従事者480万名、日本本土 での強制連行152万名、軍属(軍勤務者)20-30万名、軍人23万名、日本軍性奴隷14万名など、約699万名が挑発された。これは解放直前の韓国人 人口25,763,341人の29%にあたる。

7月末 第五師の第四、第六団(一説に第13、14、15団)が安図県に進出。魏拯民の率いる第四師と合流し、第3方面軍が編成される。3個団と警衛旅からなり、兵力は 300人。第五師の陳翰章が指揮を執る。敦化県海溝を拠点とし、延吉、汪清、 琿春、敦 化、額穆、蛟河、寧安、五常、舒蘭で活動する。

8.23 大沙河の戦闘。魏拯民が率いる300人と、陳翰章が率いる200人が、安図県大沙河の集団部落を攻略。

9月 第1路軍総部、遼寧根拠地を放棄し北部に移動。遊撃区域も徐々に縮小。

9月 北満省委の馮仲雲(常務委員・宣伝部長)、ハバロフスクでソ連遠東解放部と交渉。ソ連の協力の下に、北満(第2路軍)、吉東(第3路軍)会議を召集し、両派の統一を図ろうとする。

9月 朝鮮総督府の出した思想彙報20号、「金日成の身許に付ては種々の説があるが、本名金成柱、当二十九年、平安南道大同郡古坪面南里の出身」と記載。

39年10月

10.01 朝鮮人居住地域の管轄が、朝鮮軍から関東軍に移動。関東軍はただちに第一路軍を目標とした「3省連合討伐」作戦を開始する。日本軍、満州軍、警察隊7万5千余人が動員され、吉林独立守備隊司令官の野副昌徳少将が指揮をとる。吉林・通化・間島の東北三省におのおの討伐隊が編成され、1年半にわたり作戦を展開。

反日ゲリラ掃討作戦(ダニ戦法): 冬季降雪期を利用し、飛行機も利用しながら、積雪上に敵の足跡を辿り、山奥の炊煙を発見せばこれを覆滅し、敵に一刻の休息の余裕を与えず疲労困憊せしめ、飢えと寒さにより投降または帰順を迫る。

10.01 楊靖宇、樺甸県頭道溜河で第1路軍主要指導幹部会議を召集。楊靖宇、魏拯民、全光、方振声、徐哲、韓仁和、黄海峰らが参加。困難な情勢を分析して、小部隊による分散遊撃戦に転じることを決定。「化整為零」戦術といわれる。

新方針: 楊靖宇は総司令部の警衛旅と第一方面軍一部部隊を直接指揮しながら各部 隊と合同作戦をとる。第1方面軍は曺亜范の指揮の下に蒙江、輝南、金川、臨江などの県の隣接地帯で遊撃活動を展開し、第2方面軍は金日成の指揮の下に長 白、撫松、樺甸、延辺一帯で活動することとなる。第三方面軍は二手に分かれ、一隊は魏拯民の指揮の下に敦化、樺甸、吉林地区で活動し、他の一隊は陳翰章の 指揮の下に寧安、東寧、蛟河、五常等で遊撃戦を展開することとなる。

10.01 日本,「国民徴用令」施行.朝鮮人強制連行開始.終戦までに72万5000人を連行。最高時は全炭鉱労働者の33%をしめる。

10月 李青天、臨時政府の軍事部長に就任。

12月26日 日本,「朝鮮人の氏名に関する件」(創氏改名)公布.

12月 李観述・金三龍ら共産党再建グループが結集,刑期を終え西大門刑務所を出獄した朴憲泳とともに、京城コム・グループを組織。地下組織の再建に着手.組織部、人民戦線部、学生部などを置き、金属・繊維・電気・出版労組に深く浸透して、咸鏡南道・北道地方などの主要指導者らと連結する。火曜派、李載裕系、ML系などがセクトを越え結集。

 

1940年

40年2月

1.24 ハバロフスクで吉東省委と北満省委の代表連席会議が開かれる。北満省委の馮仲雲、第3路軍の趙尚志軍長、吉東省委責任者で第2路 軍の総指揮をつとめる周保中らが参加。第一路軍も招請されたが、戦況悪化のため参加できず。会議では抗日遊撃運動と中共党組織を分離させる提案もあった が、否決されたという。

2.11 朝鮮人に対する創氏改名の強制令が施行される。当初は自由意志によるとされたが、末端では事実上の強制。毎日の宮城遥拝と正午黙祷も強要される。(一説に12月26日)

2月 関東軍,通化・吉林・間島に7万5000名を投入し,東南部治安粛正工作を展開.

2.23 東北抗日連軍の楊靖宇総司令官(当時35歳),関東軍に包囲される。楊将軍は部隊を分散させ、突破を図ったが、通化省の山中(一説に吉林 省濠江県)で射殺される。日本軍は楊靖宇の遺体を解剖。彼の胃の中には樹皮や草しか入っておらず、穀物の類はまったくなかったという。この後、魏拯民が第 一路軍の指揮を執る。

40年3月

3.11 紅旗河戦闘。金日成が指揮する第二方面軍が、白頭山付近の和龍県紅旗河にある日本人製材所を夜襲(一説では安図県大馬鹿溝森林警察隊)。森林警備隊の寝込みを襲い、大量の銃弾と大量の米を奪う。和龍県警防大隊の前田武市中隊145人はこれを追撃する。前田武市警正はかねがね「金日成の首級は俺が挙げる」と公言していたという。

3.13 樺甸県頭道溜河で中共南満省委と抗日連軍第1路軍の主要指導幹部会議。魏拯民、全光、徐哲、韓仁和、朴徳范、李明山が参加。第1路軍主力部隊を 長図線鉄道以北へ移すとともに、民衆の反日団体への組織を図るため幹部を派遣することで合意。全光が地方党活動の全面的な責任を負う。このあと韓仁和は警衛旅を率いて通化、東満、 吉林、寧安方面に出て、全光は部隊を率いて南満へ移動する。

3.23 関東軍、東北三省における東北抗日連軍の掃討作戦を完了。楊靖宇のほか、副司令の魏拯民、第一方面軍長の曹亜範、第三方面軍長の 陳翰章らが戦死。兵員数は千人余りに減少。中国共産党は「東北抗日連軍」の残存将兵を総計七百余りの一個旅団に縮小・再編成。主力をソ連極東領内に退避さ せる。

3.25 金日成部隊、紅旗河支流の大馬鹿溝川西方の高地で反転し、前田中隊を待ち伏せ攻撃。

戦闘の結果: 北朝鮮側の文書によれば、金日成の部隊200名あまりは、31名の戦死者を出しながら前田部隊を「事実上全滅」させる。日本側の資料でも、前田部隊145名のうち戦死者数50名とされている。生存者20余人とする資料もあるようである。

4.20 ホノルルで在米韓族連合委員会が組織される。

40年5月

5月 臨時政府、重慶に定着。国民党政府の庇護を受ける。金九は臨時政府の大統領となる。

5.09 金九派と李青天派が組織統合し「統合」韓国独立党を結成。韓国国民党(金九)、韓国独立党(趙素昴)、朝鮮革命党(李青天)が金 九の下に統合。金九が中央執行委員長となる。保守ではあるが反共ではなく、「土地と大生産機関の国有化、国民の生活権の均等化」などもうたわれる。

5.15 李清源、「在京朝鮮人各留学生の裏面に於ける指導者」として、朝鮮共産党の再建を図ったとして逮捕される。

7.01 魏拯民、コミンテルンの中国代表団に書簡。「私たちはまるで大海の中で舵取りを失った小さな船のようであり、両眼を失った幼い子 供のようだ。食糧及び用品は非常に欠乏している。村落を襲ってのみ食糧を確保している。冒険だが他の方法はない。 しかし襲撃はいつも予測できない負傷と犠牲を伴う」

40年8月

8.10 東亜日報と朝鮮日報,廃刊に追い込まれる.このあと朝鮮人による朝鮮語の言論機関は、全て廃刊となる

8月 金日成、上官の魏拯民が死んだのを機に、パルチザン闘争を停止。ソ連領内に逃げ込む。(一説に10月、あるいは翌年3月)

8月 華北の中国共産党八路軍、「百団大戦」作戦を開始。4ヶ月にわたり、日本軍に対する大攻勢をかける。

40年9月

9.17 重慶臨時政府・韓国独立党、国府軍承認のもとに韓国光復軍を組織.「韓・中二つの国の独立を回復するため、共同の敵である日本帝 国主義を打倒し、連合軍の一員として抗戦する」ことを目的にする。100名の部隊が編成され朝鮮への進攻作戦に備える.総司令官には池青天、参謀長に李範 ソクが就任。中国政府は金元鳳らの朝鮮義勇隊との統一を勧めるが不成立。

9.27 「日独伊三国軍事同盟」の締結。

9.29 汪清県の1路軍警衛旅団が崩壊。朴徳范は逮捕され変節。残党はソ連領内に逃げ込む。

9月 ソ連極東方面軍の内務部長「王新林」が、満州の反日武装闘争の指導に乗り出す。幹部らに対し、「党組織と当面の遊撃運動に関するすべての問題を解決しよう」と呼びかける。東北連軍残党部隊の受け入れを表明.

10.09 臨時政府、国務領制を国務委員制に改定。金九が首席に就任。

11月 第2方面軍(金日成)の残党が琿春からソ連領内に脱出。翌春には崔賢、安吉の率いる第3方面軍 13団、14団も東寧県三岔口を経てソ連領内に移る。

11月 朝鮮義勇隊、重慶に集合し「幹部拡大会議」を開催。活動の大転換を図り、金九派への合流を決定。(金元鳳の指導権が弱まる?)

40年12月

12.06 第三方面軍の陳翰章(当時27歳)、寧安県で逃避行を続けた後、包囲され戦死。

12.15 親日団体「皇道協会」が結成される。発起人代表に李光洙。

12月 京城コム・グループへの摘発が始まる。朴憲永は光州に下って煉瓦工場に潜伏。

12月下旬 第二次ハバロフスク会議。ソ連極東方面軍が抗日聯軍の指導者を集め会議を開催。北満・吉東からは周保中、趙尚志のほか崔庸健、李青、王 効明、柴世栄、張寿餞、金策らが参加。第一路軍は療養中の魏拯民に代わり金日成と徐哲(総部軍議処長)、安吉(第3方面軍)が参加する。

40年 朝鮮人人口は2355万名。「韓国併合」時に比べ、人口は二・五倍。農村部からの人口流出は10年間で271万人に達し、このうち150万 人が日本や中国東北地方に向かう。ソウル(京城)の人口は100万人、日本在住者は120万人、中国東北部在住者は130万人に達する。

40年 朝鮮での工業化が加速。南部と北部の分化が進行。人口は南約1650万、北約950万。農業農産額は南63%、北37%。軽工業産額は紡績が南82%、北18%。水力発電は南が8万キロ、北は90万キロワット。重工業産額は南14%、北86%。

 

1941年

1.10 延安で華北朝鮮青年連合会が結成される。八路軍所属の朝鮮人を結集、議長に武亭が就任。崔昌益らもこれに結集。武亭は本名を金武亭。長征にも参加したベテランで、中国共産党の幹部となっていた。(といっても金元鳳よりは一回り若い)

1月 第二次ハバロフスク会議、東北抗日連軍の組職を再編成。東北抗日総司令部 を構成して周保中を総司令に、張寿餞を副総司令に指名。これに崔庸健を加え東北党臨時指導機構(三人団)を構成する。アムール河北岸のナコロフスクに野営地を構え、部隊の訓練に当たる。第一路軍は双城子とウラジオストクの中間ブスイロフに野営地を構える。

2.11 中国共産党の彭徳懐将軍、「朝鮮革命運動の失敗は激烈な党派闘争にある」と批判。

2.12 朝鮮総督府、思想犯予防拘禁令を公布。非転向の思想犯と危険人物を西大門刑務所に拘禁する。

3.08 魏拯民(当時32歳)、樺甸県二道河子の野営地で病死。

3.15 総督府、一連の戦時措置を発表。学徒動員、勤労動員が実施される。従軍慰安婦制度もこのとき組職されたという。

4.13 日ソ中立条約が締結される。これに伴い、中国内に入って活動することは出来なくなる。

6月 金元鳳を隊長とした朝鮮義勇隊の主力、華北の国民党地区で活動したのち、国民党軍の許可なく八路軍根拠地へ移動。(一説では金元鳳は動かず、崔昌益と朴孝三ら民族革命党左派が単独行動)

7.07 朝鮮義勇隊、華北朝鮮青年連合会などとともに朝鮮義勇隊華北支隊を創設。支隊長・朴孝三、副支隊長・李翼成、政治指導員・金学武。

8月 普天堡事件関連者6人に死刑宣告。

11.19 臨時政府、韓国光復軍行動規則の9項目を承認。蒋介石軍の援助を受ける代わりに、作戦権をゆだねる。

11月 民族革命党、重慶の臨時政府に参加。臨時政府中心の連合戦線が再構築される。第三次朝鮮共産党の幹部だった崔昌益は、金元鳳と離れ延安入りする。

11.28 金九の韓国独立党、「大韓民国建国綱領」を採択。独立戦争を推進するとともに、三均主義に依拠して国家を建設し発展させる計画を提示。

12.08 太平洋戦争が始まる。朝鮮在住の外国人67人がスパイ容疑で検挙。

12.09 臨時政府主席の金九と外務部長趙素昻、「大韓民国臨時政府対日宣戦声明書」を発表。

12.12 朝鮮人キリスト教徒2000余人、神社参拝に反対して投獄される。このうち50人あまりが獄死したとされる。

12月 日本軍300余名、朝鮮義勇隊の第2支隊が宿営している胡家庄を襲撃。熾烈な戦闘が繰り広げられる。

 

1942年

42年初め 呂運亨、ひそかに治安隊組織に着手。食糧の緊急確保問題などに備える。

2.27 ワシントンで独立運動団体を総網羅した韓族大会。

2月 ウィリアム・ラングドン,国務省あてに「朝鮮独立問題の諸相」と題するレポートを提出.朝鮮民族は日本からの独立を熱望しているが,当面その能力はない.したがって「少なくとも一世代にわたり何らかの保護措置が必要となるだろう」と述べる.

3.01 臨時政府、連合国に対し朝鮮民族の公式代表としての承認を要請。

4.20 朝鮮義勇隊の重慶残留部隊員(金元鳳)は光復軍に合流。2個支隊編成に改編される。

4月 中国国民党政府、臨時政府を承認する。

5.15 華北の朝鮮義勇隊、八路軍と共同して日本軍に対する反掃討戦を展開。主要指導者の陳光華と尹世胄が戦死する。

7.10 延安で華北朝鮮青年連合会第2回大会が開かれる。青年連合会が主体となり、華北朝鮮独立同盟を結成。重慶から移った朝鮮民族革命 党の金科奉を主席に迎える。常任委員は武亭・崔昌益・李維民・金学武・朴孝三・金昌満。朝鮮義勇隊華北支隊は重慶の義勇軍が実体を失ったため、朝鮮義勇軍 に改称される。

7.16 ソ連極東軍、抗日聯軍を歩兵第88師団の麾下に編入。独立特別教導旅団として再編成することを決定(一説にソ連極東紅旗軍独立88旅団)。この時点で、総人員は200余名に減少。うち朝鮮人が60名、中国人が約100名、および若干のソ連人。

独立特別教導旅団: 当初、「王新林」は抗日聯軍を解体するつもりだったが、周保中と金日成らはこれに反対し、自らの運命を決めるのはソ連極東軍ではなくコミンテルンであるとして、スターリンにその不当性を訴えたという。

8月2日 ハバロフスク近郊ヴァーツコエ(一説にウラジオ近郊のオケアンスカヤ)で独立特別教導旅団の編成が完了。旅団長は第二路軍総司令官の周保中(雲南出身の中国人)、副旅団長に張寿餞、参謀長に崔庸健。金日成、金策らも幹部に指名される。

9.13 独立特別教導旅団に中国共産党の組織が結成される。書記に崔庸健、副書記に金日成(第一大隊長)が選ばれる。

崔庸健: 朝鮮人ゲ リラの中で数少ない知識人でベテラン軍事専門家。金日成より一回り上の1900年生まれ。三一運動に参加した後、天津の大学を卒業。士官学校も卒業し上海 の士官学校教官を勤めた。26年に中国共産党に入党、北伐にも参加する。27年の広州蜂起に失敗した後、満州に渡り抗日運動に参加。36年から第7軍司令 官、40年に第2路軍参謀長となる。

9月 青壮年を対象として国民登録制度が実施される。徴兵制度への地ならし。

10月 金元鳳の義勇隊、光復軍に合流。朝鮮民族革命党をはじめ朝鮮革命者連盟、朝鮮民族解放同盟関係者が、臨時政府の議政員議員に選任される。これを嫌う左派の一部は延安に移動。

1942年 北朝鮮の主張によれば、金正日が「白頭山で生まれる」. 実際の生誕地は旅団の所在したヴァーツコエとされる。

 

1943年

2.01 臨時政府外交部長の趙素昂、李承晩の信託統治説を批判する声明書を発表。

3.01 朝鮮人を対象とする徴兵令が公布される.実施は8月から。

3月 朝鮮独立同盟内に結成された朝鮮義勇隊華北支隊が朝鮮義勇軍に改編強化される。武亭が総司令に就任。中国共産党の朱徳将軍は、朝鮮の活動家が派閥的傾向を脱し、祖国回復のため運動を統一・強化するよう訴える。

7.10 徴兵を拒否した尹東柱が京都で逮捕される。

序詩: この世を去る日まで空を仰ぎ見て/ 一点の恥もなきことを/ 木の葉を揺らす風にも/ わたしの心は痛んだ/ 星をうたう心で/ すべての逝くものたちを愛さなくては/ そしてわたしに与えられた道を/ 歩まなければ
今宵も星が風に吹かれた

8.13 光復軍、旧朝鮮義勇隊員を先発隊とする心理・宣伝戦特殊要員をインド・ビルマ戦線に派遣する。部隊は後方で日本部隊のかく乱作戦に当たる。

10.05 釜関連絡船の崑崙丸、米潜水艦により撃沈される。 544人が死亡。

11.06 釜山大学学長の金性洙、学生に講演。「この聖戦時に軍務につかなければ、諸君の兄弟姉妹の運命はどんなに悲惨なものとなるだろう。大東亜建設のこの機会を逃せば、朝鮮民族は帝国の忠実な臣民としての任務を果たすことは出来ない」と語る。

11.27 米英中3国首脳によるカイロ会談.引き続き米英ソの三カ国首脳によるテヘラン会談開催.ルーズベルト大統領は「朝鮮が完全独立を獲得する前に,ほぼ40年の訓練期間をおく必要がある」と発言.スターリンはこれに同意したという. 蒋介石は早期の独立を主張.

12.01 カイロ宣言が発表される.信託統治を含みとして,「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由・独立のものたらしめる」決意をうたう.

12月 華北独立同盟が勢力を拡大。晋東南、陝甘寧など9ヶ所に支部が作られ、国内の呂運亨とも接触。義勇軍も解放当時は千人前後となる。

43年 洪範図、シベリアで死去。

 

1944年

3月 米国務省内の「極東地域に関する部局間委員会」,占領政策の原型となる「朝鮮における占領と軍政」報告を提出.信託統治と中央行政機構の創出のため,連合国軍の代表で構成される「評議会」を早期に設置するよう献策.

5月 光復軍、米軍の支援を受けて落下傘部隊を創設。朝鮮進攻に備える。

5.09 慶南道から第一次女子挺身隊が、富山県の工場に動員される。

8.10 呂運享,趙東祐,金振宇ら,ソウルでひそかに朝鮮建国準備同盟を結成.日本の敗北に備え、連合国と協力し、挙国一致で韓民族の自由と独立 を回復することを目標とする。治安隊の編成に乗り出すとともに、趙東?らの軍事団体組織、独立同盟や重慶臨時政府など国外独立運動団体との提携に力を注 ぐ。

8.25 鴨緑江中流に高さ100メートル、出力70万キロワットの水豊ダムが完成(営業発電の開始は、すでに41年9月から始まる)

9月 朝鮮人に対する徴兵制が実施される。終戦までの1年間に、陸軍に186,980人、海軍22,290人など209,270人が徴兵される。

10月 建国同盟の友軍として農民同盟が結成される。

10月 李載裕、清州刑務所で獄死。

12月 建国準備同盟と延安の朝鮮独立同盟(武亭司令官)が北京で接触.

44年 重慶の臨時政府、左派を吸収する形で再編成。金九が主席、副主席には金奎植が就任。左派は国務委員5席を占める。

45年

8.17 日本軍に徴兵された朝鮮人軍人が「帰還将兵隊」を結成。建国準備会に結集する。

8.23 学徒兵に狩り出された学生が「学兵同盟」を結成。最大時の総数は5千名に達する。

9.07 帰還将兵隊が朝鮮国軍準備隊に発展・改組される。45年末には10万の予備軍と1万5千の常備軍を擁するにいたる。ただし非武装。

9.20 占領軍による直接統治が開始される。総督府の機構と旧日本法体系はそのまま継承される。

10.10 占領軍、「軍政庁が南朝鮮における唯一の政府である」と声明。人民共和国政府を否認し解散を命じる。

8.20 朝鮮共産党再建準備委員会が発足。