療養権と「共同のいとなみ」

医療者=病者関係の新しいありかた

 

目次

 

第一章 共同の営み」の三つの特徴

第二章 共同体と病者,医療者

第一節 共同体における病者のありよう

第二節 あらたな質の共同体と病者の復権

第三章 共同体と医療システム

第一節 療養権実現活動の三つの相面

第二節 直接規定できない医療者=病者関係

第三節 医療者=病者の行き違いの原因

第四節 擁護=自立関係が本質的に持つ矛盾

第五節 必然的なものとしての医療者=病者の総関係

第四章 阪神大震災と共同の思想

第一節 共同体の重層的構造

第二節 共同意思の構造

第三節 医療実践の構造

 

第一章 「共同の営み」の三つの特徴

 これまでの二つの論文で,病者の療養活動が権利性を持っていること,それを文化・生存権と関連する国民的権利として定着させることがだいじである,と主張してきた.また国民の療養権から派生する病者の受療権と医療者の診療権の関係について考察してきた.また療養活動論を展開するなかで,病者と医療者の共同のいとなみに関しても若干展開してきた.

 これらの議論を前提としつつ,病者と医療者とそれをとりまく共同体との共同のありようを模索する作業が,いま残されている.

 「医療者と病者との共同の営み」は,一見するとアプリオリに存在するかのようである.両者は確かに日常診療のなかで密接に関係している.しかし個別の診療を積み上げても,せいぜい医療関係における「疎外」の克服とか「良質な医療」などという概念が導きだされるのみであり,それだけでは闘いの契機とはなり得ない.そこには真の階級的連帯関係は生まれてはこないのである.

 問題とすべきは総活動としての療養活動であり医療活動である.その「共同性」は,市民的共同関係の論理を解明するなかで初めてその一般的・原理的性格が導出されるべきものである.

 われわれが語るべき「共同の営み」とは,国民の療養権の豊かな実現のため,社会のさまざまな人たちが協力しあうことである.病者は療養活動を通じてそれを目指す.医療者は医療活動を通じてそれを目指す.生活共同体は,文化・生存権の全面実現につながるものとして,それを目指す.すなわちそれは優れて「共同体的活動」なのである.これが「共同の営み」の第一の特徴である.

 とはいえ個別の診療は病者が受療することにより初めて展開される.そこでは診療=受療という関係を介在させつつ「擁護=自立」という関係が成立する.それは根本的に病者=共同体の関係に還元されるものである.

 「擁護=自立」関係を基軸としながら,診療=受療あるいは教育=学習,保育=発達,介護=生きがいなどの諸関係を内に含んで,その総体としての「擁護=自立総活動」が成り立っているのである.これが「共同の営み」の第二の特徴である.

 「共同の営み」の第三の特徴は,それが療養権実現という目的のためばかりではなく,国民的共同そのものを目指す実践だという点にある.すなわち療養権実現運動は,本質的に「共同体実現運動」としての側面を持っているのである.

 現代社会における共同性は,疎外され欺瞞に満ちた共同性としてある.市民社会はその建前とは裏腹に貧困,差別,孤立,争い,アパシーなどで満ちあふれている.この虚偽を見抜き,マスコミや支配層によって振りまかれる幻想的共同性を打破し,真の人間的結合を基盤とする人倫的共同体を作る目標において一致するからこそ,この共同も真実性を付与されるのである.

 このような「共同体的活動」という主体論的規定 ,「擁護=自立総活動」という運動論的規定,「共同体実現運動」という目的論的規定が共同のいとなみを特徴づけている.これら三つの特徴が市民的共同関係のなかにどう位置づけられるのか,それが本論の課題となる.それぞれの特徴に沿って順に述べていきたい.

共同主体論には、実はもう一つの論点がある。両者の共同が闘いのなかに発展していくとき、その闘いのただなかでの共同主体のありよう、いわば運動論・組織論としての民主主義という問題である。この民主主義的「共同」については、別の機会に触れたいと思う。

 

 

第二章 共同体と病者,医療者

 

第一節 共同体における病者のありよう

 生活共同体の概念は,現存する社会構造を活動的側面からとらえかえすとき生じる.それは生産=生活諸関係と社会的交流・結合の総体である.共同体はすべての構成員の生活維持と向上を共通の目的とすることによって存立している.

 療養活動はとりあえず諸個人のいとなみとしてあるが,トータルには社会の共同体的活動の一部として存在する.療養活動を,病者を援助・擁護する活動もふくむ一連の社会活動のなかに把握するとき,その共同体的性格はますますあきらかとなる.社会的視点から見れば,これらは「医療=療養総活動」ともいうべきものである.そこでは共同体と病者の共同関係は,擁護・援助=自立の関係を基軸としながら人間としての連帯を形成する関係,として定立される.

 病者と共同体との共同関係のありようは歴史的に変化している.中世的生活共同体が破壊されることによって成立した近代社会において,病者は社会から押し退けられ,差別され,無視されることとなった.

 病者がみずからの病をいやし健康な体をとりもどす営為は,制度的枠組みの外にある純粋に個人的なことがらとなった.まさにそのことによって療養は「自由な活動」となった.しかしその自由は,金のないひとにとっては「死ぬ自由」と同義であった.

 しかしこのような病者の地位が過去においてずっと続いていたわけではない.根源的蓄積の過程が共同体をずたずたにし,諸個人をアトム化し,幻想的共同性のもとに支配するまでは,闘病活動は共同体のなかでその中心的いとなみとしてあつかわれていた.

 シッパーゲスの著書「中世の医学」によれば

 医療者をふくんで彼をとりまく共同体にとって,病める人は人間的受苦の象徴としてとらえられていた.

人間は他の動物と決定的に異なる。彼は神に反逆し楽園を逐われた存在であり、反逆者としてその生を送らなくてはならない。その故に彼は受苦的存在なのである。

 病める人は,病めることによって,受肉した(肉体によって媒介された)人間存在の本質を突き出すゆえに,範例的人間として受け止められていた.

 病める人々は今日のわれわれよりもずっと広範囲に,危機的状況やさまざまな労苦を自力で乗り越えて行く.そこには「死すべき術」をも包括する「生くべき術」が定立されている.

 療養活動は生活活動と直接同一であり,病者は「生くべき術」を実践するまごうことなき療養活動の主体であった.

 そこでは病いも臨終も「健全な共同体の中心に存在」している.病者は共同体と無媒介的に合一した共同主体であり,死に至る過程を共同体の一員として生きる.

 いっぽう医療者に期待される役割は病いを癒すことにとどまるものではない.それよりも共同体を構成する諸個人が「他者に分かち与えるところの慈愛」を,職務として代表するところに本質的役割がある.いわば「主の代行」としての役割である.

 共同体主体の意志は「主の意志」として物神化され,医療活動は「神の人間への奉仕」を代行するものとしてとらえられた.

 もちろんすべての病人が正当に扱われていたわけではない.とくに伝染病や精神病の場合,病者は病気そのものであり罪悪そのものであった.彼の人格は剥奪され,その身は人ならぬ「化けモノ」として監禁されるか,城外の森に放逐されるしかなかった.

 

第二節 あらたな質の共同体と病者の復権

 現代社会は中世に比べればはるかに高い生活水準を獲得したにせよ,結局のところ剰余価値の生産を至高の目的とする階級社会である.その運営主体を支配者に纂奪された偽りの共同体である.

 全面性への願いを根本に持つ療養活動は,社会がその願いを「権利」として認めるべく全面的な社会であることを要求する.病者を中心とする療養権実現活動は,それ自体,疎外された社会からの解放と共同体の復権を目指すいとなみととらえ返される.

 ここにいう共同体とは理念的な存在であって,実在するものではない.この理念としての共同体は,さしあたり支配者に抵抗してたたかう者の持つ想像力の中でのみ真実である.

 療養権実現活動は,本質的な意味において権利の擁護というよりは権利の創造活動であり,そのような権利を存立の理念的基礎とする共同体の実現をめざす実践である.そしてそのような実践の前衛に共同体(コミューン)主義を標榜する政党が立っているのである.

 

 

第三章 共同体と医療システム

 

第一節 療養権実現活動の三つの相面

 共同体主体は,生活の維持と公正の確保という共同目的に沿ってさまざまな協同活動を展開している.この協同の積み重ねの中から,共同体に固有のさまざまな共同業務が特殊化され析出する.

 共同体主体はこれらの業務を共同的生活手段として擁護し,発展させ,統制する.医療,福祉,教育,公務労働などがそれである.

 療養権の実現のために特化した医療・福祉分野の専門家集団が形成されると,「共同のいとなみ」は追加的規定を与えられることになる.「共同のいとなみ」は,(1)共同体と病者との共同,(2)共同体と医療者の共同(協同),(3)医療者と病者の共同,という三つの相面を持つこととなる.

 これらはたんに並列的な関係にあるのはなく,療養権実現を目指す市民的共同関係に根本的に規定されている.

 共同体は医療=療養総活動に対して究極的権限を掌握し,その主体的努力により医療システムを擁護・統制する.

医療とはなにかというイメージは人によりかなり異なる。それは医療問題にアプローチする目的の違いに起因することが多い。
おおまかにいって次の二つのイメージに分けられる。一つは実体論的、構造的に分析する立場である。この場合医療とは病者と医療者が接触する「場としての医療」であり、システムや制度を示す概念となる。もうひとつは医療者の実践活動を指す場合であり、目的論的、主体的概念である。
例えば「患者は医療の主人公」などという場合、たしかに患者は医療者と接触する「場としての医療」において「主人公」となり得るが、診断と治療を中核的活動とする医療活動の主体ではない。

  同時に共同体は医療者に実践の目的と目標をあたえ,その権限の範囲を決める.また医療者の地位を保障すると同時に,その責務を提示する.

 これらが法的に確定すればそれは医療制度となる.共同体と医療者とのあいだは委託=受託という明確な関係で結ばれている.

 医療システムのありようは共同体が病者をどう位置づけるかで変わってくる.病者と共同体との歴史的な関係が,共同体意志の代行者たる医療者の地位,機能を規定しているのである.

 共同への模索は医療者のなかからも広がりつつある.それは国民を管理・統制すべき行政的業務の実行主体のなかから,それと反逆する形で,一つの流れとして出現してきた.

 その流れはまず医療労働者の運動として自己を確立し,管理思想からの自立を遂げてきた.さらにはみずからの権利を擁護し闘うなかで,あるべき市民的共同の思想=民主的労働者論へとみずからを発展させつつある.

 保団連に結集する開業医も,みずからを集団として組織し,正当な権利を要求する活動の内に「孤高の論理」を脱却し,市民的共同を推進する重要な部隊となりつつある.

 独自の綱領を持つ先進的活動家集団たる民医連は,療養権実現の活動におけるヘラルドとしての役割を果たしつつ,重層的な共同を推進する上でも積極的な役割を担おうとしている.

ただ前注でも述べたように、これらの「共同」は運動論に属する課題であり、共同体論とは次元が異なる。混同を避けるため、ここでは詳述しない。

 いまやあらたな質の共同を創造しようとして模索が始まりつつある.そこでは共同は療養権実現のための手だてとしてはとどまらず,それ自体が目的となっていく.このような変化の下に,療養権とその保障主体との関係の,具体的なありかたが問われているのである.

 

第二節 直接規定できない医療者=病者関係

 医療者=病者の関係は,基本的には市民が医療従事者に与えた権限にもとづく共同業務の執行という関係にある.それは本質的には共同体による病者の擁護・支援という性格を持つのである.

 しかし現実の制度の下では,医療サービスは個別医療機関との契約に基づく個別のサービスの提供という形態をとっており,その本質は覆い隠されている.

 療養活動も診療活動も,即自的には資本主義社会のもとで歪められた活動としていとなまれている.両者の関係もまた現代社会の中で疎外された関係となっている.さらに医療制度全体が,国民統制の一つのシステムとして支配体系のなかに編み込まれているのである.

 療養権実現という共通の目標に共同してとりくむはずの両者ではあるが,医療現場での関係はかならずしも予定調和的関係にはない.医療者と病者との出会いは偶発的であり,むしろ対立や緊張をはらんだものである.

 医療者対患者という個別の診療活動は,それが何回くり返されようと,即自的には闘病主体の条件に限定された一回完結的な性格のものである.

病者にとって「病気」が日々再生産されてはたまらない。もちろん医療者の診断活動は、それ自体として継続的な「営み」である。

  医療者のいとなみとしての診療活動は、不特定の患者を対象とするものであり,療養活動に並行しながら存在する活動ではない.それはむしろ諸個人の療養活動を縦糸としてそれらと交差する活動である.

「三分診療」とは、病者にとっては三時間待った挙げ句のそれであり、医療者にとっては昼食時間もとれずに延々と続く労働の一こまなのである。

 だからこそ両者が高い段階で調整され,「共同のいとなみ」として意識的に追究されなければならないのである.

 

第三節 医療者=病者の行き違いの原因

 医療の場における医療者=病者関係について,これまで数え切れないほどの問題提起が行われてきた.それらのほとんどは結局以下の二つの事情に帰結する.これまで私たちが進めてきた議論からすれば,それは共同体と病者の関係をめぐる葛藤の現象形態に他ならない.

 第一に,支配層は政府や自治体の責任を回避するために,病者の擁護を受けるべき権利性を否定しようとしている.そのために擁護活動を篤志や慈善にすり替え,それが市民社会の共同責務であることを否定しようとしている.

 共同体が病者にあたえるべき「慈愛」は支配者の恩恵にすり替えられている.医療者の活動は支配者の恩恵の表現活動にすり替えられる.医療者と病者の関係には支配=被支配の関係が色濃く投射されているのである.

 第二の問題は,経営をもふくめた個別医療システムが,病者の要求とは相対的に独立した活動原理にもとづいて機能しており,療養活動は一次的な規定性を持っていないということから生じる.個別医療システムの固有目的は時として療養活動と相反することさえある.

 それは医療保障が保険という運営形態をとり,医療供給が個別医療経営という形態をとる限り避けられない.そのいずれもが直接的には市場原理に左右されるものであり,病者の要求に全面的に応えられるものではないからである.この財政的限界を突破するのは,医療サービスの根本的充実を求める国民的大闘争以外にない.

 その資本主義的外被を取り除くならば,病者を擁護・支援するという課題は,まずそのための共同的社会生活手段をどう保障していくのかという課題であり,第二に医療サービスとして特殊化した共同業務を,どう人民的・民主的に統制していくかという課題である.

 医療問題にコミットする場合,医療者であろうと病者であろうと,まず何よりもみずからを共同体主体として位置づける視点を持たなければならない.そうでない限り,たんに現象だけをとらえた批判者に終わるしかないのである.

 

第四節 擁護=自立関係が本質的に持つ矛盾

 両者の関係をめぐっては,もう一つ厄介な問題がある.医療者=病者の軋轢が,擁護=自立という関係のはらむ本質的な矛盾に根ざしている側面も無視できないからである.

 療養活動にとって擁護をもとめることは一時的,条件的なものであり,自立をめざす活動こそが本質である.たしかに病者の「自律の要求」は,個別的医療場面においてはむしろ偶発的である.しかしそれは生活の全分野にわたり自律的意志の尊重を求める,という共同体に対する根元的要求に由来しているのである.

 医療活動にとっては,自立を尊重することは究極的な構えではあっても,日々の実践の中心ではない.その対象たる病者は,自立を妨げられていることに本質的特徴があるからである.そこでの医療者の主要な役割は自らの管理下に患者を擁護することであり,そのことが共同体から付託された本質的な任務となっている.

 この辺の問題は,個別のケースを採りあげて理屈で問いつめていくと,それなりに難しい内容を含んでいる.しかし熟練した医療者は,それが病気の過程のなかで起きた一つのエピソード(その場逃れとかイジケとか強がりとかユーフォリアとか)なのか,病者が全体として自立していく過程の本質的な一部なのかを見分ける力を持っている.それは医学的技術というよりも共同体の智恵の所産なのである.

 療養の自由も診療の自由も,ともに共同体の意思として与えられたものである.それらは療養権の全面実現のため付与されている自由である.共同体主体はこれらの自由を守るためには喜んで一肌脱ぐ.しかしこの二つの自由が衝突するような場合には,それを運動内部の矛盾として,前進的に,団結と民主主義を強化する方向で解決して行くよう望んでいるのである.

 

第五節 必然的なものとしての医療者=病者の総関係

 病者と医療者との個別的関係は療養権の部分的委任にもとづくものである.したがって病者が拒否権を発動すればいつでも解消されうるという緊張関係を孕むものである.しかしその総体としての医療者=病者関係は,市民的共同関係のなかに確固として位置づけられている.すなわち両者の関係は偶然的な出会いを出発点に,日々の営みのなかに信頼と共同の関係として築き上げられて行く必然性としてある.

 両者を直接に結びつけるものはまずなによりも物質的手段である.それは病者にとっての闘病活動の手段であると同時に,物質的医療活動たる診療活動の手段でもある.不確かな出会いにもかかわらず両者が強い感情で結ばれるのは,両者の関係を規定するこの物質性である.共同の精神から共同の行動を始めるのではなく,共同の行動から共同の精神がいわば自然発生するのである.

 とはいえ,この物質的関係を両者にとって本質的な社会関係と取り替えることはできない.両者の関係を物質的活動としての闘病=診療関係に還元してしまう発想こそは,一方におけるパターナリズム,他方における極端な自己決定権の主張の根元をなしているからである.

 その帰結は封建的人間関係の反映であるにせよ,すべての人間関係を金銭関係=契約関係に還元する物象化社会の反映であるにせよ,疎外された人間関係でしかない.わたしたちは両者のあいだにこれまでのような疎外された関係ではなく,新たな人間的関係を作り上げなくてはならない.それは即自的な医療関係から自然発生することはない.共同の精神をはぐくみ鍛える療養権思想は,あくまで自覚的な人々によって外部から持ち込まれる以外にないのである.

 

第四章 阪神大震災と共同の思想

 

第一節 共同体の重層的構造

 最後に阪神大震災の教訓について若干触れておきたい.この地震は崖崩れの後にあらわになった地層のように,共同体のインフラストラクチャーの重層的構築を明らかにした.この間発行された多くのルポルタージュや体験記などは,震災の恐ろしさ,被害に立ち向かうヒューマニズムのすばらしさを実感させてくれると同時に,市民社会の共同体的機能の構造を見る上で貴重な材料を提供してくれたといえる.

 ライフラインのなかでももっともファンダメンタルなのが上水,下水ふくめての水であった.そのつぎに食料,電気,医療,電話,道路,ガスであった.これらが共同体の物質的基層を成すことは,その順序もふくめほぼ確定された.

 震災が急性期を過ぎ亜急性期から慢性期にはいると,新たな問題が浮かび上がってきた.なかでももっとも深刻なのが住宅問題だった.家屋の崩壊は即生活の崩壊を意味した.長田区など中小・零細企業の密集する地域では,工場の倒壊は大量の失業者群の出現を意味した.それらを対象としてきた商店街も経営基盤を失った.

 ようやくのこと仮設住宅が建てられ始めると,今度はそこでのあいつぐ孤独死など,生き残った弱者に対する深刻な問題が発生し始めた.それはいまも続いているし,そのことで大震災の底知れぬ恐ろしさをいまこそ見せつけているといえる.

 

第二節 共同意思の構造

 この断層面は共同体の共同意思というものの重層構造をも示している.震災直後の状況においては階級的,政治的立場の如何を問わず,すべての人が夢中になって救助に全力を傾けた.震災の恐ろしさだけではなく,人間がいかに気高い感情を持っているものなのかと感動される毎日だった.被災者の突き抜けたような明るさ,ボランティアの生き生きとした目,寝食を忘れ飛び回る役所や電気会社の人たち,それらは嘘ではなかった.いまでもそれは「大震災の思想」となって根底を流れている.

 ライフラインの復旧する頃から,行政とのあいだにすきま風が吹き始めた.状況に対する「寛容の限界線」が露呈し始めた.「まあこんなところでしょう」というレベルである.マルクスがいうように「原始時代のような餓死は許さないが,ナイフとフォークを持っての餓死なら許される」のである.

 市民と行政とは復興計画をめぐり明らかに対立関係にはいった.全国からの義捐金を復興計画に流用しようとした県のたくらみが暴露された.超階級的共同関係はいまや幻想となった.共同関係は人民的共同性として純化されるようになった.

 震災後2年を経ったいま,人民的共同意識は依然として健在である.それはもはや生活のなかにむき出しの形で現れてはこない.しかし昨年暮れの参議院補選でそれは鮮やかに示された.人民的共同体(コミューン)主義を標榜する政党が神戸市内で過半数の支持を集めたのである.

 

第三節 医療実践の構造

 医療実践の構造は,救助→援助→支援→連帯という流れのなかにとらえられる.「不眠の震災病棟」などのドキュメントに描かれるとおり,超急性期には確かに救難,救助,救急医療が圧倒的比重を占めた.それはすさまじい修羅場であった.この中ですべてのスタッフが超人的な力を発揮して診療にあたった.

 だが救急,救命診療が主要な側面であるような活動は数日間で終了した.全国からの支援スタッフをふくめ民医連がその特色を遺憾なく発揮したのは,実はその次のレベルであった.保健所や大病院から派遣された医師たちが救護所に陣取るあいだ,民医連はまさに「地域にうって出た」のである.

 その根底にあるのは,まずなによりも病者を擁護し援助する活動として,医療活動をとらえる思想ではなかっただろうか.医療という場で,医療という手段で,古風に言えば「人民に服務する」視点が脈々と受け継がれているところに,民医連が大きな力を発揮し得た最大のポイントがあるように思える.

 もちろん,他の医療機関の医師に病者を擁護しようとする意志がなかったわけではない.ただ彼らの意識のなかにおいて,診療活動と擁護活動とを結びつける回路は切断されていたのである.

 「地域にうって出た」民医連を支えたのは,地域に培われてきた人民的共同システムである.基盤組織,民主団体,共産党などのネットワークが全体として援護活動を管理し推進しているなかだからこそ,民医連の医療活動は大きな成果を上げられたのである.救護所の医師がもし地域にうって出ようとしたとしても,その思いを実現するシステムは持ち得なかっただろう.あえてその道を選ぼうとするならば,救護所での活動を投げ捨て,ボランティアとしてもう一度活動に参加するしかなかったのである.