|
||||||||||||||||||||||||||||||
江戸川で釣り上げた大もの・ 「サイ」 は神隠しに遭ったが (江戸川のすたるじあ参照)、飼っていたものに逃げられた例は他にもある。 金町の中川の葦の中でモクズガニや赤いカニ (弁慶蟹とよんでいた) を獲って、甕に砂を挽いて10匹位飼っていたのが、学校から帰ったら甕に穴があき全部逃げられ、何処へ行ったか一匹も見つからなかったことがあった。 中川の常磐線の鉄橋を下駄履きで渡って亀有側に行き、蟹をバケツに入れ戻る時に電車がきてしまい、走って間一髪土手に飛び降りた事もあった。 中川鉄橋の脇で上野に向かって左側に剣道、居合の道場が今もあるが、そのころに建築中から出来上がった。、喉が渇くとそこの井戸に寄って、樽に砂や炭を詰め濾過した井戸水を貰って飲んだ。 濾過すると汚れや雑菌が取れると習うのは中学へ行ってからで、地面の構成物の砂を通して水を飲むのは当時の私の感覚では気持ちのいいものではなかった。 鉄橋の下に居ると列車が通過した時に水滴をかぶる時もあったが小便だったかもしれない。 小生の年代は 「てんぐや」 で釣り道具を買ったが、年上の従兄弟達は小倉耳鼻科の隣の鈴木さんで買ったらしい。鈴木さんはお婆さんがタバコを商っていたが、後ろの陳列用のガラス瓶にはウキや錘りが入っていたことを憶えている。
古ヶ崎の水門の近くからは、対岸埼玉側への 「渡し」 があった。 その渡しで対岸に行き、通称瓢箪池でクチボソ、ミヤコタナゴ、ひがい、鮒等を釣ったが、「クチボソ」 はせいぜい5cm、「ひがい」 も10cmほど。だから30cmぐらいの鮒が釣れた時は、こちらがびっくりしてしまったこともあった。
瓢箪池は葛飾橋迄続いていて、周囲は背の高い葦がびっしりと生えていて、場所を変えながら釣りをしていると、その中で友達とはぐれてしまうこともあった。6年生の時の放課後は、寒い時も暑い時も週に三回は渡しに乗って行った。 渡しがあったあたりは、プールが無かった時代の小学校の水練場となっていたそうでロープをはって水泳教室につかっていたそうだ。 当時江戸川では御盆前に泳ぐと河童に引かれるなどといわれるほど、毎年のように水難事故があった。いまも夏休みには父兄が水泳禁止のパトロールをしているが、ほとんどの学校にプールのある昨今では、江戸川で泳ごうという子供はあまりいないだろう。
小学校3年の時、その水練場の近くに釣りに行ったのだが、粘土状で硬くつるつるした所で滑ってしまい、川に落ちたところ、いきなり首まで潜ってしまった事がある。 這い上がろうとしたが、水際は粘土で滑りたやすく、なかなか岸に上がれず、怖い思いをした。 江戸川に行ってはいけないと言われていたにもかかわらず、川に落ちたのだから、その事は内緒で、充分下着を乾かしてから家に帰ったのだが、直ぐに風呂に入れられた。 親は何にも言わなかったが、川にはまったニュースは、すでに耳に入っていたようだった。 後年現在も本町に住んでいるM君から聞いた中1時代の話。
中部小学校のテリトリー外にあった、人のいない 「坊主山」 に遊びに行ったとき、他地区の中学生にからまれ、困っているのを助けてくれたのも、ちょっとワルがかったようにみえる顔見知りの上級生だった。 中部小のテリトリーは一丁目から三丁目までで、区域外の花島の屠殺場に行った時、北部小の子供に囲まれそうになったことがある。子供の遊び場にも地区の縄張りがあったのだ。 中学3の時、M君と夏休みにコッパ釣り (コッパ : 魚の名前。 スズキの子供で背びれが鋭く注意して針から外さないと手を切った) に行き、あまり暑いのでフルチンで泳いでいて父兄のパトロールに注意されたことがあった。 護岸のための杭が岸から沖に5mほど2列に打ってあり、杭と杭の間に大きな石が積まれていた。杭と石で出来た防波堤と、20mくらい離れた他の防波堤に挟まれた場所は入り江の様になっていて、泳ぐにも安全な場所だった。
当時の川の水はいまよりも濁っていて異臭もあり、注意されなくても衛生上からも、あまり泳ぐ環境ではなかったような気がするが、それでも泳ぐ子がいたのは、プールの少なかったこともあってかもしれない。 昭和30年代初めの高度成長の始まるころ、環境より生産力アップに力が注がれ出し、川も被害を受けるようになっていく。 初めてプールらしき物に行ったのは小学校4年生のときだった。 工兵学校の大きな防火用水にスノコを敷いて浅くしたのが市営プールの始まりだった。前年まで蛙の卵やオタマジャクシを取りに行っていた所だ。 翌年、今の一中のプールが 「市営プール」 として完成し、全日本でも鳴らしていた安房高校の庄司選手が 「泳ぎ初め」 に来た。 ヘルシンキオリンピックで橋爪選手や鈴木選手が競泳で銀メタルを取り、その後日本は水泳の黄金時代を迎える。子供心に水泳、卓球等当時日本が強かったスポーツに興味があって、神宮プールに日本選手権を見に行ったとき、プールの水が透明で、底まで見えるのにびっくりしたことをおぼえている。それまでの市営プールでは一回も底を見た事も無かったので、強く印象に残ったのかもしれない。
釣り以外で江戸川での遊びは、水辺からサイドスローで平べったい石を投げ、石が水切りをして水面に弾み、バウンドの数を競う遊びだ。 はじめは3回弾めば上出来と思っていたのが、10回から20回もはずむようになり、嬉しくなったのを思い出す。 上潮、引き潮の時による違いがあったのかもしれないが、日によって出来のいい時とだめな時があった。 小学校5年の時転校してきたI君の家は、小山の江戸川下で染物屋をしていた。 自家用の桟橋の先に繋いだ正方形の船から染めあがった反物を川に流し反物の糊を洗い流していた。それ程水はきれいだった。 反物を水洗いする合間にその正方形の船に乗って江戸川を横断するのはスリルが有って大変な楽しみだった。 小さな正方形の「舟」に乗ると、水が真近に見え、水を水かきで押しやると川面を舟が滑る感じに川と一体となった小さな興奮を覚えた。 坂川にも染物屋が二軒あり同じように流れに染めあがった反物を流していた。川を利用した職業も京都で友禅染を鴨川の水で洗っていたのを思わせるものもあった。 小生は肩が強く、中学の時すでに土手の上から石を投げて川を越え対岸の川原まで届くのが自慢だった。 古ヶ崎の川原は現在も何面もの野球場、サッカー場、ラクビーグラウンドがあるが、昭和40年代も市内の勤労者の楽しみは野球で、大通りには軟式の草野球チームがいくつもあって、早朝リーグ戦をやっていた。 高校・大学時代は松戸でゆっくりする事も無かったが、大学を出て家に入ってからは近所の店のチームに入れて貰い、早朝に汗を流した。 大学の野球部では一年中野球をやっていたので、「早朝リーグ」 では格上の投手とし活躍し、そのチームを優勝に導いた (ちょっと自慢)。 夏の暑い日は、ピッチャーで4番は打席で集中力が途切れる。夏の甲子園の球児は凄いと、あらためて思ったものだ。 当時、小学校の同級生だった二丁目の大膳屋さん四男坊の住いに居候していて、良く飲みに行き、朝早く起きられるものではなかったが、チームメートが午前五時ごろ、門も雨戸も閉まっている部屋の小生の枕もとにユニホーム姿で現れ、「ターちゃん、ターちゃん」、とゆり起こされた。春ちゃん、ヨッちゃんという熱心な選手だったと思うが、どうやって入ってきたか、今でも不思議に思っている。 現在、小生にとって江戸川は、家内と流山橋を渡り、埼玉県側の対岸を歩き、葛飾橋経由で本町に戻るコース。本町から葛飾橋を渡り、水元公園一周のコース。ほかに、葛飾橋から帝釈天にちょっと寄って、市川橋を廻って帰宅する、ほぼ四時間の健康作りの散歩コースとして利用している。 空気もよく自然に触れることのできる、本当に清々しい場所だ。
そこには雀、椋鳥が多数住み着いていた。 平成14年2月26日、江戸川を主水方面に散歩したおり土手で雀、椋鳥が同じグループで草を啄ばんでいるのを発見した。 本家の楠に住んでいた鳥たちの子孫ががねぐらを変え、昼間は江戸川で餌を漁っているのだろう。 去年は江戸川を使って都が防災訓練をしているのをテレビで見て、昼頃から市川橋周りのコースを歩いたが、午前中は市川から東京湾よりの篠崎の会場では石原都知事が防災訓練の指揮を執っていたとのこと。 今年も篠崎に石原都知事が来るなら午前中に篠崎まで、足をのばしたいものだ。 ほかにも小学生の低学年の時、葛飾橋に米軍の戦闘機がぶつかったというニュースが流れたことがあった。 川と橋の間をアクロバット飛行で通過しようとして欄干にぶつかったと言う話だった。 橋を渡るたび、欄干の金属が曲がっている所を見て、ここがその現場だと密かに興奮していた (戦闘機がぶつかったら欄干の金具が曲がるくらいでなく橋が崩壊するはずなのに・・可愛いものだった)。 江戸川とその周辺は私の人間形成に大きな影響を与えてくれた場所として、そして現在も懐かしい風景の保存地として、また還暦直前の身の健康づくりの場として貴重な存在である。 |