ここは「校門圧死事件」とは何だったのか?と事件に関連した著作等で取り上げられている
            内容を紹介するコーナーにしました。ご意見は掲示板か高塚メールまでお願いします。
                      



「神戸高塚高校校門圧死事件」
父親の立場から−親たちはどう対応したのか

 「事故」の発生と「第1回全体保護者会」の開催
 県立神戸高塚高校で、登校しようとした女子生徒が、門扉と門壁に挟まれ死亡するという教育史上恐らく初めての事故が、1990年7月6日の朝八時半ごろ起きました。
 このニュースを夕方のテレビニュースで知りました。私は妻と相談し、すぐ育友会に報告会を開くよう要求しようと、役員に電話しましたがつながりません。クラス役員に何回か電話しつながったので、早急に育友会総会を開催してほしい旨を伝えました。
 私もしたように、当時の在校生父母からの育友会総会を開けという要求が強かったのか、7月14日午後に、育友会の「理事・学年委員会」が開かれました。
 この会で相当学校への批判が出たようです。どうして、育友会総会にせず、「全体保護者会」に」なったのかハッキリとは分かりませんが、「全体保護者会」とすること、そして7月20日に開催されることが、この会議で発表されました。
 事故が起きてから、高校における管理教育のひどさが新聞で報道されましたが、私は「全体保護者会」に出席しようとは思いませんでした。学校のことは、妻に任せておけばよいと考えていたのです。
 出席した妻に模様を聞きました。妻が語った「会」の様子は、びっくりすることばかりでした。要約すると、あらかじめ」子どもを通して配られていた入場券を提示して校内に入ると、校内放送で音楽が流されているという異様な雰囲気だった。その上、暑い中締め切った蒸し風呂のような体育館で500名ぐらい父母が参加していた。30数名の父母から発言があり、遅刻した生徒にグランドを走らせるなどのペナルティーを課していたこと、また、「お前たちは家畜より劣る」などの言葉の暴力が先生からなされていたという学校批判が出されたこと、しかし批判だけでなく、生徒・先生・父母がもっと触れ合い、学校を教育の場としてふさわしいものにしていこう、という改革の意見も出されていたということでした。
 私は、学校からこの「会」の模様を伝える「報告」があるものと思っていましたが何もなく、夏休みとなりました。夏休み明けの九月八日「第二回全体保護者会」が開催されました。ここでは、校則の改正と体罰の禁止、三者協議会を設置することが報告され、原因究明の意見は取り上げられませんでした。依然として、事故に対する文書での報告はなされず、校則の改正で学校改革が終了したかのような一方的な報告会でした。
 このことから、私は、この事故を単なる偶発的な事故ではなく、何か構造的な問題をはらむ「事件」としてとらえるようになりました。

 先生との話し合い
 全体保護者会に出席した人たちのなかで、学校の実態をもっと知り、どうすれば管理主義の学校を、子どもたちが主人公の学校にできるか、考えはじめた人が中心となり、知り合いの先生に呼びかけ、話し合いを持つことになりました。
 これをきっかけとして、学校の組織、教育法規、労働組合の実態、教師の置かれている立場など、いろいろと教育現場のことについて学んでいく話し合いが持たれることになりました。ここへ出席していた父母は、学校のひどさを放置していた責任感から、子どもたちとの話し合いを進め、どうすればよいかを考えて参加していました。しかし、何回目かの話し合う会の席上、そこへ出席していた先生の一人が「靴と鞄が自由化されましたが、鞄の自由化は間違っていた」と発言しました。なぜかとの問に、「鞄が小さくなり教科書が入らなくて、教室において帰る生徒が多くなっている。教科書の盗難も増え、困っている」との返事です。この発言に教師批判が噴出しました。これまで子どものことでつながりのなかった父母が、子どものことで連帯をし、学校という共通の敵を見いだしたかのようでした。
 これ以後でも教師批判は相次ぎますが、それにも懲りず、以後、粘り強く話し合いに参加される先生もいて、学校再生の道の模索は今日でもまだ続いています。

 「神戸高塚高校事件を考える会」のめざしているもの
 「考える会」は、「事件」の起きた翌年の一月に、全体保護者会を経験し、学校を良くして行こうとの思いで集まった、当時の在校生の父母有志で結成しました。その目的は「校門圧死事件の原因を探り、あるべき高校教育のあり方を父母の立場から考え、改善の実施を求めていく」というものです。
 この立場から、その年の五月の育友会総会に向けて「訴え」を出しました。それは、四十人学級、教育委員会の会議の公開(傍聴者十名の限定)などの改革や高塚高校での校則の改正と体罰の禁止、三者協議会の設置等が行われたことを評価するとともに、記念碑を建てるなど五項目を求めたものでした。これらの要求は、今でも私たちが求めているものばかりです。
 校長や教育委員会は、刑事裁判の刑が確定するやいなや足早に風化をめざしました。私たちは、この「事件」を風化させず、民主的な学校運営にしていくため、これからも運動を続けていきたいと考えています。

 PTAについて
 事件の翌年、1991年5月に、私は学年理事に選出されました。早速「近畿地区高等学校PTA研究会」に出席の要請があり、出席することになりました。初めてのことなので、先輩の役員にいろいろと尋ねると、神戸PTA連合会会長は、その年の神戸市内県立高校入試でトップの学校の会長がなることや、一緒に出席していたK校長が「事件」さえなければ檀上にいるはずだったのに、などびっくりするような答えが返ってきました。いろいろと勉強になった参加でした。また、午後開かれた分科会では、京都や和歌山のPTAの役員の方々の熱心な活動報告に感動しました。役員になった早々、大きな経験をすることができたのは幸運でした。
 この研究会に参加した経験を生かそうと、理事会や学校行事に、積極的に参加し、発言しました。また、規約などの見直しのための他校のPTA訪問も行い提言もしました。しかし、ほぼ三ヶ月以上かけて話し合った規約の見直しはされませんでした。それでも次年度に頑張ればよいと考えていました。しかし、私は、再選されませんでした。私が「考える会」の人間と言うことで排除されたとしかいいようのない人選でした。 この経験から、私は、PTAを人選も含め、もっとオープンなものにしなければならないと強く思いました。そして、いろんな考え方の人が集まって、子どものためにより良き学校にするようにしていく機関でなければ、単なる学校の下請け機関となってしまうとも考えました。
 PTAが、親の立場を代表し、校則の見直しや教科書の選定、カリキュラムの作成などに参加したり、三者協議会を公開とし、広く父母や生徒の意見が反映するようにする運動の先頭に立ってほしいと願わずにはいられません。

 「刑事裁判判決」とその後
 校門を押し女子生徒を死に至らしめた教師は、93年2月10日実刑判決を受け、上告がなされなかったためその刑が確定しました。
 当時のK校長は、原因究明を求めていた「考える会」に対して「司直の判断を待って」と言ってきました。判決が確定しましたので、代表者二名で校長と会い、「全体保護者会の録音テープ」を聞かせてほしい旨申し入れました。しかし、良い返事が得られないまま転任されました。新しく赴任されたY校長に同様の申し入れをしたところ、「私は引き継いでいませんので分かりません」との返事でした。 
 新校長の態度に、事件の風化を意図的にしようとしているものを感じましたので、「考える会」は「校門の保存と碑の建設を!」という署名を、その年の五月二日の西神中央駅をかわきりに集め始め、門扉を残し「事件」の原因究明を行う運動を展開しました。しかし、七月七日の職員会議で門扉の撤去が決められたことが記者会見で発表されました。校長は、私たちの抗議に耳を貸さず、七月三十日に小雨の降るなか八時半の予定が大幅に遅れて、十一時四十五分より十五分間で撤去しました。しかも、形を残さないため、溶解行程に回すという念の入ったものでした。
 現在門扉は改修され、私たちの願いも虚しく「事件」の痕跡は残されていません。冥福を祈る、という名目で作られた花壇も、「福祉の心を育てる」ものとして宣伝されています。
 今の高塚高校には「事件」のことさえ知らない生徒がたくさんいる現状となってしまいました。

 公文書公開の適用と提訴
 「事件」当時の校長を含めると三人目の校長になって、「全体保護者会の録音テープ」は、その存在さえ分からなくなってしまったため、やむなく、九十三年四月二十八日に公文書の公開に関する県の条例第6条の規定を適用し、公開請求しましたが、「記録した文書は存在しません」との返事が五月十二日にありました。これに対する異議申し立てを行いましたが、これも却下されました。
 その理由は
 1、録音テープは、公文書の公開等に関する条例において公開の請求の対象になら   ないものです。
 2、本件の公開請求に係わる全体保護者会の会議の内容を録音したテープの反訳   書及び、全体保護者会の会議録は初めから存在しません。
 3、以上のとおり本件意義申立は、理由がなく、主文のとおり決定します。
というものでした。
 この後、「全体保護者会に関わる報告」も公開請求しましたが、「校長より口頭で報告された」ということで文書さえありませんでした。
 いったい「全体保護者会」とは何だったんでしよう。学校改革の第一歩としなければならなかったはずの「会」は、言い逃れの手段として利用されたとしかいいようのないものだったのです。
 私たちは改めて、「校門圧死事件」とは何だったのか、なぜ起きてしまったのかを「全体保護者会」の録音テープを通して問わなければならないと、九十四年三月二十三日神戸地裁に「全体保護者会のテープの公開を求めた損害賠償請求」を提訴しました。
 「録音テープ」の所在は、第五回公判(1994年12月7日)の準備書面で「家庭内ゴミと一緒に捨てた」ことが、明らかになっています。

 親の教育権の確立をめざして
 私たちは、親には子どもが学校でどのような教育をうけているのかを知る権利があると考えます。この裁判でこのことを確認し、「親の教育権」を確立して、親の立場から教育そのものを問いなおし、教育はどうあるべきかを明らかにしていきたいと考えています。
 この「事件」がいままで明らかにしたことは、今日の教育界が抱えている「いじめ」による自殺や不登校などの諸問題を解決する糸口となるものであると確信しています。
 校門を押し、生徒を死に至らしめた元教諭は、判決後手記を出版されました。読んでみると、体罰を正当化し、校則を守らせることが教師の務めであるかのように受け取れる内容となっています。「事件」に対する根本的な反省をされていないのでしょう。
 このような考えが通用するのは、私たちの訴えの弱さもありますが、子どもを主権者に育てようとするのでなく、受験体制を容認し、社会に適応する能力をつけようとする親たちの弱さにも原因があると思います。「校門圧死事件」に関しても、子どもが卒業したら関係ない、殺された親が黙っているのに、「高塚高校」の名前をいつまで言っているのか、などの意見を述べる親が多いのも事実です。
 しかし、私は、「校門圧死事件」に関わって、兵庫県の教育のひどさを知ることができました。「親の教育権」を主張するのは、今は少数の考えかもしれませんが、いつか大きな流れになるだろうと確信しています。そして、「教育」についての話し合いに参加される親や先生や子どもたちが多くなればなるだけ、子どもたちにとって、良い方向に向かうだろうと確信しています。そしてこの思いを一人でも多くの人びとに伝えなければならないと、五年目を迎えるにあたって、決意を新たにしているところです。(1995年月16日)

 この文は1997年7月30日神戸新聞総合出版センター発行の「いのちの重みを受けとめて」に掲載されたものの中から「校門圧死事件関連」を引用したものです。

 その後の経過 
 「事件」から8年後の1998年、大阪高裁での審理中の6月12日に学校側証人が「家庭内ゴミとして捨てた」はずの「第1回全体保護者会の録音テープ」が元育友会(現PTA)役員によって大切に保管されていたことが判明しました。裁判所の提出命令により「会」はこのテープを入手し、保管していました。
 最高裁判決で敗訴が確定した後、原告団の総意で「第1回全体保護者会の記録」として追悼10年のつどいを開く前、2000年7月1日に発行しました。
 
       
 入手したテープの司会の発言から
 これから議事に入るんですけれども、今日たまたま表の方に放送部を中心に大きな音を流しています。これは途中、来られた時に分かると思いますけれども、従来の会見等でもマスコミの方が相当な性能のいい集音マイクでもって録音をしています。一応、どこまで効果があるかは別ですけれども、そのために放送部の方で流しています。それから、この後議事に入るんですけれども、もう1回確認をしますけれども、今日は本校の保護者会ですから、保護者の方以外の方がもしおられましたら、会場からは、参加できませんので外の方にお願いします
 それから、写真、ビデオ、録音等は一切ご遠慮をお願いします。といいますのは、従来から本校では一切公開していないはずのもので、マスコミの方に流れまして、生徒がひどく困っております。そしてそれがまた中傷を呼ぶという格好で悪循環ですので、生徒の方にそういう被害をかけないという面で、写真、ビデオ、録音等一切ご遠慮願います。ただし、本校の方では一応、一つだけ録音しておりますので、何かご要望がありましたら、そのときにもう1回来てもらいましたら、録音は聞いてもらえると思います。

  注釈:下線は編集氏がつけました。詳細は「記録」をご一読ください。