2011年10月26日11:18
ロバート・ケネディー氏の来日訪問に関しまして
高橋様
突然のメールで失礼いたしますが、ランシガン加藤玲奈と申します。アメリカ、ニューハンプシャー州のダートマス大学のジェニファー・リンド教授の通訳を承っています。リンド先生はロバート・F・ケネディー氏による1962年の来日訪問の研究をされており、高橋様がケネディー氏に早稲田大学でご対面されたことをブログで知りました。彼女は高橋様のブログでこの際の記述を読み、とても興味を示されています。
リンド先生は高橋様のこの際のご体験についてインタビューさせて頂きたい、と切実に願っていますが、如何でしょうか。高橋様のご都合をお教え頂ければ幸いです。リンド先生からの感謝の気持ちをお伝えします。
ランシガン加藤玲奈
2011年10月28日11:26
Re: ロバート・ケネディー氏の来日訪問に関しまして
ランシガン加藤玲奈 様
メールありがとうございます。
1962年のR・ケネディ氏の来日について研究されている人がいるということを知り、米国の知性の幅広さ、奥行きの深さについて、改めて感心いたしました。
リンド先生は米国在住でしょうから、ランシガン加藤様を介して、メールでの「インタビュー」というのはいかがでしょうか。
もちろん、来日されるのであれば、いつでもお会いして、どんな質問にもお答えいたします。その際は、私が上京して、大隈講堂を案内しながらのインタビューなど、面白いのではないでしょうか。
R・ケネディ氏とのやりとりは、「対面」というよりは「対決」的なものになりましたが、「公開討論会」という性格上、止むを得なかったのかも知れません。
私が一晩で書き上げた「公開質問状」は下記のアドレスでご覧になって下さい。
メールでのやりとりも含めて、お会いできる日を楽しみにしています。
高橋 雄三
「公開質問状」・・・ http://www10.plala.or.jp/tika-infre/situmonj.htm
2011年11月19日 1:33
Re: ロバート・ケネディー氏の来日訪問に関しまして
高橋 雄三 様
私は政治学の教授であり、只今日米関係の記事を作成中です。50年前、高橋様は日米関係にとってとても重要な瞬間に大きく関わられました。ブログを拝読させていただき、高橋様はとても考え深い方だと察しているので、このようにお考えや体験をお聞きする機会を頂き、とても光栄に思っています。貴重なお時間を割いていただき、感謝致します。
ジェニファー・リンド
(ランシガン加藤玲奈 訳)
**************
1)当時早稲田大学でのイベント開催前に、ロバート・ケネディー氏の来日についてニュースで聴く、もしくは新聞で読まれたとき、どう思われましたか?来日に関してどう報道されていたのでしょうか。そして高橋様の反応はどのようなものでしたか?
2)50年前の大隈講堂での一夜を振り返られるとき、何が一番印象に残っていますか?
3)1960年5月の安保闘争に高橋様は積極的に参加されていましたか?もしされていたなら、どのようなご活動をされていたのかお教えください。
4)大隈講堂でのイベントでは大変な混乱があったと解しています。誰かがマイクの接続を切り,講堂の照明が消えたと聞いていますが、それは本当なのでしょうか?もし事実なら:
・ どういう経過でそこまで至ったのか覚えていらっしゃいますか?具体的にどのような場面だったのでしょうか。
・ 誰がマイクの接続を絶って照明を消したかご存知ですか?
5)アメリカ側の関係者(ケネディー氏の同行団体)は、イベントを中断させよう(ケネディー氏のスピーチを妨げよう)とした左翼の学生団体がいたと述べています。これは正しい情報でしょうか?高橋様のこの夜の目的はどのようなものでしたか?
6)ロバート・ケネディー氏に質問を述べるようにステージに招かれた時,高橋様はどう思われましたか?
7)高橋様をはじめ、同じ学生団体のメンバーはロバート・ケネディー氏に対して失礼だったと多くの人が感じたようです。署名を集めて謝罪の手紙をケネディー氏に送った学生たちもいました。早稲田大学校長はこのイベントは大学にとって恥だったと感じました。そこで:
・ 高橋様に対して個人的な怒りを抱いた人もいたのでしょうか?周りからはどんな発言を受けましたか?
・ 当時上記の反応、解釈をされ、ご自身はどう感じられましたか?
・ 現在はこの出来事をどう解されていますか?
8)このロバート・ケネディー氏との対面、対立は高橋様のご人生を変えることになったのでしょうか?ご自身の学問の方向や政治に関する思考に影響はありましたか?
9)学生時代の政治活動以来、政治には続けて関心を持たれているのですか?
10)高橋様の日米同盟に対する見方は、学生時代からどのように変わりましたか?今でも日本はもっとニュートラルな方向に進むべきだと思われますか、それとも現在は同盟を是認されていますか?そして、最近の出来事(3.11や中国との論争)で高橋様の見解は変わりましたか?
11)以下の点につきましても、ご回答願います。
・ 記事では「立谷 雄三」と認知していましたが、現在は「高橋 雄三」のお名前で高橋様を検索することができました。何故名字を変えられたのですか?
・ 早稲田大学は何年に卒業されましたか?そして何を専攻されていましたか?
・ ご結婚されていますか?お子様はいらっしゃるのでしょうか?
・
現在福島県在住とお聞きしていますが、ご自身とご家族に原発の影響はありましたか?(皆様の安全とご健康をお祈り致します。)
2011年11月22日
16:36
質問に答えるにあたって
ジェニファー・リンド 様
(ランシガン加藤玲奈 様)
返信メールがなかなか来ないので、受信にトラブルがあったのではないかと気にしていました。
質問の内容が具体的で、かつ詳細にわたっているのでどのような答え方にすれば、リンド教授の希望に応えられるのか、少し迷っています。
(1)当時の、自分の感覚的理解・感性的理解のレベルでお答えするのが良いのか。
(2)それとも、50年前のことをしっかりと思い出して、保管している資料もしっかりと再読して、「理性的認識」の下でのお答えをすれば良いのか。
いずれも可能ですので、リンド先生の希望を教えて下さい。
(1)の場合であれば、自分の記憶を基にして記述するだけですので、それほど時間はかかりません。
(2)の場合ですと、しっかりと記録や記憶を確認しながらの記述になりますので、少し時間がかかります。
私の希望としては、リンド先生から、自分の人生を振り返ってしっかりと考えてみる良い機会を与えられたので、(2)のケースで記述してみたいと考えています。
その場合、早くて年内、できれば来年の2月ぐらいまでの時間を与えていただければ幸いです。
リンド教授の在職しているダートマス大学には、早稲田大学の偉大な大先輩である朝河貫一博士が学んだことがあります。(1896年〜1899年)
日米開戦を何とか阻止しようとして、様々なルートで、日米の指導者に働きかけをしたことで有名な方です。
福島出身の朝河博士の業績を後世に残すために、「朝河貫一書簡集」を発行するチームが20年程前に結成されました。私も地元チームの一員として協力したことが、なつかしく思い出されます。
今回のことも、ダートマス大学との「縁」を感じます。
福島のことをご心配いただき感謝します。
おかげさまで、私の住む福島市は地震の被害は少なかったのですが、放射線の影響は小さくありません。
これからも「天」が日本人に与えた試練と受けとめて、「応戦」する覚悟です。
高橋 雄三
追伸
リンド教授が、北朝鮮への対応策や旧日本軍の「非人道的な行為」についての「反省」のあり方についての提言、学ぶことの多い論文でした。
これからも、積極的な研究発表を期待しています。
「朝河貫一書簡集」別便にて送付いたします。
先生の研究に役立てば幸いです。贈呈いたしますので、お納め下さい。
2011年12月16日
13:40
Re: 質問に答えるにあたって
高橋 雄三 様
お返事が大変遅くなりましたことを、深くお詫びいたします。
実は11月22日に私が送信したメールをご覧になれば理解していただけるかもしれませんが、私は前回の高橋様のメールを頂いてその日のうちに英語に翻訳して同メールをリンド教授に転送したつもりが、誤って高橋様にそのまま返信した形でメールアドレスが残っており、リンド教授には結局届いていませんでした。
その後高橋様とのコミュニケーションはどうなっているのだろう、と気にされていたリンド教授から今日久しぶりにメールを受信し、私が初めて自分の過ちに気付いた次第です。
もちろん11月22日付けでお預かりした高橋様のメールを私が翻訳したものを、先ほどリンド教授に送りなおさせていただきました。
それから間もなく彼女から高橋様への返信の翻訳を頼まれたのですが、改めて、私の不注意でコミュニケーションが長期間途絶えてしまったことを、深くお詫び致します。
どうかお許しくださいませ。
(因みに、一番最初のリンド教授からの返信が遅れたのは、海外出張や体調不良などが重なったからのようです。)
なお、以下が先ほど届いたリンド教授からの返信です。
ランシガン加藤玲奈
**************
高橋様
ご丁寧なお返事をどうもありがとうございました。朝河貫一書簡集も受け取りました。高橋様のご好意に感謝致します。朝河博士とダートマス大学との間につながりがあるとは、何と興味深いことでしょう。
高橋様のご質問に関しては、私も何とお答えしたら良いのか戸惑っています。私がインタビューする大半の人は頭に思い浮かんだことで答えます。しかし、高橋様はどうされたいか、ご自身が一番良く知っておられるでしょう。私の提案としては、少し過去の記録をご覧になって当時のことを思い出されてから質問に答えていただいても良いかと思いますが、如何ですか?確かにかなり昔のことであることは承知しております。
高橋様のインタビューの返答の期間に関しましては、現在私が既に書き終えた記事があり、雑誌に投稿中です。最初の雑誌が取り上げれば、この過程は比較的速く進みます。(私の予測では出版日は最も早くて来年2月の記念日になります。)しかし、次々と私が違う雑誌に投稿しなければならない長期戦となる可能性もあります。そういう訳ではっきりした流れ,期限は分かりませんが、この記事か、もしくは他の記事に高橋様の印象を載せさせていただけるなら光栄です。
高橋様のご好意とご協力に、深くお礼申し上げます。私の研究プロジェクトが、高橋様の回顧につながる良い影響を及ぼしているなら、幸いに思います。"Yoroshiku onegaishimasu."
ジェニファー
2011年12月20日
17:22
Re: 質問に答えるにあたって
ジェニファー・リンド 様
(ランシガン加藤玲奈 様)
別添のとおり回答文書を添付しましたのでよろしくお願いします。
高橋 雄三
リンド先生へのご返事
色々な手違いで、コミュニケーションが遅れてしまった理由、よく分かりました。
私の方も、多忙な日々が続いていたので結果としては好都合でした。気にしないで下さい。
リンド教授の質問について、思い出すままにお答えいたします。
(1)R・ケネディ氏の来日について
2週間ぐらい前に新聞報道で知りました。大統領の名代として訪日するという程度の認識であり、それ以上でも、以下でもありませんでした。
日本の報道機関は、訪日が近づくにつれて大きく報道したと記憶していますが、その内容については具体的には思い出せません。
私が強く関心をもったきっかけは、早稲田大学のキャンパスに、R・ケネディ米司法長官が来校し、学生との公開討論会を行うとのポスターが張り出されたことです。
「安保反対運動」の拠点大学の一つである早稲田大学に自らが乗り込んできて、しかも学生と「公開討論会」を行うということに、特別な意図を感じました。
その時、私は第一政治経済学部の学友会(学生自治会)の委員長をしていましたので、学生側の意見を集約する形で「公開質問状」を作成しようとすぐに思いました。
(2)大隈講堂での一番の印象
公開討論会は午後3時30分から始まりましたので、夜ではなく、白昼の出来事です。
公開質問状の内容はR・ケネディ氏にとっては返答に困る(と私達は思っていた)ものでしたので、公開討論会は中止になる可能性が大きいと予想していました。
反対派(批判派)が多数の学生を動員して待ち構える会場に、司法長官一行が乗り込んできた時は、米国人の西部魂、開拓者精神ということを強く感じました。
(3)60年安保闘争について
私が大学に入学したのが1959年4月ですから、日米安保反対運動には1年以上も前から強い関心を持ち、運動にも積極的に参加していました。
岸信介氏(第二次大戦の時の商工大臣)が首相であり、米国と手を組んで再びアジアへの進出を意図していると理解した日本人は少なくありませんでした。
(4)大きな混乱がありマイクが使えなくなったことは事実です。講堂の照明は最後まで点灯していました。誰が電源を切り、マイクを使えなくしたのかは、私も大きな関心を持っていました。
大学の講堂管理の担当者にも個人的な知り合いがいましたので、それとなく聞き出そうとしましたが、口を閉ざしていました。
少なくとも、反対派や批判派は、そんな卑劣な行為はしていません。なぜかといえば、「公開質問状」の内容でアメリカ側を圧倒しており、討論になれば我が陣営が「勝利」すると、その時はほぼ全員思っていたからです。
その数年後、米国の高官(副大統領?)が南米か、東南アジアを訪問して学生との討論会に出席した際に、会場のマイクが使えなくなり照明が消えるという同じような「事件」が起きました。
自分は、その「事件」を伝える報道記事を切り抜いて保管していたのですが、今回は見つかりませんでした。
当時の駐日大使であったライシャワー氏は「回顧録」の中で、ギリギリの時間まで学生との討論会への出席を中止すべきだと考えていたと後で知りました。
これらの「状況証拠」からみて、マイクの電源を切ることで、利益を得るのは誰であったかは分かるのではないでしょうか。
学生側は、「公開質問状」という強力な(?)言論戦の武器を準備して待っていたのです。物理的な妨害など何の利益もありません。
(5)当日は、午後1時頃から私は大学の学生部長室で、司会者である中島博教授と通訳を担当する予定になっていた松本馨教授と公開討論会の進め方や、「公開質問状」の要点・ポイントについて打合せを進めていました。
中島・松本両教授は、私が第一政治経済学部の学友会委員長であること、また、公開質問状の起草者であることを認めた上で、学生を「代表」するかたちでの討論会の進行を予定していました。
当時の日本の左翼陣営は、R・ケネディ氏が「米帝国主義」の最高指導者であるケネディ大統領の名代として来日し、日本指導部に対して「良からぬ」指示をするのではと警戒し、反対する動きがあったことは事実です。
しかし、学生との公開討論会に出席するのであれば、受けて立ち、言論戦で「撃退」してやるという「自信」があったのも事実です。
少なくとも、私の周りの陣営は、言論戦で勝という点では一致していました。しかし、友人の中の一人は、「生タマゴ」をポケットに忍ばせて、機会があれば投げつけてやろうと用意していたと、後になって語っていました。
私が会場に入ったのは、討論会が始まる20分ぐらい前です。それまで、中島・松本両教授と事前打ち合わせをしていました。
会場はすでに超満員でしたので、中島教授と一緒に特別の入口から会場に入り、会場の舞台(ステージ)から客席側に下りました。その結果として、私は会場の一番前の位置に立つことができたわけです。
まもなく、R・ケネディ氏一行が会場に到着し、拍手とヤジの乱れ飛ぶ異様な雰囲気で討論会は始まりました。
司会者の中島教授を無視するかのようにR・ケネディ氏が「演説」を始めました。通訳は米国大使館専属の西山千氏でした。司会・進行をまかされていた中島教授の困惑した表情がよく分かりました。
通訳役として準備していた松本教授は、英国生活の永い英国紳士ですが、この時は明らかに不快感を表現していました。
私は、幸い一番前の位置にいたので、大声で「話が違う!司会者は中島先生だし、松本先生の通訳で議事は進行するはずだ!」と抗議しました。
大声を出すのは、学生集会で慣れていましたので、会場全体に響く声だったと思います。
アメリカ側が議事進行を一方的に自分達に有利に進めるつもりなら、こちら側もそれなりの対応をするしかないとの思いが強く支配したということです。
「約束が違う!予定通り中島・松本両先生の司会・通訳で議事進行をせよ!」と大声を出し続けたので、ケネディ氏は、私を指名して、ステージに招きました。
ケネディ氏が手を差しのべ、その手を取って階段を使わずに、引き上げられるようにしてステージに上がりました。
ステージに上がってから、中島教授に通訳は松本教授が行うという予定であり、そのためのうち合わせ準備していたのではないですかと申し上げましたが、「そのことはいいから、質問に入るように」と中島先生から直接促されたので、公開質問状の前文を読み出しました。
米側が一方的に、大学当局の事前準備を無視して議事の進行をするのであれば、私としても、少しぐらい質問の時間が長くなってもしかたがないという思いが強かったのも事実です。
公開質問状の前文は、アメリカの「独立宣言」の精神から説き起こし、今や米国は「民族独立」を抑制する側に立っているのではないかという内容で、今、読み返して格調高い「名文」だと思います。
この前文を読み上げている途中で、中島教授から時間が限られているので、具体的な質問に入るようにと促されて、第一問の「即時沖縄返還」について公開質問状の第一項目を読み上げました。
R・ケネディ氏がこの質問への回答をしている途中で、マイクが使えなくなったと記憶しています。ハンドマイクが間もなく用意されましたが、音声は会場の一部にしか届かなかったようです。
(6)ステージに招かれた時の気持ち
大声を出して、最前列にいる学生をステージに招き上げるという行為は、「敵ながら天晴れ」(立場や利害は正反対だが、その行為は立派だという意味。日本語としては最高の誉め言葉)だと思うと同時に、追いつめられて、苦しまぎれの行為ではないかとも思いました。
(7)署名を集め、謝罪の手紙を持って米国大使館に百数十名の学生がその日のうちに訪ねたことは報道で知りました。早大雄弁会の(右派)を中心として組織されたメンバーであり、「謝罪」は自分達がR・ケネディ氏を「歓迎」し討論会が米国側のペースで進まなかったことは、自分達の力が足りなかったことについての「謝罪」だと理解しました。
当時の大浜総長(学長)は議事進行の不手際については詫びたと記憶しています。しかし、第一政治経済学部長であった吉村正教授は、大学側の事前準備を無視して、一方的に議事を進めようとした米国側にも責任があるという主旨の発言をしており、「質問をした学生を処分することなどはあり得ない」と報道関係者に伝えています。
討論会が終わった直後から、学友会室には雄弁会のメンバーを中心として10数名の学生が私に「抗議」にきました。
私は、中島・松本両教授との事前打ち合わせの経過や会場で私自身がとった行動についての説明をして、内容的にも数的にも半分ぐらいは理解してもらえたと思っています。
その後も数日にわたり、学友会室に押しかけてくる人はいました。3日後ぐらいでしょうか。署名集めの中心メンバー10数人と3時間ぐらいかけて、じっくりと話し合う場を設けました。
どちらかというと右派的・民族主義的立場の人が多かったのですか、事実関係や経過、質問状の内容、特に「沖縄返還」を強く訴えるための行動だったことを説明し、全員に納得してもらい、最後は指導者の数人と固い握手をして別れました。
私の会場内での行動については、「外国の使節に対して礼を失した」とか「早稲田の恥さらし」とか多種・多様でした。
これも、大学当局との事前準備や米側の一方的な約束違反という事実を知らないための誤解であると考えていました。
「礼を失した」という点は、結果としてはその通りです。しかし、左派も右派も大動員をかけている会場に乗り込んでくるのですから、その程度のことは覚悟の上でしょう。
この出来事について、現在どう解釈し、考えているかについては、「当然のことをしたまで」という一言につきます。
現在、同じ立場に立たされたら、やはり「沖縄問題」を取り上げ、米国の対外政策の「独りよがり」を指摘せざるを得ません。ただし、やり方はもっと「スマート」に行うつもりです。
(8)R・ケネディ氏との「対決」は私の人生に少なからぬ影響を与えています。「悪名高き男」になったことで、社会生活上では不利になった面も少なくありません。
しかし、当時から、私を知る人は、大学関係者や友人・知人、肉親や親戚も含めて、多くの人々から激励を受けました。米国の若者からも10通近い「激励の手紙」が大学に届きました。
1963年3月に大学を卒業したのですか、「事件」後1年余りということで、なかなか就職先は決まりませんでした。そんな時、大学の先輩の紹介で「日中貿易促進会」(Sino-Japanese Trade Promoting Association)に勤めることになりました。
日中両国が国交未回復の時代に日本の民間会社が独自のルートで貿易を行うための窓口となる団体です。
日中間で国交がないなかで、「民間外交」的役割も果たしていたので、大変勉強になったし、貴重な体験もしました。しかし、中国で「文化大革命」が起こり、日本側の民間企業も、その動きに迎合する傾向が強まったこともあり、3年で退職しました。
その後は、建設関係の会社や中小企業をサポートする福島県の外郭団体に勤めていましたが、前歴が明らかになるにつれて、少なからぬ「差別」を受け、独立して仕事のできる資格を取得する努力を10年近く続けました。
税理士、弁護士の試験にもチャレンジしましたが、不動産鑑定士の試験に合格したので、その道を進むことにしました。約37年前のことです。
不動産鑑定士という職業は、不動産マーケットの専門家として仕事をするわけですが、金融マーケットや証券マーケットについても深い知識と理解が求められます。それらの分野についても一定の勉強はしているつもりです。
大学卒業後、50年余り、わが国の政治、経済、文化について少なからぬ関心を持ち続け、現在の世界経済の危機についても深い関心を持ち、自分なりの見解も有しています。
(9)日本の政治だけでなく、世界の政治、特に中国共産党が支配する中国政治には強い関心を持ち、見守り続けています。「人民解放軍」という共産党の私兵集団が実質的に支配を続ける現状は、しばらく続くのではないかと考えます。
(10)学生時代は、単純に日本の中立化、独自の自衛力に裏づけられた「等距離外交」「対等外交」程度の認識でした。
その後、アメリカ遠征軍のベトナムでの事実上の「敗北」や現在進行中のイラクからの撤退を冷静に分析すると、米国は対外膨張政策から変わりつつあるのではないかとの感を強くしています。
日本独自の軍事力の強化をはかりながら、日米同盟が対等な軍事同盟から、国際環境が許すなら、経済友好条約的な内容に進化発展できれば最も望ましいと考えています。
20数年前の中越国境戦争(ランソン衝突)などを考えると、現在の日米同盟はやはり必要なのかとも思います。それにしても、日米同盟の厳しい負担を沖縄に一方的に押しつけている現状については、やりきれない気持ち、「無力感」をもっています。
3.11の本当の影響が出てきて、歴史的位置づけが出来るようになるためには、まだまだ時間がかかると思います。後世の歴史家は、経済面、技術面で、3.11は歴史的転換点であったと評価するのではないかと感じています。
(11)1964年に結婚するまでは「立谷」姓でしたが、妻が女だけの姉妹であったので、妻の姓の「高橋」を名乗ることになりました。
わが国では、男性が姓を変えることには少なからぬ抵抗があり、社会的にも不利ですが、そんなレベルのことははね返して生きていけるという自信をもっていたからです。
大学は1963年に卒業し、専攻したという程の勉強はしていませんが、「地方自治、地方行政」が専攻です。
結婚して48年になります。子供は3人います。孫も3人います。
現在福島市に住んでいます。福島第一原子力発電所から60qですから、影響は少なくないはずです。三男の孫は母親と一緒に京都に避難しています。
今回の原発事故は、ある意味での人類への「警鐘」だと受けとめています。自分は73才になっているので、それほど健康についての心配はしていませんが、年若い人は本気で心配しています。
リンド先生への回答を書きながら、自分の人生について改めて考えることができました。自分勝手な理屈で、やりたいことをやってきた人生だったと少し反省しながら、大筋では納得し、満足しています。
この回答文も、自分の都合の良いことを記しているという点で、割り引いてお読み下さい。
2011年12月20日
高橋 雄三
追伸
当時の新聞・雑誌報道の切り抜き、スクラップを改めて読み直してみました。R・ケネディ氏日本歓迎委員会とライシャワー大使側が、日本・マスコミに対し事前・事後の工作を行っていたことがよく分かりました。その効果があってか、当日の批判的学生や私に対する非難ははげしいものでした。しかし、私達の行動が、10年後に実現する「沖縄返還」を促進する一つの力になり得たとしたら、それだけで目的は達したことになります。あの日の行動を今でも誇りにしています。「戦場で失ったものを、テーブルの上での交渉で取り戻すことはできない」という外交上の困難さを乗り越えて、「沖縄返還」を実現した「日本外交の勝利」(?)にいささかなりとも貢献できたのではないかと自負しています。
今、クラブ・ワールドカップ・サッカーの決勝戦をテレビで見ながらこの文章の追加部分を書いています。
米司法長官の一行は大隈講堂の裏口から逃げ出すように退出したのですから、ゲームとして見た場合、我が陣営の「勝利」だったのではないでしょうか。ただ、日本のマスコミが「ケネディ陣営は堂々と対応した」とかいって、虚像を作ったのではないかと、今にして思います。
私の友人が、その頃ヨーロッパに滞在していましたが、ドイツを含めヨーロッパのマスコミは、「米国の成り上がりの政治家が、日本の左派学生を甘くみて、学生との討論会に強行出席して、失敗した」と報道していたと後日聞かされました。
米国のマスコミの一部では「結果として、裏口から退出した」「軽率な行動であった」と報道していたとも聞いています。
ケネディ一族には「神話」もありますが、禁酒法時代に酒類の密輸入で大金を稼いだ「成り上がり者の一族」との評価があるのも事実です。
私としては、フロンティアスピリッツ旺盛な一族として親近感を持っているのが、現在の実感です。
2011年12月21日
13:43
Re: 質問に答えるにあたって
高橋様
時間を割いて私の質問に丁寧に答えていただき、本当にありがとうございました。
後日熟読させて頂けるのを楽しみにしています。
この過程が高橋様にとって面白いエクササイズであったことを願っています。
近い将来に日本を訪ねようと思うので、その際にはこの出来事について直接お会いしてお話できれば幸いです。
All
the very best,
ジェニファー
2011年12月22日
17:16
ホームページに載せることのお願い
ジェニファー・リンド 様
(ランシガン加藤玲奈 様)
今回はお手元に順調に届いた由、安心しました。
リンド先生が先日、BS−TBSという日本のテレビ番組に出演されたのを私の妻が見ていて、大変聡明な方だと感じたと申しておりました。
北朝鮮問題で、毎日忙しい時間を過ごされていると思いますが、体調に気をつけてお過ごし下さい。
私のホームページには、R・ケネディ氏との関わりの欄(http://takakan.blog.shinobi.jp/Entry/69/)がありますが、さしつかえなければ、この欄に、今回の先生とのメールの交換を全文載せたいのですが、いかがでしょうか。
掲載する時期、内容について、指示があれば、それに従います。
勝手なお願いですが、ご検討下さい。
自分の人生をしっかりと見つめ直すよい機会を与えて下さったことに改めて感謝いたします。
よいお年をお迎え下さい。
高橋 雄三
2011年12月27日 3:52
Re: ホームページに載せることのお願い
高橋 雄三 様
ブログ掲載に関する高橋様のメール、確かにお受け取り致しました。
その日のうちに訳してリンド先生に転送したのですが、彼女は現在旅行中で、まだ返信がありません。
彼女からの通信があり次第、訳をお送りしますが、おそらくお返事は年明けになることと思われるので、どうぞご了承ください。
それでは年末年始の多忙な時期、体調には充分お気をつけになって、良いお年をお迎えください。
ランシガン加藤玲奈
2011年12月28日
16:04
貴重な経験に感謝します。
ランシガン加藤玲奈 様
12月27日付メールありがとうございました。
今回の件では、加藤様に大変お世話になったことに思い至り、この手紙を書かなければと気がつきました。
まず、加藤様の存在がなければ、加藤様がリンド先生のスタッフでなければ、私のコラムの存在にも気づかれなかったのではないかと思うことです。
リンド先生の主要な研究テーマが何であり、何の目的でR・ケネディ氏の50年も昔のことに強い関心を持っているのかは、十分には分かりませんが、スタッフとしての加藤様が十二分にその能力を発揮し、役割を果たしていることはよく分かります。
米国の研究者は、各分野毎のスタッフをかかえ、これほど徹底した調査活動を行うことは普通なのでしょうか?
だとしたら、恵まれた研究生活に、いささか驚きを感じます。
R・ケネディ氏への「公開質問状」をホームページ上で公開し、コラムに書いたりするようになったのは3年程前からです。
自分も70才を過ぎ、学生時代の「悪行」も含めて、
すべてをさらけ出してもいいのではないかと「悟った」からです。
反響は少なからずありました。仕事の面でも、同世代の「同志」の強い信頼とサポートを得ることが少なくありません。
今回、加藤様やリンド先生と、このような形でメール交換ができたのも、「悟り」がスタートラインだったわけです。
お名前からして、加藤様は日本で生まれ、教育を受けられた方と推測しますが、日本を訪れる機会がありましたら、ぜひお目にかかりたいと思っています。
政治も経済も、先行きが不透明な時代が続きそうですが、健康に留意して一層のご活躍を期待しています。
よいお年をお迎え下さい。
高橋 雄三
2012年1月5日 14:39
Re: 貴重な経験に感謝します。
高橋 雄三 様
新年明けましておめでとうございます。
年末のお忙しい時期にご丁寧で思慮深いメッセージをいただき、どうもありがとうございました。
年内にお返事しようと思いながら、新年になってしまったことをどうかお許しください。
昨日休暇から戻ったリンド先生からメールがあり、ブログに私たちのメールのやりとりを載せることは一切問題ない、とのことでしたので、その旨先ずお伝え致します。
メールによるインタビューに対する高橋様の応答に関しては、リンド先生が熟読できる機会が持てるまでもう少し時間がかかりそうですので、申し訳ございませんが今しばらくお待ちください。
12月28日付の高橋様からのメールでは、私の仕事を褒めていただき、恐縮すると同時にお恥ずかしく感じています。
私はリンド先生専属のスタッフではなく、日本語と英語のバイリンガルの知人、ということで一時的にこのプロジェクトに関する翻訳を任された者です。
本来はセラピストで、児童虐待や性犯罪、家庭内暴力の被害者を中心にカウンセリングをしていましたが、ここ2年程は育児に専念し、そろそろ職場復帰を考えるようになったところです。
私の役割は現プロジェクトに関する翻訳、簡単な調査に限られており、お恥ずかしいながらリンド先生の専門分野、活動全体を詳しく把握している訳ではないので高橋様のご質問に直接答えられない部分がある、というのが正直な実感です。
ですが、もし特にリンド先生の研究内容、過程、スタッフに関して彼女への直接な質問があれば、喜んで通訳を引き受けますので、どうぞお申し付けください。
今回の翻訳の仕事に関しましては、私の専門分野と180度違うので、自分の知識不足に苛立ちながらも、学ぶことが多く、とても新鮮に感じる部分があるのも確かです。
特に高橋様の人生経験、お考えは大変興味深く、一本筋の通った底知れぬ強さがありながら包容力が高い温かな人格が高橋様の記述から読み取れるので、勝手ながら楽しく拝読、翻訳、勉強させていただいています。
ご推測の通り、私は高校卒業まで日本で暮らし、大学時代からカナダ、アメリカで生活しているので、日本語(特に熟語、漢字)を大分忘れてきてしまっています。
従ってメールで翻訳,やりとりする際に変な言い回しや誤った漢字を使っていることも多々ある筈で、申し訳ありません。
何か私の翻訳で分からない点、間違っている点がありましたら、どうぞご指摘ください。
それでは、またリンド先生から返信があり次第、ご連絡差し上げます。
高橋様にとって本年がよりじっくりと人生を回顧する機会が持て、社会にもあらゆる角度から貢献し続けられる充実した一年になりますよう、お祈りしています。
ランシガン加藤玲奈
2012年1月17日 9:37
ありがとうございました
高橋 雄三 様
私の質問に貴重な時間を割いて答えて下さり、大変感謝致しております。
高橋様の応答はとても思慮深く興味をそそられ、私にとって新たな観点からの貴重な理解につながりました。
高橋様のお答えと私が今まで読んだことを比較してみると、新たな点に幾つも気付き、より深い洞察ができたと思っています。
そしてこのインタビューが高橋様にとっても良いエクササイズとなったと聞き、光栄です。
次回日本を訪れる時は、是非お会いしたいと思っています。
その際には必ずご連絡差し上げます。
直接お会いできればとても幸いです。
All best regards,
ジェニファー・リンド