『透明な対象』ノート ウェブサイト版
『透明な対象』

ウラジーミル・ナボコフ
若島正・中田晶子 訳

文学の冒険第54回配本
 国書刊行会
2002年11月25日発行
「ノート」は『透明な対象』の165頁から198頁にわたって50項目について記載したものです。「ノート」のために用意はしたものの割愛した項目や出典等の情報、さらに参考文献も追加したウェブサイト版を作成しました。青色で示した部分が今回追加した部分で、本には含まれていないものです。数字は横書きの表記に合わせてアラビア数字に改めました。

本の「訳者あとがき」にもありますように、細部の情報についてはAuckland大学のBrian Boyd教授に懇切丁寧なご教示をいただきました。ウェブサイト版では、「ノート」の作成にあたって同教授の著書や註釈を参考にした部分、また直接ご教示いただいた部分を明示してあります。「LoAの註」と書いてある部分は、Library of America版のTransparent Thingsにつけられた同教授の註釈から引用したものです。

  

「このひどい建物は灰色の石材と茶色の木材でできていて……記憶していた」
 灰色の石造りで茶色の木の窓枠に赤や緑の鎧戸やシェードのついている建物はこの地方に非常に多い。ヒューがチェリーレッドをアプルグリーンのように記憶していたのはそのせいもあるだろうし、彼を案内するボーイがアプルグリーンの前掛けをしていたからでもある。色彩に関する記憶の混乱は、第5章で試着室のカーテンに関しても起こりかける。
 家の内外装と登場人物の服装の間に混乱が起きる場面はナボコフの他の作品にもあり、『賜物』の1章には、嬉しい知らせに舞い上がった主人公が、壁紙のチューリップの模様を下宿の女主人のドレスの柄に見間違えておかしなお世辞を言ってしまいそうになる場面がある。
 赤と緑の混乱については、『キング、クイーン、ジャック』の13章で瀕死の譫妄状態にあるヒロインが、赤いスリッパとエメラルドのイヤリングをひとつにして、「エメラルドのスリッパ」と言うところにも見られる。

「寝そべる宿泊客を描いた絵葉書」
 ナボコフの生涯で最後の住まいとなったのは、スイスのモントルー・パラス・ホテル(Le Montreux Palace http://www.montreux-palace.com/) シーニュ館(Hotel du Cygne/the Cygne Wing)6階の6室である。


シーニュ館の側面。 Le Cygne(白鳥)が左手に見えている。


ナボコフが滞在していた時代のホテルの古い絵葉書(下)には、この場面で示される絵葉書を思わせるものがある。ここで描かれているほどには誇張されていないが、多少芝生と寝そべる人物が大きめかもしれない。

The receptionist gave me the postcard which, according to him, was printed in 70's.

「シュールの荘厳ホテル」
 現実のモントルーの駅前には「スイスと荘厳」Suisse et Majesticという名前のホテルがある。もっとも、アスコット・ホテルがあるトルーがこの小説におけるモントルーだとすると、荘厳[マジェスティック]ホテルのあるシュールは別の土地になるらしい。一方、アスコット・ホテルにはナボコフが晩年を過ごしたモントルー・パラスの雰囲気はなく、ヒューがR氏と話をするヴェルセクス・ホテルにその面影があるように思える。
 荘厳ホテルは『青春』に登場するスイスのホテルの名でもある。このホテルは主人公の青年のいわば予備的な冒険を見守り、さらに最後の大きな冒険へと導く重要な役目を果たしている(参考文献 Akiko Nakata, "Boundary-Crossings in Glory and Transparent Things"
 晩年をスイスのホテルで過ごし、「ホテル人間」(ジョージ・スタイナーがナボコフを論じた「脱領域作家」の中の言葉。スタイナーは後述の25章「ムシュウ・ウィルド」の項目にも登場している)とも呼ばれたナボコフの作品の中でホテルが重要な舞台となるものは少なくない。そのひとつ、ロリータと初めて宿泊するホテル「魅せられた狩人たち」(The Enchanted Hunters)の廊下で、ハンバートは「ホテルの廊下のパロディ、静寂と死のパロディ」と考える(『ロリータ』1部27章)。何やら『透明な対象』の予告であるかのようにも聞こえる文句である。このハンバートの父もスイス国籍で、リヴィエラに豪華なリゾートホテル、ホテル・ミラナを所有していた。『青春』にしても『ロリータ』にしても、スイスでのホテル住まいの計画などまったくなかったはずの時期に書かれているのだが、未来のナボコフの生活を予期しているかのように「スイスのホテル」の主題を持っている。

  3

「鉛筆の芯が発見されたシェイクスピアの生誕年までは行かない」
 鉛筆の芯の原料となる黒鉛が英国ボロウデイル(次註参照)のカンバーランド荘園で発見されたのは1560年代、一般には1565年のこととする説が有力であるが、シェイクスピアの生誕年1564年ととるものもある。ちなみにナボコフの誕生日は1899年4月23日で、この日はシェイクスピアの誕生日でもある。
 いくつかのナボコフ作品において鉛筆は重要な小道具として登場する。自伝『記憶よ、語れ』では、病気の回復期でベッドにいた幼年時代のナボコフが、母親がぺテルブルグの目抜き通りの文房具店に橇で向かい、その日のプレゼント(当時のナボコフは、病床にあったためであろうが、毎日プレゼントをもらっていた)として鉛筆を買い求めて帰宅するまでを、この小説さながら「透視する」エピソードが語られる。透視された場面では鉛筆の大きさだけが違っていて、帰宅した母親からプレゼントを受けとってみると、実際の鉛筆はショウウインドウに飾ってあった1m20cmほどの長さの巨大な、ただし芯もはいっている本物の鉛筆だった。このエピソードは『賜物』(1章)にも主人公フョードルの回想の一場面となって登場している。
 アメリカでのナボコフは、インデックスカードに消しゴムつきの鉛筆で小説を書いていた。消しゴムが鉛筆より早くなくなってしまうことに不満を述べているし、「欲しいものは?」という質問に「濃く書けて、なおかつ芯が固い鉛筆」と答えたこともある。フョードルの記憶の中に登場する鉛筆はファーバー社製と記されている。鉛筆で執筆していたナボコフはブランドにも詳しかったらしく、『プニン』の中で(3章4節)鉛筆削り器が鉛筆を削る音を「ティコンドゥローガ・ティコンドゥローガ」と表現しているが、これもアメリカの鉛筆メーカーの名前である。
 サンクト・ぺテルブルクにある彼の生家は現在ナボコフ記念館(http://www.libraries.psu.edu/iasweb/nabokov/abvn.htm)となっているが、そこではナボコフが執筆に使っていた消しゴム付き鉛筆三本が読書用眼鏡と共に遺族から寄贈され、展示されている。

「ナボコフの鉛筆」 中央の鉛筆の濃さは3Bと読める。左側の黒い紐はナボコフの読書用眼鏡のもの。写真撮影 谷本知佳氏, 写真提供 諫早勇一氏 Nabokov's pencils (courtesey Yuichi Isahaya)

 以上、鉛筆についての一般的な情報は、ヘンリー・ペトロスキー著『鉛筆と人間』(渡辺潤・岡田朋之訳、晶文社)による。


「黒鉛がとても細かくすりつぶされ……」
1936年にコ・イ・ノアという鉛筆メーカーが出版している「鉛筆製造法」というパンフレットを読むと、ナボコフが鉛筆の製造過程を記した部分の記述がこのパンフレットにもとづいているに違いないという気がしてくる。もちろん、パンフレットの文章は、ナボコフの記述のように華麗なイメージを喚起するものではない。実際にはナボコフはモントルーの文房具店の主から鉛筆の製造方法を詳しく聞いてこの章を書いたらしい(Brian Boyd, Vladimir Nabokov: The American Years, 577)のだが、その主がパンフレットを読んで聞かせたのではないかと想像してしまう。
 このパンフレットの一部は上述の『鉛筆と人間』の付録Aとして収録されている。また、この本の本文にも2箇所にナボコフが登場し、鉛筆との縁の深さを感じさせる。
 
「裁断係の老人イライアス・ボロウデイル」
ボロウデイルは、鉛筆の芯に使用される黒鉛が発見されたとされる英国カンバーランド旧州(現在のカンブリア州の一部)にある村の名前。風光明媚な湖水地方にあり、観光客も多い。近くの古い市場町ケジックには有名な「鉛筆博物館」(The Cumberland Pencil Museum. http://www.pencils.co.uk/)があり、復元された機械が陳列され、ボロウデイルでの黒鉛の発見から近代的製造方法まで鉛筆の歴史をたどることができる。

「羊が殺されるショット、屠殺人のショット、羊飼いのショット、羊飼いの父親であるメキシコ人のショット」
まるで鉛筆製造過程を記録したドキュメンタリー映画を見ているかのように描かれているこの部分は、ルイス・ブニュエルがスペインのフルデス地方の寒村を舞台に撮影した相当に怪しげなしかし魅力的でもあるドキュメンタリーフィルム『糧なき土地』やメキシコ時代の映画のいくつかを思わせる。ただし、ナボコフがこれらの映画を見ていたかどうかは不明。この場面は、単に当時のマカロニウェスタンに触発されたものかもしれない。
ブニュエルについてナボコフは、「『ビリディアナ』は大嫌いだね。陰部のグロテスクな盛り合わせとゴヤ風の借り物のいろいろ。どうしてあんなに賞賛されるのだろう」と述べている(Alfred Appel Jr., Nabokov's Dark Cinema, 59)。
 ブニュエルは、『糧なき土地』の中で同じように原始的な貧困状況にあるフランスのサヴォワやチェコについて言及したため、ヨーロッパでの上映が禁じられたと語っている(『世界の映画作家7』、キネマ旬報社、191頁)。おそらくは奇妙な偶然の一致によって、そのサヴォワはこの小説の19章に登場する。


「ジャックが作った世界」
 マザー・グースの一篇、「これはジャックの建てた家」["This Is the House That Jack Built"]を下敷きにしている。
元の歌は、その家から始まり、「これはジャックが建てた家にあった麦芽を食べたねずみを殺した猫に噛みついた犬……」というようにどんどん長くなって行く積み重ねタイプの遊び歌。犬の後には、さらに雌牛、娘、男、お坊さん、お百姓が登場して終わる。


  

「アルマン・ラ−ヴというあらくれ男であり、…… 絞め殺したのだ」
ジャン・ジュネの世界を思わせる陰惨な経歴を持つこの囚人の名前は、後に登場するアルマンドの男性形である。姓のラ−ヴ[Rave]には、「わめく、荒れ狂う、風、水などが荒れ狂う」という意味がある。絞殺については言うまでもなく……。


「思いがけない洒落のかすかな瑕になっていた」
3photos 3 poses「違ったポーズで写真三枚」の意味で書かれている看板だが、ヒューは3 photos osees 「大胆なポーズの写真三枚」を考えている。


  

「ボストン絞殺魔」
1962年から約一年半にわたってボストンで若い娘から老女まで13人の女性を絞殺した連続殺人犯アルベルト・デサルヴォのこと。リチャード・フライシャー監督による犯罪ドキュメンタリー路線の映画が製作されている。ヘンリー・フォンダ、トニー・カーティス(犯人役)主演、邦題『絞殺魔』(1968年)。

「スクラントン」
 米国ペンシルヴァニア州北東部の都市。


「火葬にするほうがいい」
キリスト教ではキリストの再臨と共に死者の肉体が復活すると考えられるため、西洋では旧来土葬が中心であった。火葬は現在でも少数派であるが、徐々に増加している。中には20世紀の初めから近代的火葬が始まり、70年代にはすでに火葬が過半数を超えていたイギリスのような国もある。アメリカの場合、火葬が始まったのは1939年、現在では2割程度だという。この小説が書かれた1970年代の初めにはわずか4パーセントであり、完全な少数派であった。
ナボコフ自身も1977年に火葬でスイスのモントルーに葬られている。同時代のアメリカに比べればスイスでの火葬はさほど珍しくはなかったようである。



 ナボコフと妻ヴェラのお墓。モントルー・パラスから歩いて20分ほどの、山の中腹の墓地にある。そなえてある赤いものはガラスの容器にはいったロウソク。The Nabokov tomb

ベルリン時代に書かれた最後のロシア語小説『賜物』では、ベルリンで暮らしているロシア人亡命作家が火葬で葬られている。葬儀の場面は、葬儀店のウィンドーに飾られている火葬場の魅力的なミニチュアと対照的に描かれている。「カイゼルアレー通りの角の葬儀店のウインドーには、客寄せのために(クック旅行代理店にプルマン列車の模型が飾ってあるように)火葬場の室内のミニチュアが飾ってある。小さな説教壇の前に並んだ小さな椅子の列、その椅子に腰掛けている曲げた小指くらいの大きさの小さな人形たち、そして一番前の、いくらか離れたところに、小さな未亡人がいて、1インチ四方のハンカチを顔に当てているのでそれとわかる。この模型のドイツ的な魅力がいつもフョードルを楽しませていたが、それで今本物の葬儀場にはいってゆき、そこで大きな平たい鉢に盛られた月桂樹の下から、本物の死体を入れた本物の棺が、重々しいオルガンの音楽に合わせて、典型的な地獄である焼却炉の中にまっすぐ下向きに押しこまれるのを見るのは、なぜかむかむかするほど嫌だった。」(『賜物』第5章)。
ここでフョードルが言及しているプルマン列車の模型は、短篇「初恋」の冒頭にも登場する忘れがたい印象を与えるもの。

「あるロシア人の小説家」
 ナボコフはこの人物をa minor Dostoevskyと呼んでいる(Strong Opinions, 195)。スイスへの旅行、カジノ通い等から若き日のドストエフスキイを思わせる人物であるが、もちろん確証は与えられていない。ドストエフスキイは『モスクワのファウスト』という作品は残していない。
  これまでのところ、Simon Karlinskyが1973年に書評の中であげた説「この作家は一人ではなく、ドストエフスキイ、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、オドエフスキイから作り上げた存在ではないか」が有力であった。 最近の研究では、この人物のモデルとなった作家がKonstantin Sluchevski (1837-1904) ではないかという新説が登場した(2002年7月にぺテルブルグのナボコフ記念館で開催されたNabokov SymposiumにおけるAlexey Sklyarenkoの研究発表"Russian Subtexts in Nabokov’s Ada: Allusions to works of Konstantin Sluchevski")。残念ながらその後Sklyarenko氏自身によってこの可能性は否定されている。
 また、日本ナボコフ協会員の柿沼伸明氏からは、エミーリイ・リヴォーヴィッチ・ミンドリン(Emilij Livovich Mindlin 1900-1980)の書いた『ファウスト博士の帰還』という小説についてご教示いただいた。この小説は、冒頭の部分が1923年、文集『復活』に発表されたが、続篇は検閲のため陽の目を見なかった。本の内容は、ファウストが20世紀初頭のモスクワ、アルバート街の古工房に登場し、認識の限界を痛感し、ロシアを離れるというものであり、文字通り「モスクワのファウスト」の物語である。ミンドリンは雑誌『前夜』においてブルガーコフの同僚であり、『ファウスト博士の帰還』は『巨匠とマルガリータ』に影響を与えた可能性を指摘されているとのことである。




   

「降霊会」
ナボコフの作品には、『青白い炎』をはじめとして、降霊の印象的な場面がいくつかある。そのひとつ、「ヴェイン姉妹」の降霊会には、後述のオスカー・ワイルドやトルストイらしき人々の霊が訪れる他、コロラドの雪崩れに巻き込まれて死亡したジョン・ムーアとビル・ムーアという兄弟の霊も登場している。


   

「アナクレオン」
古代ギリシアの抒情詩人(紀元前570頃〜480頃)。酒、美少年、乙女、恋をテーマとした情緒豊かな風流詩により生前より名声が高く、後世においても多くの愛好者、模倣者を生んだ。ワインにはいっていた葡萄の種で喉をつまらせて死んだと言われる。
アナクレオンは日本においてもよく知られており、斎藤茂吉に「むらさきの葡萄のたねはとほき世のアナクレオンの咽を塞ぎき」の一首がある。
彼の詩の韻律を模倣して後代に作られたソネットは「アナクレオン風ソネット」と呼ばれる。ナボコフの小説『ディフェンス』の中で、主人公ルージンの学校の担任はロシア文学の教師で、アナクレオン風ソネットの詩集を出版している。

「アリョーヒン」
アレクサンダー・アリョ−ヒン (1892−1946)。1927年から35年と1937年から46年に、チェスの世界チャンピオンであった。実際はポルトガルで変死を遂げる。死体解剖の結果、よく噛まずに呑みこんだ肉が喉につまっての窒息死とされているが、真相はいまだに不明。

「環状列石……も明らかに男性の象徴である」
 言うまでもなく、ナボコフが忌み嫌っていたフロイト的解釈のパロディである。ヒューのボスの名前「アートマン」は、インド哲学において「生命の本体、個我、宇宙我」を表すが、60〜70年代にかけての東洋哲学の流行もナボコフが嫌っていたもののひとつである。
ジョン・ファウルズの『フランス軍中尉の女』(1969)第3章にも「環状列石と柱状巨石」が登場する。この小説はナボコフの『アーダ』と同じ年に出版され、書評ではしばしば比較された。環状列石と柱状巨石の登場する一節がある。
「チャールズの祖父は准男爵で、英国の大地主の二分法では第二の種族に属していた。すなわち、クラレットをさかんに飲み、キツネ狩りを好み、この世のありとあらゆるものを蒐集する学問好きな人間である。初めは主に書物を集めていたが、後には自分の財産と家族の忍耐心を大量につぎ込んで、ウィルトシャーの3千エーカーの領地におできのように点在する、罪のない地面の隆起を発掘することとなった。環状列石や柱状巨石、燧石道具に新石器時代の墓、そうしたものを容赦なく追い求めた」(John Fowles, The French Lieutenant's Woman, 19-20).




「テッサン」
スイスの州。ナボコフが蝶の採集によく出かけていた場所の一つ(Strong Opinions, 199)

「貴族小辞をつけたら……重なってしまうわね」
ロシア貴族である母親の血筋を表すためにフランス語の貴族小辞「ド」をつけるとアルマンド・ド・シャマールになってしまうの意。

「おまえの着ているものを脱いでごらん……かまわない」 
アルフレッド・ド・ミュッセの詩「ジュリーに」からの引用(LoA版の註による)。
デジャニールはギリシャ神話のデイアネイラ。ヘラクレスの二番目の妻。夫の愛を取り戻そうとして、以前自分に横恋慕したために殺されたケンタウロスの遺言のとおり、その血の染みこんだ下着をヘラクレスに着せる。ところがその血の中にはヒュドラの毒が含まれていた。毒が全身に回り、死を悟ったヘラクレスは自ら薪の山に登り、火を放って死ぬ。デイアネイラも自殺する。

「R夫人の左翼好きをよくあるブルジョワの趣味だと僕が呼んだわけ」
 この小説にはところどころにゴダールを思わせる部分があるが、このあたりは『中国女』を思い出させる。11章に登場するジュリアの容貌にはこの映画のヒロインを演じるアンヌ・ヴィアゼムスキーの面影が感じられるように思うのだが……




   10

 
「シャーロック・ホームズの下宿屋の……動かされているみたいに」
 コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの帰還』に収められている「空家の冒険」のエピソード。女将がホームズに似せて作った蝋人形を動かして彼が在室しているように見せかけている間、ホームズは外で見張りを続け、自分を殺害しようとした犯人を捕えた。

「昔フロリダを舞台にした……ルーベンソン」
 「そんな俳優は存在しなかった」とされているが、この部分は明らかに映画『キー・ラーゴ』のエドワード・G・ロビンソンへの言及と思われる。

『トララティションズ』
英語の稀語で「隠喩」の意味。その前の「トラララ」はフランス語の歌のリフレインに使われる言葉で馬鹿騒ぎの意味もある。


   11

「傲(まん)(おこ)ない」
ナボコフの原文では「巧妙な離れ技」(Cunning Stunts)で、このタイトルは、英語のジョーク。すなわち、頭の音を入れ替えるとStunning Cunts(凄い××××)となる。これは、ジャンルが少々異なるが、1969年にブロードウェイのエデン・シアター(Eden Theatre.正しくはイーデン・シアターであるが、本文との関係からエデンと表記した)で初演され、3年間で1900回を超えるロングランを記録したヌード・ミュージカル『オー!カルカッタ!』にヒントを得ているらしい。"Oh! Culcatta!" をその発音からフランス語に組み替えると"O quel cul t'as!"「おお、なんと見事なお尻!」となる。初演のポスターには、こちらに背中を向けて寝そべった美女の臀部が描かれていた。



 ナボコフと、彼が見たはずも興味を持ったはずもないこのミュージカルの間には、実は意外な接点がある。『オー!カルカッタ!』の脚本を担当したケネス・タイナンが、当時企画していた覆面有名作家によるポルノグラフィのアンソロジーへの執筆依頼をナボコフにし、にべもなく断わられているのである(Boyd, The American Years, 569)。ナボコフが『透明な対象』の執筆にとりかかるのはその3ヶ月後のことだった。
 なお、京都大学の喜志哲雄教授より、Eden Theatre はオフ・ブロードウェイの劇場であり、そこでの初演は704回、ブロードウェイに移ってからの公演を含めて1314回の公演回数であるとのご指摘をいただいた。

「花輪で飾られた日々」
 A・E・ハウスマンの連詩『シュロップシャーの若者』の19番「早死にした陸上選手に」の最終節に出てくる言葉。
 ハウスマンはナボコフがケンブリッジ大学在学中に在職しており、『記憶よ、語れ』(13章)には次のような一節がある。「大学食堂でA・E・ハウスマン教授にスープをこぼした、大変な高齢で弱っていたウェイターのT。するとトランス状態から醒めたように突然立ちあがったハウスマン教授。ケンブリッジとは何の関係もないが、とある(ベルリンでの)文学の会合で居眠りして隣の者に突つかれ、同じように突然立ち上がったS・S――誰かが物語を朗読している最中だった。思いがけないところでお話を始めるルイス・キャロルの眠りねずみ。青年たちと死についての『シュロップシャーの若者』という小詩集を思いがけず贈ってくれたE・ハリスン先生。」


   12

「パタプフ」
 フランス語では「でぶ」という意味。

「リャザニ」
 ロシア共和国西部、モスクワの南東にある都市。


「ハルビン」
 中国黒龍江省の省都。


「ラトウィッジの夢」
 チャールズ・ラトウィッジ・ドジスン(1832−98)、筆名ルイス・キャロルの少女愛好趣味は有名。オクスフォードの数学講師であった彼は、創作の他に写真を趣味とし、「ガラスの部屋」と名づけた写真スタジオで、アリスのモデルとなった学寮長の次女、アリス・リデルを初めとして少女達の写真を数多く撮影した。少女の裸体写真の撮影でスキャンダルを引き起こしたこともある。
 キャロルはナボコフお気に入りの作家の一人であり、『不思議の国のアリス』のロシア語訳『不思議の国のアーニャ』Ania v Strane Chudes、左下)を1923年に出版している。



「デントン・コレクション」
デントンは、華麗な色彩の蝶の標本で知られる。ナボコフの蝶に対する情熱が語られている自伝の第6章には次のような記述がある。「わたしが最初に学んだ数少ない教訓のひとつは、コレクションを増やすため他人を当てにしてはいけないということだった。それなのに叔母たちときたら、ばかげた贈り物を――派手ではあるが、実際にはごくありふれた種類の蝶の標本などをいつまでもわたしに贈ってくれた」Conclusive Evidence, 85)


   13

「トルコ製」
 ナボコフの多くの小説においてそうであるように、この小説にもシェイクスピアへの言及、引喩が見られるが、これもそのひとつ。ただし、「ジューリア・ロメオ」などの明白なものと違って少々連想作業を要する。後日死亡学を専門とする精神分析医がタートルネックに関して執拗にヒューを問いただすが、タートルネックを絞殺への隠された願望の象徴と考えているらしい。そのように妻の絞殺とトルコが結びつけば……。ナボコフには「かつてアレッポで……」という暗示的なタイトルの短篇もある。


「イエロー・ブルー・ティビア」
ロシア語では「ヤー・リューブリュ・テービャ」である。ヒュ−にはそれが英語で「黄色く青い脛の骨」と言ったように聞こえている。


 15

「カフェ・デュ・グラシエル」
「カフェ氷河」。ナボコフの住んでいたモントルーの駅からは二両編成の可愛らしい登山電車(写真下)が出ており、約一時間で、終点のロシェ・ド・ネRochers de Nayeに到着する。そこも氷河の万年雪のスキー場(写真二枚目)になっている。
a little cog train up to the Rochers de Naye

the Rochers de Naye



「ゴディユ」
 フランス語。次に出てくるドイツ語の「ヴェーデルン」と同じ意味のスキー用語で、速いターンを繰り返す上級者向きの滑り方。

「きみはまるで月面着陸した初の女性飛行士みたいだね」
 アルマンドのスキーブーツのブランド「モンドシュタイン」はドイツ語で「月の石」を意味する。

「天国と見まがうような……滑空していきそうなほどだったが」
 もっともお気に入りの移動手段はケーブルカー、それもチェアリフト式のものによるものであるとナボコフはあるインタビューで語っている。
「朝陽の中を谷から樹帯へとその魔法の座席で滑るように運ばれていき、そして自分自身の影が――採集網の幽霊を握りこんだこぶしの幽霊と共に――坐った横向きのシルエットのまま、ずっと下の花畑の斜面を登って行くのを見下ろすことが、言葉の真の意味で、魅惑的であり、夢想的だと思う」Strong Opinions, 200)



   16

「40歳の今でもまだできる唯一のゲームがテニスだった」
 ナボコフ自身も子供の頃にテニスを始め、生涯得意なスポーツとして楽しんでいた。モントルーに移った60歳代になっても家族とゲームを楽しんでいたが、若い頃にはテニスは仕事でもあった。定収入のなかったヨーロッパ時代にはテニスのコーチとしての収入(27歳の時には1時間3ドル。Boyd, Vladimir Nabokov: The Russian Years、267)が生計の一部となっていた。他にナボコフが得意としていたスポーツは、サッカー(ケンブリッジ時代はゴールキーパーとして活躍)やボクシングなどである。



   19

「ガスコーニュのコンドームとサヴォワ地方のプッシーとは……何マイルも離れている」
 どちらも実在する地名。ここでは英語読みにしてあるが、本来の地名はフランス語の発音で、コンドムとピュシーとなる。

「職場にあるぼろぼろになった大型辞書」
 ナボコフが使っていた英語の辞書は、『ウェブスター』Webster's International Dictionaryの第2版であった。ヒューが職場で使っている「大型辞書」はおそらくこの辞書ではないかと思われる。ナボコフの英語の小説に出てくる言葉の多くはこの辞書に見つけることができる。ただしすべてというわけではなく、たとえばこの小説でいうと14章に登場する「スピードターン」(tempo turn)は第2版にはなく、第3版に掲載されている(Boyd教授の指摘による)。少なくとも60年代以降のナボコフは、『ウェブスター』の第2版に加えて第3版も使用していたらしい。

「リミフォーム」
 (稀語)細長い溝のついた、の意味の形容詞。

「バラニック・プラム」
 ヒューが考えているのは「バルカニック・プラム」(バルカン産プラム)の間違いの可能性であるが、これはこのままで正しく「堅果プラム」(あるいは「亀頭形プラム」)の意味。

「キューの木」
 イチョウの木。イチョウが初めて西洋に移植された地、ロンドンの植物園キュー・ガーデンズから名づけられた。 

「ネブリス」
 古典美術で、ディオニソス、サチュロスなどが身につけている小鹿革。ここでヒューが判断に困っている言葉はすべて存在するものである。

「アダム・フォン・リブリコフ」
 この名前はナボコフのフルネームのアナグラムになっている。スラブ系の姓リブリコフとドイツ系の貴族小辞フォンが一緒に使われることはあり得ない。

「フランス人の祖先と同じに……詩人で聖人に近かった」
 フランスの詩人で外交官でもあったサン・ジョン・ペルス(LoA版の註による)。ペルスの本名は、アレクシス・レジェ(1877−1975)。レジェLegerは英語では、岩棚、墓の平石の意味があり、フランス語では軽い、ふしだら、軽装などの意味になる。


「クヌート王朝」
 クヌートはデンマーク王(1018−35)およびノルウェー王(1028−35)。11世紀の初めイングランドに侵攻し、その地の王ともなった。

「ヌート」
 昔ロシアで使われた革を編んで作った刑具の鞭。英語の単語ではあるものの、ロシア系の人間でなければあまりなじみのない言葉かもしれない。


   20

「ドップラー遷移」
 ここではドップラー効果におけるシフト(遷移)とスリップの意味のシフト(繊維)がヒュ−の夢の中で重ね合わされ、ジューリアあるいはジュリーもしくはジュリエットと呼ばれるヒュ−の遠い過去からやってきた女性は、光源である身体に光のドップラー効果で輝くランジェリーをまとっているのである。ヒュ−が寝る前に目にした「ドップラー」のネオンサインがこの夢の光景を作り出したと考えられる。
 光のドップラー効果とは、光を発している物体が観測者に近づく時、その光の波長は短く(青く)、遠ざかっている時、その光の波長が長く(赤く)ずれる現象を言う。光も音と同様に波の一種であるが、音と異なり媒質(音の場合は空気)を持たず、その速度も不変であり、発光源が近づこうが観測者が近づこうが、両者は相対的であるとされる。



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