平成10年8月31日(月)〜

テーマ「秘密」


秘 密




 その最後の日、私は誘われた。
 いつかのそれではない。
 まぶしいような笑顔で、久美子は言った。
「リーダー。今晩いかがです。・・・ぜひ、お礼をしたいので」
 私は歯を見せて、応じた。
「え、俺なんかかまわないでも。奴らが君を放っておかないだろう」
 久美子は机の前から、こころもち左寄りに回って、声を落とし気味に言う。
「金曜日でしょ。みんなそれぞれ忙しいらしいの。昨晩、もう、盛大にやってもらっちゃいましたから、お気遣いなく」
 部としての送別会は、来週の祭日前ということになっている。ぽっかり空いてしまった週末というわけだろうか。
「よろしいでしょ。って言っても、お礼のまねごとですけど」
 拒む理由もなかった。

 あの夜、久美子は拒まなかった。
 私は、限界に近かった。
 あれきしのことで、と今なら思えるのだが、当時は心が病みそうだったのだ。
 仕事は崖っぷちだった。機構改革によって、次長職、課長職などは廃止され、「チーム」という単純なかたちに替わるころだった。私は取引先に裏切られ、大きな欠損を出していた。部長からは、これを挽回するためには相当な好績が必要と脅された。さもなければ、一平社員、悪くすれば、リストラだろうと確信していた。
 家では、娘の中学受験で、妻も追いつめられていた。一切を、娘の受験だけに集中し、あと一年、あと半年と呪文のように唱えていた。これを阻害する何事も言葉でさえも、決して許されなかった。私は時々、娘の頭をなでてやったけれど、うるんだ瞳でなにも言わず私に抱きついてきた。うなずいてあげるしかできなかった。
 その夜、家に帰りたくなかった。来月の目標値を画面に打ち込みながら、可能な数字では何も前に進まず、進めるためには実現しそうにない嘘を書き込むしかなく、そのあいだでいたずらに悩んでいた。
 むなしい。ばからしい。なげだしてしまいたい。
 長い溜息をつきながら顔を上げると、久美子が心配そうに見おろしていたのだ。
 夜の九時は過ぎていた。
 残っていたのは二人だけだった。

「はい、課長さん」
 黄金色の麦酒が勢いよくグラスに注がれて、うまし音とともにめぐりまわる。
「なつかしいな、それ」
 私も片手で、瓶の口を久美子に向けた。
「すいません。・・・ ずっと課長さんって呼ばせていただきましたから、今でもこっちのほうがしっくりするんです」
 久美子はまもなく、結婚する。
 ことぶき退職なんて、今どき遅れてるんじゃないか、とは、話を聞いたときに言ってあげた。でも、赤ちゃんを一生懸命育てて、なんとか一人前にまで大きくして、それだけできっとわたしは精一杯、そんな答えが返ってきた。

 あの夜、悪酔いしていたから、というのは言い訳だろう。
 たいして飲んではいなかった。
「課長、だいじょうぶですか。ねえ、しっかり」
 私は、ちょっと、ちょっと、などと言いながら、久美子の両肩を押さえて、路地の建物の壁に押しつけていた。
 いい匂いがした。口を吸うと、爪先までしびれるほど熱くなまめいていた。
 目を見開いて、放心しているようにも見える久美子を、その地味なネオンの建物に引き入れていた。
 胸のふくらみがおののき上下しているのが、私にもわかった。
 風呂のあと、久美子はベッドに腰掛けていた。
 私は、これから、この若く聡明な、愛弟子とも言える、きっとプロフェッショナルとして十分大成できるだろう、女性を、そういうまっとうな間柄を、汚そうとしている。痛いほどわかった。私は崩れていってしまうだろう。
 久美子は見上げると、すっと立ち上がり、私の裸の胸を包むようにした。
 役職でもない、姓でもない、私の名前をかみしめるよう、一度口にした。
 それは、何かが違った。
 ・・・何かと言われても、もう、はっきりとは言えない。
 欲情の脈動によって、お互い、狂いかけていたはずなのだが、その前の愛撫としてというように、久美子は、真剣に、私のやや薄くなった髪から背中の辺りをさすり始めた。
 ベッドに二人倒れ込んだが、私はそのときはすでに泣きだしていた。
 久美子の、清らかなしっとりしたももに、涙を落としながら、頬ずりをしながら、口づけをしながら、仕事のこと、家族のこと、誰にもどうすることもできないだろう愚痴の数々を、延々と語りかけていた。
 私たちはかたく抱き合った。
 朝まで一緒だった。
 が、どうしてなのか、結局はその方が何倍もよかったとはわかるのだが、ついに男女の関係は果たせなかった。

「お父様、お元気ですか」
 そう訊かれた。
 結婚相手の家族構成の話などから、こちらに話を振ってきた。
 ちょっと気づいたので、言った。
「そうか。もう、言ってあったんだね。・・・うん、すこぶる元気だよ。自分でパソコン買って、どこだかのネットではしゃいでいる」
「へー、おもしろいおとうさまー」
 久美子は、麦酒追加です、と店員に声をかけ、髪に手をやってから、残っているものを自分のグラスに注いだ。
「お母様は、・・・その、・・・なにか、覚えてらっしゃいますか」
 首を振った。
「忘れたな。面影ももう無いか。二十年、いや三十年か、昔だもんね」
 くりっとした瞳で、見つめられた。
 うながされたようで、話した。
「形見のようなものは、あるけど、つまんないもんだよ」

 別れるとき、握手をした。
「最後に言っておくよ」
「なにかしら。・・・いまさら、告白?」
「ありがとう」
「え・・・」
「ほんとうはお礼を言うのは、私の方さ。君のおかげで、立ち直れたんだ」
「そんな・・・」
 生々しく思い出したらしい。酒だけのためではないのだろう、久美子は手のひらまで、紅潮していた。
「おしあわせに」
 見送っていると、久美子は一度振り向き、深くじっとお辞儀をした。

 帰宅して、久しぶりに、親父の部屋を覗いた。
 パソコンから目を離し、ようっ、とだけ言った。
 キーを打っては、灰皿から煙草をつまみ上げ、またあわてて、置く。
「おいそがしいですか」
「なんだい」
「ちょっと、思い出すことがあって」
「へえ」
 私は母親のアルバムはなかったかと尋ねた。
 親父は、親指で自分の後ろを指して、そこだ、その棚、と言った。

 何十年ぶりかになるだろう。
 変色はなはだしい何葉かの写真を見ていた。
 母親の水着写真もあった。
 私が小学生のとき、母は失踪した。父は理由を今に至るまで、言わない。再婚もしなかった。
 娘が、部屋に入ってきた。
「お母さんが、お茶漬け作ったって」
「おう、今行くよ」
「おじいちゃんも食べる? あんまり休み無しにしてると、血圧上がっちゃわない」
 私はアルバムを閉じようとしたが、娘が、なになに、と興味を示した。
 結局、皆で夜食のような、お茶のようなことを応接間ですることになった。
 アルバムを開いて、娘の祖母のことを少しだけ、話してきかせた。
 娘が指さしていった。
「あ、おばあちゃん、ここにあざ」
 水着のそこにあるのは、シミではなく、よく見れば、ほんとうにあざらしい。
 言われてみれば、片手がこれをかくしたげな仕草かもしれない。
 まだ若くみずみずしい脚の根元のほうの、やや内側に、それとなく・・・
 ちらっと親父を見ると、もうそっぽを向いていた。

 私は、はっとして、顔を上げた。
 こわばった。
 皆が、え、どうしたの、・・・あなた、あなた、・・・などと、呼んだ。
















(了)



この企画への、初めての参入でした。
記録日 05/07(木)04:08 (平成10年)
記録日=投稿日です。



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