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対象作品掲載HPは、作者発言頁を参照下さい
本稿文責 和香
・・・ 総論 ・・・
大きすぎ、複雑すぎるシステムへの不安。私たちは、個人のレベルではとうてい全容を見渡すことも細部のことわりを知悉することもできないものに囲い尽くされているようです。よって、半ば神を信仰するような形でしかゆだねることができません、この身を、家族や仲間の命運を。
具体的な例で言えば、原子力発電所などが象徴する矛盾でしょうか。
あるいは、景気とかいうもの。宇宙、社会、CPU、脳、精神、または生命体・・・
主人公シラキは、現代人の持つ普遍的なそれ、「曖昧な不安」を代弁しているのかも知れません。
統合戦争後の復興初期、冥王星から物語は始まります。
過去にエージェントだった経歴を持つシラキは、“俺はどこで死すべきか。”そういう命題を、心に抱いていました。過去からの哀しい呼び声を聞くと、いっそこの身を暗い誘惑にまかせてしまいたいとまで思うのです。
が、その、少なからぬ人工物を埋め込まれた肉体はあまりに頑健であり、使命感をたたき込まれ幾多の修羅場に鍛え抜かれた精神は、いたずらに死に赴くことを拒むのでしょう。かつての同僚が、ある計画の誘いに、辺境まで彼を訪ねてくると、なにか得体の知れない思いが首をもたげるのでした。
その遠大な計画は、シラキに、新たな目的を与えます。
が、あくまでもシラキは、歯車であって、巨大な歴史の流れの中で、「曖昧な不安」にさいなまれながら、個人によるベストをめざすしかないのでした。
ヒムロ、ユウコ、タキ、サヨ、・・・多くの登場人物は、あるものはサイボーグであり、あるものは、高官であり、軍人であり、不満をためた労働者であり、または、妖しい蛍火のような女性であって、シラキのまわりでゆったりとした渦をつくっていきます。
はたして、人類の夢は、実現できるのか。
シラキは、死すべき場所を見つけるのか。
星系の主導権を得んとする政治勢力の、集合、離間、策謀、・・・業とまで言える確執。・・・巧妙に隠された祈念。そして闘う男達の、団結、かつまた、惨烈。閃光に包まれる激情、散華、寂滅。
注意深く読み込むなら、単なる物語では済まない、現代社会への警鐘。人が人を差別するということ。民族と民族の和解の不可能性。そういうものまで、作者は書き込もうとしているように見受けます。
女性には多少、理解しがたいかと思えますが、男の、それも、十二分に傷めつけられた男達のたどり着く、宿業の谷。束の間の、安らぎや快哉。酌み交わす酒。・・・再会!
時代を超えた、そういう歓び、裏腹にある生きる侘びしさが、星々の浮かぶ虚空に短調の調べを奏でていく、これはそういう物語です。
私はシラキ達と一緒に、この、虚しすぎるしかし同時に人の息吹にさらされていく空域を旅することができました。幸いと思います。
溜息とともに、懐かしい人たちを今、思い出しています。
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・・・ 言語の芸術 ・・・
苦言を述べます。
小説とは、いうまでもなく、言語による芸術です。
といって、言葉遊びとは違う。
言語という絵の具を用い刃を打ちつけ、そこに、様々な心象を描き、刻んでいくものです。
よって、言葉そのものは、目的ではない。
−−しかし、と私は思います。
例えば、純文学は面白くない。エンターテインメントは表現が甘い。
そんなような「常識」がこの国にはあるようですが、私はジャンルが何であれ、小説という大地に育まれた命であることに、なんら差はないと考えます。
面白く、ためになり、表現もこの上ない、などなど、どういう切り口から評価しても、瑕疵の認められない作品。そういうものは、人の力ではつくることはできません。得手不得手、それこそ個性というものもあるでしょう。
−−しかし、と思います。
少なくとも、これはジャンルが何々であるから、こういう方面については免罪されていると、「胸を張って」言ってしまってはいけない。そう考えます。
いかに不得手であれ、はじめから、投げ出してはならない。
『銀河零年』には、表現、表記の点で不満があります。
上に述べたような、実に味わい深い、時にたまらないほど切ない世界を、不注意な塗り方や、錆びた刃先で扱うのは、いかにも惜しい。残念すぎる。
詳細は煩瑣に過ぎますし、私のノートは分量が大きすぎるので、ここには載せません。メールで直接、tauさんにお届けするつもりですから、どうかご覧になってください。
シラキを創造された作者です。この程度のことで、折れてしまうような弱虫ではないと私は思いました。あえて書きました。
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・・・ 物語をつくる意味 ・・・
虫がよすぎるようですが、以下のことも、自分のことは棚に上げて述べています。お許し下さい。
世の中には、無数の書き手がいます。
例えば太陽系、例えば星間戦争。そういう題材を小説にする作家も、それこそ星の数でしょう。
どこかで見聞きしたような設定、似たもののあるアイデア、およそ人間が考えつくかぎりのものは、実はもう、ほとんど出尽くしている。そんな気までします。
では何が違うのか。
あなたは何を述べるのか。
もし、他の人も述べていることを述べるだけなら、書く意味などあるのか。
私は思います。
それならば、書く意味はありません。
私は思います。
あなたにしか、見えない絵、あなたにしか聞こえない声、それを書くべきと。
本作『銀河零年』は、こういう点から考えると、ある域を超えていると思います。単純な殺し合いでも、宇宙船が飛ぶだけのままごとでもない。
でも、ある域にはまだ達していないとも思えます。
これを言うのは酷に過ぎるかも知れませんが、作者にまだ甘えがあるのではと思うのです。
世の中にはプロといわれる作家がおります。本職なんだから、いいものを書いて当たり前、アマチュアが劣っていて不思議はない。こちらは金にならないんだから。書く以外のことで生活の糧を得なければならないんだから。家族を養わなければ・・・
本当にそうでしょうか?
私はプロ作家というのは、「過去において文章が売れたことのある人」というだけに過ぎないと考えます。
新作ということで言うなら、プロ作家の前にも、tauさんの前にも、私の前にも、白い原稿用紙、または白い未入力画面があるだけです。何一つ違いなどありません。
ハンデは、プロ作家にも、tauさんにも、私にも、それぞれのものがそれなりにあります。違いがあるとしたら、それを越えて書くか、その前で尻尾を垂れてしまうか、それだけではないでしょうか。
作家、tauさんに、幸あれ!
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