こんにちは。山口和明さん。
また外しているかもしれませんが・・
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生死(しょうじ)について
競馬ですか。
理屈では(確率では)、うすうすわかっていたのです。通算で十年は実践しましたが、結局のところ、長くやればやるほど、一生懸命検討すればするほど、勝てない、儲からないのです。私の場合は。
勝とう、儲けようともがく自分を、暗めに楽しむ。というところでしたか、終わりの方では。
残った理由(わけ)は、競馬仲間とのよたばなしでした。きっと来る、いいやまさか、とった、すった、そんなことを話しながら飲んで、馬鹿話もまじえて、週末を過ごし、昼休みをつぶす。だんだん、勝負そのものより、そいつらに自慢したいがために、あるいは、そいつらにけなされたいがために、わあと場が沸き上がって、みんなが首を垂れて溜息をついて、そういうのが喜びになっていきました。
そんなふうでしたが、一番の同好の士が、とても陽気で女の子にももてる奴でしたが、この世からさよならしてしまいまして、あれ以来、ほとんど冷めてしまいました。病院から電話連絡を受けまして、毎週のように買いに行きましたっけ・・
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運命について、とのこと。
これはもう、人はなぜ生まれたのか、どうして死ななければならないのか、そういう問題までいくでしょうから、むずかしいです。前回はそれを意識的に避けたのです。すいません。
長く書けばそれこそ、長編小説になってしまいます。そのうち正面から書かねばなあ、と思っているのですが、私としては、あと四五年は先にしたいという気持ちです。(いつもそんなふうに先延ばしにしているようです)
今の心境を簡単に言ってしまえば、この自然界で生を受けて、こうして色々考えたり、仕事をしたり、遊んだり、欲望を満たしたり、・・・そういうふうに人間をやっていますが、これは、かなり特別なのではないか、ということです。
宇宙の大半は、虚無なのでしょうね。
ほんの少しだけ、有世界がある。原子とか分子とか、石ころとか地球とか銀河系とか、いわゆる無生物と思われているものが、有世界=物質の大半を占めているわけです。
つまり、生物なんて、宇宙の中では、なにかの間違いみたいものなのでしょう。一瞬のうたかたかもしれません、地球の生き物すべてが。意識とかそういうものも。
ですから、私という命が生きている、心がある、それだけでもう奇跡だと思います。
俗に言ってしまえば、「生きてるだけで丸もうけ」、というところです。
せっかくの「奇跡」であり、「丸もうけ」なのですから、まあ、存分に生ききって、寿命が来たら消えていこう、それで十分では、と思います。
五体満足、自分の力で何事も決めることができて当然その責任も負って、少なくともそういう人間として生きられたなら、来世まで望むのは、欲深で、贅沢かな、と感じますけれど、私は。
ま、ただ、こうして様々なことを書いておけば、私という命が消えてしまった後でも、それをどなたかに読んでもらったとき、そのかたの心の中に少しの間だけ再生できる、ということはあるかもしれません。
そういうふうにして、私の心が伝わっていって、当分消えないなら、それもまた面白いな、と感じます。一種のお遊びなんでしょうけれどね、大きな視点からすれば。
夜空にまたたく星々の光は、何万年、何億年もの昔に発せられた光だといいます。
ああいう星々の下で、今の私たちは、今を生きています。
私が死んでも、そういう星屑の小さな一つになれる。有名な一等星や、目立つ星座の一翼とはなれなくても、あれがそうだよと仰ぎ見られることはなくても。
・・・もしかしたら、まれまれに、誰か小さな子が見つけて、
「あれはなんて星なの」
と指さしてくれるかもしれない。
「どれ? ・・・名もない星、たぶん。でも、きれいね」
そうやってひっそり、現世に、昔の光をそそいでいる。
「あれ、もうどれかわからないよう」
たくさんの仲間たちと一緒に。
悪い情景ではないですな。