ねっとCafe/nc:小説工房談話室


タイトル  :『お見合い』の感想 など
発言者   :和香
発言日付  :1998-10-26 15:03
発言番号  :302 ( 最大発言番号 :403 )
発言リンク:294 番へのコメント

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 みなさん、こんにちは〜




☆ 花島賢一さん ☆

 そうかあ、「一松」でしたか!
 数字に関係するのが二人、でしたよね、そういえば。うむ、これですっきりです。
 「はたぼーだじょー」 ・・てのもいましたね。

 私は、きかんきで、火の玉で、いつも串刺しおでんを持って、寒風の中、走って行くみたいな、そんなチビ太が、特になつかしいです。

 もう「連載」とも言えるお話、いよいよ佳境でしょうか。お友達の「花島賢一」さんが、そこで登場するのでしたか・・

> でも、不思議と賢一は自作品を投稿しなかった様に思える。何故だ?。

 きっと「うっとりするぐらい」の絵を描く人だったから、かしらん。
 否定されるのを、極度に怖れていたのでしょうか。才能のある人が、必ずしも、自信家とは限りませんものね。
 あるいは、世に出るとか、プロになるとかは眼中になくて、満足できるものが創れさえすれば十分だったのでしょうか。

 勝手な憶測、すいません。
 次が、大変楽しみです。




☆ 燐華さん ☆

 花島さんもおっしゃっていますが、たぶん、燐華さんから御指名を受けたいというメンバーが若干二名待機していると思うのです。よろしく〜

→ 四人ですからね、仮にメンバーも増えず、順番も狂わずで進めば、次回作の「お題」を出した人が「結」にも当たると思うのです。わりと重い指名かも。
# 和香はもう三回も「結」を担当させていただいています。残りの二回は、燐華さんですしね。当然、まだ未経験の人に、と思うのですが、どうでしょ?




☆ みなさんへ ☆

> 寸評は和香さんのお仕事ですから言いませんが。

 これは、古参ということで、花島さんが私を立ててくださっているのだと思います。ありがとうございます、花島さん。
 でも、実際は、そういうことはありませんから。

 私は、作品(詩や小説や)と感想(批評、論評)は、文芸の両輪だと思っています。
 ただ書き落としていくだけでは、いずれ成長は止まるでしょう。暗闇に放り込んでいくばかりで、そうする理由が分からなくなってしまうと思うのです。やっぱり、お水をかけてもらったり、手入れをしてもらったりがうれしいですよ。あるいは、鏡に映してもらうとか。そのようにしてくれる手際に、人それぞれ、肌合いの違いはあるでしょうが。
 ・・・それに、一粒で何度も味わえるのが、文芸のよいところです。書いたり、読んだり、批評したり、またそれに答えたり、そしてさらに新しい作品へと繋がっていったり。そういう「贈答」と共に生きていく芸道ではないかな、と感じます。

 ですから、書きたくて書いてはいるのですが、私ばかりがそうしても、それはそれで偏りが生まれてしまいます。私の感想は、公平、中立、絶対という代物ではありませんしね。

 また何事もそうでしょうが、「捨てる神あれば、拾う神あり」がよろしいかと。私は、捨てても拾うようには書いていますが、本当は、私が捨てたものを、別のどなたかが拾ってくださる、なんてのがうれしいのです。

 みなさん、たとえ自作解説になっても、ぜんぜん問題ないですよ。
 それぞれの視点で、感じたこと、ちょっとずつでも書いてみませんか。
 どのような気持ちで、あの起やこの承やその結や、と、私はとっても興味あるんですけど。

 もちろん、4章小説に参加していない方々が、感想だけは述べる、これだって、大歓迎ですから。








『お見合い』の感想



「起」

 一読して、壊れた日本語に驚きました。
 もう一度読むと、どうやら、有名小説の題名やはやり言葉などを、織り込んでいる、そんな趣向かな、と気付きましたけれど。(でも織り込みは全部は解読できていませんよ)
 それにしても、終わりの、

> かくゆう私は「我が輩は人間である」

 この壊れぶりは、極まってますね。つい笑ってしまいました。
 こじつければ、主人公は「詩人」だったということにできるかもしれませんが・・
 お話としては、冬の海、そして、一人ドライブしてきた男、というところでしょうか。
 お題が「お見合い」で、ドライブインに到着となりますと、もう先はほぼ決まったようなものでしょう。4章しかないのですし。
 つまり、変わり身無しの、真っ向勝負、と読みました。

 ついでに、細かいところですが、

> やがてこじんまりとしたドライブインにたどり着いた。

 私は正表記は「こぢんまり」だと思いますし、私の辞書にもそう載っていました。が、この日か次の日の新聞に「こじんまり」という使い方を発見しました。新聞の日本語がいつも正しいとは限りませんが、「こじんまり」の方も市民権を得てきているのかもしれません。



「承」

 平松さんの、当フォーラム処女作でしたね。

> その二人の女性は一本の傘を差して、

 まだ雨は降っている、という出だしです。
 「起」で、

> やがて限りなく透明に近いブルーの青空が見え始めた。

 とありましたから、青空はそばまで来ているんだけど、ここはまだ雨、ということになるでしょうか。微妙なところです。(そこで「転」では、「細かい雨」としてみました)

> 私はそもそも何故ここに来たか知らされていない。
> ただ単に叔母にここに来るように言われただけだ。

 ここが、悩まされたところです。

> 「何だ?お相手の方って?」

 つまり、この男性は、「そこで落ち合う相手が誰か」ということを知らされていないだけではなく、「誰かに会う」ことさえ予想していなかった。ということになります。
 となると、この叔母はこの甥に、なんと言って、行動を起こさせたのかが、疑問でした。
 「○○へいってちょうだい」と言われれば、
 「どうして」とか、「何しに」とかは、ふつう聞き返すと思うんです。
 「景色がいい所みたい」
 では、動機として、弱すぎますもんね。
 「美味しい料理があるって」
 というのも、甥に相当な食い意地があれば確かに行くでしょうが、日時まで特定させるのは無理がありそうですし。
 悩んで、結局、答えが見つかりませんでした。
 そこで、「転」ではこの辺りの事情を省いてしまいましたが、後になって思いつきました。
 こういうときの常套手段なのでしょうが、例えばこのドライブインの店主が知り合いだからと、何かしら届け物をさせる。そして、この品物が手形になって、店の側にも、例の話の人だということがすぐ分かる、という仕掛けです。

 しかし、「承」では、その品物を受け渡している様子はありません。この矛盾を解決するためには、もうこれしかないでしょう。
 叔母「ごめんね。どうしても今日の二時までに必要だっていうから」
 甥 「うん、分かった。この車、そこのご主人に届ければいいんだね」
 ・・・にしても、まだちょっと苦しいですか。

 「承」では、お話のテンポがほぼ決まったようです。
 このゆったりした流れ、転調はもうつらいでしょう。
 つまり、壊したくない気持ちいい雰囲気がでてるんです。



「転」

> 七回忌の頃だったか、そんなようなことを言っていた。
>「あゆみちゃんは赤ちゃんだったし、大丈夫よ。お仕事の方も・・。ね・・」

 乳飲み子がいるのに、妻に先立たれた男。という設定です。
 七年か八年の間、男手一つで娘を育ててきたけれど、いいかげん見かねた叔母らが「お見合い」の世話を、といういきさつにしてみました。

> 生返事しかしないで、はっきり断わらなかったことが悔やまれた。

 なぜ最初から、「お見合い」を断わるつもりなのかと言えば、(あるいは、男手一つで赤ちゃんを育てていくのが相当大変だったはずなのに再婚を考えもしなかったらしいのはなぜかと言えば)、「転」の終わりで明らかとなるように、死別した奥さんが忘れられないためです。
 そこら辺のことも勘づいているので、叔母らは、だますようにして「お見合い」をさせる。
 わりと、ありがちではないでしょうか。

 ですから、

> 彼は、昔銘柄の煙草をくわえて、揮発性の匂いをただよわせライターを打った。
> その時、後頭部、背中、両腕、これらの体毛が一気にさむけ立った。
> 親父だ。
> 箸を落とした。
> 正面の人が顔を上げた。
> 息が止まるほど、清らかなおもざしだった。
> 亡くなった妻だった。

 ここでライターが擦られてから、相手の女性の顔を初めてまともに見るまでの、たぶん一秒間くらいの出来事は、この日この時を目指したかのように、いろいろな想いがいっぺんに連鎖、錯綜したことによって、男が見てしまった「まぼろし」です。つまり、錯覚。
 というのが、私の「つもり」でした。

 「起」、「承」とテンポが遅い気がして、上のように、お話を転がすために、転は二章分ぐらい書いてしまいました。短い方が好みだなんて、自分で言っておきながらですから、ちょっと申し訳なかったんですけれど。
 しかし、妙な例えになりますが、大相撲の場合、塩を投げたり仕切直しをしたり、しだいしだい「衝突」への緊張が高まっていきます。「お見合い」にも、そういう一見無意味な前置きの積み重ねがあって、初めて、「何かが結晶する」、ということはありそうな気がします。
 「転」を書き終えて何度か頭から読み直すうち、そういう純和風の感じは出てるよなあ、と気付きました。
 テンポが、やっぱり、生きてるんですよね。

 第五作目で、私は初めて「転」を担当しました。
 満足の出来です。



「結」

 いくら、私がそういう「つもり」でも、これは4章小説ですから、どのように受けるかは次の人の自由です。
 「親父」と「亡くなった妻」を、現実のものとするのか、錯覚だったとするのか。
 そして、この「お見合い」は、うまくいくのか、まとまらないのか。
 ここらをどうするかがポイントだろうと思って、待ちました。
 それぞれの場合で、ざっとですが、いくつかのお話を考えてもみました。娘のあゆみちゃんをからめたりして。
 でも、燐華さんの「結」は、予想の外でしたね。
 だから、面白いんですが。

 男は亡くなった妻の記憶を無くしていく。
 目の前にいるのが、亡くなった妻だとは分からない。
 初めて会った人として、愛し始める。

 これは、ちょっと凄い(または普通ではない)展開だと思います。
 「亡くなった妻」が現実にいて、「(たぶん亡くなっている)親父」も現実にいて、しかし、なんらかの力が作用して、「私」にはそれがもう非現実的なことだと判断できない。
 そこで、なんの不都合もなく、現実として新しい生活が始まっていくようだ、というところで終わります。

 どうしても解釈するなら、「私」は、過去へ転生してしまった、ということでしょうか。

 話が少しそれますが、一般的に言って、「愛」はどこにいるのでしょうか。
 男、または、女の心の中に、「愛」は棲んでいるのでしょうか。それとも、身体の中でしょうか。
 私は、たぶん、男と女の真ん中あたりの虚空に、「愛」はいるような気がします。
 壊れやすく、とらえ難く、それは、ふあふあしてる。
 いつのまにやら消えてしまうはかなさ美しさでしょうが、しかし、無理に殺そうとすれば、魔物になって牙をむいてくる。

 そういう、妖しいもの、「愛」が、あまりに純粋であったのか、あまりに想いを込められすぎたのか、ある力を得てしまう。
 そのある力が、「私」をではなく、「私」をとりまく世界の方を、反転させてしまった。変質させてしまった。
 現実にそれが起こったときの、描写。それこそが、この「結」。

 などと、感じました。

> 私は、あの人の記憶を全て無くした。
> もう一度、あの楽しい日々を味わいたかったから。

 記憶を無くしたことを自覚できる「私」。
 当然、記憶を無くしているほうの「私」ではありません。
 これが、この「妖しい愛が変貌したもの」の新しい名前でしょうか。

 そして、

> 箸の間違った握り方。

 謎です。
 花島さんの「起」が、呼び寄せたのでしょうか。

 この「結」は、抒情的な、どこか曖昧で不可思議な「終息」を感じさせます。
 お話としての「終息」ももちろんですが、もっと大きなものの「終息」の感触まで味わわせてくれているみたいです。

 こういうの好きですよ。
 燐華さんのいつもの文章からだと、もっと理知的に創るのかと思っていましたが、どうやら逆でしたか。リリカル(lyrical)という語感かな。







 以上です。
 ご意見、お待ちします。

 (長文、相済みませんでした〜)
 (#301 は、誤植のため削除しました)

 ではまたあした。


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