ねっとCafe/nc:小説工房談話室


タイトル  :ジャンル論、「SF」、差別用語について
発言者   :和香
発言日付  :1999-04-27 10:00
発言番号  :1493 ( 最大発言番号 :1593 )

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 こんちは〜




過剰適応、作者以外のもの、など (Re:1483)

ジャンル論について

 ジャンル論(私の#1483の一部がそうであったとして)の続きを付け足します。

 大昔、文芸というのはひとにぎりの貴族や神官がたしなむ、楽しむだけのものでした。
 それが次第に、知識階級といえる人たちにまでひろがって、ついには出版社というシステムが出来上がります。
 文芸の大衆化でしょうが、実はこれで終わりではなかった。
 ジャンルというのは、出版社にとって最も都合のよいものかと思います。大衆化と言ってもそれは、出版社の用意したものを有り難く拝読するというだけのことです。
 インターネット時代がこれから開けていくと、読者であると同時に作者でもあることが当たり前になる。つまり、読書のみを趣味とする(あるいは生き甲斐とする)必要はなくなっていく。少なくない人たちの心の中で、作者としての道を絶たれたがゆえに、読者に徹するという選択がなされていたのではないか、と推測します。
 文芸とは本来、相互に贈答するもの、関わり合って育っていくものと思います。ですから、ようやく、主導権を万人の側に引き下ろせるのかもしれない、という感慨があります。
 今までの出版社主導時代にあっては、読書にとっての意味しか「ジャンル」は持たなかったと言えば、極論でしょうか。
 これからの時代は、創作にとって具合のよい「ジャンル」という意味も生じる。または、この意味の重みが増す。
 よって、読者の側の「ジャンル」の論理だけでは片手落ちで、作者の側にとっての「ジャンル」も考えていかなければならないだろうと思います。
 作者の側にとってのジャンルとは、定型、制約によって、いかに遠くに届くことができるか、という手法でもあるでしょうし、ある種の趣向ということでもいいかと思います。

 一方、前回述べましたように、どのような種類の文芸であれ、根っこは一緒ではないか、と感じます。表層を剥いでいけば、物語の芯にあって訴えかけ、読む側の芯と共鳴するもの、それは太古の昔からそれほど変容しているわけでもない。
 であれば、本来はジャンルなどはなかったのですし、ジャンルにこだわらない文芸というのが最も自然な形で、こだわる文芸というほうが特殊となっていく、そういう流れが生まれるのでは、と感じます。

 ↑
 上で述べました「文芸」という語を「人間らしい心」と置き換えて読んでくださってもいいかと思います。以前れいむさんも触れられている( #1352 独り言。 )、少々刺激的な文意になるかもしれません。^^;




ROOTECさん (Re:1482)

「SF」について

> 現代SF作家の苦悩?

 「純粋なSF」のたちゆかなくなりそうな状況、ということでしょうか。
 でも、致し方ないことかな、という気はします。
 大ざっぱに言ってしまえば、従来のように「過去」を書こう、検証しようと言うのではなく、「未来」を書いていこうというのがその姿勢だったと思います。そして、私たちの「未来」を切り開いていってくれるのが、「科学技術」であるという信仰に裏打ちされて、英米その他で、傑作名作が生まれた。

 ただ、これは「ジャンル」と言うよりはむしろ「手法」と言ったほうがよかったのでは、と今では思っています。
 つまり「純粋なSF」または「古典的なSF」が拠り所としたものが、一つには、絶対善ではなかったこと。一つには、未来(いまだきたらず)に追いついてしまえば、もうそれは未来ではない、という宿命。
 こういう性格を当初から持っていましたので、大変魅力的な「手法」でありながら、それだけでは自立性が育たなかった、ということでしょうか。

 本来文芸とは、よいものであればあるほど、再読再々読に耐えうる、いやむしろ、味わえば味わうほどその良さが増すというものではなかろうか、と思います。
 が、一度読んでしまえば二度と読まれることがないというもの(オチにのみ依存したもの)、時とともに古びてしまうもの(未来にのみ依存したもの)、これらは、そういう意味でかなりつらいのでは、と感じます。

 別の見方をすれば、長い歳月の中で読み継がれ、その時間によって多くの読者を得る文芸もあれば、ある時点で(広告や知名度、時流によって)一気に大量に読まれて忘れられていく文芸もある、ということでしょうか。
 毎年千人、千年で百万人の読者を得られることと、ある一年のみで百万人の読者を得られることは、結局同じことだ、と割り切れるならば、どちらも大差はないのでしょうが。

> 「良心的な出版社」が望めないのなら、今すぐにできることと言えば、私がインターネットに関する私の意見 (#1467参照)でも述べたように、「ネットの中の図書館」、 「ネットの中の本屋」が、作家と読者を結びつける有力な手段だと考えます。 もちろんかっちんさんが言われるように「本というものを所有したい」という気持ちもありますが、 多くの近未来SFにも描かれる通り、「紙に印刷された本」は、やがて「貴重品」となっていくでしょう。 実際問題、今の日本の土地事情から言っても、本棚を確保するスペースは既に「貴重品」だと考えられます。 「どうしても書きたい(読んでもらいたい)作家」と「どうしても読みたい読者」が出会える近道は、 かつてSFでよく描かれた「電子の本」と「ネットワーク社会」にありそうだと、 私は思います。

 この辺り、私の考えの方向は、上の「ジャンル論について」と重複します。
 ようやく書きたいものを書き、読みたいものを読める世界が開けていくか、と私も思います。
 が、それでも私は、出版社がしてきたこと、つまり、創作と論評を両輪としてこの芸道を先に進めていくという姿は、継承したいです。
 ネットの海の中から、千年後でも「古典」として認知される作品が数多く生まれる。そういう将来(まさにきたらんとす)をたのしく夢想します。




はとこさん (Re:1485)

> 雨は嫌いではありませんが、週末の雨は損をした気分です。
> 1人で静かに過ごせるのなら、雨もいいですけれどね。

 規則正しく健康的な暮らしをなされている、ということが分かります。
 職場と自宅を往復しているか、パソコンに張り付いているだけの私は、天気に無頓着になってきています。曜日によって休日が決まっているわけでもなく、昼間に活動するわけでもない、こういうことに、はとこさんのことを想像しながら自省して、改めて思い至りました。
 なんだか、恥ずかしい・・

> でも、一番は下手くそでも我慢して?読み続けてくれた友人2人がいたから
> でしょうか??
> 読んでくれる人って大事ですよね。

 ほんとです。
 私は「孤作」が長かったので、作品とは読者を得て初めて「作品として完成」するということに、ずっと気づきませんでした。
 パソコンを買わなかったら、インターネットやHPやフォーラム活動を知らなかったら、・・と思うと、寒気がします。巡り合わせに感謝したいです。




花島賢一さん (Re:1487)

> ああ、忙しい

 お疲れさまです!
 いつのまにか「オヤジーズ」の最年長にされているようですよ。
 あと一人は誰なんだろう、と思っています。(^^)

 『男が女を誘う時』が完結したらアップしようと、感想の草稿を書き出していましたので、どうしたんだろうと思っていました。情け容赦ない論評ですが、しばらくお預けですな。(笑)

 4章小説のほうも、無理そうということになりましたら、パス、指名振替で問題なしですので。
 新年度になって、多忙な方が増えたようです。

> 何々、”げきださ”動きのこうたろうが休業宣言?。お前!10年早いぞ!。
> いっぱしの作品が作れるようになったらプロ目指しますから休ませてください
> と言うのが本筋。何かお前。時間に流されてるな。24才にしてオヤジーズの
> 仲間入りか?。 時間は自分で見つける。なんせみんなに24時間という貴重な
> 時間を平等に神様はくれたんだから、大事に使え!。
> そうやってみんな才能を自分で捨てて行くんだよな!。

 厳しすぎるくらいだけど、正論でしょう。
 でも、本当は単に、平松さんを呼び戻したい・・、のかな(^O^)




keito さん (Re:1488)

 がんばれ〜

 でも、がんばるな〜

 (^^;

 焦っても焦らなくても、「作品」が残ればよし、と私などは思います。
 百作を著わしてもどれも水準に達せずに、消えていく。
 という人もいれば、
 一作しか書けなかったけど、百作の人の一番いい作品よりわずかに上まわっていたので、生きながらえる。
 という人もいる。
 ありがちと思います。ときに残酷なほどにね。

 keitoさんはどっちかな?
 # もちろん、産み落とした百作の大半が残る、という幸福者ならば、いうことなしでしょうけれど (笑)




再び、ROOTECさん (Re:1489,1491)

差別用語について

 これもむずかしく考えればむずかしいし、簡単に考えれば簡単かな、と思います。

 そもそも、そのルールが明示されていないものを、守ることはできません。ルールを公開の場で検討、討論することさえ許されない雰囲気があるこの問題には、以前から胡散臭さを感じていました。
 上でも述べましたように、出版社主導の時代には、「禁止用語」のリストが、各出版社の中で備えられ伝えられていたのだろう、と思います。誰が決めたのかは不明です。出版社の偉い人か、大学の先生か、有名作家か、もしくは圧力団体か、そういうことも知りません。

 これからの、ネット時代にあっては、万人が作者となり、万人ひとりひとりが出版社や放送局となります。であるなら、万人ひとりひとりの中で、それぞれのそういうリストを備えればいいのでは、と私は思います。
 と言って、自分の作ったそのリストで、作品や発言文章を「毎回」「一律に」チェックしていく、なんてことはお勧めしません。(そして、他団体や他人の作ったそのリストで、チェックしていくことはなおさらです。隣家の夕食の献立ぐらいのものでしょう)

 要は、読者の方々、または、読者の一部の方々に不快な思いをさせないという配慮ということだと思います。
 どこまで配慮するのか、ここは刺激的に行くのか、・・そこらはそれぞれの作者の判断でいいのでは、と思います。さらに言えば、それぞれの作者の、それぞれの作品ごとの、それぞれの場面ごとの、それぞれの段落ごとの、判断でかまわないだろう、というのが私の考えです。
 つまり「リスト」ではなく、「こころ」があれば、十分である。

 文芸というのは心を表わすものと思います。
 心を表わすのが言葉です。
「言葉を規制すれば、心も規制できる」
 真だと思います。言い替えれば、
「言葉が規制されれば、心も規制される」

 正しい考え、美しい思想へと、「規制」していくのは、大昔から連綿と続いている人類の行為でしょう。
 でもそういう「正しい考え」や「美しい思想」を破壊、または、再創造してきたのも、人類の行為だと思います。
 ですから、文芸が、「正しい考え」や「美しい思想」を推し進めるためだけにある、とは私は思いません。
 文芸には、伝統を尊重する非常に固陋な面もあるし、すでにある権威や美を粉々に壊していくという先鋭もあるはずです。

 電子文書の場合、「置換」ということが容易です。
 例えば「差別用語排除ソフト」というようなものができて、現在から未来において誰が書く文章であっても、あるいは古典からのすべてを、瞬時に「正しい言い直し」に置き換えていく、ということは、たぶん想像しているよりもずっと簡単です。
 つまり、個々の作者の意思に関係なく、フィルターである何か(国家、圧力団体、出版放送業界、ネットプロバイダ、エトセトラ・・)の意思によって洗浄を受けることになります。
 私は、こういうのは、「おそろしい」と感じます。

 私が愛用しているATOKでも、簡単な言葉を漢字にしてくれないことがあります。「差別用語排除ソフト」とまでは申しませんが、「やってるな・・」と苦笑します。

☆ 念のため申し添えますが、私の一連の発言は、ROOTECさんをいじめようという意図ではありませんよ。
 (^^;
 ROOTECさんが問題提起してくれることによって、考えるきっかけを与えられる、ぼやんと考えていたけれど書くことに思い至らなかったことが書ける、・・ほんと感謝してます。もっと、もっとと思います。


> えーっと、きっとこれは私の発言で「ワールドの構築」を強調しすぎたために、行きすぎた解釈をされてしまったようです。 ある部分では 和香 さんの考えにかなり近いと思うのですが、言い換えれば、 小説世界上に、現実、あるいは共通の認識がすでに得られている「ワールド」をいかに隙(ウソ?)無く再現(再構築)するか、 と言った方が、私の考えていることに近いのでしょうか。

 ううむ、なるほど。
 ファンタジーをほとんど読まないので、知らなかったのですが、単に文章の雰囲気とかおおざっぱな運行原則とかだけではなく、いわゆる「本歌取り」ということも頻繁になされている世界なのでしょうか。
 伝統派(ROOTECさんの立場を仮にこう呼べば)にとっては、ある完成に至った本歌の世界を十分わきまえないで、その上面(うわつら)だけを焼き直すような作品は、一言いわざるを得ない、ということなのでしょうか。

 ここら辺、ちょっと興味ありますな。

>>「神話」や「昔話」が強烈な魅力をいつまでも保つのは、深層に忠実であるためかと思います。
>> 深層に(瞳を輝かせながら)最もよく感応し、オリジナリティ云々を押しつけられてもそっぽを向く世代が、子どもたちではないでしょうか。

> 私の方こそ言ってることがチグハグに聞こえるかも知れませんが、和香 さんのこの意見には100%賛成です。 ……と言うより、この意見を読んで、「あっ、きっとそのはずだよな」と納得させられた、というのが真相です。 <(_ _)">

 前回の「深層」「神話」「昔話」等々の話は、受け売りと言えるほどにも囓ってはいないのですが、昔読んだ河合隼雄氏の書物の何冊かに感化を受けているだろうと思います。
 釈迦に説法かとは思うのですが ^^;




NONTANさん (Re:1490)

 おお、どこに行ってるんだろうと思っていましたが、ちゃんと読んでいてくださったんですね!

 他フォーラムやHPでのNONTANさんの発言を読ませていただくうちに、だんだんと、NONTANさんの「立ち位置」というのが見えてきました。
 さすがに、骨っぽいなあ。
 そして、天地でいえば、地の側にいらっしゃる。

 私とはときに対立する事柄もあるようですが、今回の「差別用語」に関しては、上の通り、それほど離れていないと思いました。




カオスさん (Re:1492)

 「差別用語」、「放送(出版)禁止用語」等、呼び方や定義は微妙にあるでしょうが、要は「作者の心の問題」「読者への配慮の問題」と、私は思います。上に述べたとおりです。

 「著作権」「プライバシー」等の問題は、法律もあれば、これをことこまかに検討することも可能なので、比較すれば答えは得やすいと思います。
 「差別用語」については、おっかなびっくりいじってもまともな答えは出ないのではと予想されますし、誰が決めたのかも分からないリストに盲従するというのも、文芸人としてふがいない気がします。

 著作物に対する責任を、著者が負う覚悟があるなら、よし、と思うのですが、いかがでしょうか?

 ↑
 これは、ROOTECさんへ、そしてみなさんへの問いかけでもあります。
 幕引きを急ぐ必要はないテーマ、とも思います。








 ではまた〜


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