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青い薔薇の血族
一章 第一日
2.青い薔薇(1)
 一時間後、真紀は吉岡の運転する4WDで中央高速を下っていた。吉岡自慢の愛車だ。チューンナップは万全、濃紺のボディはピカピカに磨かれている。
 渋滞もなくスムースな流れの中を快調に飛ばしていく。
 この調子で走れば、途中で昼食をとって午後イチに目的のマクロ植物研究所に入れる。アポ通りの時間だ。
 マクロ研究所は、インターを降りて二十分ほど走った八ヶ岳の麓にある。
 すでに市街地を抜け、前方に広がる高尾山は緑に覆われ生命の輝きに満ちていた。空の青さと見事なコントラストをなしている。
 だが、真紀の瞳に、その風景は映っていない。いつしか心は別のところに飛んでいた。悪夢の感覚が甦ってきたのだ。
 説明のつかない不安感が真紀を襲う。胃の中にタールを流し込まれたような重い感覚。嫌悪感は、車が西に進むにつれ強さを増していく。
 何か良からぬことが起きる。体の深奥にいる何かが警告を発している気がした。
 真紀は幼い頃に、ある種の霊感を持っていた。幸先が良いとか悪いとか、ふとした瞬間にイメージしてしまうのだ。
 具体的な事象が見えるわけでもないし、意識して占うことはできなかった。しかし、その予感は不思議なほど良く当たった。
 幼い真紀が予感の話をするとき、家族はニコニコと喜んで聞いてくれた記憶がある。遠い昔の懐かしい記憶。あるいは真紀自身が作り上げた幻の記憶なのかもしれない。
 小学校に上がった真紀は、自分の超感覚が特殊なものであることを知った。うっかり話すと周囲から気味悪がられてしまうのだ。真紀は予感について口を閉ざすようになり、感じる回数も次第に減っていった。
 成人してからは、そんな力のあったことさえ忘れていた。その記憶が突然に甦ってきたのだ。忘れていた力が還ってきたのだろうか。
 自分を悩ます悪夢は、何か予知夢のたぐいなのだろうか。この重い不安感は、自分の身に降りかかる災厄の前兆なのかもしれない。
「顔色が良くないすよ。気分でも悪いんすか」吉岡の声で、真紀は現実に引き戻された。真紀も今は慣れたが、吉岡は独特の口調を使う。
 白昼夢を見ていた感覚。真紀は全身にうっすらと冷や汗をかいていた。
「大丈夫、ちょっと考え事をしてただけ」当たり障りのない返事をした。
「彼氏と喧嘩でもしたしたんすか」吉岡は、からかうような調子だ。
 真紀の恋人、加賀俊一(かが・しゅんいち)は編集部公認の存在だ。俊一は、心理学研究所で助手を務める学者の卵。真紀が俊一と知り合ったのは半年ほど前、取材を通じてだった。
「ブー、残念でした。今日もデートです」真紀は少しおどけて答えた。
 嘘ではない。俊一とはうまくいっているし、今日のデートも本当だ。実のところ、俊一のことを考えたおかげで気分が少し治ったほどだ。
 たかが夢のことで、はたから見て分かるほど動揺していたのか。真紀の心に動揺が走った。気分転換をしたほうがよさそうだ。今日の取材に頭を切り替えることにした。
 品種を言い当てるほど詳しくはないが、薔薇は好きな花だった。いや、自分だけではない。薔薇の花束を贈られて嬉しくない女性は滅多にいないだろう。
 しかも、これから取材するのはただの薔薇ではない。全世界が待ち焦がれた青い薔薇なのだ。
 最先端の遺伝子工学が青い薔薇を生み出す。最初の報道に接したとき、真紀は思わず小躍りした。自分が科学情報を扱う仕事に就いたことも手伝い、まさの現代のロマンと感じたからだ。
 早く青い薔薇が見たくて仕方がなかった。子供の頃に返ったような高揚感を感じていた。
 真紀の脳裏に疑問が浮かぶ。いつの頃からか青い薔薇に対する関心が薄れていた。最初にニュースを聞いたときのときめきを、すっかり喪失している。
 真紀は決して移り気な性格ではない。これほど短期間に一度興味を持った事柄から心が離れてしまうことは、これまでになかった。
 特に記者になってからは、取材対象に努めて好奇心を抱くよう自己訓練を重ねている。その成果が今回にかぎって発揮されていない。何故なのか真紀には理解できなかった。
 この心変わりは、いつの頃からだろう。考えて真紀ははっとした。悪夢にうなされ始めてからだ。悪夢は自分の性格にまで影響を及ぼしているのか。
 真紀は、せっかく立ち直りかけた気分が再び沈んでいくのを感じた。

 マクロ植物研究所の外観だけで、その建造目的を言い当てられる者はまずいないだろう。半導体工場を思わせる窓のない構造、表面は黒光りする鏡板で覆われている。
 巨大なモノリスを連想させる近代的建造物。周囲に冷たい威圧感を与えて、そびえ立っている。
 青い薔薇というロマンチックな印象とは、かけ離れた存在感。
 真紀はその威容に圧倒されつつ、青い薔薇が最新遺伝子工学の産物であること改めて思い知らされた。
 二人は正門の守衛所で会社名と名前を記入し二枚の磁気IDカードを受け取った。個人ごとに配布されたカードで訪問者の入退出が厳しくチェックされるのだ。
 構内に車を乗り入れ来客用と看板の掲げられた駐車スペースに停めた。車を降りて研究所の玄関へ向かう。
 濃紺の制服に身を固めたいかめしい顔つきの警備員にカードの提示を求められた。警備員は受け取ったカードの磁気帯部分を壁に取り付けられたリーダーに通す。これで研究所のセキュリティ・システムに二人の入館が記録された。
 二人は知るよしもないが、退出時にカードが再び読み込まれるまで、防災センターに設置されたコンピューターのディスプレイに二人の名前が灯り続けるのだ。
 この研究所の警備体制は半端ではない。研究所という性質上もともと厳重だった。それが青い薔薇開発成功の発表からは極端に強化されたと聞く。
 ハッキングによる情報流出を恐れて、所内すべてのコンピューターから通信回線が外されたとの噂がまことしやかに流れていた。
 広々としたロビー。右手には高級そうなソファが数脚置かれているが、誰も座っていない。左手は植え込みになっていて、熱帯樹が色とりどりに花を咲かせていた。
 奥のカウンターにはブルーグレイの洒落たユニフォームを着た受付嬢がちんまりと座っていた。なかなかの美人だ。二人が近づくと見事な営業スマイルで応対する。
 真紀は、できすぎた笑顔から人形じみた印象を受けてしまい、生気が感じられなかった。建物と同じく冷ややかなイメージ。うわべとは違って実は来る者を歓迎していないのではないかと思わせられてしまう。
 真紀が会社名を告げて名刺を差し出す。受付嬢は来客予定表をチェックすると内線電話で担当者に連絡した。
「おそれいりますが右手通路の第二応接室でお待ちください」
 二人は指示に従って受付けカウンター右の通路に進んだ。通路の右側に三つのドアが並ぶ。プレートに第一から第三応接室としるされていた。左側はパーテーションで仕切られた面談コーナーとなっており、十ほどのブースがあつらえられている。
 今は他に訪問者がないようだ。人の気配はまったくしない。
 天井の通路端には監視カメラが設置されていた。真紀がちらと振り替えると、反対の端にも監視カメラ。死角ができないように配置されているのだ。
「なんか物々しい警戒っすねえ。ああいうカメラを見るとアカンベしたくてたまらないっすよ」吉岡が妙な冗談を言う。
 真紀は通路に隠しマイクが仕掛けられていないことを祈った。
 第二応接室は、さほど広くないが小奇麗な造りで調度品も重厚感のある高級品が使われていた。
 壁際にガラスケースが置かれ、研究成果の一部が展示されている。ケース上部の壁には壮年紳士の写真パネルが飾られていた。太い眉毛が特徴の精力的な顔つき。どこか下世話で品格に欠けるのが少々残念だ。
 この人物こそマクロ・バイオ・カンパニー社長・真黒昭英(まくろ・ひであき)。会社名は自分の名字と英語のマクロをかけて命名した。「世の大局を見極める」を人生訓とする立志伝中の人物。
 父親に譲られた園芸会社を、品種改良技術の強化によって大発展させた。金を稼ぐことはもちろんだが、世間の注目を集めることはもっと好きなのだという。
 この目立ちたがり屋の実業家にとって青い薔薇の開発は悲願だった。青い薔薇自体に夢を感じるロマンティストではない。青い薔薇のもたらす金と名声こそが夢だった。
 マクロ植物研究所はマクロ・バイオ・カンパニーの主力開発機関であると同時に、社長の夢が託された聖地でもあるのだ。
 ソファに腰掛けた真紀は首筋の辺りがムズムズした。この研究所の警備体制のことだ。応接室にも隠しカメラが仕掛けられているに違いない。そんな気がして思わず緊張が走ったのだ。
 若い女性が三人分の紅茶を運んできた。先ほどの受付嬢と同じユニフォーム。顔つきは違うが、どこか雰囲気まで似ていた。交代でロビーに座り、一人が待機して来客時に応対するのだろう。
 女性がお辞儀して部屋を出ると、ほぼ入れ替わりに眼鏡をかけた若い男が入ってきた。中肉中背で、顔つきも含めて特徴のないのが特徴といった印象。広報担当の嶋村と名乗った。
 名刺交換を終えた嶋村は、抱えてきた水色の封筒から資料ファイルを2通取り出して二人に手渡した。
 真紀はファイルをパラパラとめくってみた。マクロ・バイオ・カンパニー、マクロ植物研究所の案内書を皮切りに、青い薔薇に関する技術説明、新聞や雑誌に掲載された関連記事のコピーなどが綴じ込まれている。
 真黒社長の写真入りプロフィールもしっかり入っているのが、いかにも彼らしい。
「当マクロ植物研究所は、マクロ・バイオ・カンパニー・グループの一員として各種植物の品種改良を実施するために開設されました」
 青い薔薇開発成功の発表以来、数え切れないほど繰り返した口上なのだろう。よどみない口調の手馴れた説明だった。
 嶋村は研究所の概要を簡潔に紹介すると、本題の青い薔薇に話を移した。