青い薔薇の血族
一章 第一日
2.青い薔薇(2)
「花の青色はデルフィニジンという色素によって生み出されます。青い花をつける植物は、このデルフィニジンを作り出す酵素を持っているのです」嶋村は説明を始めた。「薔薇の遺伝子に、この酵素の遺伝子を組み込むことができれば、その薔薇にはデルフィニジンが生成され青い花がつくようになります」
言葉にすれば簡単に聞こえるが実現させるのは並大抵ではない。作業は青い花の植物として代表的なツユクサからデルフィニジン生成酵素の遺伝子を取り出すことから始まった。
「花の色を決定する遺伝子を単体で分離することは難しく、成功例は多くありません。デルフィニジン生成酵素の遺伝子分離が成し遂げられるまで、長期間にわたる試行錯誤の実験が繰り返されました」メモを取る真紀の様子を見て適度に間合いを置きながら、嶋村は説明を続ける。
「遺伝子分離作業と平行して、ツユクサの生育シミュレーション・テストも進められました。どのような環境において青い花がもっとも鮮やかな色彩が得るかを知るための調査です」
例えば紫陽花(あじさい)は、土壌の酸性アルカリ性によって花の色を激変させる。青い花の植物も、紫陽花ほど顕著ではないが、やはり環境の影響を被ってしまう。生育の条件次第で花の色合いが微妙に変化するのだ。
真黒社長の青い薔薇は、誰が見ても意見の分かれない真っ青な色調でなければならない。世界最初の青い薔薇が、紫だ、いや空色だなどと議論の的になっては、せっかくの栄光が台無しになってしまう。
やがて努力の報われる日が来た。研究スタッフは、酵素の遺伝子分離に世界で初めて成功した。同様の研究を進めている企業は無数にある。真黒社長の執念に勝利の女神が屈したのかもしれない。
こうして花に青色を与える遺伝子がマクロ・バイオ・カンパニーのものとなった。この世に青い薔薇を生み出す種といえる存在。種は畑に播かれなければならない。薔薇のDNAという畑に。
そして、ついにデルフィニジン生成酵素の遺伝子が組み込まれた薔薇が誕生した。結果は良好で、発芽した苗には酵素が確認された。この苗が順調に成長すれば、理論的には間違いなく青い薔薇が咲く。
真黒社長が青い薔薇誕生の報を全世界に向け発信したのは、この段階でのことだ。社内の幹部には慎重派もいたと聞く。
青い薔薇が一大センセーションを巻き起こすことは間違いない。それだけに先走って発表して失敗すれば、企業イメージにとっては取り返しのつかないマイナスとなってしまう。
実際に青い薔薇の花が確認できるまで公表を控えたほうが良いという主張は少なくなかった。だが、真黒社長は周囲の提言を退けた。
すでに咲いた花を発表するより、咲く瞬間を世間に公開したほうが明らかに話題性が高い。自らの悲願成就の瞬間だ。最も劇的な方法が望ましい。衛星中継で世界中に見せつけることだってできる。
真黒社長の決意は固かった。そして、一度決断した真黒社長の意思を変えることは、歴史の教科書を書き換えるよりも難しいのである。
社長好みの派手な記者会見が行われ、誰も見ぬ青い薔薇は世界の注目を浴びることとなった。
「コンピューター・シミュレーションにより、ほぼ確実な成功が確認されています」
真紀は、嶋村の口調に翳(かげ)りを感じた。もし青い薔薇が咲かなかったら、真黒社長も会社も世界中に大恥をさらすことになる。
マクロ・バイオ・カンパニーの株価は、青い薔薇の発表以来高騰を続けていた。衛星中継で失敗を全世界に見せつけることになれば、株価の大暴落は間違いない。
二回目の実験で青い薔薇を咲かせたとしても汚点は拭いきれないだろう。いや、下手すればマクロ・バイオ・カンパニーは倒産し、次の機会は与えられないかもしれないのだ。
栄光か破滅か。嶋村だけではない。従業員全員が我が身を押し潰そうとするプレッシャーと戦い続けているのだろう。
「それでは所内をご案内しましょう」
資料に関する真紀の質問も一通り終わって、嶋村は促すように立ち上がった。
「あの、写真は」
吉岡がおずおずと伺いを立てた。普段は物怖じしない性格の吉岡だが、さすがにここの警戒厳重振りには気後れを感じていた。
「かまいませんよ。今日お見せする場所は」
嶋村が含みありげに答えた。さすがはマスコミ受けを大いに気にする真黒社長だ。取材用の実験室や研究室をあつらえているらしい。
三人は嶋村の先導で応接室を出た。通路の要所要所にも監視カメラが設置されている。居心地の悪いことこのうえない。
これもまた真黒社長流のパフォーマンスと受け取れなくもないが、毎日をここで過ごす従業員たちが気の毒になってきた。
頑丈そうなスチール製ドアの前に警備員が立哨していた。嶋村は警備員に挨拶し、懐(ふところ)から取り出したIDカードを壁のリーダーに通す。真紀たちが渡されたIDカードとは別種のものだ。カードの等級によって立ち入り可能な場所が区別されているらしい。カチャッと音がしてロックが解除された。
最初の部屋はロッカーの並ぶ更衣室だった。清潔に清掃され、薬品臭が鼻をつく。殺菌剤の匂いだ。
「ここでクリーン服に着替えてください」
嶋村から手渡されたクリーン服は最高級のものだった。化学繊維の生地は表面が特殊加工され、ミクロン単位の塵さえ出さない。
上着を脱いでクリーン服の上下を着込み、キャップをかぶってマスクをつけ靴を履き替える。最後に手袋をはめて準備完了だ。
太っちょの吉岡はLLサイズのクリーン服でもパンパンになる。息を吐いた状態でどうにか上着のチャックを引き上げた。
真紀は、どこかのタイヤメーカーのキャラクターにこんなのがいたなと連想して笑いをこらえた。
更衣室の次はエアシャワー室だ。自動ドアを抜けて二メートル四方の小部屋に入った。天井と左右の壁には無数のノズルが生え、床は金網状になっている。
真紀たちが入ると、ノズルから激しい勢いでクリーンエアが吹き出す。センサーにより自動的に作動する仕組みだ。こうして入室者の体表に付着した微細な塵が、エアの勢いで叩き落される。
床下では強力なファンが回転し、塵を含んだ空気を吸引していく。
真紀は小さくため息をついた。マスコミ取材用のエリアであれば、ここまで徹底する必要はないはずだ。これもまた真黒社長流の稚気あふれたパフォーマンスに過ぎないのだろう。
中小企業から一代で財をなした真黒社長の言動は、以前からどこまで本気なのか分からないところがある。山師的性格から脱却できていないのだ。
それ故、マスコミから中傷されることもしばしばだった。それでも本人はご満悦だという。話題の良し悪しに関わらず、注目さえ集めていれば気分が良いらしい。
「この先が実験棟です」
嶋村の声はマスクのためにくぐもっていた。
病院のような印象の通路。清潔感はあるが温もりを感じさせない。床も壁も淡いグリーンで統一され、両側にドアが並んでいた。
一行が通路に踏み出すと同時に、真紀は背中に悪寒が走るのを感じた。中央高速での感覚に似ているが、その激しさは先ほどの比ではない。急激に体力が萎え、気分が悪くなってきた。
自分自身に何が起こったのか分からない。頭の回転まで鈍ってきたようだ。仕事への使命感を支えに、何とか周囲に変調を気づかれないよう振る舞う。
「各部屋ごとに日照時間、温度、湿度が管理されています」言いながら嶋村は一番手前のドアを開けた。
天井に太陽灯が灯り、大型のエアコンが低い唸りをあげて温度湿度をコントロールしていた。巨大なプランター状の水槽に水が張られ、無数の薔薇の苗が生育している。
土が使われていないため、植わっているというより活けてあるという印象が強い。
「データをより完全なものとするため、土壌は使わず蒸留水に各栄養素を溶かし込んで植物を栽培しています」
真紀はわずかにむき出しになっている頬に風を感じた。見ると部屋の右奥で大型ファンが回り、人工のそよ風を送り出していた。
「あのファンが室内で植物を育てるには必要不可欠なのです。植物は二酸化炭素を吸収して光合成を行います。太陽灯の光線で栄養分を作り出し、その副産物として酸素が発生します」真紀の視線がファンに向けられたのに気づき、さっそく嶋村が説明を始めた。
「室内における栽培で空気が全く動かなければ、植物の周りには酸素がたまってしまいます。結果的に光合成に必要な二酸化炭素が不足して栄養を作り出せなくなり、植物の正常な発育が妨げられてしまいます。それを防止するため、室内の空気を人工的に循環させる必要があるのです」
「ところでこれが青い薔薇っすか」カメラを構えて吉岡が尋ねた。
「違う。これは青い薔薇じゃないわ」反射的に真紀が口走った。ほとんど無意識に言葉が出ていた。悪寒がいっそう激しくなり、頭がぼうっとしている。
「おや、よく分かりましたね」嶋村が目を丸くした。
たいていの客は勘違いする。ここを訪れる人間の脳裏には先入観として青い薔薇がインプットされている。そのため、薔薇の苗を見ると即それが青い薔薇だと思ってしまうのだ。
実は勘違いした訪問者に冷ややかな視線を送るのが、嶋村の秘かな楽しみだった。今日は目論見(もくろみ)が外れてしまったわけである。
本当に驚いたのは真紀の方だった。なぜ分かったのだろう。目の前にある苗が青い薔薇でないことを直感的に判断できた。
青い薔薇と自分の間に何か因縁じみたものが横たわっている気がした。この悪寒からすると、それは何か悪しき繋がりなのかもしれない。不快感と混乱が目眩(めまい)となって真紀を襲っていた。