青い薔薇の血族
一章 第一日
2.青い薔薇(3)
「そうです。これは青い薔薇ではありません」嶋村はもっともらしく説明を始めた。
いたずら心でからかおうとしたことなど、みじんも感じさせない。
「青い薔薇の苗は一番奥の育成室にあります。この部屋には、私どもマクロ・バイオ・カンパニーの開発成果が青い薔薇だけではないことを知っていただくためにご案内しました。植物の中には、特定の昆虫に害を与える毒性の分泌物を出すものがあります。植物の種類によって虫が付いたり付かなかったりするのは、そのためです」
真紀は説明に集中できずにいた。動悸が速くなっているのが分かる。キャップのふちが脂汗で額に張り付いていた。
不思議な感覚だった。クリーン服で覆われた全身が汗ばんでいるのに、体の芯は冷え切っている。
「従来の薔薇には、植物の中でも虫が付きやすいという弱点がありました。この薔薇には遺伝子組み換えの品種改良により、従来にはない対昆虫の毒物を分泌する能力を持たせてあるのです。現段階では観賞用の草花に限って開発を進めていますが、人体への安全が確認され次第農作物にも応用する予定です。この技術が普及すれば人体や環境に有害な農薬、殺虫剤の使用は激減するでしょう」
嶋村は自分の説明に満足するかのように両手を胸の前で組んだ。吉岡はしきりに感心しているが、真紀はそれどころではなかった。何とか要点をメモしているものの、頭の中は素通りしている状態だ。
「さあ、それでは青い薔薇の育成室にご案内しましょう」
三人は通路に出て奥へと向かう。真紀の不快感は、ますます高まっていった。胸がむかつき、足はふらつく。
「実は今日お見せするほかに、千五百株の青い薔薇が育成中です。五十株ごとに条件を変えて育てています。まあ一種の保険とでも言いましょうか」嶋村が雑談めかしてチラリと本音をはいた。
何しろ全世界の注目を集め、衛星中継までセッティングされている青い薔薇だ。万が一にも失敗は許されない。できる限りの安全策を施すのは当然のことだろう。
真紀は耐え難い状態におちいっていた。嶋村の声がはっきりとは聞きとれない。体が熱いのか寒いのか、それすらも分からなくなっていた。真紀は、ふっと意識が遠のいていくのを感じた。
目の前の光景が傾きながら暗転していく。吉岡が自分の名を呼ぶのが聞こえる。その声は妙に遠く感じられた。
真紀は、自分の体が何か柔らかいものに横たえられる感触で意識を取り戻した。
目を開くと、心配そうに覗き込む吉岡の顔が眼前にあった。
全身が汗ばみ、頭に霞のかかった感覚が残っている。それでも先刻とは比べようもないほど楽になっていた。
真紀は上半身を起こして辺りを見まわす。どうやら医務室に担ぎ込まれたらしい。白で統一された簡素な部屋に消毒薬の臭いがかすかに漂っていた。
「大丈夫っすか。もう少し横になっていた方が良いんじゃないすか」
吉岡の心遣いは嬉しかったが、不快感は潮が引くように去っていた。
「心配かけてごめんなさい。もう大丈夫。私、どれくらい気を失っていたの」
土気色になっていた真紀の頬に赤みがさした。体調が回復して血の気が戻ってきたこともあるが、気恥ずかしさも大いにあった。基礎体力には自信があったし、貧血の傾向もない。気絶するなんて初めてのことだった。
「ほんの数分てとこすかね。あわてて医務室にかつぎ込んだら、すぐに気がついたっすから」吉岡が腕組みして言った。
「いやあ、驚きましたよ。たいしたことなさそうで何よりです」
嶋村は心底胸をなでおろしていた。青い薔薇と衛星中継のスケジュール管理だけでも胃が痛いのだ。この上トラブルが重なってはたまらない。
「このクリーン服は通気性が悪いのが欠点です。体感温度が急上昇して気分が悪くなったんでしょう」
「そうそう、僕も汗だくっすよ」吉岡が相づちを打つ。大慌てだったため、クリーン服を着込んだダルマ状態のままだ。
本当にそうだろうか。真紀には、そんな簡単な理由とは思えなかった。
現に真紀もクリーン服を着たままだ。医務室にかつぎ込まれ、すぐに気がついたのでマスクとキャップを外しただけだった。
確かに育成室は温室状態で、この医務室に比べれば五度以上高い温度で管理されていた。
だが、それだけでこれほど急激に回復してしまうのも腑に落ちない。先程の不快感は半端なものではなかった。しかも脂汗をかいていながら、同時に寒気を感じてもいる。説明のつかない不安感が真紀の心にずっしりとのしかかってきた。
「あとは青い薔薇の苗を撮影するだけです。神代さんには、もう少しここで休んでもらって、我々だけで続けるというのはどうでしょうか」嶋村が二人を交互に見ながら言った。
真紀を気遣っているというよりも、無理されてまた何かあったらたまらないという本心が見え見えだ。
「そうっすよ。あとは僕たちにまかせて、真紀さんは休んでてください」気のいい吉岡は、嶋村の言葉を素直に取り合意した。
本来なら肝心の青い薔薇を見なければ、ここまで取材に来た意味がない。記者として実物を見ずに記事を書くのは気が引けた。いくら事情があるとはいえ、プロとしての信義にもとる行為だ。事なかれ主義に走る嶋村への反撥もあった。
それでも真紀は、もう一度研究棟に踏み込む気力が得られなかった。先程の激甚(げきじん)な不快感を思うと、どうしても気後れがしてしまう。結局、真紀は二人の言葉に甘えてしまうことにした。
二人が去った医務室に、真紀は独り残されていた。ベッドの端にぽつんと座っている。傍らには脱いだクリーン服がたたんで置かれていた。
汗に濡れた服が乾くにつれ体温が奪われていく。着替えがないのが残念だったが、それでも気分はすっかり良くなっていた。
来週は、いよいよ青い薔薇の咲く本番だ。こんな調子ではいけない。いつまでもセミプロのままで、真の雑誌記者にはほど遠い。
真紀は萎えそうな気分を奮い立たせようと、自分自身を心中で励ましていた。
それは一方にドアがあるきりの部屋だった。地下室なのだろうか、窓の一つもない。明かりといえば四方に立てられた燭台の蝋燭のみ。ゆらゆらと不安定な炎が室内を陰気に照らす。
妖しげな香が焚かれ、部屋中に濃密な空気が満ちていた。
ドアの反対側の奥には祭壇が祀られていた。
その祭壇の前に膝をつき祈祷する三人の男女。三人とも青いローブを着て、ひれ伏すように祈り続けていた。揺らめく炎に照らされた人間たちはまるで幽鬼のようだ。
一見して邪教と分かる陰鬱(いんうつ)な佇まい。
祭壇の中央には両脇を黒山羊の胸像にはさまれて、見事な水晶玉が鎮座していた。
黒山羊の眼には宝石でもはめ込まれているのか、蝋燭の炎を反射してチロチロと赤くきらめく。
水晶玉は直径十五センチほどで表面には傷一つなく、歪みの全くない完璧な球形をなしていた。もし霊感を持つ者がこれを見たならば、ひどい瘴気を発していることに気づくだろう。
単なるシンボルではあり得ない。紛れもなく邪悪な存在。水晶玉を中心として室温までもが下がっていた。
その内部には何やら青い霞が漂っている。まるで水晶の中が水であるかのように、あるいは水晶の中に映し出されたホログラムであるかのように。形状もはっきりとせず、不気味な軟体生物のごとくのたうっていた。
「だめだ、まだ早すぎる。十分な力が甦っていない」先頭で祈りを捧げていた女が頭を上げて呟いた。
低く陰鬱な若い女の声。妙なアクセント。日本人ではないようだ。
ローブと一体になった頭巾を目深(まぶか)にかぶっているため顔だちは判然としない。口元だけが蝋燭の炎に照らし出されていた。白い肌に真っ赤な唇が毒々しい。
「とはいえ残された時間は少ない。速やかに準備を整えなければならない。主は我々のみで行動することをお望みだ」
女が立ち上がった。ローブのため体型は掴めないが、意外に長身だ。一七〇センチは軽く超えていた。
「東京の二人に指示を出すことにする」
女はローブの裾をひらめかせて部屋を出た。歩を進めるたびに裸足のつま先がのぞく。
残された二人は、ひたすら祈り続けていた。彫像のごとく身じろぎもせず禍々(まがまが)しい呪文を唱え続ける。
室内に立ちこめる邪気は次第にその密度を増し、室温も更に低下したようだった。