青い薔薇の血族
一章 第一日
3.つかのまの安息
新宿御苑にほど近いイタリア料理店「トリスターナ」は、以前から真紀のお気に入りの店だった。昨年、雑誌で紹介されてからというもの夜七時には満席になってしまう。
雑誌といっても他社のものだ。真紀自身としては、むしろ紹介してほしくない店の一軒だった。
雑誌にしろテレビにしろ、スタッフ自身が本当に気に入っている店は外してしまう傾向がある。ずるいと言われるかもしれないが、人情というものだ。
美味しい店に客が集まって混むのは当然のことだから仕方がない。しかし、真紀はこれまで増えた客をこなすために味を落としてしまう店も何軒も見てきた。それが心配で、つい記事に書くのをためらってしまうのだ。
「トリスターナ」が他誌に掲載されたときは真紀も不安になった。幸い今のところこの店の味は変わっていない。
真紀は、今日のデートは中止にしようかと少なからず迷った。日中に、あんなことがあったばかりだ。今日のところは自宅でゆっくり休養して体調を整えた方が良いかもしれない。実際、研究所を出るときにはそう考えていた。
ところが帰路について東京に向かうと、すっかり気分が良くなってしまった。そうなると、どうしても俊一に会いたくなってくる。我ながら虫の良い、とも思うが恋心は止められない。
加賀俊一は一八〇センチを超える長身に端正なマスクで、真紀と並んで歩いても見劣りすることがない。
心理学研究所に籍を置く学者の卵だが、スマートな体型も含めて学者タイプという外見ではない。つき合ってみると見た目に似合わずひょうきんな性格で、ますます学者とは思えなくなってくる。
それでも研究の話題に夢中になると、一般人には理解しがたい専門用語を連発してしまう癖があった。
俊一の裡(うち)に秘められた学者バカとでも言おうか。真紀も最初は面食らったものだ。今はもう慣れっこで、適当に相づちを打ちながら聞き流している。それが別段苦にならない。
つき合いだして半年足らず。もっと長くつき合った相手もいたが、これほどしっくりした感覚は初めてだった。一緒の時を過ごすだけで心が癒されて和(なご)やかな気分になる。
ナッツをつまみにグラスビールを飲みながら注文したパスタを待つ。いつしか話題は今日取材した青い薔薇になっていた。
研究所のものものしい警戒ぶり、嶋村に聞いた青い薔薇開発のバイオテクノロジー。
研究所で気を失ったことは話せなかった。気恥ずかしさもあったが、それよりも触れてはいけない禁忌であるような気がしたのだ。
俊一に隠し事はしたくないのだが、ここ三週間ほどの悪夢のこともまだ話していない。
俊一は、薔薇、ローズの語源について話し始めていた。話に耳を傾けていた真紀の意識に一瞬の空白が生まれ、俊一の声がふと遠くなった。
「ローズってケルト語の赤が語源なの」無意識のうちに真紀の口から言葉が出ていた。
「あれっ、なんだ真紀、知ってたのか」
俊一の声で我に返った。薔薇の語源なんて知らない。どうしてこんな言葉が出たのだろう。真紀の心は言いようのない不安に包まれた。研究所で苗が青い薔薇でないと看破したときと同じ感覚だ。
子供の頃の奇妙な勘が戻ってきたのだろうか。少し違う気がする。あの頃は知らない知識を口走るなどということはなかったはずだ。
研究所のときとの共通点は青い薔薇だ。真紀の心の中で青い薔薇という言葉が一種の強迫観念と化してきた。青い薔薇は真紀自身に対して魔の力を放っているように思えた。
青い薔薇の魔力によって真紀の意識に一瞬の空白が生まれる。その空白に真紀の知らない情報が送り込まれ、無意識のうちに真紀の口をついて出るのだ。
いくらなんでも突飛過ぎる。あまりにも非科学的だ。現代人の考えることじゃない。真紀は今の思いつきを打ち消した。
薔薇の語源は、きっと以前に何かの本で読んでいたに違いない。さもなければテレビの情報番組で見たのだろう。青い薔薇の発表がされて以来、関連番組は山ほど放映されている。忘れていた記憶が、ふと甦って言葉となったのだ。そうに違いない。
「けっこう私も博学でしょ」真紀は内心の葛藤(かっとう)を悟られまいと、少しおどけて口調で話した。
我ながら失敗したと思う。卵とはいえ相手は心理学の専門家だ。相手の心の動きを把握する術(すべ)には長(た)けている。
真紀の危惧通り、俊一は真紀の動揺を察知していた。ここ数週間、真紀の様子が徐々に変わってきている。何か悩み事があるのだろうか。問いただすことはしたくなかった。
研究対象の被験者であれば、誘導尋問の技術を駆使して聞き出す方法もある。真紀に対してそんなことをする気は毛頭ない。自分から話してくれるまで待つつもりだ。
真紀自身も俊一に話すかどうか幾度となく迷っていた。こんなことで二人の間にわだかまりが出来てしまうとしたら、なんて愚かなのだろう。
だが、今日も話すことが出来なかった。覚えているのは夢の輪郭にすぎない。内容のほとんどは、目覚めとともに忘れてしまっている。青い薔薇に対する不安感も具体的に説明できるものではなかった。
いや、これは言い訳にすぎない。俊一は頼りがいのある専門家だ。きっと適切なアドバイスをしてくれることだろう。話すだけでもずっと気が楽になるに違いない。俊一に話すことをためらわせる理由は別にある気がする。
真紀は自分の不安を突き詰めていくことに、漠とした怖れを抱いていた。下手につつけば、結果として自分の知りたくない事実を突きつけらてしまうかもしれない。その恐怖感が、俊一に相談することをためらわせているのだ。
もうちょっと待とう。明日になればすべてが元に戻って、単なる気のせいだったってことになるかもしれない。真紀は自分自身を無理やり納得させた。
日ごろ積極的な真紀が、今回の件では不思議なほど後ろ向きになってしまっている。
「そう、ローズはケルト語の赤を語源としているんだ。それを考えると、青い薔薇ってのは存在そのものが語源と矛盾していることになるな」
青い薔薇、矛盾した存在。俊一の何気ない言葉は、真紀の脳裏に強いイメージとして刻み込まれた。存在そのものに矛盾を内包した、この世にあってはならないものが科学の力によって生み出されるのだろうか。真紀の思考は暗い深遠に呑み込まれていく。
俊一は戸惑った。何気なく話した言葉が、予想外に大きな影響を真紀に与えたことを感じ取っていた。
「いや、気にするほどのことじゃない。黄色や白、赤くない薔薇は山ほどある。語源に反しているのは青い薔薇に限ったことじゃないんだ」あわてて言いつくろう。
俊一の気遣いに励まされたのか、真紀の表情に生気が戻ってきた。
とにかく話題を変えたほうが良さそうだ。俊一は、インターネットで仕入れたハリウッド製大作映画の裏話について話し始めた。
食事を終えた二人は、馴染みの店で軽く飲むことにした。「ボヤージ」という名の小さなバー。雑居ビルの地下でひっそりと営業している。やけに細長いつくりでカウンターだけしかない店だ。
口髭を生やした寡黙なマスター。実はこのビルのオーナーで、店は趣味で営業しているという噂を耳にしたことがある。真偽のほどを直接オーナーに確かめたことはない。
落ち着いた雰囲気で、静かに飲みたいときにはうってつけだ。店内には落ち着いたジャズが流れていた。マスターが趣味で集めたアナログ盤。壁には、多彩なジャケットがレイアウトされている。
真紀はフローズンダイキリを、俊一はフォアローゼスのロックを注文した。会話そのものよりも二人で過ごす時間を楽しむ。
真紀はようやく心の落ち着きを取り戻していた。店内に流れるゆったりとしたジャズ。ほのかな酔い心地。そして何よりも傍らには俊一がいる。
俊一が二杯目のグラスをあけたところで、二人は店を出た。次の行動パターンは決まっていない。その場で別れることもあるし、どちらかのマンションに泊まっていくこともあった。まれにではあるが、心を決めかねてもう一軒寄ることもある。
特に話し合って決めるわけではない。お互いの心が自然と通じ合ってしまうのだ。
不夜城・新宿一帯は、これからが本番とでも言いたげな熱気にあふれていた。さまざまな年齢、職業、国籍の人間たちが、灯りに惹かれる虫のようにさまよっている。
肩にかけられた俊一の手の優しい感触と温もり。ピンク色に上気した真紀の頬と潤んだ瞳。今日は二人とも別れたくない。寄り添う二人に言葉はいらなかった。
突然、俊一の手に力がこもった。真紀の肩に緊張感が伝わってくる。俊一がすっと顔を寄せてきた。俊一がこんなに激しい行動に出たことは、これまでなかった。しかも新宿三丁目の雑踏のど真ん中だ。真紀は酔いで火照った頬が、今度は羞恥心で紅潮するのを感じた。
「つけられてる」押し殺した声で予想外の言葉だった。
真紀は一瞬からかわれているのかと思ったが、俊一はいつになく真剣な面持ちだ。
「いいか、立ち止まって向かい合う。話しているふりをしながら、気づかれないように見るんだ。男二人、メガネをかけた若いのと背が低い中年男。若い方がダークグリーンのスーツで、中年男が紺のブレザーを着ている」
真紀はきょとんとした。こんな雑踏で立ち止まって目を丸くして、はたから見ればさぞかし奇異だろう。
俊一には時々かつがれることがある。まことしやかな顔で、ありもしないことを口にするのは得意技だ。
真紀は俊一の真意を探ろうと目を覗き込んだ。ふざけているようには見えない。俊一は冗談でからかっても、真紀を本当に騙すことは決してない。すぐにニヤニヤと笑ってネタばらしする。
どうやら俊一は本気らしい。真紀は言うとおりにしてみることにした。横目で行きかう人々に目をやり、それらしい二人連れを捜す。
「いないわ」
真紀の言葉で、俊一も今来た道に横目を向けた。
「本当だ。いなくなってる」
今度は俊一が狐につままれたような表情だ。キョロキョロと目的の二人を捜す。
「確かにいたんだがな。トリスターナでは、真紀の斜め後ろの席に座っていた。ボヤージを出たときに、その二人が隣の喫茶店から出てきたんだ。それでこっそり観察してみたんだが、間違いなく僕たちをつけ回していた」
俊一は以前、人の特徴を瞬時に記憶する訓練を受けていた。心理学実験の一環として、警察学校で実施している訓練をテスト体験したのだった。
その成果のほどは真紀も披露してもらったことがある。レストランに入って一番奥の席に着くまでに、客全員の人相と服装を覚えてみせたのだ。俊一は、振り返ることなく二十人の人相と服装を言い当てた。
その俊一が言うのだ。あながち見間違いとも思えない。単なる偶然だろうか。人につけ回される覚えはないが、なんとも薄気味悪い話だった。真紀の背中に冷たい感覚が走り、思わず俊一の手を強く握り締めた。
二人は、そのまま真紀のマンションへと向かった。一人になりたくない。一人にしたくない。お互いの気持ちを無言のうちに理解しあっていた。
愛を確かめ合った後の心地よい疲労感。俊一の腕の中で真紀は安らかな寝息を立てていた。
悪夢も二人の間に割って入ることは出来なかったのか、真紀にとっては久しぶりの平穏な夜明けだった。