青い薔薇の血族
二章 第二日
1.白き巫女
初夏とはいえ岩手の朝は薄ら寒い。北上山地の北端にあたる遠別岳。その山裾に橘神社はひっそりと佇んでいる。
三百年を超える年月を風雪に耐え、建物自体が修験者の風格を感じさせる。
美剣香奈(みつるぎ・かな)は、自室として使っている狭い板の間に正座し精神統一していた。
透き通るごとき白い肌に日本的で端正な顔立ち。腰まで達する見事な黒髪を、うなじと先端の二ヶ所で束ねている。真白な巫女装束が、くすんだ板張りの部屋の中で輝きを放っていた。
香奈は生まれついての霊能者だ。年は若いが、日本でも有数の力を持った逸材である。
奈良の美剣家そのものが平安時代より神事を司る霊能の血筋と伝えられていた。
江戸時代に入ると美剣家は歴史の表舞台からその名前を消してしまう。それでも美剣家に助力を仰ぐ者は後を絶たず、皇族から商人までが日参したという。
香奈自身は宗教的に中立の立場をとり、特定の信仰を持っていない。無神論者というわけではなかった。師と仰ぐ五代蘭山の影響もあり、一般の宗教を超越した思想を持っているのだ。
すべての宗教の枠を取り外し、「大いなる宇宙意志」の存在に集約していこうという発想である。
信仰を持たない香奈が、この橘神社で修行を許されているのは蘭山の口利きがあればこそだった。巫女装束にしても、香奈にとって精神統一をしやすい形であるにすぎない。
朝五時前に起床して境内を掃き清め、それが終わったら今度は水垢離(みずごり)で自分の身を清める。さらにこの板の間でひとしきり精神統一の行をすませて朝食の準備に入る。それが朝の日課だった。
香奈は微動だにしないまま、ゆっくりと目を開いた。強い意志を秘めて輝く切れ長の瞳。精神統一がうまく出来ない。心を乱す波動があるため、無我の境地に入れないのだ。
首を回して朝日の差し込む窓を覗く。窓外には雲ひとつない青空が広がっていた。だが、それは肉眼によるものにすぎない。
香奈が霊視すれば景色は一変する。赤黒い渦が空を覆いつくし、うねっていた。これは香奈の運命を暗示する前触れだった。
邪悪な事件が待ち受けている。自分は、その事件の渦中に飛び込まずにはいられない。それが定めなのだ。
これまで何度も除霊を行い、悪霊と闘ってきた。だが今回は、これまで経験したことのない猛悪な力が感じられる。
昨日、東京の蘭山から連絡があった。関東の地では、生来の霊能者ではない蘭山ですら戦慄するほど邪気が活性化しているという。しかも、その邪気は日に日に力を増しているらしい。
かってない強敵であると、香奈の内なる声が告げていた。まだ修行中の身である自分の力量を考えると緊張に震えてしまう。覚悟を決めてかからねばならない。
香奈は自分の明日を見ることが出来なかった。香奈に限ったことではない。霊能者は、その力の強弱にかかわらず自分のこととなると極めて曖昧な予知しか出来ないのだ。
天命に任せるしかない。自分に為すべきことが残されていれば、闘いを生き残り、さらなる人生を歩むことが出来るだろう。避けられない運命であれば、全力を尽くすのみだ。
いずれにしても運命の輪は、すでに回り始めていた。明日には東京に向かおう。香奈は今日中に身辺の整理をすませてしまうことにした。
香奈は自らの気を高め、まとわりつく邪気を振り払い立ち上がる。部屋の隅に置かれた行李(こうり)を開け、東京の地図と紫色の布袋を取り出す。再び部屋の中央に正座して、地図を広げた。
布袋に手を入れて目をつむり、霊力を集中する。袋の中身は霊石を香奈自らが削って作った砂だった。
霊力が十分に高まったところで、一掴み二掴みと砂を地図に撒いていく。地図上に満遍なく撒かれた砂。その広がった砂に一ヶ所だけ丸い穴が出来ていた。聖なる力を持った砂が、地図の一ヶ所を避けたのだ。
香奈は額に汗をにじませながら地図を見つめた。ここが邪気の集中している地だ。ここで何か良からぬことが起きるに違いない。
地図上では直径五センチ足らずの隙間だが、実際には五キロの範囲だ。十分特定できたとはいえないが、遠く離れた地ではこれが精一杯なのだった。
真紀が目覚めたとき、ベッドに俊一の長身はなかった。キッチンから、かすかな物音がしてコーヒーの香りが優しくただよってくる。
昨夜は悪夢にうなされることもなかった。俊一とともにぐっすりと眠り、今朝も穏やかに目覚めた。とすると悪夢は性的欲求不満の産物なのだろうか。真紀は独りで頬を赤らめた。
違う。真紀を襲う不安感はもっと奥深いものだ。
不気味な感覚を心に残し、内容は記憶の彼方に消え去ってしまう悪夢。この不安感は心の襞(ひだ)にこびりついて剥(はが)れることがない。自分の根底にある何かが関係している気がした。
「あ、ごめん。起こしちゃった?よく寝てたから、起こさないようにと思ったんだけど」
俊一がベッドルームを覗き込んだ。空色のトレーナーを着ている。二ヶ月ほど前のデートで買って、そのままここでの俊一の部屋着となったトレーナーだ。
真紀が選んだクリームイエローのトレーナーとペアになっている。表ではちょっと気恥ずかしくて着られない。二人の愛の巣専用である。
「ううん、もう起きる時間だから」
今日は土曜だが二人とも仕事が入っていた。駆け出しの雑誌記者と学者の卵。自由な職業に見えて自分の時間は実に少ない。
真紀は微笑み返すと、タオルケットを体に巻きつけてベッドから出た。軽く伸びをしてみる。疲れが取れ、体も心持ち軽くなった気分だ。
「シャワーを浴びてきなよ。その間にブレックファーストの出来上がりだ」
俊一は一足先にシャワーを浴びていた。いつもは真紀のほうが早起きなのに、今朝は逆転していた。
夢も見ない深い眠り。たまっていた心身の疲れが吹き出したのかもしれない。俊一は、昨晩から真紀の疲労を察して気遣っていた。
熱いシャワー。たまらない魅力を感じた。真紀は俊一の言葉に甘えることにする。ボディソープで丹念に洗って身も心もリフレッシュした。
朝食はベーコンエッグにサラダとトースト。窓の外から小鳥のさえずりが聞こえた。見事に晴れ渡った青空。真紀の頭にピーカンなどという古い言葉が浮かんだ。
「今日みたいな日は仕事をやめてドライブにでも行きたいな」食後のコーヒーを飲みながら俊一がポーカーフェイスで言った。
「そうね。どうせならただのドライブじゃなくてフェリーで船旅も楽しみましょう」真紀は、ちょっと気取った調子で答えた。
永遠を見渡すことも出来そうな晴れた朝の軽いジョーク。それには二人の憧れも込められていた。
つきあい始めて半年ほどになるが、泊りでの旅行をしたことがない。二人の多忙さゆえだ。ましてや船旅など夢のまた夢。考えただけでうっとりとしてしまう。
「いけない、もうこんな時間だ」
壁に掛かった時計を見て、俊一は光速のスピードで現実に引き戻された。
タイムカードがあるわけではない。しかも今日は土曜日だ。とはいえ気難しい所長の不興を買うような真似は避けたほうがいい。
所長は九州の学会に出席するため今晩出発する。急いでまとめなければならない資料が残っていた。
二人はあわてて身支度を整え、小走りにマンションを出た。こんな時には駅までの遠さが恨めしい。
エントランスの斜め向かいに黒塗りのセダンが停車していた。フロントガラスに陽光が反射して車中の様子をうかがい知ることは出来ない。いずれにしても真紀たちには路上のセダンに気を配る余裕などなかった。
車中では二人の男が真紀をじっと見つめていた。一切の感情を喪失した石膏像を連想させる顔つき。
もし俊一が車中を透かして見ることが出来たなら、昨夜の二人組だと気づいたことだろう。もちろん停車位置は朝日の反射を計算した場所だ。
運転席にいるのは小柄で野暮ったい中年男。すれた紺のブレザーを着ている。運転手用のお仕着せというやつだろう。
後部座席に座る若い男は、対照的とも言える仕立ての良いチャコールグレーのスーツを着こなしていた。派手さはないが気品を感じさせる英国製のスーツだ。
中年男はゆっくりアクセルを踏み込み、セダンを静かにスタートさせた。行く先を心得ているのか、今朝は真紀たちを尾行するつもりはないらしい。
セダンは真紀たちを無視して大通りに入り、そのまま都心へと向かって行った。