前へ 目次 次へ
青い薔薇の血族
二章 第二日
3.恐怖の残像
 真紀が気づいたのはベッドの中だった。消毒液の臭い。自分のマンションではない。真紀の記憶は一時的に混乱していた。
 恐怖に満ちた出来事は全てうたかたの夢にすぎず、自分はまだマクロ植物研究所の医務室に横たわっているのではないか。
 希望と錯覚が交差した奇妙な感覚。現実感を伴わない白昼夢の中にいる気分だった。街中で繰り広げられた追跡劇など、とても現実のこととは思えない。
「気がついたね」横から優しい声がした。
 真紀は現実に引き戻された。俊一が傍らにいるという喜び、安堵感。同時にここがマクロ植物研究所でないこともはっきりした。
 二人の男の襲撃も爆走するトラックも夢ではなかった。身体の感覚も戻ってきた。全身がズキズキと痛む。真紀は起き上がろうとして思わず呻き声をあげた。
「あ、だめだめ、すぐに先生を呼ぶから動かないで」
 声のほうに首だけひねった。俊一がパイプ椅子から立ち上がってベッドのほうに歩いてくる。真紀に微笑みかけながら枕元のナースコール・スイッチを押した。
「痛むかい、我慢しないで言ってごらん」
「動かなければ大丈夫」真紀は微笑み返した。
「ニール・サイモンの脚本にあったな。アフリカで襲われて槍の刺さった男に、仲間が聞くんだ。痛まないかって。男は答える。笑うときだけって」
 真紀はつい笑ってしまい、その話が真実であることを涙が出るほど思い知らされた。
 ちょうどその時、看護婦が顔を出した。新人なのだろう。あどけなさの残る顔立ちをしていた。痛みをこらえて顔をしかめる真紀を見て血相を変えてしまった。
「す、すぐに先生を呼んできます」
 俊一がうっかり笑わせたとは知らずに、慌てて病室を飛び出していく。
 入れ替わりに地味なグレーのスーツを着た男が姿を見せた。がっしりした体つきで、いかつい顔。男は探るような目つきで室内を見回す。一言も発せず、俊一に目配せをして出て行った。
 再び二人きりになった。俊一はポケットから真新しいハンカチを取り出し、真紀の額に浮かんだ汗をぬぐう。
「ごめんよ。痛がらせるつもりじゃなかったんだ」
「ううん、もう治まったから大丈夫。それに、あらためて生きてるって実感できたわ」
 皮肉ではなかった。トラックを目の前にしたあの瞬間、真紀は死を覚悟していた。こうして俊一と時を過ごすことなど二度と出来ないと思った。
 俊一が真紀の手を握りしめる。今まで見たことがないほど真摯(しんし)な表情。真紀は俊一の手から力が流れ込んでくる気がした。
 落ちつきを取り戻した真紀に考えるゆとりが生まれた。会社の前で起こった追跡劇が脳裏に浮かぶ。何であんなことに巻き込まれたのか、今になっても理解できない。
 生まれて初めて死と直面したあの舗道。迫り来るトラックは、まるで獲物に襲いかかる肉食恐竜だった。身動きできないほどの恐怖感。今思い出しても冷や汗が出る。
 とにかく自分は助かった。安堵感とともに新たな疑問が浮かぶ。真紀の身代わりとなった若い男。あの男の不可解な行動がなければ、真紀が今こうしていることはなかった。その意味では命の恩人といえる。
 だが二人組が真紀を襲ったりしなければ、あのような窮地に陥ることがなかったのもまた事実だ。何故、真紀を襲った男が身を捨てる行動になど出たのか。
 大通りでの光景を思い出した真紀は、新たな恐怖感に取りつかれ身震いした。最後の瞬間、車道の隅で半身を起こした真紀は若い男と目が合った。その目は、どんよりと曇り何の感情もたたえていなかった。
 人間がどうしたら、あれほど空虚な表情ができるのだろうか。身を挺して人の命を救う男の顔ではない。ましてや確実な死を迎えた人間とは決して思えなかった。自分が死ぬことに何の関心もない。そうとしか思えない顔つきだった。
 もう一つ、さらに漠然とした感覚があった。真紀自身の中で何かが変わりつつある気がするのだ。それがどのような変化であるのかは分からない。身体の奥深くにうずくような感覚が目覚めていた。
 事件に巻き込まれたショックで一時的に不安定な状態になっているだけだ。そう思いたかった。
 看護婦が医師を連れて入ってきた。六十才は軽く超えていそうな老医師。顔全体の皮膚がたるみ、眠たそうな顔つきになっている。しかし、その目つきは生気に溢れ輝いていた。言外に患者を励ます温厚な眼差し。あの若い男とは全く対照的だった。
 一見に似合わぬきびきびした動作で診察を始めた。手つきも実にしっかりしている。
「レントゲンを撮らなければ正式には言えんが、骨には異常がなさそうだし、頭も打っていないようじゃな。ひどい打ち身じゃが、湿布をしてじっくり直すより仕方あるまい。心配はなさそうじゃが、念のため一晩入院して精密検査を受けなさい」医師は聴診器を外しながら言った。
 真紀はほっとした。あれだけの目にあったのだ。打ち身だけですめば不幸中の幸いといえた。
 医師たちが引きあげると席を外していた俊一が戻ってきた。その後ろには先ほど病室内を観察した精悍(せいかん)な男。
「こちらは刑事の水上さん。今回の事件を担当するそうだ」俊一が紹介した。
 この水上達也という刑事は、長身の俊一と並ぶと小さく見えるが一七五センチ以上はある。スーツを着ていても筋肉質な体つきが見てとれた。
「水上です。怪我が軽くて何よりでした」低く野太い声。
 いかにも刑事らしい屈強なイメージの男だ。年齢は三十前くらいだろう。太い眉と一文字を描く口が意志の強さを感じさせる。
「お疲れのところすみませんが、二、三質問させてください」
「ええ、構いません。でも、その前に私が気を失ってからのことを聞かせていただけませんか」真紀が逆に質問した。
 路上で気を失い、気がついたときは病院に収容されていた。その間の経緯を知りたかった。もう一人の中年男はどうなったのか、自分を助けてくれた吉岡に怪我はなかったのか。冷静さを取り戻すほどに気になることが増えていた。
「ああ、説明しましょう」水上は、真紀が気を失ってからのことをかいつまんで話した。
 真紀の傍らでは俊一も聞き耳を立てていた。病院に着いてから真紀に付きっきりだったため、事件の詳細については聞いていないのだ。
 犯人の身元は掴めていなかった。若い男の死体は損傷が激しく、身元の分かる所持品も発見されていない。それでも鑑識は指何本かの指紋を採取することに成功していた。
 中年男は、いつの間にかセダンごと姿を消していた。吉岡は救急に連絡していたため、セダンに注意を払う余裕がなかったのだ。
 吉岡は、元が頑丈だったのか怪我ひとつなかった。研究所にいた俊一に連絡したのも吉岡だ。吉岡はセダンのナンバーを覚えていたが、照会の結果そのナンバーに該当するセダンは登録されていなかった。おそらく廃車か偽造のナンバープレートを使用したのだろう。
 次は真紀が説明する番である。出版社を出てから起きたことを出来るだけ克明に話していく。客観的に話そうと努めるのだが、高ぶる感情を完全に抑えることは不可能だった。知らず知らずのうちに涙声になってしまう。真紀が一通り話し終えると、病室に沈黙が降りた。
 水上は今しがた取ったメモをじっと見つめている。真紀が落ち着くのを待っているのだ。水上は見た目ほど無骨な男ではないようだ。しばらくして水上はメモから目を上げた。
「では伺いますが、神代さん、車のナンバーは覚えていませんか」
 真紀は記憶をたぐり寄せた。だめだ。覚えていない。そもそもナンバープレートをはっきり見るタイミングがなかった。
「覚えていません」
「そうですか。それでは何か犯人に心当たりはありませんか」水上は質問を続けた。
「ありません」真紀は即座に答えた。
 二人とも間違いなく初対面であったし、誘拐犯に狙われるなんて全く身に覚えのないことだ。
「よく考えてください。神代さんは雑誌記者だそうですが、その関係でクレームのついたことはありませんか。あなた個人ではないかもしれない。雑誌全体に恨みを持って、偶然神代さんに白羽の矢が立てられた可能性もある」
 答えは同じだった。記者として駆け出しの真紀は、これまで当たり障りのない記事ばかり書いてきた。恨みを買うぐらいになれば記者としてはむしろ一人前なのだが。
 雑誌全体にしても思い当たる節はない。掲載記事に対して反対意見の投書が来ることは毎日だが、今のところトラブルと呼べるほどのものはなかった。
「ただ、犯人の乗っていた黒いセダンは今朝もマンションの前で見た気がするんです」真紀は出版社を出たときに感じた、でジャブにも似た感覚について話した。
「もし二台が同一とすれば、犯人は神代さんの自宅と勤務先を知っていて今朝から狙っていたことになる」
 水上はボールペンで頭を掻く仕草をした。考えるときの癖だ。
「完全に計画的な犯行ってことだ。マンションの前では加賀さんが一緒だったため手を出さなかった。出版社の前では吉岡さんが車をまわすことを知らなかった。神代さんが一人きりだと思って犯行に及んだに違いない」
 有力な手がかりだ。土曜の朝方とはいえ住宅街のマンション前であれば人通りはあっただろう。裏が取れる可能性も高い。
 水上は一旦署に戻ることにした。現場付近の聞き込みをおこなった捜査員たちと情報交換して、次の捜査方針を打ち合わせるのだ。
「私はこれで署に戻りますが、警戒のために警官を一人残しておきます。何か気のついたことがあったら、その警官か私に連絡してください」
 水上はメモ帳に携帯電話の番号を書くと、破って俊一に渡した。
「明日は犯人二人のモンタージュを作成するので協力願います」
「二人ともですか」真紀は思わず聞き返した。
 一人はすでに死んでいる。手配するのは一人のはずだ。
「ええ、何というか、死んだ男のほうは遺体の状態が良くないので身元調査にモンタージュを使うことになったんです」水上が口ごもりながら答えた。真紀にストレスを与えてしまうことを心配しているのだ。
 余計な質問をしてしまった。真紀は後悔した。男にトラックが突っ込んできた瞬間の記憶が甦る。何かがひしゃげるような鈍い衝突音。死体は正視に耐えない状態に違いない。真紀の脳裏に血まみれの肉塊と化した男の顔が浮かぶ。
 あまりにおぞましい空想に真紀は身震いした。背中に冷や汗が伝う。イメージの中の男は血まみれになりながらも相変わらず表情を変えていなかった。
 最後の瞬間、真紀は男と目を合わせてしまった。自らの死を目前にしていながら、それに無関心でいるとしか思えない仮面のような顔。恐怖心、生への執着、真紀を救って死ぬことへの満足感でもいい。あの男が何らかの感情を表していれば、真紀はこれほど不気味な思いをせずに済んだだろう。