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青い薔薇の血族
三章 第三日
1.モンタージュ
 翌朝、真紀は夢を見て目覚めた。やはり確たる記憶は残っていない。印象に残っているのは、白い光に包まれている自分の姿だった。
 輝きながら手を広げて宙に舞う自分自身を、さらなる高みから見つめていたのである。
 いつもの悪夢とは異なる気がした。白い光は暖かくて、どこか懐かしい匂いを感じさせた。
 窓の外がようやく白みかけている。真紀は窓の外を覗こうと身を乗り出している自分に気づいた。意識しない自然な動き。昨日の痛みが嘘のようにひいていた。湿布が効いたのか、一晩熟睡したためか、いずれにしても急激な回復ぶりだ。
 窓の外から鳥の鳴き声が聞こえた。歌うようなさえずりは、真紀を眠りの淵へと誘っていった。
 真紀が再び目覚めて朝食を終えたとき、俊一が見舞いにやってきた。手には薔薇の花束。淡いピンク色のミニチュアローズ。
「まあ、きれい」
 真紀は顔を輝かした。不思議なことに普通の薔薇には何も影響を受けない。青い薔薇に対して説明のつかない忌避感を持ってしまうことが嘘のようだ。
「シンデレラっていう品種だそうだ。真紀は真夜中に消えちゃったりしないでくれよ」
 嬉しそうに薔薇の花束を眺めていた真紀の表情に影がさした。俊一の軽口に漠然とした不安を感じたのだ。
「どうした。どこか痛むのかい」俊一は素早く真紀の変化を読み取る。
「ううん、何でもない。今朝は痛みもすっかり消えちゃったわ」真紀は正体不明の不安感を振り払うように首を横に振った。
 それにしても信じられない回復ぶりだ。俊一に言われるまで自分が怪我人だということを忘れていた。
「今日にでも仕事に復帰できそうよ」
 青い薔薇の記事が書きかけのままだ。明日の午前中には入稿しなければならない。一時は諦(あきら)めかけたが、この調子なら何とかなりそうだ。
「おやおや、良くなったら早速仕事かい。恋人が目の前にいるのに仕事を取るとは見上げたプロ根性だ」俊一が冗談めかして言う。
 言葉に間が空き、真面目な表情になった。
「実は昨晩、編集長の幸田さんと電話で話したんだ。青い薔薇の記事は谷村さんが引き継ぐことになったそうだ」
「そう」言葉に力が入らない。
 真紀は喪失感にとらわれていた。理由はともあれ自分の仕事がまっとう出来なかったのだ。青い薔薇に対する感覚を考えれば、肩の荷が下りたという安堵感がないではない。だが、それで悔しさが帳消しに出来るわけでもなかった。
 俊一が優しく包み込むように真紀の手を握った。温もりが伝わってくる。真紀は俊一の胸に頭をあずけ、もたれかかった。俊一は真紀の髪を、ゆっくり愛しむように撫でる。真紀は穏やかな陶酔感に包まれていく。
 そのとき堅いノックの音が病室に響いた。二人は反射的に身を離す。別にやましいことをしていたわけではないが、妙に照れくさい。
 水上刑事だった。日曜の朝九時。徹夜で張り番をした警官といい、警察勤めも楽ではない。
 今朝は後ろに一人の男を従えていた。小脇にスケッチブックを抱え、ひょろりとやせた男だった。昨日、水上が話していたモンタージュの担当者に違いない。
「朝早くから申し訳ない。具合はどうですか」
 単なる社交辞令ではない。水上は真紀の容態を本当に案じていた。力強さの中に優しさを隠し持った好漢である。
「今も話していたんですけど、すっかり良くなりました。自分でも不思議なくらいです」
「そうですか、それは良かった」
「ところで捜査の進み具合はどうですか」俊一が尋ねた。
 新聞には意外なほど小さな記事しか載っていなかった。女性を襲った二人組の暴漢のうち一人がトラックにはねられ死亡した。伝えられているのはそれだけであり、真紀の名も伏せられていた。
 水上は残念そうに肩をすくめた。
「たいした進展はないです。神代さんのお宅付近を聞き込みして、昨日の朝に黒いセダンを見たという証人は複数見つかりました。残念ながら、その中にナンバーを記憶していた人はいなかった。今のところ誘拐未遂に使われたセダンと同一と確認できていません」
 真紀と俊一は水上の話を聞いて少なからずがっかりした。一刻も早く犯人を捕まえてほしい。犯人の生き残りが野放しになっていると思うと、安心して出歩くことも出来ない。
「犯人のセダンは、吉岡さんの車に追突しています。関東一円の修理工場に手配しました。その線から情報が入ればいいのですが」
 水上の言葉が途切れた。ナンバープレートの件から考えても犯人は用意周到だ。そんなドジを踏むとは思えない。
 その分、モンタージュの手配には期待がかかっていた。犯罪多発で人手不足の警察事情からしても、一般市民が捜査の協力者となるこの手法は価値が高い。
 事件解決の糸口として、モンタージュを見た市民からの通報は高い率を占めている。
「こちらがモンタージュを作成してくれる海堂画伯。これまでも多くの事件で実力を発揮している刑事です」水上が、ニヤリと笑いながら隠れるように立っていた男を紹介した。
「その画伯って呼び方はよしてくださいよ。私は画家の道をあきらめた男なんですから」海堂は小声で言いながらペコリと頭を下げた。早速スケッチブックを広げペンシルを取り出す。
「こいつは美大を出て警察に入った変わり種でしてね。さすがに基礎ができてるから、似顔絵を描かせると警視庁でもピカイチなんです」水上はからかうような口調だ。、
 日本の警察ではモンタージュ専門の画家を採用していない。警察官の中で絵がうまい者が描くことになっている。
 どうしてこの人が警察官になったのかしら。真紀は首をかしげた。確かに警察官というよりは、芸術家といった風貌の男である。
「それでは逃亡中の中年男からモンタージュを作りましょう」無口な海堂をサポートして水上が仕切っていく。
 顔の輪郭を決め、髪形を描き込む。真紀の言葉に従って顔の造作がはめ込まれていった。細部について修正が繰り返され、次第にモンタージュは真紀の記憶する顔に近づいていく。
 人一倍好奇心の強い俊一は、海堂の後ろから興味津々の表情で作業を覗き込んでいた。モンタージュ作成過程の見学は初めての経験である。
 犯人の顔が仕上がっていくにつれ、俊一の様子が変わってきた。眼差しに翳(かげ)りが差し、真剣な顔つきになっていく。
「この男、見たことがあります」俊一は、やや青ざめた顔でつぶやいた。声のトーンも低くなっている。
 そうだ、間違いない。俊一は一昨日の夜を思い出していた。新宿の街中で真紀と自分をつけ回した二人連れ。モンタージュの中年男は、あの二人の片割れだった。あの二人組こそ真紀を襲った犯人だったのだ。
 俊一は、水上に一昨日の顛末をかいつまんで話した。メモをとり終えた水上は、ペンで頭を掻き始めた。
 犯行の計画性が、俊一の証言でより確実なものとなった。昨日は警護の警官を置くことで上司を説得するのに一苦労した。増加する凶悪犯罪のため警察は慢性的な人手不足に陥っている。
 なかなか首を縦に振らない上司に、水上は事件が計画的であることを力説した。まだ若手のうちに入る水上にとっては綱渡りといえる行為だった。だが、再度の襲撃が実行される可能性を考えれば手をこまねいてはいられない。判断が外れれば、始末書とはいかないまでも叱責は免れないだろう。覚悟の上の行動に裏づけが出てきたのだ。
 横で聞いていた真紀の顔から血の気が引いていく。あの新宿での夜、真紀は二人を見ていない。だが、俊一の話に間違いはないだろう。夜の新宿、翌朝のマンション前、そしてついに襲撃を実行した出版社。犯人は執拗に自分をつけ回し狙っていたのだ。考えただけで鳥肌が立ってくる。
 真紀の脳裏に、またしても若い男の顔が浮かぶ。その顔は血まみれであったが、それでも無表情なままだった。どんよりと曇った眼差しで真紀を見つめ続けている。
 真紀は急激なめまいに襲われた。胸がむかついて、ひどく気分が悪い。
「真紀、大丈夫か」真紀の変化に気づいた俊一が心配そうに声をかけた。
「すまない。無理をさせてしまったようだ」言いながら水上は枕元のナースコール・スイッチに手をのばした。
「大丈夫です。ちょっと疲れただけですから。少し休めば治ります」
 真紀は水上を押しとどめた。顔面蒼白で額にうっすらと脂汗が浮かんでいる。
「とにかく休憩にしよう。そうだ、話を聞くと加賀さんも一昨日に犯人を目撃しているそうだ。こういうのはどうですか」水上は、ふと思いついて提案した。
「加賀さんに協力してもらってモンタージュを作成する。完成してから神代さんに確認してもらえばいい」
 この方法なら真紀の負担は軽くてすむ。それにこの心理学者の卵は、警察学校で研究中の特殊な記憶術をレッスンした経験があるらしい。より完成度の高いモンタージュが期待できそうだ。
「そうしてもらえると助かります」
 俊一は水上の心遣いが嬉しかった。タフガイという形容が似合ういかつい刑事とヤサ男とも言える心理学者の卵。外見的には共通点のない二人だが、妙に通じ合うものがあった。
 真紀としても大助かりだった。一刻も早く忘れたいあの顔を、モンタージュのため克明に思い出すことは拷問に等しい。その作業から開放されると思うと、気分が少し楽になってきた。
 病室で真紀を休ませ、モンタージュ作成は看護婦室の一角を借りて続行することになった。忙しく出入りする看護婦たちがチラチラと好奇心に満ちた視線を送る。
 院内でも事件の詳細を知らされているのは院長と担当医のみ。看護婦たちは事情を知らされていない。それ故に警官が警護する若い患者はかえって注目の的となっていた。致し方のないことではある。
 その野次馬根性は、俊一と真紀の美男美女ぶりによって一層煽(あお)られていた。
 何となく居心地悪い思いをしながらも、若い男のモンタージュが完成した。真紀は、それが犯人の一人に間違いないことを確認した。
 動機は不明のままだが、犯人が執拗に真紀を狙っていることは確実となった。犯人の一人が死んで諦める可能性もあるが楽観は許されない。水上は真紀の身辺警護に一層の尽力が必要と判断した。
「それでは、これで失礼します。急いでモンタージュ手配の手続きを取らなければなりません」
 水上は真紀たちに別れを告げると、廊下で張り番する警官の元に立ち寄った。水上とは顔見知りの板倉という若い警官だった。童顔だが柔道と合気道の心得がある。
 水上は板倉にねぎらいの言葉をかけたあと、犯行に計画性があり真紀が再び狙われる可能性が高いことを告げた。板倉の顔に緊張が走る。
 その引き締まった表情に水上は目的が達せられたことを確信して病院を後にするのだった。