前へ 目次 次へ
青い薔薇の血族
三章 第三日
2.奇妙な訪問(1)
 モンタージュの作成を完了し、精密検査も終わった。後は検査結果を待つのみ。
 もともと打撲のみだったが、それすらも今朝方にはほとんど回復していた。医師が驚嘆するほどの早さである。検査結果に異状がなければ退院許可がおりると聞かされていた。
 結果を待つ暇つぶしに、俊一はさかんに笑い話を続けていた。真紀が、もう笑っても痛くないといったためだ。真紀が大笑いしている時、幸田編集長と吉岡が見舞いに訪れた。
「なんだ、なんだ。病院を追い出されそうなほど元気だな」幸田の言葉に真紀は思わず舌を出した。
「一晩寝たら、すっかり良くなりました」
「うん、なによりだ」にこやかな顔が、得意の苦虫つぶした顔になった。「加賀くんには話したんだが、青い薔薇に記事は谷村くんに引き継いでもらうことになった」
 どんな理由があるにしろ、編集者にとって担当を外すということはつらい決断だった。
「聞いています」真紀は伏せ目がちに答えた。
 真紀には負担をかけないよう黙っているが、会社の目前で記者が事件に巻き込まれたことを問題視する幹部がいた。真紀を一線から外してしまえという乱暴な意見もあり、幸田にも圧力がかけられた。
 幸田は、現在進行中の記事だけを交代し、事件の進捗を見ることで何とか了解を取りつけたのである。
 幸田にとっては、頭痛のタネが頭のあちこちから芽を出しそうな状態。胃が痛んで好きなコーヒーも今朝から絶っている有様だ。
 明日入稿の記事は、真紀のパソコンに残っていた書きかけの原稿をもとに谷村が書き始めていた。真紀は担当記事が書き上げられなかったことが情けなく、忙しい仲間たちに迷惑をかけることが辛くもあった。
「昨日は本当にありがとう。私が助かったのはヨッちゃんのおかげよ」
 そんな中で吉岡に礼が言えたことが嬉しかった。あの時、吉岡がクラクションを鳴らさなければ、真紀は確実に拉致されていた。吉岡は照れて首を横に振るばかりだが、間違いなく命の恩人なのだ。
「ごめんね。車、傷ついちゃったでしょ。弁償するからね」
「いいんすよ。そんなこと気にしないでください。ほんのカスリ傷っすから。真紀さんの笑い声が聞けただけで十分っす」
 二人が帰り、しばらくして検査結果の報告があった。まったく異状なし。昨日は広範囲にわたって貼られた湿布も、特にひどかった数箇所を残すのみとなった。
 真紀はもともと病院が好きではない。とりわけ今回は病院の持つ閉鎖的な雰囲気が、落ち込みがちな自分の気持ちに悪影響を及ぼす気がする。真紀は早速手続きを取り、俊一とともに病院を後にした。

 その日、所轄管内に真紀の住むマンションを持つ警察署に奇妙な訪問者があった。五代蘭山である。
 蘭山は仕立ての良い英国製生地のスーツを着込み、その紳士的風貌にいっそうの磨きをかけていた。右足が悪いのか、握りがT字型になったステッキでかばうようにして歩いていた。
 受付で応対に出たのは若い婦人警官だった。蘭山は胸の内ポケットから黒革の名刺入れを取り出す。
 差し出された名刺を見て、地味な顔立ちの小太りな婦人警官は「あら」とつぶやいた。「神秘学研究家・五代蘭山とある。
 婦人警官は思わず蘭山の顔を凝視した。蘭山の著書を読んだことはないが、新聞や雑誌の広告で度々名前を目にしていた。広告に掲載された著書のタイトルやキャッチコピーは、どれも扇情的でいかがわしかった。
 その先入観があったため婦人警官は、蘭山を山師的な宗教家くらいに思っていた。それは目の前にいる蘭山本人の印象とはまったく相容れないものだった。それでつい蘭山の顔をまじまじと見てしまったのだ。
 蘭山は悠然と構えていた。このようなことは慣れっこなのだ。
 もともと日本では心霊現象を科学の対象から外している。日本人の大半は心霊現象の研究に携わる者など、一種のイカサマ師であるとみなしてしまう。蘭山自身、国の内外を問わず心霊現象に関係するものの九九パーセントが金目当ての偽者であることを承知していた。自分が残りの一パーセントであると声高に叫ぶのは、この国では無意味なことだ。
 それに拍車をかけるのが出版社の販売戦略。著作のタイトルは出版社により勝手に変えられてしまう。いつに間にか蘭山本人が恥かしくなるほど大仰なタイトルがつけられてしまうのだ。
 蘭山にとって原稿料、印税は重要な収入源であり、それがなければ研究の続行もままならない。不満はあっても、本文そのものが改ざんされない限りは極力黙っていた。
 本人がマスコミの表舞台に出れば、多少は悪印象をなくすことができるかもしれない。だが、蘭山は思うところがあり、それも避けている。周囲の目を気にせず信念を貫く、これが蘭山の処世術となっていた。
「失礼しました。何か御用でしょうか」蘭山の堂々たる態度に自分の非礼を恥じ、婦人警官は顔を赤らめながら尋ねた。
「ここの所轄管内について伺いたいことがありましてな」
 何かの取材だろうか。婦人警官は考えた。報道関係者であることを証明するプレスバッジを持たない者の取材は断ることもできる。しかし、相手が有名人ということもあり、一存では決めかねた。本来なら広報の担当者に頼むのだが、あいにく手の空いている者はいない。
 とりあえず蘭山を応接室に案内して署内を見渡すと、刑事の鳴海(なるみ)が目に入った。婦人警官の目が輝く。思わぬところで鳴海に声をかけるチャンスができた。
 鳴海はスマートで端正な顔立ち、スポーツマンタイプの若手刑事だ。署内の婦人警官の間で密かにファンクラブが作られている。
「あのう、すみません」婦人警官は似合わない猫なで声で鳴海に話しかけた。
 鳴海も蘭山の名前は知っていたが、やはり著作を読んだことはない。もともとオカルトや超常現象などは否定する信条の持ち主だ。
 何でまた俺がうさんくさい人物の相手などしなくちゃならないんだ。上司からせかされている報告書の作成もある。
 鳴海は断ろうとして、とっさに考えを翻(ひるがえ)した。応接室ならタバコが吸える。婦人警官の増員も手伝い、昨今の禁煙ブームは警察署をも襲撃していた。
 一年前から署内は禁煙とされ、喫煙は廊下に設置された喫煙コーナーのみとなった。例外は署長室、会議室、それに応接室。強面のベテラン刑事が廊下の隅でパイプ椅子に座りタバコをふかす姿はなんともいじましい。
 実は鳴海も稀代のヘビースモーカー。ではあるが廊下の隅で小さくなってタバコを吸うのはスタイリストのプライドが許さない。おかげで大嫌いだった会議に嬉々として参加するようになってしまった。
「よし、俺が応対しよう」
 鳴海はタバコとライターを手にすっくと立ち上がった。その颯爽(さっそう)たる鳴海の姿を見て、婦人警官は憧憬(どうけい)の念を新たにするのだった。
 応接室に入るなり、鳴海も先程の婦人警官と同様に意外の感を禁じえなかった。粗末なソファにピシリと背筋を伸ばして座る蘭山のかくしゃくたる姿。年齢を感じさせない精気にあふれた目の輝き。非の打ち所のない紳士ぶりだ。
 これがあの五代蘭山か。オカルトの研究者などというから、いかがわしい人物を想像していたのだが。いやいや、一見して怪しい詐欺師はいない。外見に惑わされてはだめだ。鳴海は気を引き締めた。
「足が悪いので、失礼して据わったままで挨拶させてもらいます」蘭山は落ち着いた声で名乗った。
 鳴海は、ソファに立てかけてあるステッキをちらりと見た。
「失礼して吸わせてもらいます」
 挨拶が終わると、ソファに腰を下ろしながら鳴海は早速タバコを取り出す。有無を言わせない断固たる態度。これは相手が不審なオカルト研究家だからというわけではない。たとえ総理大臣相手でも鳴海は同じ態度を取っただろう。至福の時だとでも言いたげな表情で紫煙を吐き出す。
「今日お伺いしたのは、最近この近辺で不審な出来事が起こっていないか確かめたかったからなのです」蘭山は切り出した。
「不審な出来事とおっしゃられても、範囲が広すぎますね。具体的にはどういうことを調査なさりたいのですか」
「いや、漠然とした話で申しわけありません。実はこのところ邪気の動きが活発になっておりましてな。とある霊能者が卦を行ったところ、この警察署の所轄管内に集中しているというのです」
 鳴海は早くもうんざりし始めていた。以前からオカルトだの超常現象だのは子供だましのヨタ話にすぎないと考えている。いきなり邪気だの卦だのと言われても答えようがない。相手が有名人でなかったら丁重にお引取りいただくところだ。