青い薔薇の血族
三章 第三日
2.奇妙な訪問(2)
蘭山自身も面会早々気づまりな雰囲気となって困惑を隠しきれない。
「一般の方が奇妙に思われるのはもっともですが、霊的な力は存在します。しかも、今回の邪気は日を追うごとに力を増しています。手遅れにならないうちに正体を突き止め、手を打たなければ大変な災厄に及ぶ可能性があるのです」
蘭山の口調はあくまで冷徹であり、狂信者のそぶりもない。それでも鳴海にとって卦などという言葉は、当たるも八卦当たらぬも八卦といったイメージでしかなかった。災厄などと言われても実感がわかない。
やはり神秘学研究家などという肩書きを持つ人間は信用できない。そもそも外観的な容姿や態度などは決定的な判断基準にはならないのだ。
暴力団幹部という裏の顔を持つ者が実業家然とした貫禄の持ち主で、そこらの三流政治家などより押し出しの効く人物だったりすることは珍しくない。
一方、我が署内を見渡すと同僚は皆誠実な警察官であるが、ダークスーツにサングラスを着用すれば、まず堅気には見えない輩(やから)がぞろぞろといる。
いずれにしても鳴海の知る限り、蘭山の意図していそうな事件など起きていない。ここは穏便にお引取りいただくのが一番だ。
「どのような事件をさして不審な出来事とおっしゃっているのかよく分かりません。ただ、この数日間で所内に起きているには平凡な事件ばかりです。私の知る限り、お話しするようなことはありません」鳴海は二本目のタバコに火をつけながら、できるだけ穏やかに言った。
とにかく相手は有名人だ。印象を害さないにこしたことはない。とんだ時間つぶしではあったが、ゆっくりタバコを吸えたことを思えば腹も立たなかった。
蘭山は、はぐらかされたように戸惑った表情を見せた。やはり、この刑事は自分を信用していないようである。まあ、それも仕方のないことだ。蘭山の経験からすれば、これでもかなり丁重な対応といえた。
それにこの刑事が、あえて嘘をついているという印象はなかい。少なくとも今のところ特殊な事件が起きていないことは事実らしい。
「そうですか。何も起こらなければ、それに勝ることはありません」
口ではそう言いながらも、蘭山は自分の言葉を信じてはいなかった。邪気は恐るべき勢いで力を増している。このまま何も起こらないはずはない。
「今日はこれで失礼します。万一、何か起こったら私に連絡してください。くれぐれもお願いします」
蘭山はステッキを手に立ち上がった。鳴海は名残惜しそうにタバコの火を灰皿で揉み消すと、蘭山の名詞をポケットにしまい込んだ。
どのような事件が起ころうとしているのか、蘭山本人にも分からない。いずれにしても、それは通常の警察捜査では解決し得ないものとなるだろう。その時、この刑事が私のことを思い出してくれれば良いのだが。
今回の行動は、美剣香奈の指示によるものだった。修業中の身でありながら、その霊力は日本でも屈指。蘭山は心霊現象による事件に関して、警察に期待するものはなかった。だが、香奈の助言であれば、何か重要な意味があるに違いない。
香奈自身も、この行動の真意を悟っているわけではなかった。香奈はシャーマンとしての力を発揮して「大いなる宇宙意志」の言葉を聞いたにすぎない。
警察署を出ると、辺りは都会特有の濁った夕焼けに包まれていた。蘭山は空を仰ぎ見た。確かに香奈の言うとおりだ。この辺りの邪気は一段と強さを増している。
得体の知れない暗黒の力が渦巻いていた。蘭山の力では邪気の流れる方向まで察知することはできない。それでも獲物を狙う猛禽(もうきん)類の獣性を孕(はら)んだ禍々(まがまが)しい感覚がひしひしと迫ってくる。
蘭山は視線を落とし、雑踏に目をやった。平凡な日常風景、行き交う人々。
当初、蘭山は香奈を巻き込むことを躊躇(ちゅうちょ)していた。結局は香奈の方から連絡を取ってきたのだ。
香奈は言った。全てのことには意味があります。自分が霊能者の力を持って生まれたことも、計り知れない意味があるはずです。そして、今回の件こそ自分が使命を果たす時の到来であるという気がするのです、と。
邪気の猛悪な感覚に蘭山は身震いした。いずれにしても自分の力では及ばない。この邪気に対抗できるのは、やはり香奈しかいないのだ。香奈の華奢(きゃしゃ)な肢体を思うと蘭山の胸が痛む。
香奈は、すでに橘神社を出立していた。今夜遅くには蘭山の元に到着する手筈だ。
蘭山はステッキを使い、右足をかばうように歩き始めた。この右足も、以前恐るべき悪霊と対峙したときの代償だった。今度は右足程度ではすまないかもしれない。濁った夕日に赤黒く染められた蘭山の後ろ姿は小さかった。
その日の夜、水上は自分自身で真紀の警護に当たることにした。覆面パトカーをマンションの斜め向かいに目立たぬよう停車した。マンションの正面玄関、側壁に設置された非常階段。両方を同時に見渡せる位置だ。真紀を狙って侵入しようとする者がいれば必ず目につく。
退院した真紀が帰宅した時点でマンション内はくまなく捜索済だ。その後、この時間まで不審者の出入りがなかったことも確認できている。
セキュリティ・システムにより、外部から入るにはIDカードを使用するか、インターフォンで連絡して住人にロックを解いてもらうしかない。のこのこやって来れば思うつぼだ。
途中で買ってきたハンバーガーをパクつきながら、水上は事件について想いを巡らした。動機は何だろうか。今のところ動機を特定できる要素は挙がっていない。
夜の新宿、真紀のマンション、勤務先の出版社。犯人は真紀を執拗(しつよう)につけ回した挙げ句、犯行に及んでいる。
怨恨説に対して本人は心当たりがないと言っていた。だが、雑誌記者という真紀の職業を考慮すれば、怨恨説を簡単に捨ててしまうわけにはいかない。彼女以外の書いた記事が動機となる可能性もある。雑誌全体への復讐として真紀がターゲットに選ばれたのかもしれない。
本人に責がないのに狙われるといえば、ストーカー犯行のケースもある。ストーカー説は安直すぎると水上は感じていた。通常、ストーカーは段階的に行動をエスカレートさせる傾向がある。今回のように前触れもなく拉致に及ぶケースはこれまでなかった。
とはいえ犯人が異常者であれば常識は通用しない。この説も否定してしまうことは出来なかった。
営利誘拐はどうだろうか。真紀の実家は、岐阜の美濃に屋敷を構える旧家だという。古くからの家系だが、特に富裕というわけではないらしい。それでも、それなりの資産は持っていると見て差し支えないだろう。この可能性も捨てられなかった。
中国人の人身売買組織が日本に上陸したとの情報もあった。水上は真紀の容姿を思い浮かべた。日本的な顔立ちが好みな水上からすれば、少し華やかすぎる容貌。並外れた美貌の持ち主であることは間違いない。ポーランド人の血が四分の一混じっていると聞いた。くっきりした目鼻立ちは下手なモデルより上だ。
この手の組織から見ても商品価値の高い獲物ということになるだろう。だが、そのような組織が一人に目をつけて、つけ回すことをするだろうか。危険を冒すより不特定多数のターゲットを狙うのが常のはずだ。この可能性は、完全に否定は出来ないまでも極めて低いと判断した。
一度失敗して死人まで出した今、犯人は再び真紀を襲ってくるだろうか。一昨日までは全く無防備だったが今は違う。警察が警備に乗り出し、本人も警戒している。この状況での誘拐は極めて難しい。よほどの動機がなければ諦めてしまうだろう。
水上は判断をつけかねていた。仲間一人が死んだからこそ、無謀を承知で報復に出る可能性もあった。凶悪な犯罪者ほど逆恨みしやすいものだ。
あまりにも少ない情報の中で、頼りになるのは刑事の勘だけだ。そして水上の勘は告げていた。このままで終わるはずはないと。
犯人の一人が真紀の身代わりとなって死んだ。真紀は、この事をひどく気にしていた。無理もないことだ。若い女性が突然二人の暴漢に襲われ、その一人が目の前で死んだのだ。過敏な反応をしても仕方がない。
水上は、この一件はさほど重要視していなかった。犯人はトラックに気づいていなかったにすぎない。真紀を助けようとしたわけではないのだ。追いかけていたはずみで偶然に真紀を突き飛ばす形になり、そこにトラックが突っ込んできた。無表情だったのは、単に状況を理解していなかったからだ。
身代わりになったのは偶然の結果。今頃犯人は地獄で、なぜ自分がここにいるのか分からず慌てふためいていることだろう。
とにかく手がかりが少なすぎた。明日からモンタージュを使用した聞き込みが開始される。人相書きというのは最も原始的な捜査手法の一つだが効果は高い。視覚に訴える方法は犯罪捜査においても極めて有効な手段だ。
事件発生以降の捜査進捗状況は、水上にとって歯がゆい限りだった。具体的な情報は、ほとんど入手できていない。真紀を囮にするつもりはないのだが、いきおい張り込みには期待がかかってしまう。
目の前に犯人が現れれば必ず捕まえてみせる。水上は、決意に目を輝かせ張り込みを続けるのだった。