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青い薔薇の血族
四章 第四日
2.鳴海
 青いローブを着た女は、祭壇前の床に転がり身をよじっていた。快楽と苦痛の両方に苛(さいな)まれ、獣のような呻き声を上げている。
 壇上に祀(まつ)られた水晶玉の中に浮かぶ青い塊も痙攣(けいれん)して震えていた。以前は青い霞に過ぎなかったが、今は嵩(かさ)が増し輪郭も明確になっていた。
 その青い塊が電波を乱されたテレビ映像のようにビリビリと震え、姿を消しては現れる。
 その度に女は自分の力が吸い取られていくのを感じた。耐え難いほどの苦痛と快楽が波のうねりとなって襲ってくる。ついに女は白目を剥いて床に突っ伏し痙攣を始めた。口から涎(よだれ)を流しながら喘いでいる。
 水晶玉の中では、ようやく青い塊が形を安定させていた。先端に蕾を付けた三本の茎である。葉と茎の形状から、それが薔薇であることは明白だった。
 薔薇の姿を維持するために消費した膨大なエネルギーを、下僕である女から奪っていたのだ。使い魔を打ち返されたダメージは、それほどに激しかった。
 水晶玉に宿る思念は、油断しすぎていたことを後悔した。刑事など相手にせず塀を飛び越えてしまえば良かったのだ。袋小路での、ちょっとした気まぐれが、このような事態を引き起こしてしまった。
 それにしても今回の器は思いのほか強い力を持っている。十分に時が満ちていなかったとはいえ、我の放った使い魔を打ち返すとは。
 だが、それだけに器を手に入れたときが楽しみだった。あの器を捕らえ我が身としたとき、間違いなくこれまで以上の力を身につけることができる。今度こそ我が、愚かな人間どもに君臨する時代が来るのだ。
 ただ一つの問題は、今回の失敗で力を消耗しすぎたことだ。餌となる女の精気を吸っても万全な回復には今しばらくかかる。
 青い薔薇は邪悪な思念をめぐらす。回復をのんびり待つ気はなかった。策略を使えば済むことだ。
 器は真に覚醒したわけではない。正面切って戦わなければ良いのだ。羽のもげた小鳥を網で捕らえるように他愛のないことである。
 祭壇の前では女が痙攣を続けていた。全身から精気を吸い取られて立ち上がることすらできない。女は陶酔状態にあった。正常な思考が奪い取られ、まやかしの快楽に酔わされているのだ。

 結局、水上は事実を伏せることにした。自分の体験を正直に報告しても、上司に信じてもらえるとは思えなかったからだ。
 誘拐未遂犯人は全身毛むくじゃらで弾丸を食らっても平気な化け物。自分でも錯覚だったと思いたいくらいである。
 水上は当たり障りのないストーリーを組み立てて報告した。
 単身張り込んでいた水上は、深夜零時頃にガラスの割れる音を聞いて覆面パトカーを降りた。警戒して周囲を窺っているところに、真紀を抱えた誘拐犯が姿を現した。
 水上は逃走する犯人を追跡し袋小路に追いつめた。犯人は真紀を抱えたままでは逃走不可能と判断したらしい。真紀を路上に下ろすと、水上の威嚇射撃をものともせず塀を飛び越えて逃走してしまった。
 これが水上のこしらえたストーリーだ。犯人の顔は確認できなかった。身長二メートル以上、季節外れなダークグレーの毛皮コートを着た筋肉質の巨漢。
 水上は後ろめたさに身のすくむ思いだった。まさか刑事である自分が偽証する羽目になるとは。ばれたら始末書程度ではすまないだろう。
 だが、真実を語ったところで受け入れられるとは思えない。精神状態を疑われて捜査から外されてしまうのがおちだ。それだけは何としても避けたかった。
 事実を知っているのは自分だけだ。何としても真相を掴みたい。
 どうして自分は、この事件に執着するのだろうか。水上は不思議に思った。魔物と対峙したときの恐怖感。まさしく死を覚悟した絶体絶命の瞬間だった。あの恐ろしさを思えば、捜査を外されたほうがよほど気楽ではないか。
 どれほど残忍な凶悪犯を相手のしようと、あの魔物よりはましだ。何しろあいつは、これまでの自分が持っていた常識をくつがえす存在なのである。
 関わった事件は、とことん追及せずにいられない刑事魂ってやつだろうか。答えは出なかった。水上には、この事件が自分にとって宿命的なものという予感がした。
 夜明けまであと少し。日の出を一時間ほど前にして現場は混乱を極めていた。闇を切り裂いて点滅するパトカーのランプ。駆り出された鑑識官や制服警官、都会ゆえに野次馬も増える一方だ。事件をかぎつけて新聞記者も姿を現し始めていた。
「よお、大変だったな」
 聞き覚えのある声に水上が振り返ると、鳴海が突っ立っていた。
 水上と鳴海は警察学校時代に同じ釜の飯を食った同期の桜だ。見た目の雰囲気も性格も違う二人だが妙にうまがあった。
 酒に強いことが数少ない共通項の一つで、「時間ができたら飲みに行こう」が二人の合言葉である。残念なことに、この二年間二人に時間のあったためしはない。
 水上は思い出した。真紀が住むマンションは、鳴海の勤務する署の管轄内に位置している。
 緊急に駆り出されたのだろう。鳴海の頬は無精ひげにおおわれていた。いかつい水上が無精ひげをはやすと指名手配の凶悪犯ができ上がるのに対し、二枚目の鳴海は無精ひげでもハードボイルド映画の主人公のようだ。
「こんな時間にご苦労様、この職業、全員が大変なのさ」水上は言葉を返した。
「まったくだな。それにしても、こいつは妙な事件だ」
 妙な事件、という言葉が引っかかった。水上は報告に時間を取られたため、まだ真紀の部屋を見ていない。どのような状況なのだろうか。客観的に魔物の存在を示す証拠でも見つかれば状況は一変してくる。
「現場はどんな具合だ」
「一種の密室犯罪だぜ。犯人は窓ガラスを破って侵入している。ガラスの破片が部屋の内側に散乱しているから間違いない。ところがその窓にベランダはないんだ」鳴海は肩をすくめながらタバコを取り出した。
「屋上からロープを使って侵入したんじゃないか」
 水上の言葉に、鳴海が人差し指を横に振った。
「屋上の手すりにロープを垂らした痕跡はない。ロープは外したとしても、手すりが錆びついているから必ず跡が残るはずだ。しかも屋上自体出入口に鍵が掛かっていて開けた形跡すらない」鳴海はふうっと紫煙を吐いて続けた。
「ガイシャの上階の部屋も調べた。七階の女子大生は留守だが、玄関も窓もきちんと施錠された状態だった。最上階にはサラリーマンの家族が住んでいる。窓際には中学二年の長男がベッドで寝ていた。追跡調査は必要だろうが、この家族が今回の犯行に加担している可能性は薄い」
 鳴海は魔物の存在を知らない。今回に限り通常の科学捜査セオリーが通用しないことに気づくはずもなかった。
「そいつはないないづくしだな」
 まぜっかえす気はなかったが、水上の口からつい軽口が出た。鳴海は気にもとめず話を続ける。
「そのうえ犯人が被害者を抱えて出たはずのドアは、内側から施錠されてチェーンまで掛かっていた。おかげで大型ニッパを使ってようやく現場に入る始末さ」
 人間業ではないということだ。しかし、水上の体験を具体的に裏付けるものは何もない。やはり事実は当面隠しておいた方が良さそうだ。得に鳴海はオカルトとか超自然現象とかには拒絶反応を示すタイプだ。いや、数時間前までは水上自身もそうだった。鳴海との共通事項がひとつ減ってしまったわけだ。
「被害者の女性、一昨日も狙われたって話だな」今度は鳴海が問いかけた。
「ああ、それで張り込んでたんだ。動機も分かってないが、執念深い犯人であることは間違いないな。犯人の一人はすでに死亡しているが身元はまだ判明していない」
 水上は肩をすくめる。この事件には人知を超えた背景がある気がした。これまで自分がとってきた捜査方法では、真相に近づくことができないのではないか。
「全くもって奇妙な事件だ」鳴海は、自分が吐き出した紫煙がゆらゆらと漂うさまを眺めながら言った。
 自分の言葉に引っかかるものがあった。しばらく眉をひそめて考え、思い当たった。
「そうだ。水上、オカルト屋の五代蘭山って知ってるか」
 水上は小さく肯く。以前、新聞で新刊書の広告を見たことがあった。あやしげなタイトルの本だったが、かなり大スペースの広告だったと記憶している。
「実は昨日、その蘭山がうちの署に来たんだよ。それで唐突に、何か奇妙な事件は起きてないかときやがった」
 鳴海は、うんざりした表情で言った。早くも二本目のタバコを取り出している。鳴海としては、ふと思い出したことを口にしたにすぎない。戯れ言のつもりだった。だが水上には感じるものがあった。
「奇妙な出来事?」話を促そうと水を向ける。
「何でも、この辺りで邪気の動きが活発なんだそうだ。詳しくは聞きもしなかったがね。超能力者の占いがどうとか言ってたな。全く人騒がせな爺さんだ」
 鳴海が本気で取り合わないのは当然だろう。水上も今夜の事件を実体験していなければ、耳を貸さなかったに違いない。
 銃撃さえ通用しない化け物の存在は、水上の人生観に色濃い影を落とすほどの衝撃だった。聞き捨てにはできない。
 蘭山の言う奇妙な出来事とは何を指しているのか。今回の事件に関係しているのだろうか。どうしても確かめたい。水上は強い衝動に駆られた。
「そうか、そんな用件で署を訪れたのか。五代蘭山って、この辺りに住んでいるのか」
 水上は今日が非番だった。本件の報告書を提出すれば解放される。ひそかに蘭山を訪問し、鳴海に話したことの真意を尋ねてみようかと思い始めていた。
 病院に担ぎ込まれた真紀の容態も気になっていた。病院に様子を見に行こうと考えていたのだが、真紀への事情聴取という形式をとれば職務中でも面会できる。
 それに対して蘭山との面会は、公務として報告できる内容にはならないだろう。あくまで私事として実行する必要があった。とすれば今日を逃すことはできない。
「いや、それほど近くもないんだ。高齢で足も悪そうなのに、ご苦労なことさ。そうだ。確か名刺があったはずだ」
 鳴海はスーツのポケットを探った。蘭山との面会の後、雑用に追われてそのままにしていたはずだ。
「ああ、これだ。何かあったら連絡してくれと言ってたっけ」
「おい、鳴海。その名刺くれないか」
 鳴海が怪訝(けげん)な顔をした。水上も自分同様この手の話には興味なかったはずだ。
「それは構わないが、どうしたんだ突然、宗旨替えでもしたか」
「いや、親戚に蘭山の大ファンがいてね」
 水上は冷や汗をかいていた。我ながら間抜けな言い訳だ。ちょうどその時、鳴海に声が掛かった。署の先輩刑事だ。
「いけねえ、ちょっと油を売りすぎたな」
 鳴海は慌ててタバコを携帯灰皿で揉み消すと水上に名刺を渡した。
「ま、とにかく時間ができたら一杯やろうぜ」
 鳴海は手を振って現場へと去っていく。
 水上は手にした名刺を見つめた。何の変哲もない名刺。自分は今、昨日までとは違う世界に踏み込みつつあるのではないか。この名刺が、後戻りできない異世界へのパスポートとなるような気がした。