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青い薔薇の血族
四章 第四日
3.運命の輪
 真紀は病室の天井を見つめていた。傍らの椅子では駆けつけた俊一がまどろんでいる。真紀の無事な姿を見て安心したのだろう。
 救急車で運ばれたとき、真紀はショックで一時的な心神喪失状態にあった。感情が激昂し、コントロールできなくなっていた。医師に鎮静剤を打たれて三時間ほど眠り、ようやく落ち着きを取り戻したのだ。
 またしても病院のベッドに逆戻りした。この数日間、同じことを繰り返してばかりいる気がする。
 いや、喜ぶべきなのかもしれない。もし自分を狙う者たちの手に落ちていれば、こうして目覚めることすらかなわなかったかもしれないのだ。
 忌わしい記憶が真紀を悩ませ、暗い気分に陥るる。水上は魔物に襲われ、絶体絶命の恐怖に震えていた。
 あの時、真紀の内部で炸裂した心の叫び。それは白い閃光となって辺りを覆いつくし、魔物を消滅させてしまった。あの光を発したのは、自分の力なのだろうか。
 真紀を悩ませ続けた悪夢。目が覚めると記憶から追放されていた悪夢の内容が蘇りつつあった。そして、真紀はついに理解した。自分が悪夢に極端なまでの畏怖感を抱いたのは何故だったのか。
 魔物に襲われるという恐怖ゆえではなかった。それだけならただの怖い夢にすぎない。目が覚めれば子供だって怖がりはしないだろう。
 あの悪夢の最後の瞬間。真紀は恐るべき力を発した。人間が決して持ち得ない、自身が怪物と化したかのような力。恐怖の対象は、光を放って魔物を消し去ってしまう自分自身だったのだ。
 真紀は悪夢が不吉な予兆であったことを知った。それはすでに現実となり真紀の身に襲いかかってしまった。
 水上を救うためとはいえ、自分は異常な力を発揮したのだ。どうしてあんなことができたのか分からない。だが、自分がやったという確信は時を追うごとに深まっていた。自分にも制御できない力が魔物を滅ぼしたのだ。
 これからどうなってしまうのか。いつか自分も、あの毛むくじゃらの魔物のような存在になってしまうのだろうか。
 真紀は心細さに身をさいなまれた。上を向いたままの両目の端から涙がこぼれるのを感じていた。
「気がついたんだね、真紀」
 いつの間にか俊一が真紀の顔を覗き込んでいた。真紀は我に返った。自分は今、猛悪な負の感情に身を捉えられていた。自分自身さえ否定してしまうほどのマイナスエネルギーだった。
「ごめんよ、ついうとうとしてしまった。どこか痛むのかい」俊一は、右手で真紀のこめかみを濡らす涙をそっとぬぐった。
「ううん、ちょっと心細かっただけ」
「そうかい。でも体が冷えきってるよ」
 言いながら俊一は真紀の右手をさすった。両手でやさしくはさみ愛しそうに。俊一の温もりが力となって伝わってきた。一度は凍てついた真紀の心が、氷が解けるかのように和んでくる。
 自分は独りぼっちじゃない。真紀は決心した。今度こそ俊一に全てを打ち明けよう。自分には心を分かつ相手がいる。
 俊一は、真紀の心の動きを敏感に感じ取った。
「やっと話してくれるんだね」
 嬉しかった。この数週間、真紀が何か悩んでいることは分かっていた。真紀は、それを心に秘めたまま語ろうとはしなかった。
 それが、ここにきての事件の連続だ。真紀を不安がらせまいと平静を装っていた俊一だが、内心は嵐のような状態だったのである。
 連続して起きている事件と真紀の悩みは繋がりがあるのだろうか。俊一にとって真紀の相談相手になれないことは寂しく、苦痛ですらあった。だが、無理に聞き出すこともしたくない。
 話さないことには真紀なりの理由があるのだろう。俊一は待ち続けていた。それがようやく話す決心をしてくれたのだ。
 真紀の語った内容は、常識的には信じられないものだった。心理学的に錯覚とか妄想で片づけてしまうこともできる内容。
 俊一は少なからず動揺した。これまで自分が学んできた学問では説明がつかない。だからといって否定して良いものだろうか。
 人間の科学の歴史など宇宙そのものの時間からすれば問題にならないほど短い。
 しかもこれは他ならない真紀の言葉なのだ。科学者としての立場など重要ではないと思える。
 どのような結論に結びつくかは分からない。とにかく俊一は真紀の言葉を全面的に信じることを出発点とした。
 夢と現実の奇妙な符合。執拗に真紀を狙う不可知の存在。悪夢は現実として身近に迫りつつあるのだ。
「真紀の見る夢が、事件を解明するヒントを与えてくれるような気がするな」
 俊一は考え込んだ。真紀が見る夢には、何か意味がある気がした。真紀は悪夢と捉え忌み嫌っているが、視点を変えれば違う見方もできるのではないか。
 夢は真紀を今襲っている現実離れした事件について警告を与えようとしていたのかもしれない。俊一は、この思いつきを真紀に話してみた。
「分からないわ。あの夢は私を不安に陥れて、警告を与えているという感じじゃなかった気がする」
 俊一は、一概には賛成できなかった。真紀は、悪夢に対して抱いていた嫌悪感を簡単には拭い去ることができないでいる。
 確かに説明のつかないことは多い。せっかくの警告であれば、真紀はなぜ夢の内容を忘れてしまうのか。それでも夢が何かを伝えようとしていることは間違いない気がした。
「事件のショックで夢の一部は真紀の記憶に蘇った。でも、まだ埋もれている部分があるに違いない。事件の真相に近づく鍵が隠されている気がする」俊一の口調が熱を帯びてきた。
「うちの研究所は今、夢の映像化について研究を進めているんだ」
「え、何ですって」真紀は思わず聞き返した。俊一が夢を対象とした研究に携わっていることは知っていたが、夢の映像化というのは初耳だった。
「脳の働きというのは電気信号として捉えることができる。夢を見ている人の脳波を、電気信号としてコンピューターに送り込む。それを我々の開発したグラフィック・ツールで画像処理してモニターに映し出すんだ。まだ未完成だが、夢の中でも特にインパクトの強い場面なら何とか映像化できるまでになった」
「それを使って私の夢を調べるの?」
 急な話に真紀はまだ半信半疑だ。それにしても自分の夢を他人に覗かれるということは耐え難い気がした。
「ああ、真紀がOKしてくれればね。装置のほうは何とでもなるさ」
 俊一は真紀の瞳をじっと見つめた。真紀の逡巡は痛いほど分かる。
 夢は本人でも制御できない。心の奥に秘めた、本人ですら自覚していない秘密のベールがはがされてしまうかもしれないのだ。ある意味では自分の裸を見られるよりも恥ずかしく恐ろしいことである。
 しばしの沈黙が訪れた。ややあって真紀の表情に強い決意が表れてきた。頬が少し紅潮している。
「いいわ、やってみましょう。じっとして怯えているより遥にましだわ」

 署に戻った水上が報告書を書き上げたのは午前八時過ぎだった。疲れてはいたが緊張のせいか眠くはない。いずれにしても今日の非番を、いつものように寝て過ごすつもりはなかった。
 表に出ると雲ひとつない晴天だった。いつもと変わりない街並みが水上の前にある。見慣れた風景、行き交う人々。疎外感を感じた。自分だけが昨日までとは違う朝を迎えてしまった気がする。
 水上はポケットから五代蘭山の名刺を取り出した。蘭山は何か超常的な事件を予見していたらしい。それは自分の担当している神代真紀誘拐未遂事件と関わりがあるのだろうか。
 昨晩の出来事について助言を求めるならば、警察の仲間たちよりも蘭山がふさわしく思えた。こうして自分の手に蘭山の名刺が渡ってきたことも偶然ではない気がする。
 人通りのない路地に入り、水上は携帯電話をダイヤルした。数回の呼び出し音の後、若い男が出た。
「水上といいます。五代蘭山さんはご在宅でしょうか」水上は意識して丁寧な口調を使った。
「どのようなご用件でしょうか」
 著名なオカルティストともなれば、イタズラ電話も多いのだろう。当然のことだがガードが固い。水上は単刀直入に説明した。
「昨日、蘭山さんが訪問した鳴海刑事の紹介で、私も刑事です。直接お話したいことがあると伝えてください」
「水上さまでしたね。少々お待ちください」
 若い男は蘭山の弟子か助手なのだろう。刑事と聞いても動揺した様子はない。電話が保留音の電子メロディーに切り替えられ、一分ほど待たされた。
「もしもし蘭山ですが」風格ある落ち着いた声だ。
「はじめまして、水上といいます。同期の鳴海から昨日の訪問のことを聞きました。何か事件が起きると予感していたそうですが」
「ええ、その通りです。この電話を頂いたということは、何かが起こったと考えて良いのですかな」蘭山の声に緊張が感じられた。
「電話では話しにくいのですが」
「私の住所はご存知ですか」
「鳴海から名刺を預かっています」
 水上は手にした名刺に視線を走らせた。
「できるだけ早くに、お会いしたい。こちらに来ていただけると助かります。無理でしたらご都合の良い場所に伺います」
 お互いに話が聞きたくてうずうずしているのだ。水上は、相手の気持ちが手に取るように分かった。
「実は今日が非番なんです。これからお邪魔してはご迷惑でしょうか」
 今日のチャンスは逃したくない。水上は、もし断られても粘る心構えだった。
「それは好都合です。時間も水上さんに合わせましょう。何時が良いですかな」
 即答だった。予定が空いているというよりも、何よりこの件を優先するという気迫を感じさせる口調だ。
「それでは二時間後、十時半ではどうでしょうか」
 すぐにアパートに戻りシャワーを浴びて着替える。タクシーを使えば、その時間には着くはずだ。
 何かが動き始めていた。巨大な運命の輪、自分はそれに巻き込まれているのだ。水上は期待と不安の入り混じった奇妙な興奮を覚えていた。