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青い薔薇の血族
四章 第四日
6.悪夢への挑戦
 場所は再び蘭山邸の応接間。今度は人数が増えたため、少々手ぜまだ。小ぶりなソファに3人がけは窮屈なので、別室から椅子を持ち込み全員がやっと収まった。
 まず、各々が持っている情報が交換された。とは言っても集まった情報は、まだ断片にすぎない。パズルを組み立てるには、ピースが足りなすぎる。
 俊一は自分の常識範囲を超えた事象でも一概に否定するタイプではない。それでも信条と現実の間にはギャップがある。
 もし事前に真紀の話を聞かず、邪気の流れについて話されたら、きっと信じることができなかったろう。いや、今でも自分は本当に信じているのだろうか。俊一には自信がない。
 真紀と水上は実際に魔物を見た。蘭山と香奈は力に差こそあるが、自身の持てる力で邪気を直接感じ取っている。
 自分だけが未だ日常の側に取り残されている気がした。俊一は自分の存在が小さくなってしまったような歯がゆさを禁じえない。自分に今できることは真紀を信じ支えることだけだ。持てる精神力のすべてを注ぎ込む心構えだった。
 香奈は、俊一の提案した夢を画像化する計画に興味を持った。人の心を覗くことは、霊能者にとって全く不可能というわけではない。だが、それは倫理上の問題を別にしても、大きなリスクをはらんでいる。
 少しでも誤れば相手の心に取り返しのつかない傷を負わせてしまう危険性があった。霊能者の方が、相手の心に悪影響を受けてしまう場合も多い。
 とりわけ憎しみ、怒り、悲しみなど負のパワーは汚染する力が強い。霊能者自身が悪しき力の虜(とりこ)となってしまうことも珍しくないのだ。
 その点については、感情のない機械のほうが有利かもしれない。情報を取り出すだけなら心がなくてもできる。役割分担というものだ。
 そうすれば経験ある霊能者として取り出された情報を分析、判断することに専念できる。
 俊一は蘭山邸から、上司である医学博士に連絡を取った。博士は学会出席のため九州に出張中だ。前夜祭にあたる交歓パーティーを控えて着替えの最中だった。
 睡眠実験は、できるだけ自然な状態を再現するため、夜間に実施されるのが常だ。被験者は通常に近い状態で睡眠をとり、実験者が徹夜で付き添うことになる。
 俊一は博士に頼み込み、今晩実験機材を使用する許可を得た。普段なら博士の立ち会いなしで実験することは難しいのだが、今回は出張中であることが幸いした。
 真紀の希望で実験は俊一のみが立ち会い、二人きりで行うことになった。どのような画像が現れるか真紀本人にも分からない。俊一以外の他人が立ち会うことは、真紀にとって抵抗が大きすぎるのだ。プリントアウトされた画像を真紀が確認したうえで、蘭山たちに見せることにした。
 香奈は実験に直接立ち会えなくても、研究所に同行すると主張した。もし敵の攻撃があった場合、真紀を守れるのは自分しかいない。そのためには真紀から離れるわけにはいかなかった。
 水上は上司に指示により午後十時に警護を交代することになった。一旦研究所まで同行して引き継ぐかたちになる。
 事情を知っている水上がずっと貼りつくのがベストだが、上司には秘密であるので仕方がない。
 実験内容は素人には分からないはずだ。俊一が適当に言いつくろって、研究所の待合室で待機してもらえばいい。十二時間後の翌朝午前十時には、再び水上が交代する手筈だ。
「犯人、人間なのかどうかも分からんが、神代さんを誘拐しようとしている敵は八ヶ岳の麓付近に潜伏している。動機は今のところ不明だ。これまでの様子を見ると、犯人には神代さんを傷つけたくない何らかの理由がある」蘭山がこれまでの情報をまとめて言った。
 真紀の脳裏に、またしても身代わりとなって死んだ男の無表情な顔が浮かぶ。
「私を襲った二人組の身元は分かりそうですか」真紀は水上に尋ねた。
 つらい思いまでしてモンタージュ作成を手伝ったのだ。何とか成果が出てほしい。
「今のところ二人の身元は確認できていません」
 水上は今朝署を出るまでの状況を説明した。交代して署に戻れば、何らかの進展が見られるかもしれない。
「二人のモンタージュはファックスで各警察署に配布済です。テレビ局にも協力を要請してニュースでも流れることになっています」
 モンタージュが公表されれば一般市民からの通報が期待できる。捜査は確実に進むだろう。しかし、それまで手をこまねいているわけにはいかない。襲撃は立て続けに実行されている。
 二回の襲撃失敗で、真紀周辺の警戒は相当強くなった。普通の事件であれば、犯人はしばらく犯行を見合わせるだろう。だが、今回の犯人は尋常の相手ではない。油断するわけにはいかなかった。
「敵の居場所を特定できないでしょうか」俊一が香奈に尋ねた。
 香奈の霊力によって変色した日本地図は見たが、あれでは広すぎる。警察を動かすことができない現状であり、このメンバーだけで捜索するのは不可能な広さだ。
「ここからは無理ですが、現地に乗り込めば邪気を捕捉して追うことが出来ると思います。でも今は敵がどのような存在か全く掴めていません。間違いなく無防備で乗り込むには危険すぎる敵です。今晩の実験で敵の正体について何か掴めれば良いのですが」香奈の声は緊張で低くなっていた。
 これまでにも数多くの除霊を経験してきた。強い力を持った悪霊と闘ったこともある。しかし、これほど強大な邪気を発する相手に出会ったことはない。敵について何の知識もなく対決することは避けたかった。
「八ヶ岳については、先程言った知人に頼んでみよう。この時期なら、まだ別荘は使っていないはずだ。どう行動するか、具体的な方針は今晩の実験結果を見て決めることにしよう」蘭山は顔を引き締め、一同を見渡しながら言った。
「邪気は日毎に強さを増しています。邪気が強くなれば、それだけ敵を見つけやすくなるでしょう。ですが、その分敵の力は強大になってしまい闘いは不利となります。少しでも早く突き止めるに越したことはありません」香奈の言葉に一同は沈黙した。
 邪気の強さは、敵の力のバロメーターといえる。敵の力が増強するのを待てば、その分だけ戦いは熾烈(しれつ)なものとなってしまう。
 霊力による闘いは過酷を極める。香奈は心の奥に怖れを抱いていた。敗北すれば命を落とすか、魂の抜けた抜け殻となってしまうか。香奈は、心中に戦慄が駆け抜けるのを感じていた。
 水上は、普段より更に蒼白さを増した香奈の顔を見つめた。どう見てもか弱いこの女性が、あの魔物を送り出した未知なる敵に戦いを挑むのだ。
 果たして勝機はあるのだろうか。そのとき自分は力になることができるのだろうか。水上はぶるりと体を震わせた。武者震いか、柄にもなく怖気づいているのか、本人にも分からなかった。
 真紀の心は不安に揺れ動いていた。自分が正体不明の敵に狙われているという恐怖感は、もちろん大きい。それ以上に真紀の心を苛(さいな)むのは、自己に対する不安だった。
 今にして思えば悪夢を見始めた頃から、自分の中で何かが変わりつつあるという違和感を持ち続けていた。その感覚は、魔物と対峙した時に現実のものとなった。自分自身が恐ろしい存在へと変貌してしまう忌まわしい予感。
 敵が自分を執拗に狙う理由は何か。真相を突きとめたいと願いつつも、それを怖れる自分がいる。全ての真実を知った時、自分は後戻りできない迷宮へと踏み込んでしまうのではないだろうか。

 蘭山邸で簡単な夕食を取り、蘭山を残して四人は研究所へと出発した。
 俊一の勤務する心理学研究所は、赤坂にある竹田クリニックの別棟となっていた。三階建ての一階を一般のカウンセリング業務に使用し、残りを研究施設に当てている。建てまして建設したため、クリニック本体よりも規模は小さいが近代的な外観となっていた。
 俊一が実験の準備をする間、真紀と水上は手持ちぶさたに待っていた。香奈は奥の仮眠室で祈祷の準備をしている。
 もう十時近い。水上と交代するのは森川という刑事だった。水上以外は、警察の人間に香奈を引き合わせるわけにはいかない。
 今晩、香奈は仮眠室にこもって徹夜で結界を張り、敵からの妨害を食い止めるつもりでいた。森川にはカウンセリング患者用待合室で警護の任に当たってもらうことにする。
 警察に秘密での行動ゆえ、なかなか面倒だが仕方ない。毒を食らわば皿までだ。事情は大きく変わってきた。警察には申し訳ないが、今となっては香奈のほうが頼もしい存在と思える。
 やって来た森川刑事はレスリング選手を連想させる逞しい体つきで、スーツがはちきれそうに見えた。通常の人間相手であれば極めて頼もしい存在だろう。
 残念ながら今回の敵は、体力勝負が効果を発揮する相手ではない。
 水上は全館チェック済みなので新たな侵入者に集中して警戒するよう森川に指示し去っていった。
 実験について、俊一は予定通り真紀の精神的ショックに関する診察とごまかした。疑われた場合、専門用語をまくし立てて煙にまいてしまうつもりだった。
 幸い森川に俊一の言葉を疑っている素振りはない。あまり単純に信じたので、騙している俊一が恥ずかしくなるほどだ。
 真紀と俊一は実験室に移動した。実験室は中央を仕切られた続き部屋となっている。仕切り部分は上側三分の二ほどがガラス張りで、二つの部屋が奥側のドアでつながっていた。二部屋とも天井と壁が空色に彩色され、床は白いリノリウムだった。
 手前の部屋にはスチールデスク、OAチェアとパソコンラックが置かれていた。スチールデスクの上にはラックに収まりきらないパソコンの増設ボード用ボックスが載せられている。
 ボックスに差し込まれているのが、夢をグラフィック化するための画像処理用ボードだ。ボックスから伸びたコードが隣室に向かい、壁の中に消えている。
 ガラスで仕切られた奥側の部屋には大きめな診察台が横たわり、その上にヘッドギアが置かれていた。このヘッドギアが実験用の端末だ。
 仕切りのドアを抜け診察台が設置された部屋に入ると、真紀は急激な閉塞感に襲われた。仕切りは特殊なマジックミラー仕様のガラスだった。通常とは逆で明るい側が透明となり、暗い側が黒色となる。
 被験者からは巨大な黒いガラスが視界を遮り、隣室を見ることはできない。監視室の明かりに邪魔されず、被験者が眠れるようにしてあるのだ。
 二つの部屋は、ほぼ同じサイズなのだが、視覚的に閉ざされてしまうため広さが急に半分になった錯覚に襲われてしまう。閉所恐怖症であったら耐え難い感覚かもしれない。
「さあ、ガウンに着替えてヘッドギアを装着すれば後は寝るだけだよ」
 真紀が着替える間に、俊一はヘッドギアの内側に突き出す十数個の端子にゼリー状の導電性糊(のり)を塗った。被験者の皮膚と端子を密着させるためのものだ。
「ちょっと冷たいけど我慢して」
 俊一は真紀の髪の毛を器用に掻き分け、端子先端を肌に密着させながらヘッドギアを被らせる。慣れた手つきだ。
 準備を終えた真紀が診察台に横たわると、俊一はタオルケットをそっと掛けた。
「電気を消すよ。じゃあ、おやすみ。何が起きても心配ない。僕が一晩中、隣で見張っているからね」
 天井の蛍光灯を消し、俊一は隣室へと移動した。ドアの閉まる音を最後に静寂が部屋を包み込む。明かりは、ほのかに灯るミニライトのみだ。
 もう何も考えないほうが良い。眠りにつくのだ。真紀は目をつむって、ゆっくりと呼吸した。なかなか寝つけない。静けさが孤独感となってのしかかってくるようだ。隣室では俊一が見守ってくれていると分かっているのに。
 仮眠室は畳敷きの六畳間だった。奥の押入れには寝具が入っているのだろう。香奈は正座して気の流れを探っていた。邪気は活動を再開したようだ。真紀を追尾し、この研究所に流れ込んでいる。
 香奈は確信し始めていた。真紀が見る夢。あれは真紀の内なる霊力が与えた警告ではなかったのか。せっかくの内容を真紀が目覚めるとともに忘れてしまうのは、敵の妨害のためだ。敵は真紀が真相に近づくのを妨げるため、夢の記憶を消し去ろうとしていたのだ。
 ならば今夜は徹底的に邪気を妨害してみせよう。そうすれば夢の画像化は成功しやすくなるはずだ。香奈の額には、うっすらと汗がにじみ始めていた。
 それから一時間ほどが経った。真紀はようやく眠りについた。俊一はガラス越しに、闇にかすかに浮かぶ真紀の寝姿を見つめ続けていた。