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青い薔薇の血族
五章 第五日
1.青い薔薇の魔女(1)
  俊一はコンピューターのディスプレイをじっと見つめていた。画面上には白い霞(かすみ)がゆっくりと蠢(うごめ)いている。
 画面がこの状態のとき、被験者は夢を見ていないのか、それとも穏やかな夢を見ているのか。現段階までの研究では特定できていない。
 従来の実験では、どのような夢を見たかは被験者本人の報告に頼るしかなかった。夢というものは鮮明な記憶として残らない場合が多い。夢を忘れることによって脳内の不要な情報を整理しているという学説もある。
 本当に夢を見なかったのか、それとも単に記憶していないだけなのか。本人にすら分からないことだ。
 この装置が完成すれば、夢の研究に革新が起こるだろう。現状では穏やかな夢を見ている弱い脳波の動きに反応するまでに至っていない。悪夢などのインパクトの強い夢で脳波が活発に動いたときのみに画像を結ぶことができる。
 俊一はじっと待ち続けた。真紀が寝入って一時間半ほどが経過したとき、ディスプレイ上に変化が生じた。
 霞の動きが活性化したのだ。真紀の心を乱す、何らかの夢が始まった兆候だ。俊一はディスプレイを凝視した。
 ディスプレイに表示されている霞は、その色を次第に白から空色へと変えていく。色は更に濃さを増し、見る見るうちに鮮やかな青色となった。
 闇の中に妖しく輝く水晶玉。その内部には青い霞が踊っていた。くねくねと無気味な軟体動物を思わせて活発に動いている。
 その背後に若い女の顔が浮かび上がった。青いローブの女だ。色白の肌に青い目の西洋人。唇は血を思わせるどぎつい赤で、表情は悪鬼のように歪んでいた。狂気を帯びた眼差しで水晶玉を覗き込んでいる。
「さすがは我が血を継ぐ者。使い魔が打ち返されるとはな」しわがれた女の声。
 青いローブの女は口をつぐんだままだ。声は水晶玉から響いていた。水晶玉の内部では、霞が形をまとめつつあった。それは数枚の葉をつけた植物の茎と化す。棘の生えた三本の茎が絡み合っていた。薔薇の茎だ。
「だが、これ以上は失敗しない。お前は我になる運命なのだ」
 水晶玉からの声に青いローブの女が唇の両端をつり上げた。不敵な笑い。鬼というよりも悪魔の凄みだった。
 水晶玉の中では、いつの間にか三本の茎がそれぞれの先端に蕾を付けていた。蕾は瞬く間に膨らみ、大輪の花を咲かせた。真っ青な薔薇の花だ。と思うと全てが青黒い闇に吸い込まれ消えていく。後は無気味な笑い声が虚空に響くのみ。
 真紀は、はっと目を覚ました。全身が冷や汗に濡れて気持ちが悪い。頭がぼんやりとしている。夢と現実の境界線を彷徨(さまよ)っている気分。部屋の暗がりに悪魔を思わせる笑い顔が貼りついている気がした。さしずめ呪われたチェシャ猫といったところだ。
 俊一はディスプレイの画像が最も鮮明になった瞬間、データをセーブすることに成功した。見事なタイミング。あと少しでも遅れていたら、全面が青黒い画像しか取れなかっただろう。
 俊一はプリントアウトのコマンドを実行してから、真紀の様子を窺った。暗い隣室で起き上がっている真紀の姿がぼんやりと見える。
「大丈夫かい。今、明かりをつけるからね」俊一はスピーカーを通して真紀に声をかけ、隣室の電灯スイッチを押した。
 周囲が急に明るくなったため、真紀は思わず目を細めて顔をしかめる。短時間に憔悴(しょうすい)した面持ち。その表情から、俊一にも夢の内容が推し量られた。
「のどが渇いたろう。ちょっと待ってて、飲み物を買ってくる」
 俊一は廊下の給湯室脇に設置された自動販売機で缶入りウーロン茶を二本買う。実験室に戻ると、プリントアウトは完了していた。俊一は印刷されたA4の用紙を取り隣室へ入った。
 ベッドにぽつんと座る真紀。差し出した缶を受け取る真紀の手は、いつもより心なしか冷たかった。
「どんな夢だった」
「だめだわ。いつもと同じで目が覚めたら記憶から消えてしまったの。ただ、外国人の女が悪魔みたいな顔で笑っていたのを覚えている」
 真紀は手にした缶を見つめながら身震いした。
「外国人?」俊一が聞き返す。
「そう、西洋人だったわ。若くて青い目をしていた。確か青いローブのようなものを着ていたと思うわ」
「見覚えのある顔だった?」
 俊一の質問に、真紀は首を横に振った。
「実生活では会ったことないわ。夢で見たかどうかは分からない。とにかく記憶に残ったのは初めてよ」
「そうか。ところで、これを見てごらん」
 俊一は印刷紙を差し出した。
「真紀の夢を装置が画像化したものだよ」
「青い薔薇!」
 印刷紙には青い薔薇が三本、茎を絡めて大輪の花を咲かせていた。真紀は惹きつけられるように印刷紙をじっと見つめた。
 またしても青い薔薇。世界が待ち望む現代科学の奇跡。だが、今の真紀にとって青い薔薇は忌まわしい事件への符号と化している。
「この図柄、どこかで見たことあるかい」
「いいえ、ないと思う。よく分からないけど、多分ないわ」
 真紀は顔をそむけた。このまま見つめていたら、青い薔薇の魔力によって虜にされてしまいそうな気分になった。答えが曖昧(あいまい)になったのは、記憶にない紋様であるにもかかわらず、どこかで知っているという気もしたためだ。
 俊一は真紀の肩を抱きしめた。真紀は俊一の手に優しさと力強さの両方を感じた。俊一の手に自分の手を重ねる。更に温もりが伝わってきた。冷えた身体が温かさを取り戻していく。
「朝になったら蘭山先生に連絡しよう。まだ時間がある。もう少し眠っておいたほうが良いよ」
「お願い。しばらくこのままでいて」
 俊一は頷くと真紀の体を包み込むように抱きしめた。

 朝六時、俊一は蘭山に連絡を入れた。蘭山は、すでに準備を整えて待機していた。夢の画像化成功の報を聞き、すぐに出発するとの返事だった。
 俊一が給湯室の流しでヒゲを剃っていると香奈が姿を見せた。昨夜は一睡もしていないのだろう。顔がいっそう白くなり、表情が険しく見えた。
「実験はうまくいきましたか」声は相変わらず凛(りん)として張りがあり、疲れを感じさせない。精神的な強さなのだろう。
「ええ、香奈さんも見てください」
 幸い画像は真紀のプライバシーに関わるものではなかった。真紀はためらわずに画像を第三者に見せることを許可している。
 俊一は顔のシェービング・クリームを洗い流し、香奈を伴って実験室に戻った。
「これが神代さんの夢からコピーした画像ですか」
 香奈は、俊一に差し出された青い薔薇のグラフィックを見て顔をしかめた。邪(よこしま)な波動が伝わってきたのだ。
「どうです。何か思い浮かぶことはありますか」
「ちょっと待ってください」
 香奈は印刷紙を顔の前にかざすと目を閉じた。発せられる負の波動に対抗し、気を高めて霊圧を上げる。A4の印刷氏から香奈の脳裏にイメージが投影された。
 水晶玉の中を漂う青い霞、闇に揺れる蝋燭の炎、青いローブをまとった怪しげな人影。いくつかのイメージが浮かんでは消えた。
 香奈の脳裏を、いきなり目をむいた女のイメージが襲う。香奈は思わず唸り声を上げた。敵から姿を現すとは予期していなかったのだ。探査のため感覚を開放していたため、激しい衝撃を受けてしまった。
「大丈夫ですか」慌てて俊一が声をかけた。
 横では真紀がハラハラした表情で様子を見ている。普段落ち着いて冷静な香奈であるだけに、居合わせた二人は驚かされたのだ。
「ええ、大丈夫です。邪悪で強いイメージでした。恐ろしいほどの霊能力を感じさせる女です」
 香奈の息が乱れていた。不意打ちを食わされてしまった。宣戦布告と受け取るべきだろう。青い薔薇の画像を印刷されたことを感知して、開き直ったに違いない。とすれば、この青い薔薇の紋様は重要な意味を持つはずだ。
「女は私にラスモーラと名乗りました」
 真紀も俊一も初めて耳にする名前だった。
「それって青い目の西洋人でしたか」俊一は、真紀の話を思い出して尋ねた。
「違いました。確かに西洋人ですが、紫色の目をした茶色い髪の女です」
 真紀の夢に現れた女とは違うようだ。
 紫色の目という言葉が真紀の心に引っかかった。真紀の母方は目が紫色の家系だ。母も祖母も紫色がかった目をしていた。
「私の勘に狂いがなければ、あの女は生きている人間ではありません」
 香奈の言葉に二人は戸惑った。
「香奈さんが霊視した女は、事件に直接関係ない過去の人間だということですか」俊一が怪訝(けげん)な面持ちで尋ねる。
 少し間をおいて香奈が口を開いた。
「それが良く分からないのです。すでに肉体は滅びたにもかかわらず、邪悪な霊体として存在している者という気がするのですが。確かなのは、私たちが戦おうとしている相手は、予想を超えた霊力の持ち主であるということです。覚悟してかからなければなりません」いつもと変わらぬ冷静な口調。
 だが、それは香奈の意思の強さゆえのもの。こうして敵と接触を持った今、相手の力量が現実感を伴って覆いかぶさってくる。
 初めて出会う強敵に香奈の心は揺れていた。負の感情に流されれば、敵の思う壺にはまってしまう。香奈は精神を集中して高ぶる心を抑えていた。
 紫色の目をした女とは、自分の母か祖母なのだろうか。真紀は新たな疑惑と対峙していた。
 母であるはずはなかった。母は目こそ紫がかっていたが、顔つきは父方を受け継ぎ西洋人には見えない。しかもまだ健在で美濃に暮らしている。
 とすると祖母なのだろうか。祖母は真紀がまだ幼い頃に亡くなっていた。記憶に残る祖母は、いつもニコニコと笑って真紀を可愛がってくれた。あの祖母が悪霊となって自分を苦しめるとは考えられない。
 名前だって違う。祖母の名前はクリスティナだ。ラスモーラなどではない