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青い薔薇の血族
五章 第五日
1.青い薔薇の魔女(2)
 俊一はコンビニに朝食を調達しに出た。蘭山が到着する前に腹ごしらえをしておこうというのだ。
 真紀は警護のため待合室で夜明かしをした森川刑事の様子を見に行った。頑健そうな大男の森川も徹夜明けとあって、やや疲れて見える。
「ごくろうさまです。おかげで何も起こらずにすみました」
 真紀は内心で森川に申し訳なく思っていた。一生懸命守ってくれているのに、自分たちは嘘ばかりついている。
「いや、職務ですから。検査のほうは終わりましたか」
 あくまで森川は真紀たちの言葉を疑っていない。真紀の精神状態についての検査を言っているのだ。
「ええ、検査のほうは済みました。これから検査結果についてのカウンセリングをする予定です」
 これも嘘。蘭山を交えてプリントアウトした画像を検討するのだ。
 それでも真紀には俊一たちの判断が正しいと思えた。あまりにも現実離れした状況。警察に真実を伝えても信用されるとは思えない。
 それは刑事である水上が一番分かっているはずだ。十時には水上が、森川と交代しに来る。それまでは嘘をつき通して、何とかごまかさなければならない。
 そこに俊一がコンビニのビニール袋を提げて入ってきた。
「どうも、お疲れさまです。刑事さんの分も買ってきましたよ」
 俊一は待合室の小さなテーブルにビニール袋を置いた。
「これはありがたい。実のところ腹が減って腹が減って」
 森川は、いかつい顔を綻ばせて俊一が取り出す弁当やおにぎりを眺めている。
「僕たちは、奥の会議室で検査結果をまとめながら食べます」
 買ってきた朝食は香奈の分もある。徹夜で警護してくれた森川をなおざりにするのは気が引けたが、香奈と同席させるわけにはいかなかった。
 幸い森川は気を悪くした様子もない。早速弁当のラップをはがしにかかっていた。もともと医者嫌いで、病院の消毒薬臭を嗅いだだけで憂鬱になるという性格。
 カウンセリングなど同席したくもない。ゆっくり腹ごしらえさせてもらった方がありがたいのだ。
 十五分後、蘭山が到着した。自家用車は昨夜から研究所の駐車場に置きっぱなしなので、ハイヤーを使っての移動だ。打ち合わせてあった通り、通用口からこっそり迎え入れた。
 会議室に陣取り、青い薔薇の紋様が印刷されたA4紙を囲んで話し合う。
「薔薇十字友愛団の紋章ではないようですね」誰に言うともなしに俊一がつぶやいた。
 薔薇十字友愛団は、十七世紀ヨーロッパに登場した秘密結社だ。その起源は十四世紀までさかのぼるとも言われるが、現在に至るまで実在は確認されていない。史上最も不可思議な結社として名高い。
 真紀も薔薇十字友愛団の名は聞いたことがあった。もし、薔薇十字友愛団がその実像を現したとなれば前代未聞の大ニュースだろう。
 だが、印刷された画像には十字があしらわれていなかった。幻の結社であるから、その紋章がどのようなデザインであるかも判然としない。しかし、その名称からして、紋章には必然的に十字が織り込まれていると推測される。
 俊一の言うとおり、これは薔薇十字友愛団の紋章ではないのだろう。実のところ薔薇十字友愛団は、当時の知識人たちが遊び心で作り上げた架空の結社であるという説が強い。もともと存在しないのであれば、実態が謎であるのは当然のことだ。
 蘭山は印刷紙を眼にしてから、ずっと黙りこくっていた。何か思うところがあるのだが、口に出せないでいる様子だ。
「先生、何か心当たりでも」蘭山の様子に気づいた香奈が声をかけた。
 蘭山が重い口を開く。
「わしもまだ信じられない気分だが、この紋章は青薔薇教団のものではないかと思う」
「青薔薇教団、ですか」博学な俊一も初めて耳にする名称だった。怪訝な表情で聞き返す。
「さよう。ある意味では薔薇十字友愛団以上に謎につつまれた組織だ。あまりの邪悪さゆえ、キリスト教により存在そのものが隠蔽(いんぺい)されたと伝えられている。その資料の全ては、バチカンの奥深くに封印され門外不出にされているという。そのため青薔薇教団に言及した書籍は、わずかな稀観本に限られている」
 蘭山は、真紀の瞳をじっと見据えた。
「神代さん、あなたのお婆さまはポーランドの出身でしたな」
「はい、そうですが、それがなにか」真紀は不安な面持ちで答えた。
「この青薔薇教団が生まれたのは十七世紀のポーランドとされている」
 蘭山の言葉に、真紀は息を呑んだ。今回の不可思議な事件には、自分のルーツを遥か東ヨーロッパまでさかのぼった過去が関連しているのか。
「実はポーランドでは過去数回、青い薔薇が咲いたと言い伝えられている。その事実も忌まわしい青薔薇教団のため歴史から封印されてしまった。数少ない研究書によれば、青薔薇教団は魔女ラスモーラに率いられた邪教集団だったようだ」
 今度は、その場にいた三人ともが慄然とした。まだ蘭山には話していなかったが、ラスモーラとは、つい先程香奈に悪霊が告げた名だ。間違いない。これは青薔薇教団の紋章なのだ。
 三人の只ならぬ様子に蘭山は言葉を止めた。香奈が蘭山に今朝おこなった霊視の顛末を話す。
 青薔薇教団の魔女は、すでに宣戦布告していたのか。蘭山は、核心に辿り着いたことを知り低く呻くと重い口調で教団の歴史を語り始めた。

 ポーランド王国は十七世紀半ばから、その繁栄に翳(かげ)りを見せていた。ロシア、スウェーデンの侵攻を次々に受け、滅亡は免れたものの国土は荒廃した。それでも続くオスマン帝国の侵略を退け、十七世紀末には嵐の前の静けさともいえる平穏の中にあった。
 青薔薇教団が誕生したのはワルシャワの南、ヴィスワ川の上流に位置する寒村だった。東ヨーロッパ中央を斜めに横切るカルパチア山脈の北端に手が届く場所だ。
 1694年の春、その村にある一軒の農家に青い薔薇が咲いた。本来は真紅であった庭先の薔薇に、なぜかその年は鮮やかな青い花が咲いたのだ。それと時を同じくして一家の一人娘ラスモーラに異変が起きた。
 ラスモーラは幼い頃から天候の変化などを言い当てて、霊感少女と呼ばれていたという。そのラスモーラが本格的な超能力を身につけたのだ。
 初めにラスモーラが発揮したのは治癒の能力だった。村人の怪我や病気を治し、その名は瞬く間に近隣諸地域に広まっていく。純朴な村の民は、ラスモーラが心の奥底に邪(よこしま)な企みを秘めているとは疑いもせず、神の使いと祀(まつ)り上げた。
 やがてラスモーラは領主を味方につけ、その権力を後ろ盾に青薔薇教団という名の秘密結社を作り上げる。
 この頃からラスモーラは魔女の本性を発揮し始めた。強大な呪力を駆使し、支配者として君臨したのだ。
 逆らう者には忌まわしい災厄が降りかかり、次々と命を落としていく。狂信者たちは天罰と称し、これを正当化した。
 今やラスモーラは、心あるものにとって恐怖の対象となった。身の安全を願えば、こそこそと身を縮めて怒りを買わないよう努めるしかない。
 その夏には近隣三つの村を掌握し、青薔薇教団は拡大の一途を辿っていた。
 事態を重く見たカトリック教会は鎮圧に乗り出し、武装した一軍を派兵した。武力に劣る青薔薇教団は、カルパチア山脈に籠(こ)もって応戦の構えを取る。
 武力で圧倒するカトリック教会側は、短期間での決着を確信していた。ところが教会軍は、思わぬ苦戦を強いられてしまう。
 山に攻め入って進攻する教会軍は、突然の豪雨に足止めされた。
 まさしく滝のような勢い降り注ぐ。進むに進めず野営する教会軍。そこを鉄砲水が襲った。
 濁流に飲まれる人馬。恐るべき地獄絵図が展開された。ようやく水の引いた後には伝染病が発生し、多くの兵士が高熱に倒れていく。
 戦うことすらなく教会軍は兵士の半分以上を失い、撤退を余儀なくされた。これこそ魔女の呪いと怖じ気づく兵士が続出し、士気は下がる一方だった。
 軍司令官は恥を忍んで教会本部に援軍を要請。青い薔薇の魔女討伐は、ここに来て長期戦の様相を帯びてきた。
 ところが事態は急転直下の結末を迎える。
 援軍には神父の一団が随行していた。その神父たちが、冬近くなってもラスモーラの庭に咲き誇り続ける青い薔薇に、忌まわしい邪気を感じ取ったのだ。これこそ悪しき闇の力の根源に違いない。神父は、兵士に即刻青い薔薇を焼き払うよう命じた。
 神父たちが祈りを捧げる中、青い薔薇に油が注がれ火が放たれる。一瞬で薔薇の木は炎に包まれていく。
 居合わせた人々は、炎上する薔薇の木があげた断末魔の咆哮(ほうこう)に背筋の凍る思いをした。それはあたかも地獄の淵から轟く地鳴りのようで、耳にした者は数日間安眠することさえかなわなかったという。
 薔薇が燃え上がるのと同じ時、山中に籠もるラスモーラに異変が起こった。突然苦しみだし、悪鬼の形相で転げまわる。
 周りの信者は恐れおののき近寄ることもできない。中には呪縛が解けて正気に返る者もいた。
 苦悶の中でラスモーラは青い薔薇の元を離れたことを悔いていた。魔女は自らの復活を予言し、絶叫しながら息絶えたと伝えられている。
 村では青い薔薇が燃え尽き、赤い炎が最後の瞬きとなって揺らめいていた。それを怖々と取り囲む神父、兵士、村人たち。そこにラスモーラ破滅の報がもたらされた。
 人々はラスモーラの死に安堵し、復活の予言に恐怖した。復活を恐れたカトリック教会は、ラスモーラの遺体を焼き、その灰を七ヶ所に分けて埋めたと伝えられている。
 さらにラスモーラの一族を全員処刑するという残忍な判決が下された。すでにヨーロッパでは魔女裁判など下火の時代。いかにこの事件が当時の人々を戦慄させたかが分かる。
 だが、魔女ラスモーラの血族は死に絶えてはいなかった。遠く離れた地に住んでいたため、難を逃れた者たちがいたのだ。