青い薔薇の血族
五章 第五日
1.青い薔薇の魔女(3)
東ヨーロッパの歴史に再び青い薔薇の魔女ラスモーラが登場するのは、1798年春のことである。
その当時、三度に渡る分割の末ポーランド王国は消滅していた。土地は荒廃し人心も荒(すさ)む。百年余りにも及ぶポーランド受難の時代の始まりに魔女ラスモーラは蘇った。
その一家の住む村はワルシャワの南西、プロイセン領となった地にあった。
一家はラスモーラの血族であることを、ひた隠しにして暮していた。やがて百年に及ぶ年月とともにラスモーラの記憶は風化し、人々はその名を忘れていく。当時を知るものは一人も生き残っていなかった。
それでも一家は薔薇の花を忌み嫌い、決して植えようとはしなかった。
とは言え、それは一家に伝えられる迷信の類に過ぎなくなっていた。自分たちの庭に植えなければそれでいい。その程度の思いだった。
あえて言い伝えを破ろうとはしないが、恐怖の実感は一家にとっても遠いものになっている。
村の中央広場には立派な薔薇の植え込みがあり、毎年大輪の花を咲かせた。一家の中にも、その薔薇を気にするものはいない。村ができた年に植えられ、毎年咲く真紅の薔薇。
その年、広場の薔薇は、いつになく大量の蕾をつけた。植え込みの世話をする老人は、例年よりも蕾がつく時期が早かったことをいぶかったという。
蕾が膨れるにつれ、一家の長女マリーナは夜毎の悪夢に怯えるようになった。マリーナも家人も無気味なことと気味悪がったが、その時点で薔薇と結びつけて考えはしなかった。
村では膨らんできた蕾の色が、いつもと違うことが分かり話題となっていた。赤いはずの蕾が、青味がかっていたのである。
そしてある朝、村人たちは広場に咲いた薔薇を見て驚嘆した。快晴の空よりもなお鮮やかな青色をしていたのだ。
その日、マリーナの家族は、もう一つの驚きを味わうことになる。
夜が明けて起きてきたマリーナは、昨日までとは別人と化していた。外見が変わったわけではないが、それでも家族の者にはマリーナの変容がひと目で分かったという。冷たい瞳、酷薄な表情、笑いにも暖かみはなくなく残忍さが貼りついていた。
昨日までの心優しい娘は失われてしまった。その日から彼女自身がマリーナと名乗ることは二度となかった。
彼女は先ず村一番の大商人の元に乗り込んだ。自らの欲望を満たすためならば悪魔に魂を売り飛ばすことも厭わないタイプの男。彼女は商人の貪欲さを見抜いていた。
彼女は商人に圧倒的な魔力を見せつけると、自らをラスモーラと名乗った。自分こそ青い薔薇の魔女の生まれ変わりであると。
この地に住んで十年足らずの商人は、ラスモーラの名など知らなかった。それでもラスモーラにとって商人を下僕にすることなど、たやすいことだった。心の弱い者を虜にして操る術に長けていたのだ。
商人は、いとも簡単にラスモーラの術中に陥った。莫大な富と不老不死を約束されて目がくらんだのだ。ラスモーラにとって全ての人間は道具にすぎない。守る気などない約束だった。
こうして第二の青薔薇教団は誕生した。
当初、青薔薇教団は水面下で活動した。ラスモーラに百年前の過ちを繰り返す気はない。その村には、幸か不幸か青い薔薇から直ちに魔女ラスモーラを思い出す者もいなかった。
教団は、邪(よこしま)な欲望に身を任せる者を吸収して密かに増殖していく。
マリーナの家族は恐怖に震えながら口をつぐんでいた。ラスモーラの血族と分かれば、いずれにせよ処刑は免れない。それなら魔女の庇護下にいた方がましと思えた。
善良な村人たちは、広場に咲き続ける青い薔薇の不吉さに気づかなかった。百年前の青薔薇騒動は、今となっては遠い村で起きた昔話にすぎない。村人たちは近づく災厄をよそに、世にも珍しい青薔薇を称え浮かれ騒いでいた。
季節が夏に変わる頃、すでに青薔薇教団は十分な力を蓄えていた。ラスモーラは、ついに行動を開始する。
その朝、村人たちが起きると広場は武装した男たちに占拠されていた。ラスモーラにとって死線となる青い薔薇を、教団員で第一に確保したのだ。
人々は百年前の忘れかけていた悪夢が蘇ったことを知り戦慄した。
その地の領主は敬虔なカトリック教徒だった。青い薔薇の魔女復活の報を聞き、直ちにラスモーラ討伐のため派兵の準備を開始した。だが、領主は出兵の前日に原因不明の高熱で倒れ、意識も戻らぬまま帰らぬ人となってしまう。
カトリック教会で極秘扱いされていた資料が慌てて調査された。どうやら正面きって戦ったのでは、いたずらに被害を出す可能性があるようだ。
教会の首脳陣は苦慮した。かといって邪悪な魔女の台頭を放置しておくわけにもいかない。
そこに一つの策略を思いついた司教がいた。資料によればラスモーラは青い薔薇を焼き払うことによって屠(ほふ)ることができる。ならば青薔薇教団に教会側の間諜を潜り込ませれば良い。
司教の提案により、教会は青薔薇教団にスパイを送り込んだ。魔女の霊力によってスパイの正体が見抜かれてしまうのではないかと懸念する者もいたが、潜入は予想外にすんなりと成功した。
さしもの青薔薇教団も組織が肥大化して綻びができつつあったのかもしれない。
スパイの潜入成功を確認した教会は、軍に村を包囲させ総攻撃開始を装う。偽装と知らない青薔薇教団は、村境に武装した団員を集結させ臨戦体制を取った。
ラスモーラの注意が村の外に向けられたとき、スパイたちは行動を開始する。広場には僅かな人数の見張りしか残されていない。
不意打ちで見張りを打ち倒し、青い薔薇に油をかけて火を放つ。渦巻く炎は瞬く間に青い薔薇を包み込んでいった。
突然の苦しみに襲われたラスモーラは事態を悟った。またしてもカトリック教会にしてやられたのだ。
ラスモーラは最後の力を振り絞って、雨雲を呼ぼうとした。青い薔薇を救う最後の手段。苦悶の中でラスモーラは呪文を唱え始める。時間のかかる大掛かりな呪文だった。
間に合わない。絶望と無念さがラスモーラの苦痛をいや増していく。青い薔薇が燃え尽きると同時にラスモーラは絶命した。その表情は苦悶にゆがみ、歴戦の兵士でさえ肝を冷やして目をそむけるほどの恐ろしさだったという。
その後、商人たち教団の首謀者とマリーナの家族の処刑によって、第二の青薔薇教団事件は幕を閉じた。
ここに青い薔薇の魔女の家系は絶えたと伝えられている。しかし、ラスモーラの末裔は今も存在するという説もあった。
1898年、三分割されたポーランドでは民族運動が活発になっていた。国家復興の気運が盛り上がっていた時期だ。
ワルシャワ郊外の工業地帯に住む家族があった。その家族は各地を転々と移り住んでおり、どのような家系の者なのか仕事仲間さえ知らなかったという。家長であるマチェックは、無口だが実直な働き者として評判が高かった。
その年の春先には町に建設中の大規模な公園が完成の予定するだった。その公園の入口に薔薇を絡めたアーチを設置することが町民議会で検討された。
普段は無口なマチェックが、この時だけは猛反対した。その剣幕は、いつもの温厚な様子からは信じられないほど激しいものだったという。
驚いた町民たちは、マチェックがこれほどまでに反対する理由を知りたがった。ところがマチェックは理由を説明する段になると言葉を濁してしまう。これでは議論のしようがない。マチェックをないがしろにする気はないが、抗議は却下されることになった。
この頃から町民たちは、マチェックの様子がおかしいことに気づき始めていた。
やがて公園は完成し、予定通り薔薇も植えつけられた。
この頃、マチェックの長女エヴァは、不可思議な悪夢に悩まされていると友人たちに話していたという。マチェック本人は以前にも増して無口になり、何か思い詰めている様子だった。
月日は進み、薔薇の蕾は膨らんでいく。
ある朝、町民たちは無惨な焼死体となったマチェックを発見した。公園の入口で薔薇のアーチとともに燃え尽きて死んでいたのだ。傍らには灯油の缶が燃えかすとなって転がっていた。
町の人々はノイローゼの悪化したマチェックが焼身自殺したと判断した。
ところで、この事件には一人の目撃者がいた。その証人の言葉を信じるならば、マチェックは自殺ではない。
深夜、人気の失せた公園にマチェックは油の壺を抱えて現れた。思い詰めた表情で、何かぶつぶつと独り言をつぶやいていたらしい。
やがてマチェックは意を決したように油を薔薇にかけ火を放った。一瞬で薔薇はアーチごと燃え上がり、巨大な松明(たいまつ)と化した。
真っ赤な炎に照らされたマチェックの顔には安堵の表情が浮かんでいた。久々に見せる穏やかな顔つきだったという。
その時、燃え上がった薔薇の蔓が生き物のように動き、マチェックめがけて絡みついた。獲物に飛びかかる猛禽類の素早さ。突然の出来事にマチェックはよけられない。
あっという間に炎に巻き込まれてしまった。高熱が喉を灼き、悲鳴を上げることもできずにマチェックは命を落とした。
これが目撃者の証言。この目撃者は一日中酔っ払っている流れ者だった。飲んだくれて錯覚したに違いない。いや、酒欲しさにホラ話をでっち上げたに決まっている。実際、流れ者はこの話題でいくらかの酒にありつくことができた。
結局、この証言を信じたものはいなかった。実のところ流れ者本人も夢うつつで、自分の見たものが現実なのか幻覚なのか区別がついていなかったのだ。
後年になってマチェックとその家族こそ青い薔薇の魔女ラスモーラの末裔であるという説が生まれた。もし焼かれなければ薔薇には青い花が咲き、マチェックの長女エヴァは魔女ラスモーラとして覚醒したはずであると。
今になっては確認のしようがない。この説の提唱者は、マチェックの遺族の行方を追おうとしたが果たせなかった。二度に渡る大戦で記録が失われ、僅かに残存する資料もヴァチカンの奥深くに眠り続けているからである。