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青い薔薇の血族
五章 第五日
2.暗転(2)
 あまりにも非日常的な存在。そのため瞬時には反応できない。森川は歩く姿勢のまま固まり動きを止めてしまった。
 使い魔は喉からゴボゴボと音を立てながら森川に向かってくる。森川も、ようやく我に返り威嚇(いかく)のため拳銃を抜く。
「止まれ。止まらないと撃つぞ」森川の手も声も震えていた。
 こんなものは作り物の着ぐるみに違いない。理性は訴えるのだが、本能がそれを打ち消す。眼前のバケモノは本物にしかない猛々(たけだけ)しさを全身から発している。
 ウィンドウ越しに事態を見つめていた俊一は、香奈に渡された勾玉を握りしめていた。ラスモーラの使い魔に対しては、拳銃の攻撃が通用しない。
 奴を撃退しうるのは、今この場所では香奈が破邪の念を込めた勾玉しかないだろう。手の中の勾玉は熱を帯び始めていた。使い魔の放つ邪気に反応しているのだ。
 迫りくる使い魔の姿に、森川は恐怖心を抑えきれなくなり発砲した。駐車場に銃声がこだまとなって響く。
 俊一は、水上の話が嘘ではなかったことを思い知らされた。使い魔は衝撃を受けたふうもなく前進を続けている。
 間違いなく命中したはずだ。なのにどうして。森川は理解を超えた事態にヘナヘナと腰を落としてしまった。使い魔は、あと数歩のところまで迫っている。
 このままでは森川が危ない。俊一は夢中でセダンを飛び降り、勾玉をかざして使い魔に走り寄った。
「加賀さん、危ない。下がってください」
 森川の叫ぶ声が、妙に遠く聞こえた。俊一は使い魔の2メートルほど手前で立ち止まった。勾玉の効果か、にじり寄っていた使い魔も動きを止める。
 使い魔に向けてかざされた勾玉は、今や白い光を発し始めていた。
 俊一が思いきって一歩踏み出す。使い魔は、ぶるっとたじろいで後退した。香奈の推測どおり敵はまだ十分に回復していないのかもしれない。
 俊一は勾玉の力を信じ勝利を確信して、さらに前進する。使い魔は勾玉の発する光から顔をそむけながら、一歩二歩と引き下がっていく。
 ブンという低い音とともに使い魔の姿が歪む。電波の乱れで歪んだテレビの画像のようだった。そのまま空中に吸い込まれ、跡形もなく消えてしまった。
「き、消えた。何だったんだ今のは」ようやく立ち上がった森川が、うわずった声をあげた。
 あまりにも事が簡単に運びすぎている。俊一は、勝利感が喪失していることに気づいた。
 腑(ふ)に落ちない。ラスモーラほどの魔女が、こんな無意味な攻撃を仕掛けてくるとは。使い魔を打ち返したという実感も湧かなかった。あっさり逃げられた感じだ。何かがおかしい。
 その時、背後でガラスに砕ける音がした。
 俊一たちがあわてて振り返る。真紀が二人の男にセダンから引きずり出され、横付けしたバンに連れ込まれようとしていた。
 窓ガラスを割り、素早くドア・ロックをはずしたのだ。
 一人は新宿で見た背の低い中年男。もう一人は白髪の老人だった。こんな状況でなければ、風格ある老紳士という表現が似合いそうなタイプ。身に着けているスーツも、かなりの高級品であることが見てとれた。
 中年男は真紀の口に白い布を押し付けている。クロロホルムでも染み込ませてあるのだろう。真紀はぐったりとして抵抗もできず、二人のなすがままだった。
 中年男が真紀を離れ運転席へと駆け込む。老人は、真紀を軽々と抱えて後部座席に入った。若い運動選手でも人一人抱えて、これほど軽やかには動けまい。信じられない動作だった。
 罠に気づいた俊一と森川は、必死に駆け戻る。しかし、エンジンをかけっぱなしにしていたバンは、すでに走り出していた。
 森川が銃を構え、バンのタイヤを狙って発砲した。弾丸はそれて駐車場の床に当たり、跳弾となって向かいの柱のコンクリートを削った。コンクリートが細かな破片となって飛び散る。
 二人は警察車に駆け込もうとした。
「くそっ」俊一が罵り声をあげた。
 セダンのタイヤが、バンの横付けされていた側2本を切り裂かれていた。
 二人はバンを追って、駐車場出口に続くスロープを駆け登った。バンはすでに路上に出ていた。遠ざかるバンを、かろうじて目で捉える。
 森川は銃を構えてみたものの、昼日中の激しい交通量とあってタイヤを狙える状況にない。遠ざかるバンを空しく見つめるしかなかった。
「大至急手配しましょう」森川は拳銃を左脇のホルスターに戻しながら言った。
 警察車にとって返した森川は、無線でバンの車種とナンバーを連絡し手配をかけた。
 それにしても先程のバケモノ。ホログラムか催眠術か、とにかくトリックには違いないだろう。まんまと敵のまやかしに引っかかってしまった。森川は歯ぎしりせんばかりに悔しがる。
 現実に怪物が現れ、跡形もなく消えてしまう。森川にとって、そんな非科学的な事象は認められないことだった。
 俊一は、後悔と自己嫌悪に身を引き裂かれそうな気分だった。こんな手にみすみす引っかかって真紀を奪われてしまうとは。

 警察による実況検分が行われ、俊一が解放されたのは2時間後だった。
 勾玉を手に飛び出した俊一は、手にしたリモコンで使い魔の映像を操作していたのではないかと疑われてしまったのだ。もちろん、どう調べてもヒスイの勾玉で、何の仕掛けも見つかるわけがない。
 俊一は、勾玉がただのお守りで、気が動転して自分でも理解できない行動を取ってしまったのだと、どうにか警察を納得させた。
 真紀のいない今、予約した部屋には何の用もない。だが、俊一はキャンセルせずにチェックインした。隣室には香奈と蘭山が控えている。
 俊一は自分の部屋に入らず、香奈たちの待つ部屋に向かった。香奈たちは、慌ただしいホテル周辺の様子から、すでに事件の発生に気づいていた。
 二人は、力なく説明する俊一をじっと見つめていた。話し終えた俊一は、がっくりと肩を落とし、落胆を隠そうともしない。
「残念なことになりましたが、まだ時間はあります。青い薔薇が咲くまでに真紀さんを取り戻しましょう」香奈は傷心の俊一を励ますように言った。
「それにしても僕がまんまと引っ掛からなければ、真紀は無事だったのに」俊一は、どうしても吹っ切れずにいた。
「加賀さんの行動は間違っていません。たとえ使役者が十分な力を発揮できていなくても、式にとって人一人殺すくらいたやすいことです。加賀さんが動かなければ、森川さんは見殺しになったでしょう」
 俊一は歯噛みして悔しがった。香奈の言うとおりだ。森川が犠牲になっていれば、たとえ真紀が守れたとしても一生後悔するだろう。ラスモーラの卑劣な手口には、はらわたが煮えくり返る思いだった。
「真紀さんはラスモーラにとって大切な存在です。危害が加えられることはないでしょう。勝機は、十分にあります」香奈は力強い口調で続けた。
 言霊の力を秘めた香奈の言葉を聞くと希望が湧いてくる。だが、青い薔薇が咲くまで、あと三日しかない。残された時間はあまりに少なかった。
 ラスモーラが復活してしまったら、真紀はどうなるのか。二百年前、ラスモーラに身体を奪われた少女は二度と戻らなかった。
 後悔は後回しだ。青い薔薇が咲くまでに、なんとしても真紀を取り戻さなくてはならない。俊一は、そのためならばどんな犠牲も厭(いと)わない覚悟だ。
 当面は犯人が警察の非常線にかかることを祈るしかない。俊一たちは、じりじりしながら連絡を待ち続けた。
 真紀を警護する予定だった水上も、急きょ真紀捜索チームに駆り出された。一刻を争う緊急事態であったため、ようやく俊一たちに連絡を入れる余裕ができたのは午後四時を過ぎてからだった。
 誘拐に使われたバンは盗難車だった。ホテルから5キロほど離れた空き地に乗り捨てられているのが発見された。今のところ目撃者はなく、乗り換えた車種、逃走方向は特定できていない。
「香奈くんの霊視によれば、ラスモーラは八ヶ岳の麓近辺に潜んでいる。真紀さんを連れ去ったのも、その場所と考えるべきだろう」蘭山は、香奈が霊力でマークした地図を思い出して言った。
 青い薔薇を開発したマクロ植物研究所も八ヶ岳にほど近い位置だと聞いている。青い薔薇がラスモーラの魔力の根源だとすれば、格好の場所であろう。
 水上は、蘭山の言葉を受けて直ちに中央高速道、甲州街道など西への道筋、特に八ヶ岳近辺のインターチェンジに対する検問の強化を要請することにした。
 真紀がさらわれて三時間が経過している。ぎりぎりの時間だ。水上は、その方面の各検問所に順次連絡を取った。状況を確認し、検問の強化を依頼する。
 ばれれば叱責はまぬがれない越権行為。だが、水上は気にしなかった。
 警察機構を超えて行動しなければ立ち向かえない事件だということは承知のうえだ。だからこそ知り合ったばかりの仲間たちと行動をともにしている。今さらリスクを恐れて、どうなるというのか。
 後は水上も待つしかない。受け持った地区の聞き込みをしながら、警察無線に耳をこらし続ける。
 夕刻になっても吉報はなかった。敵は警察の張った網をすり抜けてしまったのだ。