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青い薔薇の血族
五章 第五日
4.水晶の軌跡
 水晶玉の中に薔薇の茎が三本絡み合っていた。それぞれの先端には蕾が膨(ふく)らんで開花の時を待ちわびている。
 この水晶玉の中には、ラスモーラに思考も蠢(うごめ)いていた。闇の力を凝縮したラスモーラの魂がここにあった。

 ラスモーラの魂が目覚めたのは、ロンドンにある古物商の店内だった。シャーロック・ホームズで知られるベイカー街の片隅にひっそりと佇む煤(すす)けた印象の店がまえだ。
 水晶玉は、薄汚れたガラスのショーケースの中にあった。ごたごたと置かれたガラクタの中に埋もれている。
 歪みが全くない完全な球形をなす水晶玉。忌まわしいラスモーラの結晶でなければ、至宝といっても良い逸品である。
 この店の主は、その価値を見抜くことができなかったのだ。
 自分が目覚めたからには、どこかで青い薔薇が育ちつつあるはずだ。ラスモーラは見えない触手を八方に伸ばした。どうやら青い薔薇が咲くのは遠い東の国であるらしい。
 どんなに遠くとも問題ではない。ラスモーラにとって距離など取るに足らないことである。それよりも予言の的中に歓喜していた。
 人の手によって青い薔薇が生まれようとしている。人工的な青い薔薇。自然には存在しない青い薔薇が科学の発達によって大量生産されるのだ。
 愚かな人間たちは、自分の首を絞めていることに気づいてもいない。
 今度は簡単に滅ぼされたりはしない。世界は青い薔薇で埋まり、我は不滅の力を持って君臨するのだ。
 ラスモーラは、今一度触手を伸ばした。今度は自分の器となる者を捜すために。
 驚いたことに魔女の血を受け継ぐ者も同じ東の国にいた。定めというものを感じ取り、ラスモーラはほくそ笑む。
 青い花をつけるはずの薔薇は芽吹いたばかりだ。もう何日か経てば自分の力も少しは強くなる。
 それから数日間、ラスモーラはじっと待ち続けた。遠い東の国では千本を超す青い薔薇が葉を広げつつあった。ラスモーラは、僅かではあるが力の強まったことを感じた。近くの人間に暗示を掛けることくらいはできそうである。
 翌日、古物商の前を一人の少女が通りかかった。ブロンドの髪に青い目をしたアマンダという名の少女。彼女は日本へのホームステイを三日後に控えていた。
 活発なチアガールであるアマンダは、骨董品になど全く興味がない。にもかかわらず、その日は何故か古物商の煤けたガラス戸に惹きつけられた。
 アマンダは魅入られたように店内へと入っていく。ドアに取り付けられたベルがカラカラと音を立てる。
 店主はチラリと陰気な視線をアマンダに向けた。フン、金のなさそうな小娘か。客にはなりそうもないと判断して鼻を鳴らす。
 だが、心とは裏腹に店主はヨロリと立ち上がってアマンダの後を追うのだった。
 アマンダは所狭しと置かれているアンティークに見向きもせず、奥のショーケースへと向かう。
 ケースの中の古ぼけた水晶玉に目がいく。周りにぎっしりと置かれた、アマンダには骨董品なのかガラクタなのかも見分けがつかない数多くの物には目もくれない。
 ひたすら彼女の興味は水晶玉にのみ向けられていた。色褪せた黒いビロードの上で埃を被った水晶玉に蒼い瞳を輝かせる。
 アマンダは、その水晶玉から目を離すことができなくなっていた。黙りこくって、じっと見つめ続ける。
「この水晶が気に入ったかね、お嬢さん」普段は無口で無愛想な店主がアマンダに声をかけた。
 店主は陰気な目をした皺だらけの老人。常連客にならともかく、見知らぬ若い客に話しかけるなど自分でも理解しがたい行動だった。
 アマンダは頷いた。どうして水晶玉になんか興味を持ったのかしら。幾らぐらいするんだろう。留学に必要な身の回りの物を買ってしまったから、持ち合わせもほとんどないのに。でも、どうしても目が離せない。
 冷静な心の反面で、奪ってでも欲しいという自分にも理解できない衝動に駆られていた。
「気に入ったなら持ってお行き。どうせ売れっこない代物だからね」
 強欲な店主は自分が口にした言葉に耳を疑った。信じられない。他人にタダで物をやるなんて。決してしないはずの行為だ。だが、店主はまたしても心と裏腹な行動を取る。
 水晶玉をケースから取り出し、黒いビロードで包み込むようにしてアマンダへと手渡したのである。何かに操られているような気分だった。

 こうして水晶玉はいずれ青い薔薇の咲く国へと潜り込むことに成功した。
 薔薇の苗の近くに来てラスモーラは急激に力が強まるのを感じた。その力を利用して周囲の情況を少しずつ探っていく。
 アマンダがホームステイした先は、多々良という老夫妻の家だった。多々良は実業家であったが、三年前に現役を退いていた。
 事業は子供たちが継いで安泰。悠々自適の老後だが、夫婦にはこれといって趣味がなかった。有り余る時間、何をして過ごそうか。多々良夫妻は海外暮らしが長く、英語が堪能だった。
 夫妻は年に一人留学生を預かることにした。老後の時間を有意義に過ごせて、国際交流にも貢献できる。一石二鳥に思えた。
 多々良は世田谷に大きな屋敷を構えており、中年の運転手と料理や身の回りの世話をする青年が住み込んでいた。
 ラスモーラは青い薔薇の在り処を感知した。少しばかり西の方角だ。青い薔薇に近づくほど力を増すことができる。西に移る必要があった。幸い多々良は青い薔薇の育つ場所から、さほど遠くない場所に別荘を持っている。
 この家にいる全員を同時に操れるまでに力が回復したら、その別荘に居を移すことにしよう。引退した老夫婦が留学生と使用人を連れて、しばらく別荘暮らしを楽しむ。誰も怪しむまい。
 器となる女は、青い薔薇よりずっと近くにいた。本人は気づいていないが、霊能者の素質を持っているようだ。さすがはわが血を受け継ぐ者。ラスモーラは、この女の身体を乗っ取るのが、一層楽しみになった。
 この女とは、今回の移動で離れることになる。だが、あせることはない。器を手に入れるのは、まだ先のことだ。
 先ず青い薔薇の近くに身を置いて力を蓄えるのだ。器を手に入れるのは、もう少し力が蘇ってからだ。
 そして今、ラスモーラは器を手に入れることに成功した。思ったより手こずったが、もう問題はない。犠牲も払ったが、どうせ器となるべき人間以外は使い捨てのゴミにすぎないのだ。
 お膳立ては全て整った。後は青い薔薇の咲くのを待つだけである。
 器となるべき女は、最初に感じた以上の霊能力を秘めていた。ろくに覚醒していない状態で使い魔を打ち返すとは、ラスモーラにとってもまさしく予想外の出来事だったのである。
 女が身近に来て、ラスモーラは自分の力が急激に高まるのを感じた。その力は開花を待つ青い薔薇にフィードバックされる。青い薔薇の発育は加速され、自分の復活も時期が早くなるだろう。
 悲願の成就(じょうじゅ)まで、あと僅かだ。この女の身体を奪えば、これまでにない強大な魔力を発揮できる。今度こそは愚かな民を支配下に置き、絶対権力を手中にしてみせる。
 ラスモーラは自らが君臨する千年王国を夢想して陶酔感に浸っていた。