ファントム・イルージョン(中編)
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 この光景は見覚えががある。ボンファイア心の奥底にある古い扉を探っていく。そしてついに思い出した。
 確かにこの草原は記憶の底にしまわれていた一つの風景だった。彼が幼い頃、よく遊んだ草原。
 いや、正確に言えば違う。ボンファイアがハイスクールの時代に、10年近くも前に引っ越した生家を訪れる機会があった。
 そのときボンファイアは、この草原にも足を向けた。しかし、見つかったのは雑木林に囲まれた狭い野原にすぎなかった。
 別にその辺りが開発されたというわけではない。ボンファイアの体格そのものが大きく変わったことが要因なのだろう。
 いや、それよりも子供の目には何もかもが輝いて映り、それが心の中で増幅されて現実を超えた記憶を作り出したということなのかもしれない。
 年配の人間であればノスタルジーを憶えて感慨にふけるシチュエーション。しかし、まだ若かった当時のボンファイアは裏切られたような失望を感じて帰途についた。
 今、目の前に広がっているのはボンファイアの心の中にのみ存在する大草原だった。今彼は現実には存在しないはずの光景に身を投じているのだ。
 ボンファイアは魂がフワリと浮き上がるような気分だった。こんな気持ちになるのは本当に久しぶりだ。
 実際、前にこんな高揚感を憶えたのはいつだったろうか。ボンファイアの記憶にはもやがかかっていた。もやの向こうに何かがあるのは分かっている。だが、彼はそれを垣間見ることを恐れていた。
 ボンファイアは暖かで生命の息吹に満ちた風を顔に受けながら草原を突っ切っていく。緑の大海原を思わせて波うつ果てしなく広大な草原の中を。
 しかし、ふと気がつくと草原は途切れていた。まるで映画のカットが切り変わるような唐突さだ。
 いつ出現したのか、目前には鬱蒼(うっそう)とした森林が続いている。
 アラカーンの森。今度はもう考え込む必要もなかった。
 ボンファイアがまだ幼かった頃、子供たちに圧倒的な支持を受けたテレビドラマ「勇者グレアム・ホーナー」の本拠地である。
 グレアム・ホーナーは王子として生まれながら、家臣マクルード卿の裏切りによって両親を失い、僅かな家臣とともに城を脱出する。
 そして迷路のような森の中に隠れ処を築いたホーナーは、城を乗っ取って王国を手中にしたマクルードに戦いを挑む。一方、マクルードはホーナーが愛する隣国のブリジット姫を人質にとって勢力を伸ばそうとする。
 シリーズのクライマックスは、姫を救出しようとして城に乗り込んだホーナーとマクルードの一騎打ちだった。
 後年に思い起こせば、まったくもってロビンフッドの換骨奪胎にすぎない。
 しかし、当時は子供たち皆がホーナー一味とマクルード軍に別れ、夢中になって熱き戦いを繰り広げたのである。
 目の前に広がる森は、先ほどの草原と同様に本物すぎた。奥深く神秘さをたたえた荘厳な雰囲気は、ボンファイアが遊んだ雑木林はもちろん、テレビの液晶画面に映し出されていたセットの森とも比べものにならない。
 ボンファイアがその森に進み入ったとき、心はグレアム・ホーナーと化していた。
 これまで多くの敵兵を罠にかけた迷路のような森。その生い茂った木々の間を、奪われしイシュメール城目指して突き進む。
 今日こそ大敵マクルード卿を倒し、ブリジット姫を救出してイシュメール王国を復興するのだ。
 ボンファイアの心には一点の曇りもない。その断固とした歩調は、何かに憑かれているようですらあった。
 やがて森を抜けると、目の前にイシュメール城がそびえていた。深緑色の堀を周囲に巡らし、巨石を積み上げた城壁を越えて中央の尖塔がのぞいている。
 国の歴史とともに歩んできた年輪を感じさせる古城だ。逆賊マクルードなどに支配させてはならない由緒正しき城である。
 いつもは引き上げられたままの跳ね橋が今日はおろされていた。堀にはマクルードの指示により無数の肉食魚が放たれている。
 一見穏やかな水面(みなも)をたたえているが、多くの生命を呑み込んだ地獄の淵なのである。
 ボンファイアは跳ね橋を渡り、城壁を抜けていく。そこは無人の広場だった。いつもなら商人が屋台や露店を並べ、騎士と市民とで賑わっている場所。それが今日は完全に沈黙していた。
 これがマクルードとの最終決戦のために用意された舞台なのである。
 ボンファイアは緊張に顔を引き締めると広場を渡り城門を目指す。決して持ち場を離れることがないはずの門番も姿が見えない。
 観音開きの巨大な城門は開け放たれていた。城の大広間が見通せる状態。この奥には国王の謁見の間がある。
 ボンファイアが門をくぐり城内に入ると、そこには邪悪な殺気が満ちていた。
 その肌を逆なでするような邪気の源は謁見の間であった。ドアは開け放たれているが、明かりは灯されていない。
 黒い長方形に切り取られた闇の中から、マクルード卿がゆっくりと歩み出てくる。
 頑丈な鋼鉄の鎧で身を包み、右手にいかにも高価そうなブロードソード、左手に小型で扱いやすそうな円形の盾を構えている。一分の隙もない戦闘の出立(いでたち)ちといえた。
 「勇者グレアム・ホーナー」でマクルード卿を演じたのは、クリストファー・マーカムというベテラン俳優である。その長いキャリアで培(つちか)われた演技力で子供たちの憎しみの的を見事に演じきったが、体力的には明らかに盛りを過ぎていた。
 筋肉質で若々しい肉体美を誇ったホーナー役のジェラルド・ニコルズに比べると外観的には見劣りしていた。
 今、ボンファイアの前で双眸をギラギラさせているマクルードは違う。
 大柄なボンファイアに比べてもひとまわり大きな身体は鍛え抜かれ、圧倒的な威圧感をボンファイアに与えていた。全身に鬼神のごとき気迫をみなぎらせ、手入れの良い黒ヒゲをたくわえた口元は不敵な笑みを浮かべている。
 ボンファイアは、マクルードをにらみつけながら右手に進み、壁に掛けてあったバトルアックスを手に取る。両側が刃になった戦闘用の斧。柄の先端は槍になっている。
 熟練の戦士なら熊とも渡りあえる重量級のエモノだ。
 双方が広間の中央へと進み出る。どちらの動きにも隙がない。牽制しながら睨み合う。
 先に仕掛けたのはボンファイアだった。斧が唸りをあげて振り下ろされる。
 マクルードは自然な動きで刃をかわすと、突くように斬り込む。ボンファイアは、ギリギリでかわすことができた。
 続けざまの斬り合いが繰り広げられる。一見互角のようだが、次第にボンファイアが不利になってきた。
 若く敏捷なボンファイアであるが、重量のあるバトルアックスは、その優位点を奪っていた。しかも闘いが長引けば疲労しやすい。
 攻撃は次々とかわされ、ボンファイアはいたずらに体力を消耗していく。
 マクルードは、すでに間合いを見切っていた。彼の不敵な顔には、余裕の笑みすら浮かんでいる。
 このままではマクルードの思うつぼだ。早く決着をつけねばならない。ボンファイアの脳裏に古い記憶が甦ってくる。そうだ、グレアム・ホーナーには必殺技があった。一か八か起死回生をかけた離れ業が。
 ボンファイアは斧を思いきり後ろに引き、身体の後ろに隠れた瞬間に左手を離した。そのまま上体を大きくひねって踏み出す姿勢で切り込んでいく。
 本来は両手持ちのバトルアックスを片手で扱うことにより間合いを変える。相手の虚を突くための変則的な攻撃だった。
 失敗は許されない。もし失敗すれば、無防備な背中を敵にさらすことになる。
 成功した。間合いを見切ったという余裕が、マクルードの油断を誘っていたのだ。
 思いもかけない深さに切り込まれたマクルードは、どうにか切っ先をかわすのがやっとだった。かろうじて倒れ込むことは避けたが、全身のバランスを崩してしまう。力なく突き出されたブロードソードは斧に当たると中央で折れてしまった。
 ボンファイアは斧の勢いをおとさず、遠心力を利用して高速で身体を一回転させる。
 マクルードは敵が目の前で背中を向けているのに、自らの体勢を立て直すことができず歯ぎしりした。
 ボンファイアは半回転したところで、ぐっと右手を引き再び両手で斧を握った。そして大きく振りかぶる。
 マクルードは、ようやくバランスを取り戻したが十分な防御は取れずにいた。
 ボンファイアは鎧の継ぎ目に狙いを定め、回転の勢いを乗せてバトルアックスを一気に突き出す。
 斧は先端の槍状になった部分からマクルードに突き刺さっていく。その重量と勢いで平たい刃の3分の1までが彼の腹部に埋まってしまった。
 マクルードは愕然としていた。自らの敗北と死が受け入れられないと言いたげな表情。
 思わず折れた剣と盾を取り落とす。大理石の床に当たって城中に響き渡りそうな金属音を発した。
 マクルードは両手で斧の掴んだ。斧を抜こうと試みたのかもしれない。しかし、彼にはもう深く突き刺さった斧を抜くだけの力は残っていなかった。
 マクルードは膝を折ってしゃがみこむと、そのまま動かなくなった。斧に支えられ上体は起きたままの状態。魂を失いながらも、まだ斧を抜こうとしているかのようだ。
 こうしてグレアム・ホーナーの悲願、イシュメール城の奪還はついに果されたのである。