悪しき運命(さだめ)のラセリア
第1部 ヴルディアの青騎士
4.宴のあとの宴
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「ありがとうございました」花売り娘がペコリと頭を下げた。
 籠から一掴みの花を取り出す。白いセラスチューム、ピンク色のアキレア、黄色いリシマキア、可憐な花束だった。
「これ、お礼です。受け取ってください」
「大切な商売品だろ。受け取れないよ」
「いえ、私の気持ちですから」
 領主邸の門前で美少女と押し問答をしても始まらない。ヴィンスはポケットから、先ほど貰ったチップを取り出した。
「よし、これで花を買わせてもらうよ」
「でも、それではかえって申し訳ありません」
 ヴィンスは、ためらう少女から素早く花束を受け取り、手の平に1枚の銀貨を押し込む。
「すみません。助けていただいて、花まで買わせてしまって」少女は頬をピンクに染めて言った。
「気にしなくてもいいよ。今日はどういうわけか、実入りがいいんだ。ほんの、おすそ分けってところさ」
 花売り娘は、恐縮した様子で立ち去っていく。ヴィンスは、その後姿をじっと見守っていた。
 少女は、ヴィンスの視線に気付いたかのように振り返り、もう一度ペコリと頭を下げた。そして、大通りを曲がっていった。
 柄にもなく美しい花束を手に立ち尽くすヴィンス。それにしても綺麗な少女だった。どこか妖精のようで、彼女の顔を思い出すと手中の花束が色あせて感じられる。
 ふと我にかえると、すでに陽は西に傾き、影が長く伸びていた。
 ふう、ひと段落と思って帰ってきたが、そうは問屋が卸さなかったか。今日は本当に忙しい日だった。ヴィンスは溜息をつくと通行証を門番に渡し、屋敷へと入っていった。
 今度は正面玄関から入った。吹き抜けの大広間になっており、回廊となった2階に左右から階段が昇っている。
 ヴィンスは、居合わせた中年のメイドに声をかけた。
「あの、よかったら、この花をどこかに飾ってください」
 先ほど少女から買った花束を差し出す。
「ああ、ありがと。でも、この屋敷では薔薇とか蘭とか、派手な花しか飾らないんだよ」紺のお仕着せに白いエプロンのメイドは、少しすまなさそうな表情で言った。
「でしたら、あなたがたの部屋の飾ってください。僕は明日になれば出発してしまいます。せっかくの花も、見る人がいなければ可愛そうです」
「まあ、優しいこと言ってくれるねえ。ジグラスたちとは大違いだよ。それじゃ、ありがたく貰うとしよう」
 ジグラスとは、先ほど出会ったチンピラの一人らしい。やはり、あのならず者たちは、この屋敷に頻繁に出入りしているようだ。
「すみません」ヴィンスは急に声を小さくして言った。
「自分の部屋が分からないんです。玄関から入るのは初めてだったので」
「フフッ、むやみに広いからねえ。案内してあげるよ」
 ヴィンスはメイドに客間まで案内してもらい、自分の客室に戻った。夕食まで、いま少し時間がある。一休みすることにした。

 皮鎧を脱いでくつろごうとしたとき、ドアをノックする音がした。
「どうぞ」
 声をかけると、入ってきたのは先ほどの執事だった。手にはきちんと折りたたまれた衣服を載せたトレイ。
 背後には、黒革の真新しい靴を手に持ったボーイ風の少年がいた。
「晩餐用の服をお持ちしました」
 執事の言葉にヴィンスは眉をひそめた。やっぱり堅苦しい。断わっとけば良かったかな。
 とはいえ、領主の晩餐会ともなれば、そうそうたるお歴々が集まるのだろう。
 丈夫さが取り柄というヴィンスの安服で列席するわけにいかないことは理解できる。
「わかった。合わせてみよう」
 ヴィンスは服を手に取った。いかにも高級そうな黒の上下、真白なシルクのシャツ。
 うへっ。ヴィンスは困惑した。よく見るとシャツには派手なフリルがついている。
「このシャツはちょっと」顔をくもらせて執事に言う。
「あいにくサイズが合うのは、これ一着でして」執事は超然とした態度だ。
 ふう、ヴィンスは今日何度目だか分からない溜息をつくと、衝立の影で着替え始めた。
 たしかに執事の言うとおり、オーダーメイドであつらえたようにピッタリだった。この執事只者じゃない。感心することしきりのヴィンス。
 執事はポーカーフェイスだが、内心では自分の見立ての確かさに、ほくそ笑んでいた。
 もともとヴィンスは山育ちとは思えない端正な顔立ちをしている。少々ボサボサだが漆黒の髪に落ち着いた茶色の瞳。
 よし、これで髭をあたらせれば、ちょっとした貴公子に化けさせることができる。執事は心中で一人ごちた。
 姿見の大鏡で自分を見たヴィンスもまんざらではない。なかなかさまになってるじゃないか。馬子にも衣装ってもんだ。
 でもやっぱりフリルは嫌だった。

 たまたま今日は各界から客人を招いての晩餐会の日。その招待客の中から急病でキャンセルとなった者が出た。
 その知らせがあった直後にヴィンスが現れたため、気まぐれでクローディオが彼を招待したのだ。これもまた、ヴィンスの運命を動かすめぐり合わせだった。
 大食堂には市軍の総司令官、市の財政局長官、銀行の頭取、市で最大の商会社長など、そうそうたる顔ぶれが集合していた。
 もちろんモーズリット卿も列席している。紫の上着にフリルたっぷりのシャツ。市のVIPに囲まれても、ひときわ見栄えのする風貌だった。
 20人分の席が用意されても、まだ余裕たっぷりの大テーブル。部屋の隅では弦楽四重奏団が、ゆっくりとしたテンポのワルツ曲を演奏していた。
 ヴィンスは最初に紹介されたが、食事が始まるとすっかり無視された格好だった。
 予想していたことだが、居心地のいい夕餉(ゆうげ)ではない。彼は、食べることに専念することにした。
 めったに、いや今の手間賃では決して口にできない高級料理の数々。
 キャビアやフォアグラをのせたカナッペに始まり、メインはフィメリオのムニエル。フィメリオはホウボウに似た海の魚で、くせのない白身の高級魚だ。
 海に面していないヴルディア市では、肉よりも新鮮な魚のほうが高級食材として珍重されている。
 ワインは領主邸の果樹園で採れたブドウを使った自家製。適度に酸味が効いた上品な味の白ワインだった。
 やはり自前の果樹園で採れたフルーツを使ったゼリーのデザートを食べる頃には、すっかり満腹状態。とはいえヴィンスは、どこに収まったのか分からない気分でもある。
 食事が終わり、喫煙室に席を移しての歓談となった。煙草を吸わないヴィンスは、いい頃合とクローディオに挨拶して場を辞した。

 一旦客室に戻ったものの、眠るには早すぎる時間で目が冴えている。
 外の空気でも吸おう。思いたってヴィンスは部屋を出た。
 長い通路を抜けて屋敷の裏手のほうへと向かっていく。最初に入った厩の脇とは違う通用口に出た。
 夜になって急速に気温が下がったらしい。頬に当たる風がひんやりと心地よい。
 草むらのあちらこちらで虫が鳴き、黒い影となった梢からはフクロウの鳴き声がしている。
 それをさえぎるように、陽気な笑い声が風に乗って伝わってきた。見ると左手奥のほうに離れがある。
 下働きの者たちの宿舎だった。母屋に比べれば、飾りっけのない地味な建物。それでもヴィンスが住んでいる安下宿よりは、しっかりした造りである。
 今度は手風琴が鳴り始め、歌声が聞こえてきた。
 街灯に誘われる虫のように、ヴィンスは楽しげな歌声に惹かれて小屋へと歩み寄っていく。
 歌は故郷の懐かしい民謡に似ていた。歌詞もメロディーも微妙に違っている。おそらく、もともとは同じ曲が、違う地方で少しずつ変化しながら伝わっていったものなのだろう。
「よお、冒険者の大将」
 背後から声をかけられてヴィンスが振り向くと、厩で会った年配の馬丁が顔を赤らめて立っていた。
「こんなところに突っ立っているのは野暮ってもんだ。さあ、中に入った、入った」言うが早いか、できあがって調子よくなっている馬丁はヴィンスの背を押した。
 されるままにヴィンスは扉を開け、小屋の中へと入っていった。
 歌声がやみ、10人ほどの顔が一斉にヴィンスのほうを向く。件(くだん)の執事の顔は見当たらなかった。
「ヘヘッ、本日のゲストを連れてきたぜ」ヴィンスの背後から、ひょっこり顔を出して馬丁が言った。
「おう、大歓迎だ。ジグラスどもに食ってかかった男だからな」スキンヘッドに口ひげの巨漢が野太い声を出した。
 見た目からは想像もつかないが、この男は領主邸の料理長ヘルモンド。馬丁はスピノザという名だった。
 どうやらジグラスたちは、この屋敷の使用人たちから総スカンを食っているらしい。まあ、あの連中であれば、当然のことだろう。
 ヘルモンドは、夕方の出来事を物影から見守っていた。いざとなったら包丁でどやしつけてやろうと手ぐすね引いていたのだ。結局、ヴィンスに先を越されてしまったのだが。
「そうよ、そこに飾ってある花だって、この冒険者さんがプレゼントしてくれたんだから」と、これは先ほどのメイド。カレンという名だ。
「しかし、あのゴロツキども、領主様の屋敷に出入りできる手合いじゃないんだがなあ」別の男が声を荒げた。
「うむ、わしが勤め始めた頃は、あんな連中は出入りしておらんかった」スピノザは、ヴィンスに持たせた杯に酒を注ぎながら言った。
 庭でとれた果実を酒精につけた手作りの酒。ほんのりと甘い芳香が広がる。
「さ、遠慮はいらねえ、グッとやりな」
 スピノザに勧められるままにヴィンスは酒をあおった。口当たりは良いが、とてつもなく強い酒だ。
 うわあ、こいつは気をつけて飲まなきゃ。飲めないほうではないヴィンスが思わずあわてたほどだ。
「ガディスの奴が顔を出すようになったのが、かれこれ5年ほど前だな」スピノザが話題を戻した。
「ボスのガディスがいなくなったから、少しはおとなしくなるんだろうか」ヘルモンドの隣に座っている若い男が言った。
 ほう、ガディスが、ならず者の頭目だったのか。確かにガラの悪そうな顔つきだった。ヴィンスは、使用人たちの会話に聞き入っていた。
「フン、分かるものか。とりあえずレーニャが頭となるだろう。あの女の投げナイフとムチさばきに敵う者はいないからな」
 レーニャというのが、褐色の肌をした女と分かった。ヘルモンドは杯をグビリとあおり、言葉を続ける。
「レーニャは、あいつらの中では分別のあるほうだ。だが、男どもは裏に回るとレーニャを女と思って舐めてるとこがある。完全に統制をとるのは難しいだろう」
「おー、やだやだ。あんな奴らが屋敷の警護とか言って、威張りくさってるんだからね」カレンが甲高い声をあげる。
 なるほど。ヴィンスにも少しずつ事情が見えてきた。だが、奇異なことではある。
 ヴルディアは、王国内でも屈指の市兵団を擁している。あの程度の連中に領主の身辺警護をさせる必要はないはずなのだ。
 おそらく、まだ裏があるのだろう。ヴィンスは不審な思いに眉を曇らせる。
 スピノザが、その様子を見とがめた。
「冒険者のだんな、不景気なツラしてるじゃねえか。俺っちに、ひとつカッコいい冒険談を披露してくれねえか」
 ワッと座が盛り上がった。好奇心に満ちた目つきがヴィンスに集中する。
「ううむ」ヴィンスは呻いた。
 なにしろ冒険者になって間もない身だ。本格的な冒険などしたことがない。まさか、お使いの話をするわけにもいくまい。
 かといって拒絶するのも不興なこと。野暮はしたくない。
 よし、故郷の山中で手負いのディゴラと対峙したときの話をしよう。ヴィンスはひらめいた。
 ディゴラは熊とサーベルタイガーを合わせたような猛獣で、畜生にしては知恵も働く。こいつが人の味を覚えると始末に悪い。
 あの時は三人の村人が犠牲になった。三度目のとき、姿を見つけた狩人が矢を射かけたが急所を外してしまった。最も危険な手負いの状態だ。
 即座に山狩りが開始され、武装した3人ずつがチームを組んで捜索に当たった。ヴィンスたちのチームは、進むにしたがい気付かないうちに横に広がりすぎていた。
 山あい全体を包む静けさに、つい油断してしまったのだ。左手を歩いていたヴィンスが気配に気付いたとき、そいつはすでに至近距離にいた。
 巨大な牙をむいた凶暴な顔。その眼は傷つけられた怒りに燃え、獲物の血肉を求めていた。その後しばらくはヴィンスの夢に現れて悩ませたほどの猛悪な表情だった。
 ヴィンスは間一髪で、そいつの懐に飛び込み、心臓に剣の切っ先を突き立てることができた。
 あの時、一瞬でもためらっていたら、空を切った爪がヴィンスを捉えていただろう。そうすれば今こうして酒を飲むこともできなかったわけだ。
 本人が思い出しても冷や汗ものの話。一同は固唾を飲みながら聞き入っていた。
 この場に居合わせた者の中に実際のディゴラを知る者はいない。しかし、噂というものは尾ひれはひれを付けてふくらんでいく。
 ここで聞き耳を立てる皆にとってディゴラは想像を絶する脅威の怪獣だった。ヴィンスを、まるでドラゴンスレイヤーであるかのように畏敬の念を持って見つめる。
 そうとは知らないヴィンスは熱弁をふるい続けた。彼にとってディゴラは神話的存在ではない。確かに恐るべき猛獣ではあるが、日常と隔たりのない世界の中に存在するものなのである。
 こうして宴は夜半まで盛り上がったのだった。