悪しき運命(さだめ)のラセリア
第1部 ヴルディアの青騎士
6.天使の星
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 黒装束の女は、領主邸敷地内の林を駆け抜け、塀際へと辿りついた。
 背後からは番犬の吼え声が近づいている。俊足な女だが、やはり犬にはかなわない。距離が次第に縮まってきた。
 女は身長150センチほど。その小柄な体をひらりと空中に躍らせて2メートル半ほどの塀に手を掛ける。一気に全身を引き上げて塀に上へと達した。
 振り返るとヴィンスが林を駆け抜け近づいてくるのが見えた。その数メートル後ろからは3匹の黒い大型犬が猛然と追いついてきている。暗がりに目が不気味な黄色い輝きを放っていた。
 ようやくゴールの見えたヴィンスは、力を振り絞って追いつかれまいとする。
 ヴィンスを射程距離に捉えた先頭の一匹が跳躍するのと同時に、ヴィンスは塀の頂上をめがけてジャンプした。
 一旦、目標を取り逃がした番犬は、塀にぶら下がったヴィンスの足を狙う。
 ヴィンスも、その気配に気付いた。バタバタと必死に塀を蹴り身体を持ち上げようとする。女の優雅さとは比べものにならないが、間一髪で牙をかわし何とか登ることができた。
 下では3頭の番犬が悔しそうに吠え立てている。
 女はヴィンスの無事を認めると領主邸の外に飛び降りた。そこは屋敷の裏手にあたる人通りの少ない路地だった。
 女は頭巾の下から手を突っ込みヒュッと口笛を鳴らす。
 合図にこたえて物影から黒馬が走り出てきた。騎手は黒装束、黒頭巾で大柄な体格。昼間の片割れに違いなかった。
 後ろにもう一頭の空馬を曳いている。白銀色に輝く見事な毛並みの馬。
 女は、その馬の手綱を掴み、ひらりと跳び乗る。
「さあ、あなたも」女がヴィンスに手を差し出す。
 ヴィンスは、言われるまま後ろに跨った。
 前を行く黒馬に比べると、一見華奢にすら見える駿馬。だが、ひとたび走り出すと、そのバイタリティは目を見張るものがあった。鮮やかな走りっぷりで、深夜の町並みを駆け抜けていく。
 2頭は、領主邸から路地を選びながら南へと下っていった。やがて市の南西部に位置する、最も入り組んだ地区へとやってきた。
 一般市民を相手に商売する小さな店が林立する地域だ。
 深夜のこと、商店はみな戸を閉ざしている。ところどころで終夜営業の酒場が明かりを灯し、そこから僅かな喧騒が漏れてくる程度だ。
 一行は、さらに細い路地へと歩を進める。馬2頭が肩を並べて走るのは不可能な幅だ。さすがにスピードを落としたが、確かな足取りは変わらない。
 やがて2頭は袋小路となった道へと入り込んだ。それでも躊躇する様子はない。
 その道の突き当たり右側に1軒の店が間口を開けていた。店内は、まるで廃業したかのようにガランとしている。両脇に木箱が積み上げられ、中央は床がむき出しになっていた。
 2頭は迷いも見せず店内に突っ込んでいく。店の奥では引き戸が大きく解放されている。2頭は、その戸口の中へと姿を消した。
 同時に奥からわらわらと人間が出てきた。十人強の老若男女。
 手早く店を閉めてしまい、内部で更なるカモフラージュをが進める。
 積んであった箱を手に取り、店の中央に並べていく。その上に畳んであった白布を掛けると、一旦奥へゾロゾロと戻る。
 と今度は手に手にガラクタじみた物を抱えて現れた。
 それを出来たての棚に置けば、あっという間に骨董品店の出来上がりである。
 まあ、間違っても立派なという形容詞は付かないだろうが、露地裏の寂れた店の感じは良く出ていた。これで万が一取り調べが入っても、たった今馬が通り抜けたとは気づかないだろう。

 それはさておき奥へと入った3人。中は店そのものよりも広い造りになっていた。そこに先ほど店を偽装したメンバーを含めて20人ほどが待機している。
 3人が馬を降りると、横から出てきた2人の男が手綱を取り裏手へと引いていった。
 店の裏には表通りからは見えない隠れた路地があり、別な家の馬小屋につながっているのだ。
 広間に集合している者たちは、皆一般市民の身なりをしている。だが、明らかに違和感を感じさせる者も混じっていた。
 戦士の目つきと身のこなし。ヴィンスは、おそらく傭兵とふんだ。
 その連中は、ヴィンスを胡散くさそうにジロジロと睨みつけている。
「この人は大丈夫よ。少なくともモーズリット卿の味方じゃないわ」挑発に気付いた女が凛とした声で言った。
 女は、このメンバーの中で少なからぬ信頼を勝ち得ているらしい。ヴィンスを信用したというわけではなさそうだが、あからさまな態度は消えていった。
 場が収まったところで女は黒頭巾を脱いだ。
 その素顔を見てヴィンスは息をのんだ。
 艶やかな金色の髪、青く澄んだ瞳。門の前で出会った花売りの少女だった。額には赤いバンダナを巻いている。
 いかにも頼りなげに見えた花売りの姿に比べ、自信に満ちて2、3才年上のように見える。だが、間違いなく本人。姉妹というわけでもない。
 その証拠に、怪訝な面持ちのヴィンスに対して、女は神秘的な笑みを浮かべ頷いてみせた。
 だが、ヴィンスを驚かせたのは、それだけではない。
 金色の髪から覗く耳は大きくて先が尖っていた。
 エルフ。敏捷なる森の民。時おり見せる身の軽さもこれで納得がいく。
「どうしたの?そんなにエルフが珍しい?」思わずまじまじと見つめてしまったヴィンスに、女がいたずらっぽい口調で言った。
 大多数のエルフは他種族との交流を嫌い、隠遁生活をおくっている。彼らの集落は隠れ里になっており、人間では探し出すことすら難しい。
 狩猟を主な生業とするヴィンスの村では、弓の名手が多い森の民に畏敬の念を抱いていたが、正式な交流はなかった。したがって山裾に広がる森の奥深くに存在するというエルフの村は、なかば伝説と化していた。
 しかし、中には好奇心旺盛なエルフもいる。人と交流を持ち旅する者も決して少なくない。そのような旅のエルフが村を訪れることは珍しくなかった。
 ましてヴルディアやバナウェイともなれば、住みついて魔法ショップや占い店を営むエルフすらいる。
 だが、彼らは皆どこか超然とした孤高の人という、共通の雰囲気を持っていた。人間とは一線を画した生活を送っている。
 このような人間の組織、しかも秘密めいた行動をする地下組織に加担しているエルフというのは聞いたことがなかった。
 ヴィンスが、非礼なほどに女を見つめてしまった理由はそれだけではない。これほど若く見えるエルフに出会ったことも初めてだったのだ。
 エルフは、緩やかな滅びに向かう種族とも呼ばれていた。永遠とも思える寿命を持つ彼ら。その反面、極端な少子なのである。
 これまでの人生の中で、少なからぬエルフを見てきたヴィンスだが、成年に達して見えない者は一人もいなかった。
 エルフは、成年に達するまでは比較的早く成長すると言われていた。それでも百年ではきかない歳月を必要とする。
 目の前の少女も、ヴィンスが見当もつかないほどの年月を生きていることは間違いない。それでも今まで出会ったエルフの中で、ずば抜けて年若いことに変りはなかった。
「あきれたね、美人の顔を拝んだとたんに鼻の下伸ばして、固まっちまったぜ」無精ひげを生やした屈強な男が冷やかす。この男も傭兵か、さもなければ冒険者なのだろう。
 その声でヴィンスもようやく我に返る。
「いや、悪気はなかったんですが、つい」顔を赤くして口ごもった。女性の顔を穴の開くほど見つめてしまうなど、初めての経験だ。
「ふふっ、いいのよ。今、冷やかしたキリウスなんて初対面のときはもっとひどかったんだから」またしてもイタズラ子猫の表情で言う。
 変幻自在ともいえる豊かな表情。ヴィンスは、その笑顔に魅了された。
「私はラセリア。ラセリア・アンジェスタル。よろしくね」少女が真顔になって名乗った。
 宿命的な出会いが、今果たされたことにヴィンスはまだ気づいていない。