悪しき運命(さだめ)のラセリア
第2部 サヴォイ砦の暗雲
1.瞬(またた)くカンテラ亭
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 ヴィンスたちの脱出騒動から5日が経っていた。
 手配の似顔絵は広場に貼られたままだが、いつしかワルガキにヒゲを書き込まれていた。もう誰ひとり見向きもしていない。
 賞金の高額さに色めき立った連中も、すっかり諦めている。命からがら逃げ出した者が、のこのこ戻ってくるとは思えないからだ。
 そのバナウェイに3人連れの冒険者がフラリとやってきた。
 頬に大きな傷のある巨躯の剣士、赤いローブをまとった女魔道士、剣士の従者と思しき薄汚れた身なりの小男。
 それぞれがバムティ、ラセリア、ヴィンスの変装である。
 バムティは、特殊なニカワを使って頬に大きな傷を作り上げていた。それ以外はほとんど素顔である。
 とはいえ、先日はラセリアを心配するあまり悪鬼のごとき表情になっていた。例えあの時冷静に彼を観察できた者がいたとしても、この剣士が同一人物とは気づかないだろう。
 変幻自在のエルフ、ラセリアは、いつもとは全く異なる空気を醸し出している。目深にかぶったフードからのぞく髪は漆黒、透明感のある色白の肌と、唇を縁どる深紅のルージュが織り成すコントラストは妖艶ですらある。普段のラセリアの面影は、どこにも感じさせない。
 ヴィンスは、バムティの横で背中を丸め、小柄に見せることに成功していた。巨漢のバムティに比較されることで生じる錯覚を利用しているのだ。
 髪をボサボサにして顔を汚し、本来の精悍さはかけらもない。ラセリアが施したメイクによって40歳前には決して見えない風貌と化していた。服の下には詰め物をして、ずんぐりむっくりした体型を作り上げている。
 大胆不敵な行動。ラセリアの発案だ。彼女の卓越した変装術がなかったら、他の二人はともかく、ヴィンスがバナウェイに足を踏み入れることは叶わなかったろう。
 バナウェイは、このところ晴天が続き、空気が乾燥していた。埃っぽい風が吹きすさんでいる。
 ヴィンスは違和感に襲われていた。3ヶ月間過ごしたバナウェイが、いつになく寂れた印象なのだ。活気が失せ、どこか荒(すさ)んだ雰囲気すら感じさせる。
 3人は文字通り風を切って大通りを進み、繁華街へとやって来た。酒場に立ち寄って情報収集しようというのだ。
 「瞬くカンテラ亭」。バナウェイの酒場の中でも特に大きな店構えで、宿屋も兼ねている。
 軒には屋号であるカンテラを描いた看板が掲げられていた。三人は、がっしりした樫の扉を押し開けて店内に踏み込んでいく。
 まだ日の落ちない時間とあって客はまばらである。こんな時間から一杯ひっかけているのは、まっとうな仕事をしている者ではあるまい。
 ヴィンスは、それとなく店の中を眺め回す。片隅には見覚えのあるチンピラが4人ほどいた。先日ヴィンスたちの行く手を阻もうとした連中のはしくれだ。
 チンピラどもは、酔いのまわったトロンとした目つきで一行の姿をぬめまわす。
 といっても正体を見破ったわけではない。妖しい色香を発散するラセリアに魅せられてしまったのだ。
 彼らだけではない。店中の男たちが、ある者はあからさまに、ある者は横目でジトリとラセリアに視線を送る。
 ラセリア一人であれば、またたく間に男たちが群がったことだろう。今は横で凄みを利かせているバムティの姿に気おされ、席を立つ者は一人もいない。
 バムティは、大股で店を横切ると、カウンター席にドッカと腰を下ろす。ラセリアは、左隣りのスツールにしなやかな仕草でスッと身をおとした。
 従者を演じるヴィンスは、二人の背後にある目立たないテーブル席を選んで座った。灯りに背を向け、ひときわ背を丸め、周囲の視線を避けるように身を縮める。
 この店の主人とは、雑貨店の手伝いをしている時分に面識があった。
 さほど懇意にしていたわけではないし、このラセリア会心の変装メイクが簡単に見破られることはないだろう。とはいえ用心するに越したことはない。
「セルディの大ジョッキだ」バムティが野太い声で人気の地ビールを注文した。
「私はシャポワにするわ」ラセリアは、口元に艶然とした笑みを浮かべ、これまた地元産のワインを頼んだ。
「あいつには、ジャゴスと軽い食い物を見つくろってくれ」さらにバムティは顎をしゃくってヴィンスの分を注文する。
 ジャゴスは焼酎の類で、この地方の代表的な安酒である。
「バナウェイってのは景気がいいって聞いてきたけど、なんか、しけてるねえ」
 シャボアをあおってラセリアが声高に言った。伝法で威勢が良い。口調までいつもとは違えている。
 バムティは、決して口の立つほうではない。彼はラセリアのボディガードに徹し、今日の情報収集はもっぱらラセリアの役目だ。
 万が一の場合は、バムティがラセリアを守り、ヴィンスが血路を拓く手筈になっている。
 ヴィンスが腰にくくりつけているのは、いつもの安物ブロードソードに比べても見劣りのする古びた短剣。それでも昼日中から酒びたりの連中に後れを取ることはないだろう。
 もっともラセリアは、なかなかの口八丁だ。彼女に任せておけば、事が荒っぽくなることは無さそうに思える。
「いつもは、もっと活気があるんだがなあ」赤ら顔をした初老の男が、カップを手にカウンターへと席を移してきた。ラセリアの一つ席をとばした隣だ。
 見ると、すでにカップはほとんど空になっている。
 話好きの酔っぱらい。早速好都合な相手が見つかってラセリアは内心ほくそ笑んだ。店主を促してカップに酒を注がせる。
 男が飲んでいたのはジャゴスだった。
 おごられてご機嫌になった男は、マヒューと名乗り話を続ける。
「こんな田舎町が賑わっていたのは北方辺境警備の予備隊が落とす金のおかげだったからなあ」マヒューは、ほおっと溜め息をついた。「それが今じゃ全部出払っちまってる」
「フン、おかしいじゃない。辺境の警備は3大隊が交互に担当して、少なくても1隊はバナウェイで待機してるって聞いたわ」ラセリアが水を向ける。
 北方の辺境を見張る拠点はサヴォイ砦。有事でなければ通常1大隊が駐屯している。通常時は2大隊、交替時期でも1大隊がバナウェイに待機して訓練に明け暮れる。
 この軍自体と兵隊の落とす金でバナウェイは潤っていた。交易ルートから外れたバナウェイ唯一の資金源といっても過言ではない。
 3人の背後でジャゴスをあおるふりしているヴィンスは、これで得心がいった。なるほどバナウェイが寂れて感じたわけだ。兵隊が出払ってしまったとあっては大打撃だろう。3ヶ月世話になった人の良い雑貨店主の顔が浮かぶ。なんだかヴィンスは気の毒な気分になった。
「そうともよ。今まではな。今回は3ヶ月前にギルバートの部隊が出発した。これまでなら、ひと月半のうちに前任部隊が引き揚げてくるんだが、今度ばかりは影も形もねえ」そこまで話すとマヒューは、いかにも喉が渇いたという面持ちでグビグビと酒をあおる。
 あっという間にカップが空いた。マヒューは、そのカップをしげしげとのぞき込む。ラセリアは、お代わりを注文してやった。
「そのうえ先週は最後に残ってたモーリスの隊まで出発しちまった」喜色満面でジャゴスをあおりながらマヒューが言った。
「辺境で獣人どもが暴れだしたって話もあるぜ」コップを拭きながら、店主が口をはさむ。
「いや、北の方を通ってきた旅人に聞くと、辺境は静かなもんで、逆に気味悪いくらいだってことだ」今度はテーブル席で話を聞いていた男が口をはさむ。
 スキンヘッドで上半身はレザージャケット一枚、筋骨たくましい身体を強調した、見るからに荒くれ者。腹の右側には鷹の刺青が彫られている。脂ぎった顔で声を張り上げ、かなりデキあがっているようだ。
「だがな。もっとおかしなことがある」スキンヘッドは続ける。「戦さが起こってるにしちゃ、武器弾薬がの輸送が少ないっていうんだ。それだけじゃねえ。食料の輸送まで怠ってるそうだ」
 それは確かにおかしな話だ。北の辺境地帯は大人数の軍隊が自給自足できるような場所ではない。
「疫病が流行って兵隊の大半が死んじまったって説もあるようだな」店主がしたり顔で言った。商売柄、いたるところから様々な噂話を聞きつけているのだ。「死人にメシはいらないからな」
「その話は俺も聞いた」後ろのテーブル席から声がかかった。
 見ると先日追いかけてきたチンピラの一人。そばかすだらけの顔をした若者だった。もちろんヴィンスの正体には気づいていない。「だけど、それだったら補充の兵隊だけ送り込むのはおかしいんじゃないか。医師団を行かせなきゃ話にならないよ」
「フン、そいつについちゃ王都から密かに宮廷の医者と僧侶が送り込まれたって聞いたぜ。それほど重大な伝染病ってこった」今度は入り口に近い席のメガネをかけた中年男が口をはさむ。自分の情報通ぶりを自慢する口振りだ。
 あちこちから意見が飛び交い始め、「瞬くカンテラ亭」は騒然とした雰囲気に包まれた。
 どうやらバナウェイの町に流布しているのは、根拠のない噂話ばかりのようだ。
 ラセリアは眉をひそめて考え込む。不可解な軍の動き。そして、あの書状に対するモーズリット卿のただならぬ警戒ぶり。砦で何かが起こっていることは間違いない。
 サヴォイ砦に向かう大隊には、シャルムとその仲間たちが張りついている。もう3分の1ほどの行程を進んでいるはずだが、何の連絡もない。
 バナウェイで噂話を集めていても埒があかない。ラセリアは決心した。私も砦に向かおう。
 長い年月をかけて追ってきたモーズリットが、ついに動き出した。ヴルディアで手をこまねいていることは、とてもできないラセリアだった。