悪しき運命(さだめ)のラセリア
第2部 サヴォイ砦の暗雲
2.二つの旅立ち
「瞬くカンテラ亭」の片隅で、この会話に耳をそばだてている男がいた。
その名はダルトン。毎夜バナウェイの酒場数軒をハシゴしてチビチビやっている。
中肉中背で顔立ちも目立たない男。だが、その目は抜け目なさそうに輝き、絶えず周囲をうかがっていた。
実はこのダルトン、レーニャの情報屋。こっそりと酔っぱらいの会話に耳を傾けて金になる情報を探しているのだ。
さすがのこの男も、薄汚れた従者の正体が手配中のヴィンスとは気付いていない。それでもサヴォイ砦の情報を聞き出そうとする3人からは、金の匂いがプンプンしているのを嗅ぎ取っていた。
だが、ここまで上手く立ち回ったダルトンも最後にミスを犯した。
一通りの情報を聞き出し、砦に向かうことを決めたラセリアはヴィンスに目配せして、そろそろ潮時と席を立つ。
3人をつけようと気のあせったダルトンは、慌てて動いてしまったのだ。
急(せ)いた動作を見逃すラセリアたちではない。それでも3人は、さりげない様子で勘定を済ませ、表へと出た。
それを見計らってダルトンは、釣りはいらないとばかりにバーテンに銀貨を渡して後を追う。
店の外へと飛び出したものの、今だ風が吹きすさぶ通りに人影はない。
ダルトンは、キョロキョロと左右を探すが、やはり3人の姿は見つからなかった。
彼の背中にゾクリとした感覚が走る。奴等はかなりの手だれに違いない。
尾行して正体と隠れ家をつきとめたい気持ちはやまやま。それに成功すれば、しばらく遊んで暮らせるほどの報酬も夢ではない。
だが、ものは考えようだ。襲われなかっただけでも見つけものかもしれない。
ダルトンは、取り急ぎヴルディアを目指すことにした。
情報は早ければ早いほど価値があることを彼は知っている。ちょっとした小遣い銭程度にはなるだろう。
今夜はヴルディアで一杯ひっかけて商売女としけこもう。ダルトンは思わず相好を崩してニヤつくのだった。
翌日、地下組織の新しいアジトでヴィンスは旅支度をしていた。
古物屋のアジトは、バナウェイでひっくり返った荷馬車から足がついたため、放棄しなければならなかったのだ。
とはいってもヴルディア市兵が踏み込んだ時にはもぬけの空。ガラクタの一個も残されてはいなかった。
新しいアジトは、市の繁華街から少し離れた区域の流行らない酒場だった。地下には酒蔵があり、組織の集会を開くにも好都合である。
ヴィンスたちは、宿となった二階に寝泊まりしていた。
いよいよ砦へと出発することになったヴィンスだが、自分の荷物などほとんどない。なにしろ着の身着のままの状態でバナウェイを脱出してきたばかりなのだ。
ラセリアたちの買い集めてきた毛布、食料、油。そんなものを背負い袋に詰めただけである。
一通り準備が整った時、ココンコンと扉を叩く音が響いた。あらかじめ取り決めたリズムである。
「どうぞ」
ヴィンスの声に促されて入ってきたのはラセリアとバムディ。緊張した面持ちである。
「モーズリットの行方が分からなくなっているわ」
「え?」ヴィンスが思わず聞き返した。地下組織の情報によると、モーズリット卿は2日前に領主の所有している山荘へと出立していた。狩りを名目に数名の部下を同行させている。
「山荘を調べに行った者の報告によると、全く無人で、ここしばらくは使われた形跡もないそうよ」ラセリアは、眉をひそめる。「胸騒ぎがするわ。あいつらもサヴォイ砦に向かったんじゃないかしら」
ヴィンスにも、二人の緊張が伝染した。
ラセリアの予感は良く当たる。とすれば、先行しているシャルムを援護するためにも急がねばならない。
「もう荷造りは終わった。予定を早めて、すぐにでも出発しよう」ヴィンスがいきおいこむ。
「そのつもりよ。今、馬に鞍をつけさせているわ」ラセリアは、百も承知という表情で白い歯を見せた。
だが、サヴォイ砦を目指しているのはヴィンスたちだけではなかった。時間は昨晩にさかのぼる。
クローディオ邸の一室に、レーニャとその一党が集合していた。ダルトンに適当な金を与えて帰したばかりである。
レーニャは鋭い目つきで考え込んでいた。どうやら敵はサヴォイ砦に目をつけたらしい。
彼女は、モーズリット卿が実はサヴォイ砦に赴いたという事実こそ知らされていたが、その目的までは教えられていなかった。
ガディスが命を落とす原因となった文書の内容すら不明のままだ。
レーニャはキッと唇を噛む。
5年前、孤児だった彼女はヴルディアの裏社会で男どもと渡りあって生き抜いていた。その男勝りの気質を見込んでクローディオの暗殺団に引き入れたのがガディスだった。
その意味で恩人ともいえるガディスだが、レーニャは彼の死にさほどの感慨を抱いているわけではない。
幼い頃から命のやりとりは彼女にとって身近なものだったのである。死に対する感覚が麻痺していた。
自分自身、実力か運のどちらかがほんの少し足りなければ命を落とす修羅場を乗り越えて生き残ってきたのだ。
レーニャが悔しがっているのは、モーズリット卿の眼中に自分がないということだった。
クローディオの屋敷に連れて来られ、初めてモーズリット卿の姿を目にした時。それ以来、レーニャは彼に惹かれ続けてきた。
自分と同じ闇に生きる者の匂いを嗅ぎ取ったのだ。
しかも、身体全体から発している邪悪なオーラ。それまで彼女がヴルディアの裏社会で見てきた男たちなど無邪気な不良すぎなく思えてくるほどの力強さだった。
何を企んでいるのか分からないが、クローディオを影から操っている。名領主として名高い彼の心を闇の世界に引きずり込む影響力。モーズリットが発散する闇の力は、レーニャをも虜にしていた。
それほどの想いを寄せているのに、モーズリットはレーニャなど全く相手にしていなかった。暗殺団の他のメンバーと同様、使い捨ての駒にすぎないのだ。
いや、それですらレーニャは構わなかった。彼女は自身の命にすら、さほどの価値を見いだしていない。
モーズリット卿の野望を果たすための礎となれるのなら、それもまた本望と考えていた。
無意味な犬死によりは遥かに良い。そのためにも、レーニャはモーズリット卿の身近にいる必要性を感じていた。このまま蚊帳(かや)の外にいたのでは、彼の役に立てずじまいになってしまう。
「よし、私たちもサヴォイ砦に向かうよ」焦燥感に取り付かれたレーニャは、語気鋭く言い放つ。
他の者たちは、あからさまに不服そうな表情を見せる。
クローディオの屋敷に入り込んでいれば食いっぱぐれはない。暗殺の仕事はなくても、ちょっとした遊びに不自由しない程度の小遣い銭にはありつける。
適当にぬくぬくとヴルディアで過ごしていた方が遥かに楽というわけである。
「地下組織の奴らを捕らえれば、当分大尽遊びして暮らせるほどの大金が手に入るんだよ」レーニャは、たきつけるように言った。
骸骨のように痩せたアルカズ、乱杭歯のバスティス、ニキビ面のライカーの3人は、この一言で表情を緩めた。近頃、大仕事にありついていない。まとまった金が手に入るとなれば、多少の苦労は厭わないのだ。
だが、レーニャの思惑を見抜いているジグラスは、下卑た笑いを浮かべた。
「フン、いくら追い回しても、モーズリットの旦那はお前(めえ)なんかに目もくれねえよ。それより俺とねんごろになって面白おかしく暮らそうぜ」醜い顔をさらに歪める。
「戯言(たわごと)いってんじゃないよ」図星を言い当てられて内心ヒヤリとしていることなでおくびにも出さず、レーニャは一喝した。
「この街で敵のシッポを掴もうなんて、藁の山から針を捜そうとするようなものよ」レーニャは、まくしたてる。気迫がこもり黒い瞳に暗黒の炎を宿したように見えた。
「きっと奴らはサヴォイ砦に向かうわ。先回りして網を張れば、やすやすと手柄が立てられるのよ」
もちろん嘘ではない。手柄を立てればモーズリットが自分を認めてくれるかもしれない、という甘い期待に心を燃え上がらせていることも事実だが。
「ヘヘ、そうムキになるなって。別に行かないって言ってるわけじゃないんだ」
所詮は役者が違う。ジグラスは、レーニャの迫力にすっかり押されていた。
とはいえ、レーニャをモノにするのを諦めたわけではない。それどころか横恋慕の情を更に募らせていた。
ケッ、モーズリットさえいなければ。ジグラスは心の内でつぶやく。
彼は明らかに真実から目をそむけていた。気位の高いレーニャのこと。たとえモーズリットの存在がなくとも、彼女がジグラスになびくことなど決してないのだが。