悪しき運命(さだめ)のラセリア
第2部 サヴォイ砦の暗雲
5.エルミカスへの道
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 ヴィンスと、ラセリアを両手で捧げるように抱きかかえたバムティは階段を駆け降りた。
 レーニャたちは、とっくに姿をくらましている。ライカーのことなど気にもとめていない。
 もとより負傷した者や敵の手に落ちた者は、口封じすることはあっても危険を冒して助け出すなどもってのほか、という連中なのだ。
 階下では宿の主人が灯りを点し様子をうかがっていた。バムティが赤鬼のような形相で睨みつけると、彼はヒイッと呻いて奥の自室へと逃げ込んでいく。
 金に目がくらんで殺人者どもに協力した悪党である。バムティてしては斬り捨てても飽き足らない気分だったが、今は寸暇も惜しんでいた。
 二人は裏の厩を目指して一目散に駆けていく。
 しかし、主人が報いを逃れたわけではなかったのである。恐ろしいバムティの形相は、彼の脳裏に焼きついて離れることがなかった。
 いつの日かバムティが舞い戻って斬りかかってくるのではないか。主人は強迫観念に取りつかれた。その後の彼に安眠できる夜は訪れなかったという。
 幸いなことに馬は繋がれたままだった。レーニャたちは夜襲が失敗した場合のことまで想定しなかったようだ。
 バムティは両手でラセリアを抱えたまま手綱を握る。強靭な腕力と忍耐力が無ければできない行為だ。
 ヴィンスは、ラセリアの馬を曳きながら後に続いた。
 一行はラセリアの言葉通り宿から北北西の方向に森の中を進む。
 まだ、夜明けにはしばらくある。月明かりだけが頼りの行軍だった。
 鬱蒼と繁る森の中、怯える馬を叱咤しながら進むのは、たやすくない。遅々とした速度にバムティは、キリキリと歯がみしていた。
 ようやく、およそ20キロの距離を走破したころには夜明けが近づいていた。
「ラセリア様、エルミカスはこのあたりでしょうか」バムティがおそるおそるといった様子で声をかける。
 新陳代謝をぎりぎりまで落としていても、毒は徐々にラセリアの身体を蝕んでいた。彼女の顔は土気色となり、唇も紫がかってきている。
 うっすらと目を開けたラセリアは、弱々しく右手を持ち上げた。風を読んで居場所を探ろういうのだ。
 時は彼女に味方していた。日の出と日没、世界の全てが青く染められる神秘の時間。
 それは魔力の最も高まる時間帯である。朝を迎えるときには光の魔力が、夜を迎えるときには闇の魔力が。
 気力の衰えたラセリアでも、たやすく位置を読むことができた。
「東に500メートル行ったところに樹と蔦でできた洞窟があるわ。その中を右左右左左右右左と進めばエルミカスに抜ける」ラセリアは、かすれた声で言った。
 これだけの行動にもラセリアは体力を消耗していた。目を閉じて、再び仮死状態に入っていく。
 ヴィンスとバムティは、指示に従って移動を開始する。その行く手には奇妙な光景が待ち構えていた。
 この地方でモルマニカと呼ばれるガジュマルに似た樹木が密生し、その木々の間を蔦がビッシリと覆っている。それは自然が作り上げた巨大な壁をなしていた。
 この壁は、いったいどこまで続いているのか。右も左も見渡せる限り広がっている。
「これがラセリア様の言っていた」バムティが息を呑む。
「洞窟というからには、どこかに入口があるはずですね。探しましょう」ヴィンスは、ラセリアの馬の手綱を握ったままヒラリと馬から降りた。
 ヴィンスは2頭の手綱を近くに生えていた低木の枝に引っ掛けた。次にバムティの馬も同様にして繋ぐ。
 その間にバムティは、ラセリアの身体を土が乾いている日溜まりに横たえた。
「二手に分かれて入口を探しましょう。バムティさんは右側をお願いします」
 二人は左右に別かれて洞窟の入口を探し始めた。
 隠れ里につながるとなれば、簡単には見つからないよう偽装されているに違いない。
 ヴィンスは試しに蔦が絡まって作り上げた壁を押してみた。見事に絡みあってビクともしない。一見して入口など、どこにもないかのように思える。
「くそう」バムティが唸った。
 ラセリアが危ないというのに、ここまで来て足踏みするのは耐え難い思いだ。蔦を剣で斬り分けてでも中に踏み込みたい焦燥感。もちろん、無理やり押し入っても抜け出ることができないのは分かっている。
 ヴィンスは目の前にある蔦の壁が、他とは少し様子が違うように見えた。微妙な差だった。気のせいかもしれない。彼は右手で壁を押してみた。手応えがない。そのまま蔦の内側へと吸い込まれていった。
 バムティは目を疑った。忽然とヴィンスの姿が消えてしまったのである。
「どうしたっ、ヴィンスッ」バムティはヴィンスの消えたあたりに駆け寄り、大声をあげた。
「ここです。バムティさん」
 声はするが姿は見えない。バムティはキョロキョロとあたりを見回す。
「蔦のカーテンの中です」
 どうやら目の前にある蔦の壁の内側から聞こえるようだ。
 バムティは両手を差し入れ、左右に押し広げてみた。意外にも殆ど抵抗なく蔦が別れる。一見してもなかなか見分けることができないが、ここだけは蔦が絡みあっていないのだ。ラセリアの言った洞窟への入口に間違いなかった。
 中ではヴィンスが倒れ込んだ際に付いた土を払っている。モルマニカと蔦によってできた洞窟の内側には陽が差し込まない。内部がどのようになっているのか、見て取ることはできなかった。
「中は真っ暗だ。松明がいりますね」
 一旦外に出たヴィンスは、あたりを見回して手頃な枯れ枝を探す。頃合いの枝を見つけ出して、先端に獣脂を塗り込む。火をおこして点すと、赤い炎を吹いて燃え上がった。
 松明を掲げたヴィンスが先導して洞窟へと踏み込む。ラセリアを抱えたバムティが後に続いた。
 洞窟の内部は意外に広い。慣れれば馬で通り抜けることも可能と思えた。
 内側はモルマニカもすっかり葉を落とし、幹と枝だけの状態。絡み付く蔦も完全に枯れきっている。だが、それは朽ち果てることもなく、固い繊維となって絡まり壁を維持していた。
 火がついたら一気に燃え上がってしまうのではないか。ヴィンスは松明の位置に細心の注意を払いながら進む。
 巨大な編みカゴの中に入り込んだ感覚。ひんやりとした空気が留まり、松明がパチパチと音をたててはぜる。ヴィンスはラセリアの指示通りに進んでいく。
 最後となるはずの分岐点を左に曲がった。松明の揺らめく炎が照らす前方は突き当たりとなっていた。行き止まり。間違えてしまったのか。ヴィンスは一瞬動揺したが、よく見ると目の前の蔦は枯れていない。
 生い茂った葉の隙間からは、わずかではあるが陽光が差し込んでいる。エルミカス側の出口も蔦のカーテンで偽装されているのだ。
 ヴィンスは蔦を押し分けて外へと出た。
 明るい光景に思わず二人は目を細める。眼前には緑鮮やかな森が広がっていた。
 辺境に近い北の森は例え真夏であっても、どこか寒々として、くすんだ暗さがある。目の前の森に、そのような寂寥感はなかった。
 葉の色は新緑を思わせ、日の光を反射して鮮やかに輝いている。気温すら僅かに上がっているように感じられた。森の人と呼ばれるエルフの里に、まこと似つかわしい場所といえる。
 穏やかな風が緑の香りを運んできた。そよ風に頬を撫でられたラセリアが、ゆっくりと目を開ける。
「ああ、この風。エルミカスはすぐそこよ」懐かしげに言うラセリアの目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
 ヴィンスは戸惑いを覚えた。これまで多彩な顔を見せたラセリアだが、これほど寂しげな表情は初めてだったのだ。