悪しき運命(さだめ)のラセリア
第2部 サヴォイ砦の暗雲
7.ゴルワデスの刻印(後)
ラセリアは、この百年間でたったの6人しか生まれなかったエルフの一人だった。しかも生家アンジェスタル家は、ハイエルフの名門。大事にされ幸せな幼女時代を送った。
不幸は、ラセリアがエルフの王都ラヌバーニアに留学している間に起こった。今から35年ほど前のことである。
ラセリアの父シェファーロは、エルフの中では開放的な性格の持ち主で、他種族の旅人も歓迎していた。彼の治める集落フェリラータは隠れ里ではあったが、エルミカスのように厳重な防護はなく、時おり訪れる者があった。
そのフェリラータにモーズリットが姿を現したのだ。
下心あってのことだったが、偶然エルフの集落を見つけた旅の冒険者を装っていた。もちろん、闇と契約した者であることなど露ほども感じさせない。
面白おかしい冒険譚をして家人の歓心を買い、長逗留を決め込む。
やがてモーズリットは、アンジェスタル家の人々の心に闇を流し込み始めた。支配欲、金欲、猜疑心、少しずつ家人たちの心を塗り変えていく。
それは魔人グィルティズマの手筈通りだった。魔人の目的は、アンジェスタル家に代々伝わる家宝。輝くリュミナシェールと呼ばれる水晶球だった。
輝くリュミナシェールは、アンジェスタル家の宝というに留まらない。エルフ族にとっての至宝、光の力の象徴だった。
グィルティズマは、輝くリュミナシェールに暗黒の魔法をかけて、それの持つ力を闇の属性に変換する術を心得ていたのだ。術が成功すれば、究極の光のアイテムは闇の象徴と転じ、グィルティズマにとって果てしない力の供給源となるのである。
闇の虜となったアンジェスタル一族は、エルフ王家に対する反乱を画策、密かに準備を進めた。
モーズリットは、強大な力の源にするとそそのかし、輝くリュミナシェールを供出させることに成功した。
グィルティズマは、これに暗黒の魔法をかけ、闇のアイテムへと変貌させた。
輝くリュミナシェールは、誤差のまったくない完璧な球形を成しており、世界の均整を象徴するものだった。それが焼けただれでもしたかのように黒くゴツゴツとした塊へと成り果てたのだ。
あたかも闇の世界の大火山アシュテリオンの溶岩を思わせるそれは、暗黒のイヴィルガルドという新たな呼び名を与えられた。
暗黒のイヴィルガルドを闇の世界と繋ぐ結界に据えれば、闇の力が無尽蔵に、この世界へと流れ込んでくる。それによりグィルティズマは強大な力をることができるのだ。
もし、そうなればエルフ王軍といえども成す術はない。エルフの国は闇の支配下となってしまうだろう。
だが、幸いにも計画は事前にエルフ王家の知るところとなった。王軍が先制攻撃をかけ、決死部隊がアンジェスタル邸へとなだれこんでいった。
司祭たちによる神聖魔法の援護も功を奏し、王軍は勝利を収めた。
グィルティズマとモーズリットには逃げられてしまったが、アンジェスタル家の者は一人残らず捕らえられるか殺されるかした。
暗黒のイヴィルガルドも王軍の近衛隊長マフィリシオの活躍で取り戻すことができた。
エルフの神官たちは、これをなんとか元の輝くリュミナシェールに戻そうと努力を重ねたが、ついに叶わなかった。封印を施して闇の気を断つのがやっとだったのである。
暗黒のイヴィルガルドはエルフ王アーロニウスと一部の神官たちしか知らない場所に隠された。そして、それ以降30年間決して陽の目を見ることはなかった。
「ちょっと待って、ラセリア」そこまで聞いたヴィンスが口をはさんだ。「これは有名なスターエンジェルの戦いの物語じゃないのか」
「人間界では、そう呼ばれているようね」
「す、するとモーズリットこそ伝説の騎士モルズラート」ヴィンスは驚愕の表情で声を荒げた。
伝承によればモルズラートは、エルフ王の盟友として闇の軍勢と戦い、この世を守り抜いた救世主である。
「ええ、でも、その物語は人間の吟遊詩人や物書きが作り上げたもの。現実の騎士は魔人と契約した大悪党だったわけ」
さすがのヴィンスも両手が汗ばみ、鼓動が早まるの感じていた。自分の教えられてきた歴史に、このような裏側があるとは思いもしなかった。
しかも、その新たなるページに自分も加わろうとしているのだ。
戦で捕らえられたアンジェスタル家の者たちは一人残らず処刑された。王都ラヌバーニアにいて反乱に加わらなかったラセリアはアンジェスタル家ただ一人の生き残りとなった。その彼女も捕らえられ投獄されてしまう。
「ゴルワデスの印が額に浮き出たのは、神官たちが暗黒のイヴィルガルドを封印したと同時だったらしいわ」ラセリアは沈んだ調子で言った。
ここ数日、顔色の良くなったラセリアだが、忌まわしい記憶のためか今はすっかり蒼白になっている。
「今思い出しても、ぞっとするわ。冷たい石の牢獄に閉じ込められて、あの時だけは時間が止まったように感じた」数少ないエルフの子供として大切に育てられたラセリアにとって、それは耐え難い環境の変化だったのだろう。
「でも、物は考えようね。一族の中で私だけ処刑を免れたのは、この印のおかげかもしれないのよ」ラセリアは、どこか寂しげで謎めいた笑みを浮かべた。
ゴルワデスの印を見た大神官ロジェストネラは、ラセリアが自ら呪いを解く宿命を背負ったと予言した。
呪いを解くためには、グィルティズマとモーズリットの野望を砕かねばならない。そしてそれは、この世を闇の支配から救うことになるのだ。
ヴィンスは、ようやくジャジールの謎めいた言葉に合点がいった。
光の民最後の希望。ラセリアの小さな身体に、それほど大きな重圧がかけられているとは。
「私はエルフの里を去らねばならなかった。ゴルワデスの印が額にある限り、エルフの掟によって領地内に足を踏み入れることは許されないのよ」
今のラセリアは、いつもの幼さを残した顔でありながら、実際に生きてきた年輪を感じさせる神秘的な表情となっている。
だが、ヴィンスは、その沈んだ顔つきが好きになれなかった。
「それから今まで私はモーズリットたちの監視を続けているの。戦いに敗れた奴らは、あちこちを転々としてたわ。ほとぼりを冷ますためと、おそらくグィルティズマもかなり霊力を消耗して力を蓄える必要があったのでしょう」
バムティの父親バルヴェスを救ったのは、ラセリアが旅を始めて間もないころの出来事だったという。さりげなく話すラセリアだが、この時期にも想像のつかない苦難があったのだろう。
やがてバルヴェスの息子バムティは戦士となり、父の恩人であるラセリアの宿命を知らされる。彼は恩を返そうと旅立ち、2年の歳月をかけてラセリアを捜し出した。
以後、バムティは常にラセリアと行動を共にしている。
一方、モーズリットは長い放浪の後ヴルディアに現れ、領主クローディオに仕えた。
20年という月日が経っていたが、ラセリアの言葉によれば「ほんの短い旅の後」ということになる。この感覚は、限りある命の存在、人間であるヴィンスのついていけない部分ではあった。
ともかくモーズリットは戦士として目覚ましい成果を挙げ、ほどなく騎士の称号を得る。そしてヴルディアの青騎士の名を王国の津々浦々に轟かせることとなった。
だが、その裏ではアンジェスタル家での陰謀と同様の行為を繰り返していた。
コソコソとクローディオの心に闇を吹き込んでいく。老いて猜疑心が強くなっていたことも手伝い、かって名領主と詠われたクローディオも、あっさりとモーズリットの手中に陥ったのである。
モーズリットとクローディオは、ガディスたち暗殺団を使い、邪魔者を始末するようになった。悪政を隠し、名領主としての名声を保ち続けるためである。
そして今、おそらく時が満ちたのだろう。ついにモーズリットとグィルティズマは動き始めた。
それはラセリアにとっても、闇を打ち砕き自らに課せられた呪いを解く千載一遇のチャンスなのだ。今や彼女の小さな肩には光の民、いや、すべての人々の命運が被いかぶさっている。
ヴィンスは、ラセリアの青く澄んだ瞳を見つめ返す。自分は鬼にはなれないかもしれない。それでもラセリアの使命を果たすため、ともに命をかけて戦おう。
それはヴィンスが自己の誇りをかけた揺らぐことのない無言の誓いだった。