悪しき運命(さだめ)のラセリア
第2部 サヴォイ砦の暗雲
9.不吉な間奏曲
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 ヴルディアのクローディオ邸に、サヴォイ砦から一人の兵士が馬を飛ばしてきた。
 大隊が砦に到着してから二日後の夕暮れである。
 兵士はギルバート大隊のジッターマンという男だったが、その容貌は著しい変化を遂げていた。幽鬼のように凄みのある顔つきに、輝きのない瞳。
 屋敷の番兵は、まんざら知らない仲ではなかったが、ジッターマンの名が浮かぶまでしばらくかかったほどだ。
 見ると兵士も馬も土埃にまみれて汚れきっている。
 ともに生命なき存在に成り果てていた。ただ一度の休憩もとらず街道を走破してきたのだ。
「クローディオ様に報告にあがるなら、ひとっ風呂浴びたほうがいいぞ」そんなことは露知らぬ番兵が軽口を叩く。
「これはモーズリット様からレーニャ様宛の書状だ」ジッターマンは、番兵の言葉など聞こえていないかの素振りで懐から一通の書状を取り出す。
 抑揚のない不気味な声。生気のない瞳がジロリとにらむ。やはり番兵が知っているジッターマンとは、まるで別人である。
 番兵はゾクリと身を震わせ、冗談を言う気分など吹き飛んでしまった。
 書状には、まぎれもないモーズリット卿の紋章をあしらった封蝋がなされている。ジッターマンは、その書状を押しつけるように番兵に渡すと、馬を方向転換させ走り出した。
 番兵が思わず目をむくほどのスピード。あっという間に視界から姿を消してしまう。
 ジッターマンは来たときと同様、完全に走りづめでサヴォイ砦へと戻っていくのだ。
 番兵の耳には、ジッターマンの洞窟を吹き抜ける風のように空虚な声がこびりついていた。彼は、手にした書状を何か忌まわしい物であるかのように見つめた。
 こんなものは早いとこレーニャの奴に渡しちまうに限る。
 番兵は門の反対側で今のやりとりを見ていた相棒に目配せすると門の中へと入っていった。

 書状を受け取ったレーニャは、柄にもなく頬が赤らむのを感じた。モーズリット卿から直接書簡が送られて来たことなど初めてのことだ。
 急いで封を切ると文面は「レーニャ殿、一党を率いて大至急サヴォイ砦に来られたし。モーズリット」とのみ記されていた。
 なんともそっけない文章であるが、それでもレーニャは心をときめかす。自分がモーズリットに必要とされたというだけで彼女にとっては十分なのだ。
 ヴルディアでラセリアたちに関する情報を手に入れることは出来なかった。無理にでもサヴォイ砦に押しかけようと考え始めた矢先なのである。
「いよいよ仕事だよ。モーズリット様が、お呼びだ。今すぐサヴォイ砦に向かう」レーニャはジグラスたち3人を召集して気勢を上げる。
 3人ともヴルディアで酒と女の生活に浸りきっていた。当分は怠惰に遊び呆けていたいというのが本音。
 モーズリット卿のお呼びとあればいたしかたないが、今すぐ出発というのには難色を示す。
「姐御、せめて明日の朝出発ってことにしましょうぜ」アルカズが不平を漏らした。
「フン、今すぐ出ればルナグリスの宿に泊まれるよ。酒と女なら、あそこでも手に入るだろう」レーニャは一同をにらんで続ける。「それともウダウダ出発して野宿したいってのかい」
 こうなると蛇ににらまれた蛙の状態。アルカズも黙り込んでしまう。
 そのやりとりをジグラスは黙って見つめていた。モーズリットからの指令に嬉々として目を輝かせるレーニャの姿。ジグラスは嫉妬心の虜と化していた。今や横恋慕の情は彼の精神を焼きつくさんばかりの勢いとなっているのだ。

 モーリス大隊を尾行して監視を続けていたシャルム・クレスト率いる傭兵たち。行軍の間は何ら不審な点を見つけることはできなかった。
 ところが、いざサヴォイ砦に到着すると異常なことばかりである。
 モーリス大隊が到着した夜は、何やら宴が繰り広げられている様子で、楽しげな喧騒が漏れ伝わってきた。それはそれで辺境の砦らしくないのではあるが、ともあれ平穏無事な様子。
 おかしなことに翌朝から砦はひっそりと静まりかえったままである。どう考えても3つの大隊がひしめいているようには思えない。
 人間の出入りは一度だけ。モーリス大隊が到着した翌朝、伝令らしき兵士がヴルディア方面に馬を飛ばして行ったのみである。
 それ以降は見張りの番兵を外に取り残したまま門を閉ざし続けている。
 忍び込んで中の状況を確かめたいところなのだが、この警備がさらに異常であった。
 砦の警備は、門の両脇にひとりずつ、四方の隅と門のない三面の塀の中間に各一名。計9人の番兵が配置されている。
 それ自体は、さほど警戒厳重というほどではない。なんとも不可解なことには、この9人が一度も交替しないで昼夜をたがわず見張りを続けているのだ。
 食事どころか一滴の水すら飲んでいる様子はない。
 忍び込むのであれば、見張りを交代するときが狙い目。ところが今回は、そのチャンスがまったくない。
 番兵たちは、ほとんど身動きもしないで立ちつくしていた。ともすると蝋人形が飾られている錯覚に襲われるほどだ。
 一度、シャルムの部下キリウスが反応を見ようと、わざと茂みを揺らしてみた。番兵は、それまでとは見違えるような素早い動きで駆け寄ってきた。
 用心のため、あらかじめ捕まえておいた野兎をとっさに放たなければ見つかっていただろう。それほど俊敏な動作だった。
 番兵は野兎の仕業と判断したようだ。定位置に戻ると再び動かなくなった。
 さすがに百戦錬磨の猛者を自負するたちも、この様子には戦慄を覚えずにはいられない。具体的な行動は取らず、遠巻きに監視を続けることにした。
 せいぜい身の軽いカーニットが高い木を選んで登り、少しでも中の様子を窺うくらいだ。
 砦は二千人の兵士を呑み込んでいるはずである。だが、砦の中庭にすら兵の姿を認めることはできなかった。
 唯一の収穫といえばヴルディアにいるとばかり思っていたモーズリット卿の姿が、垣間見えたことだ。
 顔を確認することはできなかった。しかし、独特な輝きを放つ、かの有名な青騎士の鎧を見間違えるはずはない。
 この砦に、どのような事態が勃発しているのか。2千人の兵たちがどこに消えたのか。皆目見当がつかない状態だが、モーズリットが、ここにいるというだけでも只事ではないことが分かる。
 シャルムたちは息を潜め、表面的には静寂に包まれたサヴォイ砦を見張り続けるのだった。