悪しき運命(さだめ)のラセリア
第4部 亜空間城ガルベジア
3.覚醒(後)
ヴィンスたちより遅れてガルベジア城に乗り込んだレーニャは、辺りの気配を窺う。かすかに戦闘の気配がした。その方向に慎重な足取りで進んでいく。
持ち前の身のこなしで、薄暗がりの中を影が揺らめくように忍んでいく。
ついに戦う者たちを肉眼で捉えた。それは、さすがのレーニャも戦慄せずにはいられない光景だった。
目の前にいるそいつは、間違いなく伝説の青い鎧をまとっている。だが、もはや青騎士と呼び得る存在ではなかった。
姿は醜悪で獣じみ、優雅さのかけらもない動作で力任せの稚拙な攻撃を仕掛けている。
対するヴィンスは、正反対の意味で別人のようだ。ヴルディアや最果ての憩(いこい)亭で見たときは、俊敏な身のこなしが剣士としてのセンスを感じさせたものの、結局は青二才だった。
今の彼は自信に満ちた動きでモーズリットの剣を巧みに避けている。完全に見切っているのだ。その茶色い瞳の眼差しは、最高級の琥珀を思わせて澄み切っている。
と、そのときヴィンスの激しい突きがモーズリットの脇腹を貫く。魔物と化したモーズリットの巨体が弾け飛ぶ。
5メートル飛んで黒いブロックを敷き詰めた床に叩きつけられた。
モーズリットに更なる変容が現れた。光の力が彼に取りついた魔を一時的に追い払ったのだろう。彼は人としての姿を取り戻していた。
レーニャはまたしてもドキリとした。そのモーズリットの顔つきが今まで彼女の見知っていたものとは印象を異にしていたからである。
これまでレーニャが魅せられてきたモーズリットは、悪のカリスマを見事なまで体現していた。
今、目の前にいるモーズリットは瞳から氷のような冷たい輝きが失せ、その表情にも以前の険が消え去っていた。堂々とした人間としての尊厳を感じさせている。
永きに渡ったグィルティズマの呪縛から解き放たれ、本来の自我を取り戻したのだ。モーズリットはヴィンスを睨みつけると、口の端を吊り上げて不敵な笑みをもらす。青騎士らしい倣岸な態度である。
モーズリットは立ち上がった。左手を前に突きだし、右手を背後に引いてグラナヴァルを垂直に立てて構える。
次の瞬間、一気に斬り込んでいく。華麗な剣技も復活していた。
ヴィンスは光の剣を両手持ちにして、これを受け止める。押されそうになったが、渾身の力で踏み留まった。
歯をくいしばるヴィンス。モーズリットは眼光鋭くにらみつけ、ヴィンスを押し切ろうと力を込める。
今度はヴィンスが仕掛けた。光の剣を横にないでモーズリットを斬りつける。
わずか数センチの間隔でかわしてモーズリットが切り返した。切っ先がヴィンスのレザーアーマーをかすめる。
ヴィンスはひるまず踏み込む。モーズリットの右胸に深々と剣が突き刺さった。その剣先は肺に達している。生身の人間ならば致命傷といえる深手だった。
またしても光の力がモーズリットを弾き飛ばす。レーニャの足元にドサリと倒れ込んだ。
「チッ」レーニャは険しい目つきでナイフの束を取り出す。
ラセリアは身構えた。その青い瞳に怯えの影はなかった。油断さえしなければ、レーニャの投げナイフをかわす自信はある。
ジャジールとともに解毒剤も呪文も開発済みだ。そのうえエルフの彼女は、一度受けた毒に強い抗体が生まれる体質である。
いきりたったレーニャを制したのは、意外にもモーズリットだった。
ナイフを持つレーニャの腕にかけられたモーズリットの手はヒヤリと冷たい。
レーニャの背筋のゾクリとした間隔が走る。人の魂を取り戻しても、モーズリットが不死者であるという事実は変えようがないのだ。彼女は手の冷たさよりも、突きつけられた現実に身震いした。
「これは、私の最後の戦いだ。手出しはするな」モーズリットの声音は澄み渡り、強い決意に満ちている。
光の剣につけられた二つの傷から闇の力が漏れ出していた。この身体は間もなく文字通りの死体に戻っていく。勝っても負けても青騎士最後の戦い。今度だけは正々堂々と決着をつけたかった。
剣士として悔いのない勝負がしたい。強い想いがヒシヒシと伝わってくる。レーニャは溜め息をついてナイフを懐に戻す。
モーズリットは、ゆっくりと立ち上がった。またしても不敵な笑みを浮かべる。
悪魔に魂を売った身だが、神は見捨てなかったのかもしれない。最後にこのような花道が用意されていようとは。
落ち着いた態度で剣を構えるヴィンスをギロリと見据える。
フン、若造め。思い知らせてくれるわ。残された時間は少ない。徹底的に速攻でいくしかなかった。
「たあっ」モーズリットは敢然とヴィンスに斬りかかる。一合、二合、ヴィンスに攻め返す時間を与えず、次々と攻撃を繰り出していく。それはモーズリットの焦りでもあった。
ヴィンスは、すでにモーズリットの動きを見切っている。モーズリットの動作に乱れが生じるのを待ち構えていた。
早くカタをつけなければという思いが、わずかにグラナヴァルを大振りさせてしまった。
ヴィンスは、この好機を逃さなかった。一気に踏み込んで光のの剣を振り下ろす。
青い鎧がザックリと割られ、モーズリットの血が流れない肉体を切り裂いた。
傷口から死せる肉体をつき動かす暗黒の力が勢いを増して抜け出ていく。モーズリットはガクリと膝をついた。しかし、その表情には曇りがなく、どこか清々しそうですらある。
闘いには敗れたが、悔いはなかった。最後に自らの力を出し尽くして剣を交えることができたのだ。
一度は失った肉体に戻り人として逝くことができる。モーズリットは目をつむり、最期の刻(とき)を待とうとした。
その時、彼の眼(まなこ)がクワッと見開かれた。魂が再び肉体を離れようとしている。間に合わないのか。
「止どめを、止どめを刺してくれ!私を人間として逝かせてくれ」モーズリットは悲痛な声で嘆願する。
人にものを請うなど、何十年ぶりのことか。必死の形相である。
ヴィンスはためらった。すでに決着のついた闘い。追い打ちをかけて止どめを刺すなどという発想はまったくなかった。
「早くしろっ」焦ったモーズリットが蛮声を張り上げる。
その顔が黒く変色して歪みかける。次の瞬間、かろうじて元に戻った。
その変貌にヴィンスはモーズリットの真意を悟った。彼とてヴルディアの青騎士と呼ばれた剣士に不死者として終わらせることは忍びない。
心臓めがけて光の剣を力一杯突きたてた。
モーズリットの肉体に残留していた闇の力が一気に放出されていく。グィルティズマの呪縛から、モーズリットの身体がついに解放されたのである。
最期の刻を迎えて、モーズリットの魂は歓喜に震えた。グィルティズマと契約して過ごしてきた年月が永い悪夢であったように思える。
悪事を重ねてきた自分を待つのは地獄と呼ばれる場所なのかもしれない。それでも彼は自分が人として死を迎えることができただけでも奇跡に思えた。
モーズリットはドサリと横倒しになり、二度と動かなくなった。瞬く間に冷たい骸(むくろ)と化したのである。
その死に顔は、彼のこれまでの行状と不釣り合いなほど穏やかだった。
レーニャは唇を噛み締め、ヴィンスをキッと睨む。黒い瞳に殺意の炎が揺らめく。だか、それはほんの束の間のことだった。
モーズリットは、とうに死んでいたのだ。レーニャは、頭の中では理解していた。理性の届かぬ、彼女の心がそれを認めようとしなかっただけなのである。
レーニャはモーズリットの遺体の傍らに跪いた。
「さあ急ぎましょう」ラセリアはレーニャの動きを横目で監視しつつ、ヴィンスを促す。「グィルティズマが戻る前にイヴィルガルドを取り戻さなければならないわ」
二人は暗黒のイヴィルガルドが据えられた結界の部屋へと急ぎ立ち去っていく。
レーニャは、モーズリットの死に顔を見つめる。それは彼女が見知った青騎士ではなかった。
レーニャが憧憬した冷徹な悪の権化ではない。モーズリット本来の面持ちを取り戻していた。
身分の差に屈することがなければ、グィルティズマの誘惑に負けることがなければ、ひとかどの剣士として歴史に名を残したに違いない男の相貌がここにあった。
あの若造は、自分には出来ないことを成し遂げたのだ。レーニャの胸に熱い想いが込みあげてくる。
レーニャは物心ついて以来悲しみを怒りにすり変えることで生き抜いてきた。初めて感じる切ない想いに、いつしか切れ長の目に涙がたまっていた。
振り切るように目をグイとぬぐい、レーニャは立ち上がった。黒い瞳が潤んで輝く。赤い唇をキリリと結んでいる。
それは今までにない鬼気迫る容貌であり凄絶な美しさを湛えていた。
レーニャは、今一度心に刻むかのようにモーズリットの死に顔を見つめた。そしてヴィンスたちの後を追って足早に歩き出すのだった。