ダイ・ハングリー
2.沈黙の客船
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 それにしても、とあやは思った。厨房内で使われているのは全部英語。あやは英語が得意、と言ってしまうと言い過ぎになるが決して苦手ではない。
 シェフ長の言葉は、さすがイギリス人だけあって綺麗な英語で分かりやすかった。しかもオーバーアクションといえるほど身振り手振りを交えて話してくれる。
 最初は、あやのためにわざとそうしているのかと思ったが、もともとのクセらしい。どちらにしても大助かりだ。
 しかし、周囲に聞こえる会話は、あやをちょっぴり不安にさせた。確かに英語なのだが中国のようであったりスペイン語のようであったりする。人種の坩堝(るつぼ)といったところか。
 ま、なんとかなるでしょ。おいしい味は世界共通、言葉より強いのよ。能天気なあやではあった。
 「アフロディーテ」はEデッキにあり、厨房はそのワンフロア下だった。出来上がった料理は専用のエレベーターで運ばれていく。
 エレベーターの前にはワゴンを押す給仕たちの行列が出来ていた。ワゴンの上にはヴァラエティ豊かな料理が載せられている。
 特別な高級料理はないが、上質の食材を腕よりのシェフたちが調理している。ヴァイキング料理などといっても、あなどれない出来栄えのものばかり。日本のホテルが一般客目当てに実施しているものとは根本的に違っていた。
 その列も時と共に短くなり、やがて最後の一台が飲み込まれていく。
 戦場のようだった厨房もすっかり静かになっていた。先程までの喧騒が嘘のようだ。
 主だったシェフたちは、上階の「アフロディーテ」へと行ってしまった。ローストビーフなどの切り分けや盛り付け、そして恒例の顔見せといった行事が待っているのだ。その他の者は休憩時間に入り姿を消していく。
 厨房に残ったのは後片づけを指示された新米の二人だけ。あやと、もう一人グレッグ・ドゥワイトという青年だった。
 グレッグは21歳になるアメリカ人。間隔が妙に狭い目はどんよりしており、赤く濡れた唇は常に半開きだった。典型的なホワイト・トラッシュという印象の若者だ。
 あやは先程調理中のグレッグを見るとはなしに目にしていた。やる気のない鈍重な動作が、なんとなく目立っていたのだ。
 玉ネギを刻んでいたが、お世辞にも褒められた包丁使いではなかった。あやよりも数段劣る。短くて丸まっちい無器用そうな指をしていた。
 現に今もガチャガチャと音ばかり立てて緩慢な動作。後片づけは少しも進んでいない。
 この分じゃ、ほとんど私一人で片づけなくちゃならないわね。あやはボウルを洗いながら溜息をついた。
 その時、出港を知らせる警笛が遠くに聞こえた。あやが厨房の壁に掛けられた時計を見ると予定時刻の11時を30分以上も過ぎている。まあ、大金持ちの船旅、細かい時間を気にする者などいないのだろう。
 さあ、急がなくちゃ。あやとしては、そうのんびりもしていられない。休憩なしで夕食の支度にかからねばならなくなってしまう。

 アミル・サラバンティは自室である豪華スイートで昼食に出る支度をしていた。白地に金糸で縫込みをした英国製特注スーツにネクタイを合わせている。
 それぞれ別の個室に宿泊している5人の妻たちは、すでに正装で待機していた。
 今日は「アフロディーテ」で元イギリスの大手銀行理事トーマス・ドアティ夫妻と会食する予定だ。
 もちろん召使たちも同行する。大富豪たるもの、ヴァイキング形式といっても自分で皿を持って回ったりはしないのだ。
 召使いたちは安堵の溜息をもらしていた。これでモフセン様の実験台にならずに済んだ。モフセンの遊び相手は身の危険が付きまとう。そのために危険手当が支払われている。
 とは言え特に今日は危険だ。何しろ買ってきたばかりのオモチャがある。初めて使うオモチャを試されるのは、あまりにもリスクが大きい。
 モフセンは船室に残ることにした。オモチャを買いに行ったついでに大好物のビッグマックとケンタッキー・フライドチキンをたらふく食べてきた。今さら船内レストランのまずい食事を摂る必要はない。ましてや元銀行屋の老夫婦の話など聞きたくもなかった。
 それよりも早く新しいオモチャで遊びたい。普通のオモチャは言わば隠れみの。本命は闇ルートで仕入れた特注品だ。
 召使たちにとっては二重の喜びだった。昼食中に新しいオモチャが試されれば、少なくともいきなり暴発なんてことに巻き込まれなくてすむ。
 実を言うと父アミルも胸を撫で下ろしていた。トラブル・メーカーのモフセンが来なければ落ち着いた食事が楽しめる。それにしてもアラーの神よ、アミルは天を仰いだ。わが息子は、どうしてこう性格がネジ曲がってしまったのですか。これが私に与えられた試練なのでしょうか。
 モフセンは父親たちが出て行くとニンマリ笑い、店名のない灰色の包装紙をはがし始める。
 残ったのは他にモフセン専属のボディガード、ハリソンのみ。ハリソンは密かに舌打ちした。モフセンが残ることは予定外の出来事。計画では体調不良を理由にハリソン一人がアミルの船室に残る手筈だった。
 まあ、いいさ。ガキの一人くらい何とでもなる。おかげで余計な小芝居をせずに済んだ。ハリソンが認識の甘さを思い知らされるのは、もう少し後のことだった。

 ホワイト・ヴィーナス号では200台を超える監視カメラが常時作動している。その映像は、「アフロディーテ」の厨房と同じデッキにある防災センターに設置された20台のモニターに代わるがわる映し出されていた。
 ホワイト・ヴィーナス号警備員の一人、クラウス・ハイネマンは画面を切り替えながらモニターを監視していた。身長195センチ、スキンヘッドに厚みのある口髭をたくわえたマッチョだ。
 現時点での当番はあと4人いるが、今は船内を巡回中。2人一組で回るシステムになっている。
 クラウスは同僚のピーター・ドロップが入って来たのを視野の片隅に認めた。ピーターは勤務明けで非番のはずだ。という事はアレが目的か。しょうがない奴だ。
 アレというのは衛星放送のアダルト・チャンネル。乗客向けの有料サービスで、本来乗組員は見ることが出来ない。
 ところが、この手の作業に詳しい者はどこにもいる。こっそり配線を変えて見放題にしているのだ。非番の者が防災センターにノコノコやって来るのは、これが目当てと相場が決まっている。
「一発、ぶち込んでやろうか、クラウス」クラウスの背後からピーターが声をかけた。低くてクールな響き。
 あら、ワタシの趣味がどうしてばれちゃったのかしら、隠していたのに。クラウスは身体が熱くなるのを感じた。
 クラウスは隠れゲイ。アダルト・チャンネルを見るときも視線は男優に釘付けだった。クラウスは、ピーターの引き締まった身体を思い出した。シミ一つない艶やかな肌、盛り上がった筋肉。シャワー室で、こっそり覗いては溜息をついていたのだ。
 上気した頬、潤んだ瞳でクラウスは振り返った。
 そこにはサブマシンガン・トンプソンを構えたピーターの姿があった。冷ややかな表情でクラウスを見つめている。
 クラウスは夢と下半身がしぼんでいくのを感じていた。

 操舵室にはフランク・アーヴィング船長以下5名の船員が詰めていた。
 横浜港がゆっくりと遠ざかっていく。前方には雲ひとつない晴天が広がり、気圧も安定している。
「次の停泊地までは穏やかな航海となりそうですね」一等航海士のアーサー・レノックスがフランク船長に声をかけた。
「ああ、今日は朝一番で5羽のカモメを見かけた。奇数の鳥を見たときはいつも良い航海だよ」50歳を迎えたばかりのフランク船長はリラックスした表情で言った。
 日焼けして皺の刻まれた顔は海の男としての年輪を感じさせる。その浅黒い顔に温和そうな目が輝いていた。
 船乗りにはジンクス担ぎが多い。フランク船長も例外ではなかった。
 そのフランク船長の表情が一瞬でこわばった。アーサーの肩越しに銃を構えた二人の姿が見えたのだ。
 先頭に立つ口髭の小男はマリオ・ラッツォ。今回の首謀者である。オールバックに髪をなでつけ、着ているスーツはアルマーニなのだが、どうもうまくない。小柄すぎるため七五三の貸衣装に見えてしまうのだ。
「この船は我々が占領する。命が惜しければ、無駄な抵抗はしないほうが利口だ。分かったな」キイキイした感じの甲高い声。緊張のためか左のこめかみがピクピクしている。どうにも貫禄のないボスではあった。
 ルガーを構えて後ろに立っているのはグラマラスな姿態にブロンドの髪をなびかせたオリビア・エルトン・ジョン。ラッツォに比べると頭一つ半くらい背が高い。心持ち吊りあがった青い目とピンクのルージュを引いた唇にクールな笑みを浮かべている。
 見事に決まった豹柄のジャンプスーツにパンツという出で立ち。が、頭に猫耳付きカチューシャ、ベルトの後部にやはり豹柄の尻尾を付けているのはやりすぎだった。
 猫女と化したオリビアは、いかにもネズミ然としたラッツォと異様な対象をなしている。
「さあ、停船させて錨を下ろしてもらおうか。しばらく、ここに止(とど)まることになる」ラッツォは、フランク船長の胸元にデザートイーグル50AEの銃口を突きつけながら言った。
 小柄なラッツォには不釣合いな大口径銃。使いこなせるとは思えない。うっかり引き金を引けば手首を捻(ひね)ってしまうこと間違いないほどの反動がある。自らのコンプレックスゆえに大型銃を持ちたがる男の典型といえた。
 フランク船長はアーサーにエンジン停止と投錨を命じる。出港して間もない。横浜港から1キロほどの海域だった。
 フランク船長は言いようもない喪失感に襲われていた。これでまた新しいジンクスを見つけなければならないのだ。