ダイ・ハングリー
5.カモメたちの沈黙
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 ピーターは、すっかり出来上がっていた。それでも一応はトンプソンを構えて冷凍庫の入口を見張り続けている。シドニーの奴め、何モタモタしているんだ。せっかくの酔いが醒(さ)めちまうぜ、って酔ってていいのか。
 その時、扉の奥からシドニーが姿を現した。両手をだらりと下げて、どうも様子がおかしい。
 三十郎が後ろから持ち上げているのだから、おかしいのは当たり前だ。ピーターは酔いがまわって判断力が鈍っていた。
「どうひた幽霊みたいな歩き方ひて、女は見つかっらのか」さすがのピーターも少し舌がもつれている。
 三十郎は、左手一本でシドニーを持ち上げ、左手にサブマシンガン・マドセンの銃口を握りしめていた。そのマドセンを大きく振ってブンと投げる。
 ピーターは何が起きたのか理解できなかった。シドニーの後ろで何かが動いたように思えた。続いてブンと風を切る音。次の瞬間には鈍い音がして股間にマドセンの台尻が食い込んでいた。
 ぐ、え、目の前が白い光に包まれ、世界が爆発したかのような衝撃。マドセンは3秒ほどピーターの股間に直角に食い込んだ状態を維持してから、ガチャリと床に転がった。
 ピーターの額に脂汗が浮かぶ。口をパクパクさせ、苦悶の表情で宙をかきむしった。
 なるほど。衝撃が強すぎるとピョンピョン跳ぶこともままならないのね。あやは新しい発見をしていた。
 三十郎がシドニーをパッと離す。シドニーの巨体がドサリと音を立てて床に転がる。三十郎はピーターを目指して悠々と歩を進めた。
 ピーターは三十郎の姿を眼で追っていたが、苦しみのあまり動くことが出来ない。三十郎がトンと手刀を首筋に叩き込むと、ピーターはシドニー同様ぐったりと倒れ込むのだった。
 あやは、おっかなびっくりの足取りで意識を失っている二人の脇を通り抜けた。
「このままで大丈夫かしら」あやが不安そうに言う。
 ホラー映画の殺人鬼なんか銃で撃たれても立ち上がってくる。あの軽そうな攻撃では、すぐに気を取り戻して襲ってくるように思えた。
「むふう、半日は意識を取り戻さないはずだが、心配なら念のために手足の関節を全部外しとくか?」三十郎は、こともなげに言う。
 あやの脳裏に、あお向けに転がり手足をあらぬ方向に捻じ曲げて蠢(うごめ)く二人の姿が浮かんだ。
「うっぷ、いい、信用するから」
「おう、こっちに転がってる奴はどうする?」三十郎がグレッグを覗き込みながら言った。
「えっ、まだ生きてるの」
「生きてるも何も、失神してるっていうか、居眠りしてるっていうか、気楽な感じだぜ」
 あやもグレッグを覗き込んだ。
 染みたトマトソースは殆んど乾き、白衣には傷一つないのが一目瞭然。トマトのカスが染みに濃淡をつけている。
 グレッグは口からよだれをたらしてムニャムニャ言っていた。確かに三十郎の言うとおりだ。
 起きてても寝ていてもアホ丸出しは変わらない。あやは、ほんの少しとはいえ悲しんだ自分がバカらしくなってきた。
 ふと視線をずらすと、白衣の股間のあたりには黄色い染みが広がっている。
 やだ、もう最低!あやは眼をつり上げてそっぽを向いた。
「放っておきましょ。こんなの起こしても足手まといになるだけだわ」冷たく言い放つ。
 三十郎は、あやの言葉に全面的に賛成だった。
「よおし、上に行こう」
「上?甲板から脱出するの?」あやが聞き返した。
「いや、さっき言ってたレストランだ。食べ放題が待ってるぜっ」三十郎は目を輝かせて厨房の出口へと向かう。
 まあ、いいや。とにかくこの人についていこう。あやは覚悟を決めた。ヘンな奴ではあるけれど、一人でいるよりはずっと安心できる気がした。
「待って。武器は持っていかないの?」あやが慌てて声をかける。
 こいつらには仲間がいるに違いない。目的は分からないが、これだけの大型客船で行動を起こすのに二人だけとは思えない。
 銃を置いていくのは得策でない気がした。
「俺は飛び道具は使わん。まあ手裏剣とか弓は別だがな」三十郎は興味ない様子だ。
 銃火器は使わないということなのだろう。
 そりゃ私だって使わないわ。でも、この際置いていくのは忍びない。あやは仕方なく自分で持っていくことにした。
 ピーターの持っていたサブマシンガン・トンプソンを持ち上げる。
 あやにマシンガンの区別がつくわけではない。単に男の股間に食い込んだ銃は触りたくないというだけの選択だった。
 ズッシリとして予想以上に重い。冷たくて猛悪な殺戮兵器。やだなあ、とは思うが手ぶらよりはマシだろう。
 あやは三十郎を追って厨房の出口に向かった。

 海上保安庁の横浜海上保安部では、課長の寺田伸介(てらだ・しんすけ)が顔をしかめて壁に貼られた特大の海図を睨(にら)んでいた。寺田は、横浜港に出入港する船舶を監視する部署の担当課長。不運にも土曜日の今日、当番で休日出勤していた。
 定刻を30分ほど遅れて出航したホワイト・ヴィーナス号が1キロの沖合いで突然停船してしまったのだ。こちらからの無線連絡にも応答がない。
 漁船や遊覧船程度なら、これほど心配はしない。
 だが、世界中のVIPを乗せた大型客船となると話は別だ。直ちに哨戒艇を向かわせ、今は連絡待ちだった。
「課長」声をかけたのは草壁誠司(くさかべ・せいじ)。研修で現場に来ている若干31歳のキャリア組で、本庁に戻ればすぐ寺田に指令を下す立場になる。今でも寺田より偉そうな態度になってしまうことが間々あった。
「ホワイト・ヴィーナス号から連絡が入りました」
 寺田は慌てて通信室に向かった。
 通信室では当直の担当官が、緊張した面持ちでヘッドフォンを差し出す。
「スピーカーモードにしてくれ」寺田が首を振った。
 担当官がスイッチを切り替えると通信室のスピーカーからノイズが聞こえてくる。同時にマイクもオンになった。
「海上保安庁の寺田です。応答願います」
 寺田は職務柄、英会話が全く出来ないわけではないが、堪能というには程遠い。本人も自覚しているので、緊張はいやがうえにも高まってしまう。早くも額に脂汗がにじんでいた。
「ミスター・テラダ、君が責任者かね」キイキイした甲高い声。ラッツォだ。
 通信室の面々に緊張が走る。通常の通信ではないことが歴然とした口調だ。
「いや、それが、私は課長だが、今日は上がいないので一応責任者で、でも決定権について言えば」なんだか、すっきりしない。
「ええい、もういい!」更に1オクターブ上がった怒声が響く。
 寺田はヒッと呻くと口をつぐんだ。
「これから言うことを正確に本庁に伝えろ。それくらいは出来るだろう」相手が弱気だと、とことん居丈高になるのがラッツォの性格だ。
「はいっ」
 思わず直立不動の姿勢をとって叫ぶ寺田を、草壁は苦々しい面持ちで眺めている。
「ホワイト・ヴィーナス号は我々[美しき5月のパリ]が占拠した。乗客と乗組員の身代金として2億ドルを要求する」ラッツォは興奮した口調で続ける。
「12時間やろう。その間に金を集めろ。ドル札で2億ドルだ」
「ま、待てっ、証拠は、本当にホワイト・ヴィーナスを占拠したという証拠はあるのか」
「フン、それでは乗組員を何人か殺して海に放り込んでやろうか。乗組員なら何人減ろうが痛くも痒(かゆ)くもないからな」ラッツォが冷酷な口調で答えた。
「いや、それは困る。出来れば乗客を4、5人生きたまま救命ボートに乗せてくれるとありがたい」ドサクサまぎれにムシの良すぎることを言う。
「ふざけるなっ。これから船長に話させる。それ以上はなしだ」
 少しの間隔があいた。
「私は船長のフランク・アーヴィングだ。何てことだ。ハイジャックされるとは。せっかく今朝は5羽のカモメを見たというのに、うがっ」
 悲鳴とともに船長の言葉が止まった。
「船長、船長っ」寺田が叫ぶ。
 フランク船長はホワイト・ヴィーナス号通信室の床にのびていた。意味不明な言葉を船内の状況を伝えるための暗号と勘違いしたオリビアが銃のグリップで殴りつけたのだ。
 まさかジンクスの話とは思いもしない。それにしても、このカモメ、船長にとっては吉兆どころか疫病神と成り果てていた。
「夜中の一時にこちらから連絡する。それまでに金を用意しておけ。それからホワイト・ヴィーナスの半径500メートル以内には船舶もヘリも入れるな。もし侵入したら人質を十人血祭りにあげてやる」ラッツォは通信を切った。
 横浜海上公安部の通信室には重い空気が流れていた。
「2億円か、とにかく本庁に連絡を取って対策本部を設置せねば」
「2億ドルです。日本円にして、およそ210億円ですよ」草壁が訂正した。
「なにい、聞き間違えてた。国家予算ではないか。そんな大金どうやって用意するんだ」寺田がまたも素っ頓狂な声をあげる。
 どこの国の話だ。海上保安庁だけでも、およそ8倍の予算を使っている。草壁はあきれていた。これだから叩き上げの中間管理職は使えん。
 とはいえ、確かにそれだけの金を調達するのは只事ではない。しかも今日は土曜である。もしかしたら不可能かもしれない。
 いや、これを逆用して徹底的に時間を延ばすという手もあるぞ。草壁の思考はグルグルと回っていた。
「とにかく[美しき5月のパリ]という組織を公安のデータベースで調べてみましょう」草壁は厳しい口調で言った。
「うーん、聞いたことのない名前だ」寺田は草壁の様子を覗いながら、おどおどと言った。
 寺田は釣り情報には詳しいのだが、国際的テロ組織の情報などはほとんど知らない。とにかく本庁に至急連絡を取らねば。早く上に回して肩の荷を降ろしたい。寺田は本庁直通の緊急電話機に手を伸ばし、受話器を取り上げた。
 いずれにしても12時間という時間がある。これを有効に使って、じっくり対策を練ればいい。いや、うまくすれば身代金調達の難航を理由にして、もっと時間稼ぎできるかもしれない。
 先送りと丸投げは、上下を問わず官僚の得意とするところなのである。