D.V.
2.青い目の異邦人
その夜の弥生は気分が昂(たかぶ)って、なかなか寝つけなかった。ときどきウトウトするのだが、しばらくするとまた目が覚めてしまう。
そうこうするうちに空が白み始めてしまった。
「フア」弥生はアクビをかみ殺しながら朝食の支度を終えた。
竜登はといえば、ウキウキした気分を隠しきれずにいる。姉への手前、素知らぬそぶりを決め込もうとしているのだが、態度が妙にソワソワしていた。
よほど外人のお母さんが楽しみなようだ。
ったく竜登の奴。熊みたいなオバサンがやって来て踏みつぶされても知らないからね。
食器を洗って後かたずけを済ませると、そろそろ登校時間だ。まだ高志たちは到着しない。
始業時間の早い竜登はシブシブ家を出て行った。
弥生は複雑な心境だ。半年ぶりになる父の顔をひと目見たいという思いは強い。だが、高志は一人で帰って来るわけではないのだ。
認めたくない新しい母親との対面。やなことは後回しにしたいという気持ちもあった。
こんなにも自分を悩ませる、まだ見ぬ女が心憎い。
どっちにしろ登校時間が迫っている。弥生がカバンを手に玄関へと向かおうとしたとき、表で車の停まる音がした。
あっ、帰って来たのかしら。弥生はスニーカーを引っかけ玄関を開けた。
外を覗くとオレンジ色のタクシーが停まっている。高志は運転手に開けてもらったトランクから荷物を取り出しているところだった。
「お父さん!」すったもんだしたけど、半年ぶりに父親の顔を見るのは、やっぱり嬉しい。
弥生の胸に熱いものが込み上げてきた。駆け寄ってトランクから荷物を出すのを手伝う。
ついでにタクシーの車内をうかがうが、誰も乗っていない。荷物を取り終えてトランクを閉めるとタクシーは走り去ってしまった。
もしかして私、からかわれたのかしら。弥生の脳裏に複雑な思いがよぎった。もしそうなら何の問題も起きなくてすむ。
でも、昨日からのことを考えると許しがたいほど腹立たしい。弥生は父親をキッとした目つきでにらんだ。
高志は、スッと目をそらした。どうもこういうときに毅然とした態度を取ることができない。
やっぱり、お父さんは、私をからかったりしない。弥生の瞳が翳(かげ)りをおびる。
「その・・・女の人ってどこなの」弥生は声が震えないように、ゆっくりとした口調で言った。
「あ、ああ。具合がよくないようなんで先に家に入ったよ」
え、いつの間に。すれ違ったりしなかったはずなのに。弥生は、あわてて開けっ放しになったままの玄関を振り返った。
そこには女性の姿があった。黒を基調とした服装で佇ずんでいる。
青白い肌をして今にも倒れてしまいそうなほど、儚(はかな)げな様子。どこか透明感があり、脆(もろ)いガラス細工の人形みたいな印象を与える。
その顔は息を呑むほどの美貌だった。髪はつややかなプラチナ・ブロンド。胸のあたりまで長くのびている。
建て売り住宅の玄関には似つかわしくないほどの幽玄さをたたえた容姿だ。
「ほ、ほら、もう行かないと遅刻するぞ」思わず息を呑んでいる弥生に、高志が声をかけた。
あ、いけない。弥生は現実に引き戻された。
面倒なことは後回しにしたいという父の魂胆は見え透いているが、登校時間の限界に近づいていることも事実だ。
弥生は玄関のたたきに置きっぱなしだったカバンを取り駆け出していく。
それにしても、あの女(ひと)、青白い顔をして今にも倒れそうだった。儚くゆらめく陽炎のような美しさ。
でも、ずるい。か弱いことを武器に男心を惹きつけようなんて今どきの女がすることじゃないわ。
確かに、あの綺麗な顔で「ああっ、持病の癪(しゃく)が」なんてよろけたら、たいていの男は「俺が支えなきゃ」なんて思っちゃうに違いない。
お父さんだってきっと情にほだされて「僕が一生守ってあげるよ。二人で日本に行こう」なんてやっちゃったに違いないわ。同情よ、同情。男女の愛とは別物よ。
竜登のウルウル目より始末に悪いわ。弥生は無性に腹が立つのだが、それにどうしたら対抗できるかは見当つかない。
なにしろ病気知らずで頑健そのもの。性格はどちらかというと面倒見のいいほうである。病弱な相手がいれば、思わず看病してしまうのが本来の弥生だった。
そうだわ。か弱いのが武器なら、元気にさせちゃえばいいのよ!精力のつくものをたっぷり食べさせて、思いっきり楽させて、ってダメだわ。敵をパワーアップさせてどうするのよ。
「私、元気になったら死ぬほど遊びまくるのが夢だったの」とか言って、お父さん連れて旅行しまくるに決まってるわ。
昨日から妄想癖が悪化する一方の弥生だった。
1時限目が終わると、さっそく理沙が近づいてきた。好奇心で目をキラキラさせている。
「ねえねえ、今朝は例の女の人に会えたの?」ワイドショーのゴシップ報道に舌なめずりするおばさんみたいな態度だ。
弥生は、ボソボソとした口調で今朝のことを話して聞かせた。
「フーン、良からぬ事態ねえ」理沙が腕組みして言う。深刻そうな素振りには見えない。なんだか他人の不幸を楽しんでいる様子だ。
「なにしろ弥生は自分より弱い相手につらく当たるなんてできない性格だからねえ。いっそウチのガミガミ母さんみたいなら、弥生もやりやすいんだろうけど」突然、理沙が顔を輝かせた。「そうだ。相手を追い出すのはあきらめて、弥生が家を出ちゃえばいいのよ」
「もう、それじゃ私がホームレスになっちゃうじゃない」弥生は口をとがらせる。
「だからあ、弥生がウチの子になって、私がその外人女と暮らせば問題解決じゃない」理沙は口の前あたりで両手を組んで、遠いところを見る目つきになっていた。
やれやれ、理沙はすっかり現実逃避モードに突入している。
ああ、妄想に取りつかれているのは自分だけじゃなかったんだわ。なんてなくホッとして胸をなでおろす弥生ではあった。
帰宅した弥生が玄関を開けると、たたきには男物の革靴が揃えてあった。久々の帰国ということで、高志が定時退社してきたのだ。
本来なら帰国祝いで飲み会ハシゴ酒となるところだが、同僚たちも高志の家庭事情を知っているので放免してくれたのだ。
「ただいま」弥生は様子を伺うように身構えてリビングに入る。
「お帰り」夕刊を読んでいた高志が顔を上げた。笑顔を作ろうとしているのだが、どこかぎこちない。
女の姿は見えなかった。もしかしてベッドにふせっているのかしら。手強い相手だわ。
と、その時、音もなく人影がキッチンから飛び込んできた。
「ハーイ、ハニー。お帰りー」
弥生は息を呑んだ。
朝に見たときは華奢な印象しかなかったのだが、あらためて間近にすると身長170センチ以上ある。豊かな胸、くびれた腰、スラリと伸びた脚。
ウエーブのかかったプラチナブロンドの髪はツヤツヤと輝き、青く澄んだ瞳と絶妙のコントラストをなしている。
朝見たときはストレートヘアだったような気がする。カーラーでも使ったのだろうか。
この美貌とプロポーションなら、たいがいの男は手玉に取れるだろう。
か弱さで男を引っ掛けるなんて、とんでもない思い違いだった。
この人、本当に今朝見た女と同一人物なのかしら、弥生が戸惑うほどに異なる印象だ。
抜けるような白い肌は、ツヤツヤしてシミひとつない。身のこなしは軽やかで快活そのもの。朝の今にも消え入りそうで儚げな雰囲気はみじんもない。
もしかして、今朝のは極度の時差ボケだったのかしら。弥生は首をひねる一方だ。
「今朝は時間がなくて紹介できなかった。カミーユ・エリダンさんだ」
「よろしくね。弥生ちゃん」流暢(りゅうちょう)な日本語で話して、カミーユは右手を差し出す。
雰囲気に呑まれて、弥生は思わず握手してしまう。しまった。徹底的に無視するはずだったに。私って人が良すぎる。
弥生の継母追い出し作戦は、前途多難のようである。
親しみのこもった話し方ではあったけど、弥生は自分が名乗る前に名前を呼ばれたことにも抵抗を感じていた。
食事が始まると、弥生は黙りこくっていた。竜登が一人でしゃべり続けるので、気苦労はない。その分、あえてシカトする効果もなかったが。
料理のほうは、すべて家にあった食材で作られていた。残り物を使って、これだけの料理を作ってのけるとは、なかなかあなどれない。
弥生の辛辣な目で見ても評価せずにはいられない豪華なメニューだった。
とにかく竜登は、半年分の出来事を一気に話しつくしてしまいそうな勢いでまくしたてている。
あまり夢中になって話し続けるので、ついに高志が「話してばかりいないで、しっかり食べなさい。せっかくお母さんが作ってくれたんだぞ」と注意した。
竜登は「はーい」と素直に従う。
弥生は思わず箸(はし)を止めてしまった。父親の口から出た、お母さんという言葉に動揺してしまったのだ。
その様子に気づき高志が顔をくもらせる。新しい母親に反発する弥生の心情に気づいているのだが、接し方が分からずにいた。
「育ち盛りの女の子が、そんなに少食だなんて、どこか具合でも悪いの?」カミーユが心配そうに言った。どこで覚えたのか見事に流暢な日本語を話す。
それは明らかに真摯(しんし)な気持ちから出た言葉である。しかし、すねている弥生の心には、よけいなお世話よ!という反発しか生まれてこない。
「もう、いらない」弥生は、トゲのある口調で言い、プイッと席を立ち自分の部屋に引き上げてしまった。
一家団欒(だんらん)の空気を壊してしまったという後ろめたさはある。だが、継母に対する反抗を表せたことに、ささやかな満足を感じてもいた。やればできるじゃん。
弥生は、翌日の予習を始めたが、どうにも身が入らない。結局CDで音楽をかけながら、漫然とネットサーフィンして時間をつぶす。やがてそれにも飽きて、いつもより少し早目に寝ることにした。
ところが弥生は真夜中に空腹で目覚めてしまった。ぼんやりした頭に、どこか遠くの方からサイレンの音が聞こえている。
弥生の脳裏に、先ほどの豪華な献立が浮かんできた。かすかな記憶として残っている母の味付けは比較的淡泊であっさりしていた。
カミーユの味付けは、西洋人らしく濃厚だった。ちぇっ、やっぱり違うじゃん。最初は思ったが、食べてみるとあれはあれでおいしかった。
弥生は切ない声で鳴く腹の虫を押さえながら空しい気分におちいるのだった。