D.V.
3.悲報の朝
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 弥生が朝起きると、ダイニング・キッチンに人影はなく、机上には料理の皿が並べられていた。朝食としては少々豪華すぎるくらいのボリュームだ。
 残り物の食材は、昨日の夕食であらかた使い果たしたはずである。
 カミーユが真夜中に材料を買い揃え、これだけの料理をこしらえたのだろうか。私たち家族のために。
 駅前に行けば24時間営業のスーパーマーケットがある。不可能なことではないが、実行するとなればかなりの労力が必要となる。
 弥生は、ちょっと胸がジーンとしてきた。食べ物につられる自分が情けない。そこに高志と竜登も起き出してくる。
「うわあ、すごい朝ごはんだねー」竜登が大きな声をあげた。「あれー、でもキンパツのお母さんいないよー」
 なぜか金髪にこだわり続ける。よほど好きなのか。
「あ、いや。お母さんは朝に弱いんだよ」高志が弁解する。妙におどおどした態度だ。
 もしかして極度の低血圧体質なのかもしれない。弥生は昨日初めてカミーユを見たときの様子を思い出す。
 朝起きられないってことは、この料理を寝る前に作ったのかしら。弥生は料理を指先でつついてみた。まだ温かい。
 カミーユは徹夜して、この朝食を作ったのだろうか。私たち家族のために。またしても弥生の胸がジーンとしてくる。
 ええい、ダメよ!こんな見えすいた懐柔作戦に引っ掛かっちゃ。
 弥生がプルプルと首を横に振ったとき、電話がプルプルと電子音を立てた。
 こんな朝早くから電話してくるのは誰かしら。一番近かった弥生が怪訝(けげん)な面持ちで受話器をとる。
「もしもし氷堂です」
「や、弥生、たいへんよ」理沙の声だ。ひどく動揺した様子で名乗るのも忘れている。「テ、テレビのニュースよっ」
 弥生は何のことだか分からない。切迫した理沙の声に押されるようにしてテレビのリモコンを手にした。
「何チャンネル?」とりあえず電源を入れて理沙にたずねる。
「え、ええと8よ」
 弥生がリモコンの8を押すと、画面は朝のワイドショーに切り替わった。事件現場からの中継らしい。
 画面の右上には「人か獣か、謎を呼ぶ死体」という扇情的なテロップが表示されている。
 ダークスーツを着た男性レポーターの背後に住宅街とおぼしき通りが映り込んでいた。弥生は、どこかで見たことがあるという気分に襲われる。デジャブというやつなのだろうか。
「今朝未明に発見された死体の身元が所持品から判明しました!地元に住む高校生の仲森恵さんだということです」現場で中継しているレポーターが緊張感をあおるように蛮声を張り上げている。
 弥生はスウッと血の気が引くのを感じた。昨日まで自分と同じクラスで勉強していた恵が死んだなんて。すぐには現実として捉えることができない。
 通りに見覚えがあるのも当然だった。学校からさはど離れていない見慣れた住宅街だったのだ。
「ど、どうゆうこと、これ」弥生は引きつった声をあげる。
「何かに首を噛み切られて、失血死じゃないかって」理沙がテレビの速報で仕入れた情報を披露する。だんだん気が昂ぶって涙声になってきた。
 幼い頃、母の死という最悪の試練を経験した弥生にとってさえ、毎日顔を合わせていたクラスメートの死はショックだった。自分と同じ年頃の人間が死んでしまうという出来事はにわかに信じがたい。
 理沙が怯えるのも無理はないだろう。 それにしても首を噛み切られるなんて。
 このあたりに野犬がいるなんて聞いたことがなかった。ましてや熊とか肉食の野生動物が出没する地域ではない。
「わ、私なんだか気分が悪くなっちゃって。今日はお休みしようと思うの」受話器の向こうから聞こえる理沙の声は、いつになくか細く震えている。
「そう、そのほうが良いかもしれないわ。でも、思いつめちゃダメだよ」弥生が励まして言う。
「うん」
「私は行ってみる。様子が分かったら。ケータイで連絡するから」
「お願い」理沙の口数が少ない。時おり鼻をすする音がした。
 いつしか弥生の両側で高志と竜登も画面に見入っている。
 受話器を置いた弥生は、フッと背後に気配を感じて振り返った。開け放たれたドアの向こうからカミーユがテレビを見つめている。
 昨日の朝同様、青白い顔をしているが、か弱さは感じさせていない。真っ赤な唇をキッと結び、液晶画面を見つめる瞳は妖しい光をたたえている。まるで青白い鬼火を宿しているようだ。
 ゾクリ。弥生の背筋に冷たい感覚が走る。あわてて目をそらす。
「私、そろそろ行かなくちゃ」実際にはまだ少し時間があるのだが、弥生はそそくさとカバンを手にする。今ので胸がドキドキしていた。
 チラリと視線を走らせると、カミーユの姿はもうそこにはなかった。
「弥生、せっかくお母さんがごちそうを作ってくれたんだ。食べていかないのか」高志は困ったような顔つきだ。
「朝からこんなにこってりしたもの食べたら、胸やけしちゃうわよ」弥生は、ちょっとイヤミな口調で言った。
 ああ、イヤミな態度が板についてきちゃったかしら。
「しっかり食べないと、勉強にも身が入らないだろう」昨日の今日なので高志も食い下がる。
「途中でパンと牛乳を買ってくからダイジョブだよ」弥生は言い捨てて玄関に向かう。
 本当は竜登より後に出ても間に合うのだが、先ほどのカミーユの顔つきだ気おされてしいた。逃げ出すように家を飛び出していく。
 ああ、こんな調子じゃ追い出されるのは私のほうかもしれないわ。

 初秋の朝、道路には穏やかな陽射しが降り注いでいた。だか、弥生はカミーユを思い出してブルリと身震いする。
 あの女、見るたびに印象が違う。それにしてもさっきのカミーユ。尋常な目つきじゃなかった。きっと本性が出ちゃったのね。
 見るたびに印象が違うし、ただ者じゃないわ。なんだかヘンよ。なにか企んでいるかもしれない。氷堂家の財産でも狙ってるのかしら。
 弥生は自分の家の家計を知っている。中小企業の課長で高校生と小学生二人の子供をかかえているのだから、それほど余裕はない。
 金目当てじゃないとすると、いったい。
 まさか日本に潜入するのが目的のテロリストじゃないでしょうね。今度の妄想はレンタルビデオで見た「24」の影響を受けていた。
 学校が近づいて弥生は目をパチクリさせた。報道関係者が大挙して押し寄せていたのだ。登校中の生徒にマイクを突きつけて、何やら質問をしている。
 目に涙をためて逃げるように校門を目指す生徒もいれば、得意げに受け答えする生徒もいる。
 校門のそばには学校の職員たちが立って、速やかに校内に入るよう生徒を促していた。
 弥生はうつむき、TVキャスターたちを無視して人混みを突っ切っていく。門の中に入ってフウと溜め息をついた。
 教室の中も、いつもと違って空気が張りつめている。クラスメイトは、あちらこちらに小さなかたまりを作ってヒソヒソと話していた。中には泣き顔になっている者もいる。
 恵の席に近づく者はいなかった。弥生は花でも供えてあるかと想像をめぐらしていた。しかし、机の上には何もない。かえって生徒を刺激すると考えたのかもしれない。そこだけ空気が淀んでいるように感じられる。
 始業時間がきても生徒の人数はかなり足りなかった。ショックが大きくて休んだのは理沙だけではなかったのだ。
 後から分かったことだが、親が心配して休ませた家庭もあったようだ。
 ホームルームを担当する遠藤先生が入ってくる。40代の英語教師。もともと胃が弱くて顔色の悪いことが多い。今日はいつになく白っぽい顔に脂汗を浮かべて白蝋のようになっている。
 先生は緊急に講堂で校長先生からお話があると伝えた。
 いつもならガヤガヤと騒ぎながら移動する生徒たちも、今日は神妙な顔つきで教室を出る。
 講堂の中には人数分の折りたたみ椅子が並べられていた。職員たちの努力の賜物である。
 全校的に休んだ生徒が多かったとみえて、かなりの椅子が空席になってしまった。
 大きな行動のあちらこちらからすすり泣きが聞こえる。弥生は、もらい泣きしそうで落ち着かない気分になってきた。
 校長の谷垣先生が演壇に登り話し始める。まずは仲森恵の死を伝え、追悼の意を表す。
 これは悲しむべき出来事だが、詳細は警察が調査中なので、噂に振り回されたり無責任な流言をしたりすることは慎むようにと注意する。
 特にマスコミに対して不用意な発言はしないようにという戒告がなされた。
 また、登下校はできるだけ集団で行い、通常は自粛を求めている父母の送迎も当面は認めるということだった。
 さらに夜間の外出も控え、やむを得ない場合は父兄と緊密に連絡を取るようにということである。
 普段ならブーイングの起こりかねない内容だが、今日に限っては表だって不平を表す者はいない。内心ではタカをくくって舌を出している者も少なくないはずなのだが。
 講堂全体が悲しみの色に染まっている。普段はハネッかえりな行動をとる者たちも、この雰囲気に呑まれているのだろう。
 こうして生徒全員が授業に身の入らない一日が始まろうとしていた。