D.V.
5.真夜中の白い影
帰り着いた弥生は着替えをすませ、ケータイで理沙に連絡を入れた。応答した理沙の声が妙にくぐもっている。
「あ、ごめん。ポテチ食べながらテレビを見てたの」
なんだ口に物が入ってただけか。理沙は、やけに元気そうである。今朝のメソメソした態度がウソのようだ。
立ち直りの早い奴。心配して損した。弥生はホッとする。
「弥生、たった今、警察の記者会見があったわよ」理沙がいきおいこむ。
発表によると、恵の死因は首の動脈を噛み切られたための失血死だった。
また、死体発見現場には、ほとんど血痕がなかった。そのため恵は死後に現場まで運ばれた可能性が高いとして捜査が進められている。
つまり噛みついたのが動物だったとしても、人間が事件に関与しているのは間違いないのである。
首の傷には歯型が残っており、何かに噛まれたということは間違いなかった。なんでも首の肉が10センチ近くえぐられていたらしい。
現在鑑定中で、噛んだ動物の特定はまだなされていない。
恵は、昨夜8時ごろケータイにかかってきた電話を受けて外出したようだ。家族の証言によると、妙にソワソワした様子だったという。
警察は、その電話が男友達からのものであった可能性が高いと推測し、恵の交遊関係を洗いはじめていた。
通話記録を調べた結果、その通話は公衆電話からかけられていた。発信人が特定されないことが目的であろうと警察は、電話の主に対する疑惑を深めていた。
とりあえず今回警察が記者会見で発表したのは以上だった。今度は弥生が学校の様子を伝える。
「そう」話を聞き終えた理沙の声は、心なしかしんみりしていた。
とにかく明日は理沙も出席するてのことだ。
電話を終えて一息つくと、弥生の脳裏にガングロのヴァネッサが浮かぶ。
あの子が持ってた写真。肖像画ではあったが、カミーユに間違いなかった。やっぱり隠し子かしら。しかも、かなりの変人みたいだ。
置いてけぼりにされた娘が、母親を捜して海を越え、遥かな東の国へとやってきたのだろうか。
今日は智代たちがいたし、急だったからカミーユのことは話せなかった。
でもヴァネッサだって簡単には諦めないはず。無事親娘の対面をはたして、二人仲良く帰国してもらうしかない。
ふと気づくと、階下のキッチンで物音がしはじめていた。
先ほど弥生が帰宅したときには、もぬけの空だった。弥生は様子を見に階段を降りていく。なぜか忍び足になっている。
カミーユは、プロのシェフのような手際の良さで料理していた。朝の様子とは見違える活発な動作だ。
グウと弥生のお腹が鳴き声をあげる。意地を張るのもほどほどにして、今日は食べようかしら。
そうよ。あの女がこの家にいるのも、もう長いことじゃないものね。弥生は勝手に決め込んでニッと笑みをもらす。
部屋に戻ろうとすると、いつの間にか竜登が降りてきていた。
「お姉ちゃん、なんだか悪い顔してニヤついてたよ」竜登はキョトンとした表情。
えっ、また!悪い顔つきが直らなくなったらどうしよう。
弥生は慌ててポケットからコンパクト・ミラーを取り出し、自分の顔をチェックする。大丈夫。いつもの私よ。でも、このところの心労のせいか、やや疲れが見える。
弥生はニッコリ笑顔を作ってみせた。ちょっとわざとらしい。
その時、背後にカミーユが写り込んでいることに気づいた。ところが、着ている服がしっかり見えているのに、カミーユ自身の顔や手がぼやけているのだ。
なんだか向う側が透けて見える。
ヒッ、弥生は思わず、ひきつった声をあげた。
「お姉ちゃん、どうしたの」竜登が首をかしげる。
「え、あ、いや」弥生はドキドキしながら、もう一度鏡を覗く。
今の気配に気づいたのか、カミーユがチラリとこちらを見ていたように思えた。
今度はハッキリと姿が写っている。どこも透けてはいない。 カミーユは、何食わぬ顔で料理を続ける。
なんだったのかしら、今のは。見間違いだったのかしら。でも、そんなことないと思う。
弥生の心臓はまだドキドキし続けていた。
その日の夕食では弥生も、おとなしく食卓についた。先ほどのことが気になって仕方がない。
ときどきカミーユの様子を盗み見ながら食事する。空腹のせいでけっこう食べたが、料理の味は良く分からなかった。
その晩は初秋の穏やかな気候で爽やかな夜更け。にもかかわらず弥生はうなされていた。
夢の中で弥生はカミーユとヴァネッサに詰め寄られていた。ヴァネッサだけでなく、カミーユまでもがガングロになっている。
二人は、弥生の顔を黒く塗ってガングロ仲間に引き入れようとしていた。手には黒い靴墨(くつずみ)が入った缶を握り締めている。
ああっ、そんなもの塗っちゃダメ!弥生は必死で首を左右に振って抵抗する。カミーユとヴァネッサは、しなやかな白い指でニチャリと靴墨をすくい、容赦なく弥生の顔に塗りたくっていく。
あっという間に真っ黒になった弥生は、二人の手を振りほどいて洗面所に駆け込む。勢いよくお湯を出し、無我夢中で靴墨を洗い流した。
顔を上げて鏡をのそきこむと、向う側が透けて見えた。靴墨と一緒に顔の造作までもが流れ落ちてしまったのか。
振り返るとカミーユとヴァネッサが半透明の顔でケタケタ笑っていた。輪郭は消えてしまい、チェシャ猫のように笑い顔だけが虚空に揺らめいている。
「キャー」弥生が悲鳴をあげたところで目が覚めた。枕元の時計を見ると、まだ夜中の2時である。
こんな時間に目が覚めるのは珍しい。弥生は、たいてい朝までぐっすり眠る。
なんだか無性に喉が渇いていた。やっぱりカミーユの味付けは濃すぎるんだわ。自分でモリモリ食べたくせに難癖をつける。
キッチンで水を一杯飲もう。弥生は、ベッドをスルリと抜けた。時間が時間なので足音を忍ばせて階段を降りていく。
ダイニングキッチンに入ると、ガラス戸越しに庭で何か白い物が動いたのに気づいた。
この家に泥棒?弥生はハッとしてドアの影に身を潜め、屋外の様子をうかがう。
庭に立ちつくしているのは、白いドレスをまとったカミーユだった。周囲を何か黒い物がヒラヒラと舞っている。
アゲハ蝶?いや、時間からいって夜行性の蛾かしら?弥生は目を凝らす。
ドキリとした。黒い飛翔物はコウモリだった。
この近所ではついぞ見たことがない。弥生は父方の実家に行ったとき、神社の境内で見かけたことがあったので分かったのだ。
カミーユは不敵とも取れる顔つきで冷たい笑みをもらす。
それを見た弥生の心臓が止まりそうになる。全身に震えが走った。
カミーユが真っ赤な唇の両端から鋭く尖った牙を覗かせていたのだ。その瞳は紅い輝きを帯びて、人の心を惑わすルビーのように妖しい光を放っていた。
人間じゃない!弥生は、渇いていた喉がヒリヒリとやけつくような痛みを帯びてくるのを感じた。
こうなると継母を追い出すとかいうレベルの問題ではない。
いったい、どうしたらいいのかしら。弥生は泣き出しそうな気分になってくる。
そうだわ。とにかくお父さんに、このカミーユ姿を見せなくちゃ。混乱した弥生の頭でも話しただけでは信用してもらえないことは予測がついた。
継母が人間ではないことを父親に納得させるのが第一である。自分一人では恵の二の舞になってしまいかねない。
弥生は震える足で後ずさりする。廊下に出て、よろめきながら父の部屋に飛び込む。
「お父さん、たいへん」かすれる声で高志を起こす。
「うう、弥生、どうしたんだ。こんな時間に」起き出した高志は枕元の時計に目をやりながら、寝ぼけた声をあげる。
「ちょっと、お父さん見にきて!カ、カミーユは人間じゃないわ」
弥生は、バカなこと言うもんじゃないといっかつされることを覚悟していた。それでも、なんとか父親を引っ張っていき、実物を見せれば納得してもらえるだろう。
その時、高志の瞳に暗い影がよぎった。
「そうか。弥生、気づいてしまったのか」視線をそらせてボソリとつぶやく。
弥生は全身から血の気が引くのを感じた。冷水をぶっかけられた気分だ。
え、なに、お父さん知ってたの。一瞬、頭の中が真っ白になった。次の瞬間には、混乱した思考が洪水のように流れ込んでくる。
もしかして妖怪に乗り移られているとか。
まずい、まずいわ。「見たなあ」とか言ってB級ホラーの脇役キャラが殺されるパターンだわ。ああっ、私って脇役だったのね。
ちなみに弥生はホラー映画が好きではないのだが、理沙がファンなのでたまに付き合わされる。理沙は恐がりでキャアキャアいいながら見るくせに、やたらとホラー映画を見たがるのだ。
弥生は、もしかしたら理沙ってマゾっ気があるんじゃないかと思うことがある。
その時、弥生は背後に冷気を感じた。ブルリと全身が震える。嫌な予感。弥生は首だけひねってチラリと後ろの方をうかがう。
いつの間にかカミーユが真後ろに立っていた。真っ赤な唇とルビーの輝きを放つ瞳が、青白い肌と凄絶なコントラストをなしている。
ああっ、私、花も咲かずに散ってしまうのかしら。弥生は恐怖のあまり声も出ない。ただガタガタと身を震わせるのみだった。