ミトコンドリア1972
第4話 挑戦者カミカゼ(前)
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「ぼ、ぼくのラジオがおかしくなっちゃった」和夫が半ベソをかいている。
 ネリんちの居間にはレッド・ツェッペリンの名曲「天国への階段」が響いていた。
 ベースを買って余ったバイトの金で手に入れたツェッペリン4枚目のアルバム。国内では単純に「レッド・ツェッペリンW」だが元のタイトルは記号化されていて「フォー・シンボルズ」とか呼ばれているものだ。
 和夫はバイトの甲斐あって中古のエレキベースと小型のアンプスピーカーを手に入れることができた。
 ベースは持ち歩くにしても、小型とはいえアンプスピーカーはけっこう重量がある。練習場であるネリんちのガレージに置きっ放しにするほかなかった。
 というわけでベースだけ持ち帰った和夫が、よせばいいのにラジオの外部入力を使ってエレキベースを弾いてしまったのである。
 見事に一発でスピーカーがやられてしまった。カレン・カーペンターの歌声がロッド・スチュワートの10倍しゃがれて聞こえる。森進一も裸足で逃げ出すガラガラ声。
 プラカード掲げてラウドスピーカーで罵声を上げているデモ隊のおっさんが美声に聞こえるほどだ。
 まあ、事前にダメ出しはされていたし、新一もギターの経験上忠告していた。
 自業自得と言えなくもないが、なにしろ和夫の家は母子家庭で経済的にも余裕がない。高校に入ってやっと買ってもらったばかりのFMバンド付ラジオ。彼にとっては宝物なのだ。
「そうだ。中学時代に工作で作ったゲルマニウム・ラジオがあるからやるよ」茂が張り切った声を出す。
 本人としては、すっかり落ち込んだ和夫に男気を発揮した気分だ。
「ええっ、ゲルマニウム・ラジオ?それFM受信できるの?」和夫は気のない声。茂相手にぬか喜びすると痛い目にあうことが分かっているのだ。
「いや、AMだけ。スピーカーが付いてないからイヤホンで聞くんだ」茂がシラッと答える。
 ああ、やっぱり。和夫の目がドヨンとする。
 和夫がFM放送にこだわるのは、わけがある。今週の土曜日、憧れのキング・クリムゾン特集が放送されるのだ。
 プログレッシブ・ロックは1曲のランニング・タイムが長いのでAMの番組には滅多にかからない。かかっても途中でフェイド・アウトしてしまう場合がほとんどだ。今回は1時間枠での特集番組。なんとしても聴き逃したくなかった。
「ネりんちなんか、使ってないラジオとかあるんじゃないか」新一がネリに声をかけた。
 ネリの家は、さすがに芸能人の端くれだけあって電化製品が揃っている。特にオーディオ関係なんか、余ってるのがありそうだ。
「うーん、良く分かんない」ネリは心もとない。
 自室にテレビのあるネリだが、もともと音楽を聴かないのでラジオやプレーヤーの類は持っていなかった。
 スポーツも観戦より実戦を重んじるタイプだ。中継を聞くということもめったにない。
「ま、探せば何かしらあると思うわ。今度見つけといてあげるよ」頼りになるんだかならないんだか。ネリは茂以上にテキトーである。
 さて、彼らの演奏はといえば、相変わらずリズム感のある騒音といったところ。ミュージックという呼び名には、まだまだ道のりが遠い。
「やっぱ演奏には楽譜があったほうがいいんとちゃうか」一通り演奏を終えて新一が言った。
 1ヵ月半がたち夏休みを目前にひかえて、ようやく基本に気づいたということか。もっともそれ以前に教則本を読んだほうがいい連中なのだが。
 なにしろ教科書だのの類は大の苦手という顔ぶれ。ネリにいたっては父親がドラムの教則本を書いてるくせに、生来の活字嫌いで開いてもいない。
「そうですね。楽譜があったほうが雰囲気でますね」和夫が相づちをうつ。
 そーゆー問題じゃないだろ。でも一同は茂の意見にうなずいている。
「じゃあ、雑誌に載ってるのがあったから、今度持ってくるよ」汗を拭きながら新一が言う。
 本来ならば各楽器のパートに分かれたバンド・スコアを使うところだが、オタマジャクシの存在に気付いただけでもミトコンドリアとしては大進化というべきなのだろう。

 翌日の放課後、4人はつるんで下校していた。
 ネリの首筋にチリチリした感覚が走る。キッとした目つきで振り返った。背後の路上に人けはない。
「どうした」ネリの奇妙な動きに、新一はキョトンとしていた。
「なんでもない」ネリはフンと鼻を鳴らすと歩き出す。
 もちろんネリの勘に狂いはない。素早く曲がり角の影に身を隠した一人の男がいた。
 塀にピタリと身をつけ、ヌッと顔だけ突き出してネリたちの様子をうかがう。
 4人が次の角を曲がったことを見届け、スッと飛び出していく。
 かなりしなやかな身のこなしだ。年の頃は新一たちと変わらないようなのだが、体つきは格段にガッシリして筋肉質。日に焼けた顔は整っており、細い眉と涼やかな目つきが印象的だ。
 ネリたちが曲がった先を覗くと、20メートルほど先を行く三人の後ろ姿が見えた。え、三人?ギョッとした男の目の前に和夫がヒョッコリ顔を出す。
「あ、ああ上山先輩」ネリに指示されて電信柱の影に潜んでいた和夫は、男の顔を見てうろたえた様子だ。
 男は一瞬たじろいだが、気を取り直して脱兎の如く走り出す。かなりの俊足である。
「チッ、オレが隠れていれば、とっつかまえられたのにな」和夫のところまで駆け戻ったネリが悔しがった。
「おい、今の」遅れて戻った茂が肩で息をしながら肘で新一をつつく。
「ああ、カミカゼだったな」新一は呆然としている。
「あ、そうか。見た顔だと思ったら野球部かあ」ネリもようやく思い出した。
 カミカゼとは上山風介(かみやま・ふうすけ)、野球部のキャプテンである。
 ネリと同様スポーツ万能。違うのは成績も上位グループに属していることだ。
 父親は規模は小さいながら貿易会社の社長。条件は揃っており、女子生徒の間ではファンクラブも結成されている。
 ちなみに本人はフースケという名が気にいらず、まわりにはカミカゼと呼ばせていた。まあナルシストの変わり者といえなくもない。
 ミトコンドリア三人組とは月とスッポンの存在だ。
「なんであいつがこんなことやってるんだ」新一がしきりに首を傾げる。
「スカウトじゃないか」茂がボソリとつぶやく。
 そんなことを言っても野球部の選手は男子のみ。女子はマネージャーだけだが、ネリはどう考えてもタイプじゃない。
「ありえねーよ。そんなこと」言いかけた新一の視線がネリにクギづけになる。言葉も途中で止まってしまった。
 ネリならできるかもしれない。野球部員としては背丈が小柄すぎるが、それ以外は間違いなく男で通用する。
 茂も和夫も同じ思いに駆られていた。妙な沈黙が夜の街角を支配する。
「なに考えてるんだ!お前ら」雰囲気に気付いたネリがムッとして鼻息を荒げる。
 やばい。赤信号だ。
「あ、そうだ。ラジオ、和夫のラジオどうなった?」慌てて新一が話題をそらす。
「ウン。親父に電話したら納戸の奥にあるラジオがいらないって。練習が終わったら出してやるよ」
 ネリは同時に二つのことが考えられない。たいがい次の話題に移れば気分も変わってしまう。
「ちょっと古いけど高級機でちゃんとFMも入るって」ネリは和夫の肩をポンと叩く。
 和夫は小躍りした。ネリはともかく、父親のスペンサー根島はプロミュージシャンだ。茂のゲルマニウム・ラジオとは桁違いの期待度である。

 そのこともあって、この日の和夫はノリが良かった。
 新一の持ってきた雑誌の楽譜はメロディラインの音符にコードがふってあるだけ。かろうじて幾つかのコードを押さえられる新一以外にはまったく無用の長物。その新一でさえ半分以上のコードは知らないものだった。
 それでも4人は楽譜が飾ってあるというだけで、音楽性がグッと向上した気分に浸れるのだった。
 一通り練習を終えた一同は居間でジュースをごちそうになった。和夫が中古盤セールで買ってきたラヴィン・スプーンフルが演奏する往年の名曲「サマー・イン・ザ・シティ」が響いている。
 毎回、お手伝いの清さんは「部活を止められてから、ふさぎ込みがちだったお孃さまが明るくなった」と言って新一たちを歓待してくれる。
 最初にお孃さまなんて言葉を聞いたときは、誰のことかと辺りをキョロキョロした三人だが、今はすっかり慣れてしまった。
 和夫は期待に胸をワクワクさせていた。ネリが例のラジオを取りに行っているのだ。
 キイとドアが開いて振り向いた新一たちの目が点になった。ネリが何やら大きな木箱を背負って突っ立っている。
 新一は「舌切りスズメ」で大きい葛篭(つづら)を取った強欲ババアを連想していた。
「なんだこれ」茂が、うわずった声をあげる。
 和夫は、ただ口をパクパクさせていた。
「だからラジオだってば」ネリは肩から背負紐(しょいひも)を外して、よっこらしょと箱を下ろしながら行った。
 確かに良く見ると彫刻を彫り込んだ木枠に布を貼ってスピーカーが埋め込まれている。上部にはいくつかのスイッチと選局用のガラス張りゲージが取り付けられていた。
 すでにトランジスタが全盛の時代。ほとんど見かけなくなった真空管ラジオである。これに2ヵ所紐をくくりつけて背負うことが出来るようにしてあった。
「こりゃまた年代物だな」新一が呆れて素っ頓狂な声を出す。
「だろ。だろ」勝手に誉められたと思い込んだネリは有頂天だ。「けっこう良い音出すんだって、これが」
 鼻高々という様子のネリに対して、和夫はがっくしと肩を落とす。
 この頃は、やっぱりオーディオはデジタルよりアナログ、真空管は最高だよ、などと言い出すマニアもほとんどいなかった。なにしろデジタルなんて言葉そのものが一般的でなかった時代だ。
 FM放送が入れば真空管だろうとゲルマニウムだろうと文句のない和夫だが、大きさにメゲたのだった。
 なにしろ小柄で非力な和夫のこと。これを持って帰ると考えただけで気持ちが萎えてしまう。
 今週土曜に放送されるキング・クリムゾンが聴けるとなれば、それでも何とか持っていくしかない。和夫は、もう一段肩を落とし、フゥーッと弱々しく溜め息をつく。
 和夫は、背負紐に手を通して立ち上がった。
「ひ、ひえっ」情け無い声を出してよろめく。
「だらしないわねえ」ネリは、あきれ顔だ。
「ほら、和夫がんばれや。オーディオ機器は重量があるほうが良い音出すっていうからな」茂は完全に他人事で高見の見物。余裕をかましてうんちくを傾ける。
 頼りない足取りでラジオを背負い和夫が玄関を出ると一人の男と鉢合わせになった。またしてもカミカゼである。